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第八幕:儀式




 少し時は遡る。

 薄暗い部屋の真ん中で、何をするでもなくぼんやりと座っていた真耶は、何の前触れもなくふらりと立ち上がった。

 ガラガラ、と引き戸を開いて外を見る。人の気配はない。満月の光が少し眩しい。真耶はガラガラ、とまた引き戸を閉めた。

 またふらりと部屋の真ん中へ戻り、すとんと腰を下ろす。

 やがて真耶は両手で顔を覆った。


「……大丈夫。あたしは大丈夫。どうなったって、あたしは平気……平気、だから」


 耳の奥に轟音が聞こえる。

 火が木材を燃やしてぱちぱちと弾ける音が、爆風が荒れ狂いごうごうと暴れる音が、焼け落ちる壁や天井がばきばきと降り注ぐ音が、その中心で呪文を唱え続ける女の叫び声が。

 真耶が最後に見た師の姿。

 それが、だんだん……


 真耶は耳にこびりついた音を振り払うように顔を上げた。

 薄暗い室内。蝋燭の光があちこちでゆらゆらと揺れる。


「……けど、あの子は? あたしは、あの子を手放して、あの子を独りにして、それで本当にいいと思ってる? ……なんて、今更……もう、確定してしまった未来のことを、どうこう言っても仕方がないか……。ははっ、はーあ。どうせなら、自分の手で引導を渡してやりたかったよ。そんなこと、あたしにできるわけないのにね……。今更、あたしの意思であの子を手放してやれるはずがないのにね……。独りでも平気だなんて、強がっちゃってさ……。まあでも、あの子なら大丈夫か。少なくとも、本当の意味で独りにはならない。何よりも大切な兄上がいるからね。昔のあたしとは違う。……だから、あとは、あたしの覚悟だけの問題……」


 沈黙は嫌いだ。嫌な音が聞こえる。

 忘れられない過去に重なって、がらがらと瓦礫が崩れる音がする。幼い子供の泣き声が聞こえる。女の悲痛な叫び声が聞こえる。

 真耶は首を横に振ると、床に散らばったまじない道具をかき集めて、大きな紙を広げると、特別製の墨と筆で陣を描きつけ始めた。

 どうせ、あのぼんくら弟子が取る選択肢なんてわかりきっている。


 にわかに外が騒がしくなった、と思う間もなく、ものすごい勢いで引き戸が開き、朧がつんのめるように部屋の中に飛び込んできた。


「真耶! 早く! 早く妖祓いの儀式を!」

「……朧。落ち着きな。兄上はどうしたんだい」

「サキが来たんだ! たぶん捕まってる! 今すぐ祓わないと! 兄上を連れて行く気だ!」

「ああ……満月の夜はあたしたちだけじゃなくて人ならざるものも力を得るからね……なら、さっさと始めよう。使う道具はわかってるね」

「もちろん!」

「ならさっさと出しな。あたしは陣を完成させるから」

「はい!」

「やってる間に心を鎮めておくんだよ。焦る気持ちはわかるけど、失敗したら元も子もない」

「……はい」


 らしくもない大声を咎められて、棚に突進して必要な道具や薬品をかきあつめていた朧は、一旦立ち止まって大きく息を吐いた。


「……あのさ、真耶」

「ん?」

「この儀式が終わっても、俺はここにいるからね」

「……突然どうしたんだい」

「真耶がまた変なことを言い出すんじゃないかと思ってさ。この儀式が終わったら、『もう兄上を守る必要はなくなったね』なんて言って、俺を家に帰そうとするんじゃないかって」

「…………」

「俺は、ここにいるからね。これまでも、これからも」

「……朧」

「だから、心配しないでよ。俺は真耶を独りにしたりしないから」


 まじない道具を所定の位置に並べながら、朧は努めて冷静に告げる。

 紙に陣を描く手は止めないまま、しかし、真耶は少しの間黙り込んだ。


「……あたしは、別に、平気だよ。言っただろう」

「本当に平気なときはそんな声で平気なんて言わない」


 陣を形成する最後の線を引き終えた真耶は、部屋の中央に紙を広げ直し、燭台を並べて蝋燭に火を点した。灯りが増えてもう少し部屋が明るくなる。


「……朧」

「何、真耶」

「本当に、大きくなったね。あんたはあたしの自慢の弟子だよ」

「……急にどうしたの?」

「……いいや。なんでもないさ。さて、そろそろだ。呪文は頭に入ってるだろうね」

「もちろん。完璧だよ」


 全ての準備が整った。

 真耶と朧は陣が描かれた紙を挟むように向かい合って座禅を組み、顔を見合わせた。


「それじゃあ始めるよ」

「はい」


 同時に息を吸って、吐いて、吸って、それから二人は呪文を唱え始めた。


(あま)つ神、()つ神、八百万(やおよろず)の神々よ、かしこみかしこみ申す。我が前に立ちはだかる(あや)しきもの、(よこしま)なる力を持ちてこの者に取り憑く妖を、今ここに退けるため、力を分け与え給え。古の神々よ、大いなる御力(みちから)をもって、邪なる存在を祓い給え、清め給え。この者に宿りし穢れを一掃し、清浄なる魂を取り戻さしめんことを。妖よ、我が言霊に従い、速やかに退散せよ。天の光をもってその身を焼き、地の力をもってその影を消し去らん。神々の威光をもって、この者に平穏をもたらし給え。天地の神々よ、我が願いを聞き入れ、この者を守り給え。邪なるものよ、速やかに退散し、清浄なる光の中に消え去らんことを」


 呪文を唱えるごとに、陣を取り巻く蝋燭の炎が、風もないのにゆらゆらと揺れ、怪しげな光を放ちながら大きく膨らんでいく。

 家の外に妙な風が吹いてあばら家の木材がぎしぎしと軋むのが聞こえる。

 真耶と朧は何度も何度も同じ呪文を唱え続けた。

 やがて、ドンドンと扉を叩く音の後、ガラッと勢いよく引き戸を開ける音が響いた。

 先ほど部屋に飛び込んできた朧と同じように、切羽詰まった様子の風人が、ぐったりと体から力の抜けたサキを抱きかかえるようにして現れた。サキの肌からは異様なほど血の気が引いていた。まるで死体のようだった。


「兄上!」

「呪文を続けな!」


 思わず顔を上げた朧を張り飛ばすような真耶の鋭い声。


「ちょっと待ってくれ、頼む……まじない師殿、サキを、診てやってくれないか……サキが、今しがた、突然苦しみ出して……倒れてしまって」


 珍しく息を弾ませながら風人が懇願するが、真耶は完全に無視して呪文を唱える。朧も少し躊躇ってから、しかしそれでも真耶に続く。


「天つ神、地つ神、八百万の神々よ、大いなる御力をもって、邪なる存在を祓い給え、清め給え。邪なるものよ、速やかに退散し、清浄なる光の中に消え去らんことを」

「……ううっ!」


 突如、びくりと体を震わせて、空気を裂くようなうめき声を上げたサキは、風人の腕からずるりと崩れ落ちた。


「サキ!」

「うぅ……おのれ……まじない師風情が……」

「サキ? どうしたんだ」


 何も知らぬは風人ばかりである。


「天つ神、地つ神、八百万の神々よ、大いなる御力をもって、邪なる存在を祓い給え、清め給え。邪なるものよ、速やかに退散し、清浄なる光の中に消え去らんことを」

「うああああああああっ!」

「サキ!」

「おのれ……おのれ……」


 ずるり、ずるり、と、真耶と朧の方へ這いずるサキ。


「……ごめん、兄上」

「月彦? 何を言っているんだ? 何を謝っているんだ? サキは、サキは」

「あと少し……あと少しだったのに……おのれ……許すまじ……」

「サキ、どうしてしまったんだ? ……まさか……」

「許さぬ……許さぬぞ……」


 どろり、とサキの体が墨のように粘性の強い液体さながらに溶けていく。

 呆気に取られてその様子を見つめる風人。

 どろりどろりと、その原型をなくしていったサキの体は、やがてぬらぬらとした若草色の鱗に覆われた巨大な蛇へと変わっていった。


「天つ神、地つ神、八百万の神々よ、大いなる御力をもって、邪なる存在を祓い給え、清め給え!邪なるものよ、速やかに退散し、清浄なる光の中に消え去らんことを!」


 ――ぐあああああああああああ!!!!!!


 のたうち回る大蛇は、狭い部屋の中を暴れ回り、床に並べられたまじない道具を、棚に仕舞われた硝子瓶を、あちこちに立てられた燭台を、手当たり次第になぎ倒していった。


「ああっ!」


 朧が叫ぶのが先か、木造のあばら家に火が点くのが先か。


「サキ!」

「兄上! 逃げて!」


 大蛇に声をかける風人に、叩きつけるように声をぶつける朧。

 暴れ狂う大蛇が、自分を驚愕と困惑と恐怖をないまぜにした目で見る風人に気づいた。成人男性の胴体ほどもある太い尻尾が風人に迫る。


「こっちだ化け物!」


 床に落ちて燃え上がる蝋燭をひっつかんで、真耶が大蛇に投げつける。

 胴体にもろに火を受けた大蛇は、その双眸を赤く燃え上がらせて、注意を真耶へ向けた。


 ――オ前……オ前サエイナケレバ……


 ゴオ、と大蛇の体から炎が立ち上った。

 燃える体は真っ直ぐ真耶に襲い掛かり、その体に絡みつく。


「真耶!」

「行きな! ここはあたしが食い止める。すぐ火が回るよ!」

「そんな、真耶を置いて行ける訳ないだろ! 急急如律令、呪符退魔!」

「無駄だよ! わかってるだろ!」

「でも、でも!」


 炎の体に縛りあげられながら、ひどく鋭い声で朧を叱責する真耶。

 言い縋る朧の腕を、ぐいっと風人が引っ張った。


「月彦、行くぞ!」

「待って、兄上、こんなの、こんなのって」

「早く!」

「月彦!」


 真耶と風人の両方から、ほぼ同時に怒鳴りつけられた。

 風人が朧の腕を引いて無理やり外へと出ていく。

 がらがらと戸口付近の屋根が崩れていった。

 轟音が聞こえる。

 火が木材を燃やしてぱちぱちと弾ける音が、爆風が荒れ狂いごうごうと暴れる音が、焼け落ちる壁や天井がばきばきと降り注ぐ音が。その中心にいる女は、叫び散らかすことはない。


「……いいさ、道連れにしていきな。最初からわかってたことだよ。……独りは、寂しいからね」


 諸共燃え上がりながらも、真耶は意識を失う前の最後の力で、大蛇の体をひしと掴んだ。


「あ、あ……ああああああああああ……!」


 炎の轟音の向こう側から、愛しい愛しい弟子の、擦り切れそうな叫び声が聞こえた、気がした。





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