第六幕:選択
泣き声が聞こえる。
嫌な声だ。非常に耳障りで、不愉快な声。
泣き声の主は悪くない。悪いことなんて、一つもないはずなのに。
……泣いているのは、私だ。
歌声が聞こえる。
子守唄のような、呪いの呪文のような、穏やかなんだか不気味なんだか微妙な節回し。
その老婆は私が嫌な夢を見るたびに……嫌な過去を夢に見るたびに、決まって不器用にまじない唄を歌った。慰め方なんか知らない孤独な大人の、精一杯の慰めだった。
轟音が聞こえる。
火が木材を燃やしてぱちぱちと弾ける音が、爆風が荒れ狂いごうごうと暴れる音が、焼け落ちる壁や天井がばきばきと降り注ぐ音が、その中心で呪文を唱え続ける女の叫び声が。
私が最後に見た師の姿。
それが、だんだん……
ぐわっと、水の底から急激に水面に浮かび上がるように、意識が浮上した。
「…………」
体が汗でじわりとべたついている。
どうやら悪夢を見たらしい。内容は覚えていない。まあ、よくあることだ。
周囲が真っ暗だ。多少目が慣れてから、感覚で窓を覆っている幕を上げると、外も夜の闇で真っ暗だった。どうも眠り過ぎたらしい。
灯りを点けて部屋を照らす。まだ弟子は来ていない。
体を洗う時間はあるだろうか。なくても待たせればいいか。
真耶は黙ったまま風呂場へ向かった。
歌を歌う気分ではなかった。
「ところで、あんた、兄上の死相が消えたら、その後はどうするつもりなんだい」
「どうするつもりって?」
体を洗って着替えて、少ししてから朧がいつものように家を訪ねてきた。
いつものように作業をしながら、出し抜けに真耶は尋ねる。朧は質問の意図がわからない様子で質問を返した。
「兄上の死相が消えれば、その時点であんたがまじない師を続ける理由はなくなるも同然だろう」
「……何が言いたいの?」
「わかるだろう。家に帰る気はないのかい」
「……ないよ」
「へえ、そりゃまたどうして?」
真耶の声はわざとらしく明るかった。
そのことに二人とも気づいてはいたが、そのことに言及することはない。
「だって……死相が消えても、兄上がずっと安全でいる保証はないし……それに……」
今度の満月の夜に使うまじない道具を磨く朧。
風人が自分のいない昼の間に真耶を訪ね、自分の死相を取り除くよう依頼をしたことは真耶に聞いて既に知っている。
「それに、なんだい」
言いよどんだ朧に、真耶が先を促すように声をかける。
朧は続きを答えることなく、一度作業の手を止めて真耶の方を見た。
「……真耶は、俺に出て行ってほしいの? この間は、せっかくとった弟子をみすみす逃すのは嫌だって言ってたじゃないか」
「それはそうだけどね……」
沈黙が二人の間を流れる。
真耶は囲炉裏に火をかけて薬草を煮始めた。
相変わらず、真耶は沈黙を嫌う。ぽつりぽつりと話し始めた。
「……あたしはね。物心ついたときには妖や霊が見える体質だった。向こうもそれがわかっていてね、よく色んなちょっかいをかけられたもんさ。それで随分周りの人間に気味悪がられて、あたしはずっと独りだった。あたしにまじないの道を示してくれた師匠も、とっくに死んで、そこからまた独りさ。ずっと面倒な客の相手をして、変装でもしなきゃまともに街を歩けなくて、お喋りをする相手なんか、せいぜいが家に入り込んでくる鼠くらいなもんだった。ずっと独り、この家と、師匠が遺した薬草畑で、面倒な人間と妖の相手をして……。あんたがあたしの家の前に倒れてたのはそんなときだったよ。随分と久しぶりに、純粋な人間ってものを見たね。あたしがまだまじないの修行を始めたばかりの年頃のあんたが、必死になって兄上を助けようとして、そればかりか、才能もないくせにあたしと同じ道を歩みたいなんて言ってさ。馬鹿じゃないのかと思ったよ。こんな道のどこが楽しいんだって。……でも、馬鹿だったのはあたしの方さ。ちゃんと止めきれずに、自分の孤独を紛らわすために、あんたをここに縛り付けたんだ」
「真耶……俺はそんなこと」
何かを言いかけた朧を片手で制して、真耶は語り続ける。
「この八年。あたしは幸せだったよ。久しぶりに孤独じゃなくなって。けど、もう充分。今なら、あたしは独りになっても、平気だって思える。あんたと過ごした八年があるからね。……あたしはあんたにまで、あたしと同じ道を歩んでほしくないんだ。たとえまじないの道から外れることができなくても、家に戻ることくらいはできるだろう。だから、ここに残るも、家に戻るも、好きにしたらいいさ」
「…………」
どうしてそんなことを……と言いかけた朧はその言葉を飲み込んだ。
代わりに、手に持ったままだったまじない道具を丁寧に床に置く。
「……俺は戻らないよ、真耶。ここで、この家で、真耶と修行と仕事を続けるよ。これからも、ずっと」
「……どうだろうね」
真耶は静かに呟いた。
そのまま、また沈黙が流れる。
やはり、歌う気分ではない。どうやらそれは朧も同じだったようだ。
嫌いな沈黙が、ただただ流れる。
また、幾日か過ぎた日の晩。
「選択の時間だよ、朧」
月がだんだんと太ってきた明るい夜に、真耶は出し抜けに、朧が読んでいた東方薬学の本を取り上げてそう言った。
「選択って、何を?」
真耶が乱雑に放り投げた本を丁寧に棚に戻しながら、朧は尋ねる。
「あんたの兄上と、あたし。どっちかしか幸せにできないとしたら、どっちを幸せにする?」
「どういう謎かけ? どうしてどっちかしか幸せにできないんだよ」
「いいからどっちか選びな」
「ええ……」
朧は困ったように眉を下げた。
しかし、迷う時間はそう長くはなかった。
「それなら、兄上を幸せにする。俺は兄上を守るためにまじない師になったんだし、真耶は俺に幸せにしてもらうなんて嫌でしょ」
「……その言葉に嘘偽りはないね?」
真耶の念押しに朧はうなずく。
「なら、教えてやろう。あんたの兄上の死相の原因は、あの許嫁の女だよ」
「……は? ……はぁ!?」
あまりにもさらりと告げられた真耶の衝撃の言葉に、朧は二度声を上げた。二度目は真耶に迫りながらの大声だった。
「そんなわけないでしょ。だって、サキさんは、あのひとは、俺が選んで、兄上との縁を結んだ……」
「あれは蛇の妖だ。しかも女ときてる。嫉妬深くて執着がひどくて厄介な奴だよ。人里に紛れ込んでいたんだね。たぶん大商人の娘っていうのも、その商人とやらを洗脳して潜り込んだんだろうよ。それがあんたの兄上に近づくためなのか、あんたの縁結びのまじないで目的が歪められたのかは知らないけど、今のあれは兄上に首ったけさ」
「……確かなの?」
「ああ」
真耶の説明に、朧はめまいがした。ぐらぐらと周囲の光景が揺れる。世界が崩れる音がする。
「じゃあ、それじゃあ……俺がしてきたことって一体……兄上を守るどころか、兄上が危険にさらされていたのは俺のせいってことじゃないか」
「まあ、妖に憑かせておいて、その妖が兄上を常世へ連れて行くのをずっと阻止し続けていたんだから、よくやっていたと思うよ」
「何の慰めにもならない……俺の……俺のせいで……」
床に両手をついて打ちひしがれる朧に近づいて、真耶は弟子を見下ろした。
「さあ、もう一つの選択だよ。あの女を妖祓いで常世へ送るか、これまでと同じように、兄上とあの女をくっつけたまんま、対症療法で兄上を守り続けるか。どちらが兄上の幸せに繋がるだろうね?」
「……そんなの……」
「あの女を祓えば、兄上は結ばれた縁を切られて孤独に暮らすことになる。それどころかこれまで一緒にいたのが妖だと知ることになるだろう。かといってあの女を兄上の傍に置き続けていれば、いつあの女が兄上を常世に連れて行くかわかったものじゃない。それを防ぎ続けなければならない。さあ、どちらを取る?」
淡々と事実を並べて尋ねる真耶。
朧は答えない。黙ったまま床の木目を見つめている。いや、実際にはそんなものは視界に移ってはおらず、朧の視界はぐるぐると渦巻いていた。
風人がサキの正体が妖だと知るということは、朧が自分と妖との縁を無理やり繋いだことを知るということでもある。それを知った兄はどう思うだろうか。
「……それとも、すべての選択を放棄して、まじない師をやめて実家に帰るかい」
「……は?」
頬を張り飛ばすような衝撃と共に突きつけられた選択肢に、朧は思わず顔を上げた。無理やり元に戻された視界に、真耶の真顔が写る。
「あたしは、それでも構わないよ」
「……何言ってるんだよ。そんなの、誰のためにもならないじゃないか。大体、俺はここを出るつもりなんてない」
「なら、どちらか選びな。時間はそう多くはないよ」
「…………」
「選べないかい。選ばないのは、放置することを選んでいるのを同じことだよ。簡単なことさ。何が兄上にとって一番の幸せか、考えればいい」
「……その、兄上の幸せを、俺が妨げていたんだ、これまで」
ぽつりと溢す朧。
真耶は打ちひしがれる愛弟子の前に腰を下ろし、そっと肩に手を置いた。
「どうしても選べないなら、あたしが選んでやる。あんたが選択を放棄して自分の仕事を放り出すなら、あたしにとってはこの件はずいぶん単純になる。死相を取り除くよう依頼をしてきた名家の跡取りの願いを叶えてやるだけのことさ。それが後々どういう結果になろうとね」
「…………真耶。俺は、仕事を放り出したりしない。俺がやったことだ。俺がけりをつける」
「そうかい。……今夜はもう帰りな。どうせ今夜中に答えなんか出ないだろう」
「……そうする……」
朧は言われるままにふらりと立ち上がると、そのままあばら家を出て行った。
カラカラ、カラカラ、と静かに引き戸が開閉するのを見送った後、真耶もそっと立ち上がり、囲炉裏の傍へ寄った。
先ほどまで煎じていた薬液は、すっかり冷めていた。
薬液を救い上げて瓶に詰めながら、真耶は静かに呟く。
「……あたしも、覚悟を決めないといけないね」
今夜も、歌う気分にはならない。




