第三幕:朧
「月彦、月彦」
街の中心部に位置する一際大きな屋敷。相良家の本宅である。
その縁側を、真っ白な上等の着物に身を包んだ、今年十九になる青年、相良風人が、辺りを見回しながら歩き回っていた。
時折その口から飛び出すのは、一つ下の弟の名である。
賢くも自由な相良家次男は、昔から周囲の大人たちの手を焼かせていた。きちんと手習いをやらせれば兄に負けぬ優秀さを誇っていたが、悪戯に脱走にやりたい放題、そのくせ試験やらお披露目やらの際はきちんと卒なくこなすのだから手に負えない。
今も、風人が剣術の稽古を終わらせてみれば、使用人たちが月彦がいないと騒ぐものであるから、放っておけずに弟を探しているというわけだ。
「なあに、兄上」
出し抜けな返事は頭上から聞こえてきた。
訝しんだ風人が縁側から庭に下りてみると、月彦は貴族らしからぬ軽装で屋根の上で陽の光を浴び寝転んでいた。
「月彦、危ないぞ。降りてこい」
「後でね」
「今」
「わかったよ」
のろのろと起き上がった月彦は、そのまま姿を消し、しばらくして庭の向こう側からこちらへ歩いてきた。どうやら壁を伝って降りてきたらしい。
「先生方が探していたぞ。また逃げ出したらしいな」
「課題はもう終わらせてきたし。もう出来ることを習っても仕方ないでしょ」
くああ、と呑気に欠伸をする月彦に、風人はため息を吐いた。
「お前が優秀なのは知っているが、上に立つ者としてその態度はどうかと思うぞ」
「上に立つのは俺じゃなくて兄上だし」
「馬鹿、お前だって跡取り候補だ。いつ何時、俺の身に何かが起こるとも限らん」
「起こらないよ、何も」
ずいぶんと楽観的な答えが返ってくる。
小言を続けようとした風人を遮るように、月彦は無理やり話を変えた。
「そんなことより、兄上はどうなの、最近、サキさんとは」
「どうとは……?」
「ちゃんとうまくやってる? 愛想尽かされてないだろうね?」
サキというのは、最近縁談が決まった風人の許嫁である。近年その頭角を現し始めた大商人の娘で、互いに名と資産を評価しての政略結婚ではあるが、この弟は気立ての良い彼女のことをずいぶんと高く評価しているようだった。
「許嫁に対して失礼な真似はしないさ」
「それならいいけど。サキさんはいい人だよ。ちゃんと大事にしてよね」
「ああ……って、違う。俺のことはいい。月彦、きちんと相良家の子息としての振る舞いをだな」
「わかってるって。心配しなくても俺が跡取りになることはないって」
「だからそういうことじゃなくて……おい、月彦! ちゃんと戻るんだぞ!」
屋敷の中に戻っていく月彦に、風人は念押しの声をかける。
ひらひらと手を振りながら去っていく月彦に、果たしてその言葉は届いているのだろうか。風人はまたため息を吐いた。
月彦の問題児ぶりは昔から変わらない。今年で十八になるというのに、しょっちゅう寝坊してくるし、先人たちの教えは一向に守らない。十年ほど時を遡れば、もう少し兄である風人の言うことを素直に聞いてくれていたような気もするが、年を重ねるにつれどんどん生意気になっていった。両親も困り果てている。これが何か世間的に問題の一つでも起こせばまだ叩き直しようもあるのだが、これがまあ外面だけはいいので、手に負えない。月彦は様々なことを心得た上で敢えて身内にのみ傍若無人に振る舞ってみせているのだ。一種の甘えなのだろう。どちらかといえば生真面目な――固いとも言う――風人と比べられて、色々と言われて損をしているのは月彦自身だというのに、一向にやめる気配がない。それすらわざとなのではないかと勘繰りたくもなる。
弟のことは大切だ。ただ一人の兄弟であるし、彼が自分を慕ってくれていることは昔からよくわかっている。とはいえ、どうにかならないものかと風人はきりきりと痛むこめかみを押さえた。
それに、問題行動が家の中だけで完結すれば良いが、そうでもない事態に陥っていることに、風人は気づいていた。
その日の夜。屋敷の者たちが、街中の人間が、ほとんどすべて寝静まった頃。
月彦は毎夜と同じように、使用人に着させられた寝間着をするすると脱ぎ、隠しておいた深緑の平民用の薄っぺらい着物を慣れた手つきで着用した。
蝋燭の微かな灯りを点し、これまた着物と同じ場所に隠していた特殊な墨と筆で、鏡と睨めっこしながら、頬にひっかき傷のような模様を描いていく。
それが終わると、彼は道具を元あった場所に戻して、蝋燭を風除けのついた燭台に移し、静かに部屋を出る。
夜とは言え正門にも裏口にも見張りはいる。彼は誰も知らない抜け道を使って屋敷の塀を抜けると、街の外れの方へ迷いなく足を進めた。
街の北の端には、街と外の森とを隔てる川がある。その突き当りを更に川上の方へ進むと、見慣れた柳の木が、夜の闇の中にぼうっと浮かび上がって不気味に揺れている。もっとも不気味と思ったのは最初の数日だけで、とっくに慣れている彼にとってはなんでもない景色だ。
柳の影に、彼の目的地であるあばら家の扉がある。
彼――朧は何の躊躇いもなく、ガラガラと引き戸を開いて中へ進んだ。
「……真耶?」
薄暗い屋内。辺りに人の気配はない。ここ八年、ほとんど欠かさず毎夜この家に来ている朧からすれば、大して珍しいことでもなかった。
朧は持っていた燭台をいつもの棚の定位置に置き、呆れ顔で呟いた。
「まさか、あいつまだ寝てるのかな……昼のうちに、また嫌な客でも来たのか? 日中勝手な奴の話を聞かされると、必ずふて寝して夜遅くまで眠り込んじまうからな……まったく」
朧の推測を確信めいたものに変えるのに、部屋の真ん中に敷かれたせんべい布団の不自然な盛り上がりは充分な働きをした。
朧が布団の方へ近づくと、次の瞬間、ピキーン、と、朧の体に電流に似た衝撃が走り、石のように固まってしまった。
「(ぐっ……! 何だ!? 金縛り!?)」
自分の意思で全く動かせない肉体。だがどうやら口は動きそうだ。
朧は即座に呪文を唱えた。
「急急如律令、呪符退魔!」
ふっと体に入っていた力が抜ける。同時に朧の体は解放され自由を取り戻した。
ぱちぱちぱち、と戸口の方から気の抜ける拍手の音が聞こえて、朧は振り返った。
「抜き打ち試験だよ、朧。結果はまあまあってとこだね」
「真耶……!」
朧は揶揄うような笑みを浮かべる師匠に向かって、腕を伸ばした。
「曲蛇招来!」
「万花変化!」
真耶は即座に呪文を唱え返す。
朧の手から召喚された草蛇は、真耶の手元にたどり着く頃には白木蓮の花に変わっていた。
「素敵な贈り物だねえ。白木蓮の花言葉は『崇める』、そんなにあたしを崇めてくれているのかい」
からからと笑いながら、真耶はぽいっと花を放り投げた。所詮まじないで作られた幻であるそれは、術者の手を離れた瞬間に霧のように消えた。
朧は色々な感情がないまぜになった顔でため息を吐く。
「……外にいるならそう言ってよ」
「いやあ、薬草に水をやってたんだけど、あんたの姿を見てちょっとした悪戯心が」
「今さっき抜き打ち試験って言ってたのはどこの誰だよ! 何悪戯心って!」
思わず真耶に飛びかかろうとする朧をするりとかわして、真耶は部屋の奥へ入っていった。
飛びかかる対象を失ってつんのめった朧は、もう一度、今度はもう少し重く息を吐いた。
「はぁ……相変わらず、全然勝てやしない」
「いいや? 素質がないわりにはよくやってる方だと思うよ。仕事に困らない程度には色々できるんだから。ほら、踊ってる暇があったらさっさと中に入って薬作りを手伝いな」
「……誰が踊ってるって?」
文句を言いながらも、朧は言われた通りに真耶の傍へ近寄った。
真耶が薬草をすり潰す横で、朧は囲炉裏に火をかけて水の入った鍋をかけると、中に薬草を放り込んで煮だし始めた。
しばしの沈黙の後、出し抜けに真耶が口を開いた。
「いや、だけど、実際かなり上達してるんじゃないかい? さっきの金縛りはなかなかうまくいったと思ったんだけど、あれだけの短時間で崩せるとはね」
「今更おだてたって何にも嬉しくないし」
「そう拗ねるな拗ねるな。平常心を保たないと」
「誰のせいだよ」
憮然とした顔で鍋をかき回す朧。真耶はくすくすと笑っている。
「何がおかしいんだよ」
「いや……八年も経つのにあんたは変わらないなと思ってさ。こんなに大きくなったのに」
「……何で急にそんな話するのさ。そういう真耶は、八年前から何一つ変わってない気がするんだけど。今いくつだよ。若返りの術でも使ってんの」
「あははは! そんな術があったらいいのになぁ。だけどそう言ってもらえると、普通の人間じゃないあたしでも嬉しいよ。もう三十二のおばさんだけどね」
「ふーん……」
鍋の中の薬液をかき混ぜるのをやめて、朧はじっと真耶を盗み見る。
真耶が視線に気づいて朧を見ると、さっと視線を逸らす。
「なんだい」
真耶が声をかけても、しばらく黙ったままあらぬところを見つめる朧。
根負けした真耶がまた薬草と向き合い出すと、朧はまた真耶の方へ視線を向けた。
「……真耶。僕……今十八だよ」
「あぁ、そうだね。それがどうかしたかい」
「世の十八って、嫁を娶って子供を作ってもおかしくない年頃だよ」
朧の言に、真耶は弟子の方へ向き直って首を傾げて見せた。
「それがどうしたんだい? まさか、今更常人に戻りたいって言うのかい? それは無理な話だよ。八年前にそう言って逃げ出してれば、まだ戻る道もあっただろうけど」
「いや、そうじゃなくて……。ごめん、何でもない。忘れて」
朧はまた薬液を一心不乱にかき回し始めた。その行為には何の意味もないというのに。
部屋が薄暗いせいで、朧の耳が少し熱に赤らんでいることに真耶は全く気付く様子がなかった。やがて顔を上げて呟く。
「あ」
「どうかした?」
「もう収穫しないといけない薬草があるの思い出した。あーあ、さっき行ってくればよかったのに」
面倒くさそうに立ち上がって、真耶は手近な籠を取った。
「俺行こうか?」
「いいよ、あたしの趣味を取り上げないでおくれ。あんたはそれやってればいいから」
「はいはい」
真耶がガラガラと扉を開けて出ていく。またガラガラと軋んだ音を立てながら閉まる扉を目で追って、朧は作業に戻った。
誰もいない沈黙を紛らわすように、朧は鼻歌を歌う。
「~~~♪」
節回しは、師匠の歌うまじない唄と同じだ。作業するときいつも歌っているから勝手に覚えてしまった。真耶にどういう歌なのか聞いたことがある。彼女もまた師匠に教わったと言っていた。ちょっとしたまじない唄だと言う。どういうまじないなのか聞いたが、真耶はまともな答えを返してくれなかった。曰く、何も意識しなければちょっと歌詞が陰気なだけのただの歌だと。
突然、戸口の方からガタッと音がした。何かが壁にぶつかったような、そんな音だ。
朧は手を止めて顔を上げた。人の気配がする。
「……真耶? 忘れ物でもした?」
声をかけても、扉の向こうの誰かは入ってこない。
真耶じゃない。ということは客人か。
夜遅くに依頼に来る客は、少しはまじないのことがわかっている客なので、昼に来る客と比べて物分かりが良い。
朧は立ち上がり、ガラガラと扉を開け、それから扉の向こうに立っていた人物に驚愕した。
それは、この場にいるはずがない、いてはいけない人物だった。
「……兄上!」
この街を統べる名家の跡取り、「相良月彦」の兄、風人。
月の僅かな光も残さず拾い上げる白い着物が、闇に沈んだあばら家に似つかわしくなく輝く。
「やっぱりここにいたか、月彦」
そう呟く風人の声色は、呆れや怒りよりもどこか悲し気に響いた。
「駄目だよ兄上、ちゃんと屋敷で寝てなきゃ。体に障ったらどうするの」
「人のことを言えないだろう。今何刻だと思っているんだ。……まあ、いつものことだがな」
「……っていうか、気づいてたの。俺がここに来てること」
自分が無意識のうちに「朧」ではなく「月彦」として話していたことに気づいた彼は、ばつが悪そうに視線を逸らしながら言った。
「当たり前だろう。ずっと前から気づいていた」
風人の視線が突き刺さる。朧は気まずそうに視線を逸らしたまま、部屋の中へ風人を招き入れた。
「……まあ、上がってよ。俺の家じゃないけど」
「……それで。今まで気づいてたのに、どうして今日いきなりここに来たの、兄上」
いつぞやの誰かのように、湯呑を二つ挟んで、部屋の中央に向かい合って座る、朧と風人。
風人は出された湯呑をちらりと見てから、手を付けることなく、朧を真っ直ぐ見つめた。
「そろそろ限界だろうと思ってな」
「限界って何が?」
「お前、夜ごとここに来ては何か妙なことをして、朝方にこっそり戻って来ては部屋に引きこもっているだろう。寝坊が多いのはそのせいだな。今はまだ俺以外誰にも気づかれていないからいいとして、このままこんな生活を続けていていいと思っているのか? 対外的な話もそうだが、何よりお前の体がもたない」
「いいんだよ、別に今まで困ってないし」
「お前が困っていなくても周りが困っている。相良家の次男としてどうなんだ、それは」
「俺は兄上を守るためなら、兄上の命の、幸せのためなら、何を捨てたって別に構わないと思ってるよ。身分だろうが、命だろうが」
朧の言に、風人は訝し気に眉をひそめた。
「……俺を守る? 俺の命? ……昔の熱病の話をしているのか? あれから俺は健康そのものじゃないか。剣術だってそこいらの剣士に対しては負け知らずだし、風邪一つひいたことがないぞ」
「うん、それ、誰のおかげだと思ってる?」
「……お前がここに入り浸っているからだというのか?」
「兄上は……いや、他の誰も気づいてないと思うけど、兄上の顔には常に死相が見えるんだ。俺が兄上の死を回避するために、この八年、どれだけのことをしてきたと思う?」
「月彦……」
自分の顔に死相が見える、とこともなげに告げられ、風人は思わず自分の顔に手をあてがった。
先ほどから一度も目を合わせてくれない弟は、そのまま、視線を逸らしたまま、冷たく言い放つ。
「ああ、そうそう、ここでは俺は月彦じゃないんだよ。相良家の次男でも、兄上の弟でもない、単なる世捨て人のまじない師さ」
「……俺を守るために、世を捨てたっていうのか」
「そうだよ。俺はそれでも構わない」
「俺が構う。俺のために自分の人生を棒に振るんじゃない、月彦。そんなこと誰も望まないぞ」
「俺が望む。もう決めたことだから。俺が兄上を守るって。そのためなら何でもするって」
「…………」
朧はどこか遠くを見つめたまま、返す言葉を探して黙り込む兄を拒絶するように、扉の方を指す。
「話はそれだけ? なら帰ってよ、兄上。兄上にはちゃんと健康で、幸せでいてもらわなきゃ」
「……俺が、お前に対して、同じように思っているとは、考えないのか。俺はどうなってもいいから、月彦、お前に、幸せになってほしいと思っているとは、思わないのか」
「駄目でしょ、それは。兄上は相良家の次期当主なんだから、ちゃんと家を継いで幸せになってもらわないと」
絞り出すような風人の声を切り捨てる朧。風人が何か言い返す前に、言葉を続ける。
「許嫁だっているでしょ。どうなってもいいって、サキさんのことはどうするつもり?」
「サキは……」
反射的に答えかけて、風人はハッとして月彦の方に身を乗り出した。月彦は相変わらず頑なに視線を逸らしている。
「まさか、サキのこともお前が」
「…………」
「お前が何かしたのか、月彦」
「別に……ただ、兄上が変な女に捕まらないように、縁結びのまじないをしただけ。サキさんはいい人だよ。間違っても家を裏切ったりしないし、いいお嫁さんになる。俺が占ったんだ。俺が保証するよ」
「……これじゃあ、まるで、俺は、お前の人生を生きているみたいじゃないか」
「まさか。これが兄上の人生だよ。俺は、兄上が幸せに暮らせるように、そのお膳立てをしてるだけ」
「それが、おかしいって言ってるんだ」
ぎゅう、と膝の上で両の拳を握りしめる風人。
辺りを重苦しい沈黙が包んだ。
トントントン、と、どこか遠慮がちに、小さく扉を叩く音が、やけにその場に響いた。
朧は兄から逸らしていた視線を扉の方へ向ける。
今日はやたらと客が多い。真耶は帰って来る気配がない。
朧は立ち上がって、それから部屋の奥の方を指さした。
「今度は誰……。兄上、ちょっと奥に」
朧が言い終わる前に、カラカラ、と勝手に扉が開いた。
またも、このような陰気で辺鄙な場所に似つかわしくない人物が現れる。若草色の上等な着物に身を包んだ若い娘が、戸口から顔を覗かせた。
「あの……」
「うわっ」
「あら……月彦さん、どうしてこちらに……」
戸口の方へ向かっていた朧は、そこに立っていた人物に思わずのけぞる。
娘は朧の姿に、驚いたように目を丸くした。顔に描かれた奇怪な模様と、およそ貴族が着るものではないみすぼらしい着物を身に付けた姿に眉を顰める。朧は娘の視線の意味に気づいて、気まずそうに視線を逸らした。
娘はというと、すいと視線を逸らして、部屋の中にいた風人に目をやる。
朧の傍を通り抜けて、風人の方へ近づいた。
「風人さん。やはりこちらにいらしたのですね」
先ほどの風人と同じことを言う。
風人は信じられないものを見る目で娘を見、それから立ち上がった。
「サキ……どうしてここに」
そう、この娘こそが、朧がその縁を結んだ風人の婚約者、大商人の娘サキであった。
サキは風人に駆け寄り、その手を握って、それから淑やかな声を震わせながら説明を始める。
「風人さんが夜道を歩いていらっしゃるのを見かけて、一体どちらへいらっしゃるのだろうと……ごめんなさい、不躾に……けれども、このような面妖な場所へどういったご用件なのかと思いまして、つい……」
「サキ、帰るんだ。こんな夜に出歩くなんて、家の者に見つかったらどうなるか」
「それは、あなた方ご兄弟も同じことなのでは? ここは一体どこなのです」
「それは……」
サキを咎めてみるが言い返された風人は、困ったように朧の方を見る。
朧は面倒くさそうな顔で両手を頭の後ろに回し、壁にもたれかかった。
「噂をすれば影ってやつか。ほら、兄上、早いところサキさんを送って、帰らなきゃ」
「月彦……お前、体よく俺たちを追い出したいだけだろう」
「追い出すって……ここは、月彦さんの隠れ家か何かなのですか?」
「まあ、そんなようなところです」
「月彦!」
「何、間違ってないでしょ?」
サキの質問に適当なことを抜かす朧に風人が声を上げるが、朧の方はどこ吹く風である。
風人は一度サキの手をそっと離すと、朧に迫る。
「お前も帰るんだ、月彦。ここに来るのもこれきりもうやめるんだ」
「つまりそれを言うために来たってことね」
「そうだ。父上も母上も、使用人たちも心配している。もう隠すのも、好き勝手するのも限界なんだ。わかるだろう」
「わからないね。俺は別に勘当されたって構わないと思っているわけだし」
「好き勝手? 勘当……?」
話の流れがわからないながらも、物騒な言葉たちに反応するサキに、風人は困った様子で首を振る。
「サキ、サキには関係のない話だ。これは相良家のことなんだ」
「であれば、私にも関係のあることでございます。私は相良家に、風人さんに嫁ぐことが決まっているのですから」
毅然とした態度で言い切ったサキは、朧の方へ数歩近づく。風人に並び立つように。
「月彦さん、こんな場所で何をなさっているのです? 勘当だなんて、穏やかではありませんね」
「なんでもありませんよ、サキさん。ちょっとした夜遊びです」
「夜遊びなんて、よくないでしょう」
「そうですよ、よくないことです。だからサキさんは早く帰った方がいい」
「月彦!」
風人が耐え切れない様子で声を荒げた。突然の大声に周囲の空気がびりびりと震えた。
そこへ、開きっぱなしだった戸口から部屋の中へ影が差した。
「なんだい、騒がしいと思ったら、お客かい」
「真耶……! あーあーもう、ややこしいことに」
妙な時に帰って来た師に対して、朧はお手上げの様子でうなだれた。
朧以上に珍妙な出で立ちの、見知らぬ怪しげな女に、名家の娘であるサキは訝し気に、また少し不愉快そうに尋ねた。
「あなたは一体……?」
「あなたが月彦を唆したのか。悪いが月彦は連れ帰らせてもらう」
サキを守るように間に立ちながら、風人が毅然とした態度で告げると、真耶は風人とその背後のサキ、そして二人に詰め寄られていた弟子を順繰りに眺め、それから風人に不遜な視線を向けた。
「……ふーん? で、朧。あんたはどういうつもりなんだい」
「わかってるくせに。ここを出る気はないよ」
「じゃあ話はそれで終わりだ。あんた、あれだろう。八年前にこの子をここに飛び込ませた兄上だろう。誰のせいでこの子がこうなったと思ってんだい。この子は今更常人の道には戻れないんだよ。まじない師として生きると決めたからね」
「まじない師……? では、あなたが……」
およそこれまでの人生で関わることのなかった下賤の存在に、サキはよりいっそう眉を顰めて不気味な女を見つめた。培われた気品によっていくらか上品に隠されてはいるものの、さながら悪臭にまみれた汚物を見るような目に、真耶はわざと下品に鼻を鳴らして見せた。
「そうさ。この街の鼻つまみ者、災いを呼ぶ魔女、面妖な妖術を使うまじない師、好きなように呼べばいいさ」
その態度と言葉は、サキの気を悪くするのに十分だったと言えるだろう。
サキは真耶の言葉に応えることなく、この女に染まり切っている様子の婚約者の弟に迫った。
「月彦さん、帰りましょう」
「残念。俺もまじない師の弟子ですからね。帰りたくても帰れないんだな。まあ、帰りたいとも思いませんけど」
「月彦さん。あなたはこの方にたぶらかされているのです。今ならまだ間に合います。風人さんと、私と、相良家に戻りましょう」
「あはははは! たぶらかすだって。あたしが誰かをたぶらかせるような女だと思うかい?」
茶化すように笑う真耶を、サキはキッと睨みつける。
「面妖な妖術を使うまじない師なのでしょう? 月彦さんは妖術にかかっているのです。そうとしか思えません」
「ふーん?」
一切堪えた様子のない真耶。当然だ。似たような誹謗中傷はいつだって受けている。今更そんなことで傷ついたりするような軟弱な心は持ち合わせていない。
風人は女二人の睨み合いを尻目に、もう一度弟に声をかけた。
「月彦、これまで俺を守ろうとしてくれたことには感謝する。けれど、お前にはお前の幸せを掴んで欲しいと思うことは、そんなにいけないことか?」
「これが俺の幸せだよ。陰ながら兄上を守れることが」
「だ、そうだよ。恨むならあのとき熱病になった自分を、今も死相が消えない自分を恨むんだね。さ、依頼がないお客の対応はしない主義なんだ。帰りな」
口を挟む真耶を見ることなく、風人は言い返す。
「帰りますよ。月彦を連れてね」
「月彦? 誰のことだい? ここにいるのは朧。見習いまじない師の朧だよ」
「そういうこと。朝方には帰るよ、兄上。そのときは一応、相良家の次男としてね」
「……明日覚えておけ。改めて話をしよう。サキ、行こう」
踵を返して真耶の横を通り抜け、戸口へ向かう風人を、サキが焦った様子で追いかける。
「風人さん……けれど……」
「今何を言っても仕方がないようだ。それよりこんな夜更けにサキが外を出歩いていることの方が問題だ。屋敷まで送ろう」
「風人さん……」
風人が差し出した腕に、そっと自分の腕を絡めるサキ。
二人は真耶と朧をそれ以上見ることなく、あばら家を出て闇に溶けて行った。
真耶はその様子を大して見送ることもせずガラガラと引き戸を閉める。
朧も興味なさげにもといた囲炉裏の方へと戻った。薬草は充分に煮込まれている。朧は囲炉裏の火を消す作業に入った。
「……本当によかったのかい」
薬草を棚に仕舞い込みながら、真耶が尋ねるが、朧は作業をしたまま素っ気なく答えた。
「一度始めたら戻れない道だって行ったのは真耶でしょ。それがなくても、兄上の顔から死相が消えない限り、まじない師をやめる気はないよ」
「……そうかい。そりゃよかった。あたしもせっかくとった大事な弟子をみすみす逃すのは嫌だからね」
「……大事な弟子ね」
「なんだい、冗談にでも聞こえるかい」
「いや」
短く答えて、ぱたぱたと薬液を団扇で仰いで粗熱を取る朧。
真耶は朧の傍に座って、まじない道具の手入れを始めた。
しばらくの間、二人とも黙ったまま作業をしていたが、沈黙を嫌うたちの真耶がまた出し抜けに口を開いた。
「それにしても、不思議なもんだね。あれだけ色んなまじないを試しても、あんたの兄上の死相は一向に消えない」
その言葉に、朧は作業の手を止めて真耶の方に勢いよく向き直った。
「それなんだよ。普通、死相ってのは死神に憑かれてる人間に出るものでしょ。でも死神祓いをしても邪気祓いをしても、何をしても駄目なんだ。俺が未熟だから?」
「いや、あたしがやっても同じだから違うだろうね」
「じゃあ、どうして?」
「それがわかったら苦労はしないよ。まあ大方、憑いてるもんが違うんだろう。それが何か突き止めないことには、どうにもできないだろうね。……あんたの兄上をまともに見たのは今夜が初めてだけど、いやあひどい死相だったね。あんなに健康で幸せそうなのに。ま、朧のお手柄だね」
「……なおさら、まじない師やめられないな」
「あんたの兄上は随分な綱渡りをしているよ。これからも気を抜かないことだね」
「わかってる」
二人はまた作業に戻った。
兄の危険が去らない内は、朧がまじない師をやめることはないだろう。彼を守ることに人生の全てを捧げている男だ。何が彼をそうさせているのかは真耶の知る所ではないが、出会った頃から全くぶれない彼のその意志を、今更疑う余地はなかった。
……けれど、兄の死相が消えたときは? 危険が完全になくなったときは?
「(……なんて、そんなことを気にする理由はないか)」
妙なことが頭をよぎったものだ。
真耶は無駄な思考を埋めるように、慣れ親しんだ歌を歌い始めた。
あちらこちらで手を叩く
手の鳴る方へと夜叉を呼ぶ
真耶が歌い始めたことに気づいた朧は、そのまま師と共に続きを口ずさむ。
花いちもんめと売り声上げて
寄り付く獣はしたを舐めずり
無知を気取りし生意気な子ら
宵に呑まれて堕ちてゆく
通りゃんせ、通りゃんせ、
黄泉の国より
通りゃんせ、通りゃんせ、
浮世の果てに消えていけ。
やかましかった夜は、静かに、静かに、更けていく。




