第七幕:決断
満月の夜はあっという間にやって来た。
これまでの夜はずっと、沈黙嫌いの真耶がいるにも関わらず、不自然な程静かだった。
けれども、今夜はそういうわけにはいかない。
朧はうろうろと川のほとりを歩いていた。
真耶の家に行きたくない。こんなことを思うのは八年間で初めてだ。
まだ、考えは何一つまとまっていないのだ。
「月彦」
「うわあ! ……兄上。ついてきてたの」
背後から突然かけられた声に飛び上がって、それから朧は気まずそうに振り返った。
いつもの白い着物ではなく、地味な暗い灰色の着物を着た風人は、困ったような顔で朧を見ていた。
「そういうわけではないのだが……。今夜は満月だろう。まじない師殿に呼ばれて来たら、お前がいたから」
「ああ……そりゃそうか……そうだよね……」
はああああ、と深いため息をついて両手で顔を覆う朧。自分の心の準備を放っておいて時間ばかりが過ぎていく。
「……で、俺の死相は消えるのか」
「……俺次第、かな」
「そうか。なら大丈夫だな」
「……そうだね」
当たり前のようにうなずく風人に、人の気も知らないで、と溢したいのを抑えて、朧は道の端に座り込んだ。
風人は少し首を傾げたが、わざわざ弟を置いていくこともないと思ったのか、そのまま朧に倣って隣に座った。
「……ねえ、兄上。サキさんとはどう?」
「どう、とは?」
「うまくやってる?」
「ああ……まあな。サキはずいぶん俺のことを大事に想ってくれているようだし。少々、心配性すぎるきらいはあるがな」
風人はどこか疲れた声色で答えた。
これまで彼らの間に何があったのか、朧は知らない。が、真耶に聞かされ、風人に未だ隠し続けている真実を思うと、少し不吉な予感がした。
「兄上は? サキさんのことどう思う?」
重ねて尋ねてみれば、風人は少し困ったように黙り込んで、それから言葉を選ぶようにゆっくりと話し始めた。
「……正直……複雑な気分だ。だって、お前が結んだ縁なんだろう。自然な流れでいけば、俺とサキは許嫁にならなかったかもしれないじゃないか」
「なら、サキさんのことは大事じゃない?」
「そうは言っていないが……どうしたんだ、さっきから」
「なんでもない」
風人がそう答えることはわかっていた。誰のことも、大事じゃないなんて、この兄は口が裂けても言わない。たとえ本心ではどう思っていたとしても。そういう優しい人間だ。
少しの間、そよそよと穏やかな夜風だけがその場を流れた。
「……俺たちがここにいるのに気づかれたら、またサキにどやされるな」
辺りを見回しながら風人が呟く。
「そうだね」
朧は気のない返事をする。
「おまえは、どうしてもここを離れる気はないのか」
「ないよ。一度始めたら戻れない道だって言われてるし……それに、独りは寂しいから」
「……まじない師殿のことか?」
「俺の勝手なお節介かもしれないけど。真耶を独りにしたくないんだ。真耶が本当は独りが嫌いってこと、よくわかってるから」
「……なら、まじない師殿と一緒に帰って来るのはどうだ」
「え?」
顔を上げて、隣に座る兄を見つめると、その兄は弟の目を真っ直ぐ見て続けた。
「相良家に。まじない師殿を娶って、一緒に家に戻るのはどうだ。お前がまじない師殿に惹かれていることくらい、お見通しだぞ」
「なっ……」
「お前にとっての幸せに繋がるなら、俺はそれもいいんじゃないかと思うんだが」
ああ、これだからこの兄は。
そんな単純な話ではないのだ、朧と真耶との関係は。
「……真耶は俺なんかに嫁ぐの嫌なんじゃないかな」
「まじない師殿に惹かれているのは否定しないんだな」
「そうは言ってないけど……」
「だが、まじない師殿を独りにしたくないんだろう? それは、惹かれてるってことじゃないのか」
「それとこれとは話が別でしょ。真耶は俺の大切な師匠だけど、別にそれ以上の感情があるってわけじゃない」
「俺には、そうは見えないがな」
「兄上の目が節穴なんだよ」
「まあ、以前まじない師殿に同じ話をしたときは断られたんだが」
「はあ!? 真耶にこんな馬鹿な話したの!? 兄上!」
思わず兄の両肩を掴んでがくがくと揺さぶる朧。風人は何も堪えた様子もなく笑う。
「互いに想い合っていることは見ればわかる。まじない師殿がどう言っていようがおまえの意思次第でどうとでもなるだろう」
「あ~に~う~え~!」
「まあ、考えてみてくれ。俺はどんな形であれ、おまえが戻ってきてくれるならそれが一番いいと思っているから。おまえは俺の大切な弟だからな」
毎日鍛錬を欠かさない兄が、さぼり魔の弟に力で負けるわけがない。風人はいとも簡単に朧を自分から引き離すと、くしゃくしゃと雑に弟の頭を撫でた。
朧は不満を前面に顔に出しながらも、抵抗することなくそれを受け入れる。
「……うん。俺も、兄上のこと、大切に思ってるよ。何よりも。……何よりも」
膝を抱えて言葉を返す。
……本当は、答えなんて初めから決まっていたのだ。嫌われる勇気がなかっただけ。それでも、一度心を決めてしまえば、その後はどうなったって構わない。構いやしないのだ。
朧は勢いをつけて立ち上がった。
「もう行かなきゃ」
「そうだな。月が沈んだらまずい。行こうか」
落ち着いた所作で朧に続く風人を振り返って、朧は口を開いた。
「兄上。ごめんね」
「……? 何に対して謝っているんだ?」
「色々と。これまでも、これからも」
「これからも、はやめてくれ」
苦笑する風人。
「うん、でも、ごめんね」
朧はもう一度、謝罪の言葉を発した。その顔はとても謝罪しているようには見えない晴れ晴れとしたものだった。
「…………さん」
小さな、小さな声が二人の背後から聞こえる。
風人と朧が振り向くと、そこにいたのは、サキだった。……いや、本当にそうだろうか。二人が知るサキと、今二人の前に立つ彼女はずいぶんと様相が違っていた。いつも通りの上等な着物に身を包んだその女は、ゆらりとよろめくようにして、一歩、風人の方へ近づいた。
「……サキ?」
「風人さん……いけないとお伝えしたのに……もうここへ来てはなりませぬと……」
「サキ、落ち着いてくれ。その話についてはもう」
「っ!」
朧は踵を返してその場から走り去った。
「月彦!?」
背中に兄の声がぶつかったが、本人が追いかけてくることはなかった。恐らくあの女に止められているのだろう。
急げ、急げ、急げ。もう時間がない。
女の様子を見ればわかる。これでもまじない師の端くれだ。どういう経緯で今夜のことを知ったのか、大方風人が言ったのだろうが、女は今夜何が起ころうとしているのか感づいているようだった。あの異様な雰囲気は、およそ人のものではない。普通の人間は気づかないかもしれないが、あの女が放つ邪気は、これ以上放ってはおけないものだった。
朧は着物が崩れるのも気にせず、真耶の家へと走り続けた。




