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第二幕:真耶




 街はずれのあばら家に全く似合わない、小さくて高貴なお客様を見送った、その一月後の昼過ぎ。

 夜を根城とする若きまじない師の女、真耶(まや)は、眩しく忌まわしい陽の光を避けるように、窓に幕を引いて、へたれたせんべい布団に潜り込んでいた。

 そんな彼女の眠りを妨げる、ドンドンと騒々しく扉を叩く音。

 真耶は唸り声と共に縮こまると、扉の向こうの相手には見えやしないのに、布団の中から手だけを出して、機嫌悪げにしっしっと振った。


「陽が沈んだ頃にもう一度来な……昼は寝る時間だ……」


 眠気でふにゃふにゃにふやけた声で客人を追い返して、真耶はまた手を布団の中に引っ込める。

 扉を叩く音は止まった。が、客人は帰る様子がない。

 真耶にとっては、人の気配、息遣いすらもやかましくてかなわない。

 黙殺するように寝返りを打って扉から背を向けたが、客人は、カタ、と遠慮がちな小さな音を立てた。どうやら戸口に座り込んだらしい。真耶が出るまで帰らないつもりのようだ。

 気の短い真耶は、根競べに早々に諦めをつけた。


「……ああもう」


 仕方なく起き上がり、のろのろと戸口へ向かう。

 ガラッ、と苛立ちを込めて扉を勢いよく開けると、そこには見覚えのある少年の姿があった。


「なんだ、あんたかい」


 顔を上げた少年、相良家の次男、確か今年で(とお)になるという子ども、相良月彦が、顔を上げる。

 その様子をまるきり無視して、真耶は家の中に戻った。扉は開けたままである。


「もう来るんじゃないよって言ったじゃないか。しかも出直せって言ってるのに帰らないし。あんたの気配が鬱陶しくて眠れやしないよ」


 と、口では文句を言いながら、せんべい布団を乱雑に畳み、座る場所を確保する。

 開けっ放しの扉を閉めて、月彦は部屋の中に足を進めた。片手には空の硝子瓶を握りしめている。


「ごめんなさい。ここから屋敷まで遠いから、もう一往復したくなくて」

「あんた……」


 真耶は呆れた様子でため息を吐いた。ずいぶんと太々しい子供である。身分が高くて不自由を知らずに育つとこうなるのだろうか。それとも次男故に甘やかされて育ったのだろうか。


「で、何の用だい。まさかそれを返しに来ただけじゃないだろうね?」

「違うよ。ちゃんと話したいことがあって来たんだ」

「そうかい」


 言いながら真耶は月彦を手招きして正面に座らせる。差し出された硝子瓶を適当に床に置いて、真耶は月彦に向き直った。


「そういえば、兄上の様子はどうだい」


 問われた月彦は、ぱっと花がほころぶような笑顔を見せた。


「それが、すごいんだ! 薬を飲み始めてから、あっという間に起き上がれるようになって、今じゃ熱なんかちっとも出ないし、最近剣術とかのお稽古を全部再開できるようになったんだよ!」

「へえ、そりゃよかったじゃないか」


 そう言うということは、どうやらこの少年は本当にうまいことやって兄上に薬を飲ませたらしい。効果にはもちろん自信があったが、真耶は僅かに顔を綻ばせた。少年につられたのかもしれない。


「本当にありがとう。父上と母上も驚いてた。薬をくれたの、本当は仙人か何かじゃないのかって」

「あたしはただのまじない師だよ」

「わかってるけど」

「あと、あたしのおかげで兄上が治ったって、あんまり外で言わない方がいいよ」

「どうして? 本当のことじゃないか」

「あたしはこの街の鼻つまみ者だからね。あたしに頼ったなんて思われない方がいい」

「でも、むしろ街でのまじない師さんの立場がよくなるんじゃないの?」

「そんなの望んでないよ、別に」

「でも」

「いいから、言いふらさない。わかったね?」


 月彦の反論を遮り、有無を言わさない声色で真耶は念を押す。

 その迫力に圧されたのか、月彦は黙ってこくりとうなずいた。

 少年が素直にうなずいたことに満足げな顔を見せた真耶は、切り替えるように少しだけ声を張り上げた。


「それで。何の用だったんだい。これで話はおしまいかい。それならそれであたしは寝るからいいけどさ」

「…………」


 尋ねるも、少年は何か躊躇っているのか、黙ったまま俯いた。


「なんだい、兄上の薬をねだったときはあんなに勢いがあったのに、今日はだんまりかい。これも、別に返してくれなくてよかったのにさ」


 真耶は床に置いた硝子瓶を指して言う。

 指された瓶をじっと見つめながら、月彦は呟くような小さな声で尋ねる。


「……本当に、お代はいらなかったの?」


 それを聞いた真耶はうんざりした顔でため息を吐くと、立ち上がった。


「またその話かい。いいんだよ。誰があんたみたいなガキからお金なんか受け取れるもんか。やましいことがあってここに頼み事しにくる金持ちからたんまり取ってるから平気だよ」

「どんなことを頼みに来るの?」


 棚に置いてあった湯呑を二つ手に取り、大きな壷に入った水を汲む真耶の背中に向かって、月彦は質問を飛ばす。

 湯呑を月彦と自分が座っていた場所の間に置いた真耶は、今度は茶菓子を用意しながら答える。


「別に、色々さ。例えば、捨てた女の亡霊が化けて出てくるからどうにかしてくれとか、商売敵が邪魔だから一泡ふかせたいとか、ろくでもない注文ばっかりだ」

「そんなことできるの?」

「簡単さ。要は術と頭の使いよう。亡霊なんていないって人に思い込ませることも、商売の邪魔をちょこっとしてやることも、あたしの手にかかれば、ね」

「へえ……」


 感心なのか無関心なのか、気の抜ける声を上げる月彦の前に、菓子を入れた器を置き、真耶はまた元の位置に座る。


「ほら、食べな。変なものじゃなくて、ちゃんとした店で買ったやつだから安心しな。本当は、自分が偉いと思い込んでる嫌な客が、何か言ってきやがったときのためのものだけど」

「……まじない師さんもちゃんとした店に行くの?」


 目の前に置かれた菓子をまじまじと見て呟く月彦。

 しばしの沈黙の後、真耶は大口を開けて笑った。


「あははははは! たまには外へ出て店に行かないと、そうじゃなきゃ一体どうやって食っていけばいいんだい」

「だって……」


 思いのほか豪快に笑われたことに憮然とする月彦。まだ笑いながら、真耶は続ける。


「こんな身なりの人間なんか街中で見たことないって? そりゃあんた、あんたの身分が上等なのと、あたしだって、出かけるときは、もっとちゃんとした服着て、髪も結わえて、化粧だって普通の人間と同じようにするのさ。当然だろ?」

「そ、そっか、ごめんなさい。でも、想像できないな……」

「だろうね。あたしも、本当にそんなのが自分なのかわからなくなるよ。その状態で鏡を見たら、いきなり絶世の美女が現れるんだから」

「…………」

「ちょっと、なんとか言いなよ。冗談に決まってるだろ」


 やりづらいな、と文句を言う真耶の顔には、一月前にはあった、あのひっかき傷のような模様はない。あれは刺青(いれずみ)の類ではなく、ある種の化粧だったらしい。先ほどまで眠っていたからか、化粧っ気のない顔は、やはり異国の血でも混じっているのか、この国の人間らしからぬ彫の深さがあった。女性の化粧には詳しくない月彦だが、目の前に座るこの女性が、本気で化粧すれば化けそうな、ある程度整った顔立ちであることはわかる。

 が、そのことをどう言えばいいのか、はたまた言うべきなのか、判断がつかなかった月彦は、誤魔化すように、辺りを見回した。


「……その、棚にあるの、全部この間くれたみたいな薬なの?」

「ん? ああ、そうだね。病気や怪我のための薬もあるし、劇薬や毒だって、何でもあるよ。悪いものは、ほとんど使わないけどね」

「使うこともあるの?」

「どうだろうね。とにかく、作りたいだけなのさ。薬を作るのは一種の趣味だよ。すぐそこの畑で薬草を作って、色々調合するんだ」


 壁の向こうを指さす真耶。

 確かに、家の隣には小さな畑があった。見慣れない妙な植物がたくさん植わっていたのを月彦は覚えている。

 月彦は今度は床に散らばった謎の道具たちに目をやった。


「じゃあ、床にある変なのは?」

「変なのとは失礼な。立派なまじない道具さ。占いをしたり、呪いや願をかけたり、人に暗示をかけたり、神通力を使ったり、道具によって用途は違うけどね」

「呪いもかけるの?」

「さっきからあんた、悪い方にばっかり目を向けるね。当然滅多にやらないさ。人に頼まれて、ごくたまに代わりにやってやったりはするけどね。そんなときは大抵、頼んだ奴も罰を受ける。人を呪わば穴二つ、さ」

「まじない師さんは平気なの?」

「まあね。身を守るすべを知っているし、それが悪事だということも、何をするとその結果どうなるかもわかる。だからそういうときは金もとらないし、責任もとらない。だから今までどうにか生きてるよ。たまに悪夢は見るけどね」


 そう語る真耶の目は、どこか遠くを見ているようだった。

 が、月彦がそのことに言及する前に、真耶はパッと視線を月彦に戻す。


「でも、何度も言うけど、そんなことは滅多にない。いつもはちゃんと人助けしてやってるのさ。高くつくけどね」

「でも、僕は着けてもらったけど、お代払ってない」

「あんたは特別。まだガキだからね。だからいい加減気にするのはやめな、鬱陶しい」


 真耶は自分の前に置かれた湯呑を手に取って、ぐいと呷った。

 月彦はしばし、何かを考え込むようにじっと黙ってうつむいた。

 真耶がばりばりとせんべいを噛み砕くを見上げて、月彦は口を開く。


「まじない師って、何でもできるの?」

「何でもは無理だよ。まじない師だってできることは限られる。ただ、他の人間より、少しだけ、妖やら神さまやら、目に見えない力を感じたり利用したりすることができるだけさ」

「じゃあ、自分が守りたい人を守ることは? できる?」

「まあ……それくらいなら、ある程度は。だからあたしは生きてられてるのさ。自分を守れてるからね」

「そっか……じゃあ……あの……」


 また迷うようにうつむく月彦。せんべいを一枚食べ終わった真耶は、困ったように頭を掻いた。

 が、その沈黙はそう長くは続かなかった。

 月彦が意を決したように顔を上げたからである。


「まじない師さん。僕を、まじない師さんの弟子にしてください」

「そりゃ駄目だね」


 長いこと話を逸らした上で、ようやく決意と共に絞り出された月彦の頼みを、真耶は即答で一刀両断した。


「どうして?」


 引き下がる月彦に、真耶は大きなため息を吐く。


「あんた、まじない師がいい奴じゃないって、あたしの話でわかったろうに、何だってそんな考えにたどり着くのさ。大体あんたはそんなことしてていい身分じゃないだろ」

「身分なんてどうでもいいよ。僕、まじない師さんの薬で兄上が治った時、心に決めたんだ。僕も、僕が、そうやって、兄上を助けて、守るんだって。ここに来たのも、このことをお願いするため」

「やめておきな。あんたの身分についてはさておいても、まじない師なんてやるもんじゃないよ。そもそもあんたには才能がない」

「まじない師になるのに才能がいるの?」

「当り前さ。人には見えないものを見て、人にはわからないことを知って、人にはできないことをするのがまじない師だ。あたしにはあった。そういう力が。そうなるべくして備わった力が、まじない師になる他に生きていく道がない、っていうような力が。でもあんたは違うだろ。普通に生きられるなら普通に生きた方がいいに決まってる」

「あんたに普通の生活の何がわかるっていうの? あんたの言うことが本当なら、あんたは普通の生活をしたことがないんだろ」

「わかるさ。あたしがこれまでどれだけの人間を相手してきたと思ってんだい。あんたの方こそ、わかってないからそんなことが簡単に言えるんだよ。まじない師として独りで生きていくことの辛さが、あんたにわかるかい。身分を隠さなきゃ、人とまともに話すことだってできやしない。時には災いを呼ぶ魔女だなんて呼ばれてさ、こんな寂れた場所じゃなきゃ暮らせやしないんだ。そりゃたまには頼ってくる奴もいるよ、でもそんな奴らに軽蔑されながら汚れ仕事をすることの、一体何が楽しいってのさ」


 語っているうちに熱が籠ってきたのか、真耶の声にはだんだんと悲痛な響きが混ざってきていた。

 その声を黙って聞きながら、月彦はじっと真耶の目を見ていた。

 やがて言葉を紡ぐのをやめたまじない師の女に向かって、月彦はぽつりとつぶやく。


「まじない師さん、寂しいんだ」

「はあ?」

「そうじゃないの? こんな街はずれで一人で暮らしてるわりに、あんたはお喋り好きに見える。質問したら何でも答えてくれるし、何かを教えるのも好きそうだ」

「……別に。一人の方が面倒がなくて楽だし。まじない師になるって決めた時点でこうなることはわかってたし、そのことに後悔もしてない」


 月彦の真っ直ぐな視線から目を逸らして答える真耶の声に、どこか強がるような声音が混ざっていることを、真耶は自分でも自覚していた。今言ったことは紛れもない本音だ。けれども、先ほど言うつもりもないのに溢れ出してきてしまった言葉の数々も、また本音には相違なかった。


「でも、僕ならまじない師さんの助けになれると思う。話し相手にだってなれるし、もし僕がまじない師になれば、嫌な仕事を代わりに引き受けることだって、嫌な客の対応だって」

「そんなことあんたみたいなガキにさせるもんか。寝覚めが悪い」

「僕だって成長する。そのうちガキじゃなくなるよ」

「その頃になって後悔したって遅いんだよ」

「後悔なんてしない」

「そりゃ今はなんとでも言えるさ」


 真耶は素っ気なく月彦の言をあしらいながら、ゆらりと立ち上がって、ガラガラと軋むぼろ引き戸を開けた。


「そういうことなら、さっさと帰んな。あたしは貴族の子どもを攫う趣味なんかない。誰であろうと弟子をとるつもりもね」

「帰らない。弟子にしてくれるって約束してくれるまで」


 月彦は座ったまま、じっと真耶の方を見つめて言った。


「何も考えなしに言ってるわけじゃない。家のことはうまくやるし、攫われたなんて周りに思わせたりしない。僕は兄上を守り助けるために生まれたんだ。兄上は強いし頭がいい。大抵のことは自分でどうにかできる。兄上が自分でどうにもできないことをするのが僕の役目だ。そのためには普通の人にはない力が必要なんだ。どれだけ大変な道でも、僕は絶対に諦めたりしない」

「……はあああああ」


 真耶は重苦しいため息を吐いて、戸口に座り込む。


「この酔っ払いが。あんたは兄上を守るための道具じゃないし、兄上を守るための力はこんなところにはないよ」

「兄上に憑いていた死神を、兄上自身を診ることもなく退けたじゃないか。それに自分で言ったよ、守りたい人を守ることくらいできるって」


 真っ直ぐな声色を一切変えずに月彦は言う。つまりはこの少年は何を血迷ったのか、兄を守るために街の鼻つまみ者の仲間入りをしようと言うのだ。そのために真耶を利用しようと言うのだ。頭痛がする。

 真耶の気も知らずに、月彦は続ける。


「あんたにとって悪い話でもないはずだよ。僕がいれば寂しさもいくらか紛れる。自分の身を守るための手段がひとつ増える。僕を身代わりにするって手段がね。あんたが嫌いな、面倒で嫌な客は僕が相手できる。そういうのは得意だから。あんたは優しいから、僕があんたみたいな普通じゃない生活を送ったり、危ない目に遭うのが嫌でそういうことを言うんだろうけど、僕は自分のために、勝手にあんたの下について力を得たいだけだから、どうなろうと自業自得さ。まじない師さんはただ、僕を都合よく使えばいいだけ。僕もあんたを都合よく使うから」

「…………」


 真耶は月彦の様子に薄ら寒い不気味さを覚えて、密かに身震いした。

 目の前にいるこの少年が十の子どもに見えない。兄に対するこの心酔ぶりはなんだ? 一月前に薬を受け取ったとき、「うまくやるから」と言って見せたあの表情はなんだ? 実際に大人たちを言いくるめて、怪しい薬を躊躇いなく兄に飲ませた手段はなんだ? まだ会うのも二度目のいかにも怪しげな年上の女に対して、平然と「自分を身代わりにしろ」と言えるほどの覚悟はどこからくる?

 この幼い少年から発せられる底知れぬ雰囲気に、真耶は間違いなく飲まれようとしていた。

 重苦しい沈黙があばら家の中を包み込む。

 十の少年と、若いまじない師の女は、しばらくお互いを探り合うように視線を交わしていた。


「…………はあ」


 沈黙を破ったのはまたしても真耶の方だった。

 根競べは得意じゃない。気が短いのも面倒くさがりなのも良くない性分だ。わかってはいるが、そう簡単に変えられないのも人の性分というものだ。

 そうだ。そもそも自分は人に愛着なんかない。これまで生きてきた中で、大切だと思えたのは、自分をろくでもない環境から救い出して、隔離して、今の生き方を与えてくれたまじないの師匠だけである。この命知らずの少年がこの先どうなろうと、本来知ったことではないのである。

 どうせ世間知らずのお坊ちゃんだ。少しばかり脅かしてやればすぐに嫌になって逃げ出すだろう。そうに決まっている。

 そうでなかったとしたら。

 その時はその時だ。

 真耶はずるずると立ち上がると、月彦の方に歩み寄った。


「あんた、名前は?」

「月彦。相良月彦」

「ふうん……月彦ねえ……。じゃああんたはこれから(おぼろ)だ」

「おぼろ?」

「まじない師は本当の名前を使わない。これも身を守るための手段のひとつだ。あんたはここに居る間、相良月彦じゃなくて朧になる。いいね」

「……それって」


 月彦は目を丸くして身を乗り出した。

 真耶は面倒くさそうに欠伸をした。


「まじないの修行をするにあたって言いたいことは色々あるけど……とりあえず次から来るときは夜にしておくれ。人に知られると面倒だし、昼間はあんたもやることが山積みだろう。そもそもまじない師は夜の生き物だ。昼は眠たくて仕方がない」

「あ……はい。あの、ありがとう。えっと……」

「あたしは真耶。これからあんたの師匠になる者の名前だ、覚えときな」

「はい、真耶さん」

「さんはいらない。虫唾が走る」

「……でも、年上は敬えって父上が」

「女に年の話をするんじゃないよ。大体人ん家に押しかけて無理やり弟子にしてくれって奴が今更敬うも何もないだろう」

「そう……かな……」

「念のため言っておくけど、こんなこと言う奴はあたしくらいなもんだからね。相良月彦はちゃんと父上の言いつけを守るんだよ。朧は、あたしの言うことだけ聞いてればそれでいいけど」

「……わかった。真耶」


 神妙な面持ちでうなずく月彦――いや、朧。

 真耶は朧を追い立てるように立ち上がらせると、畳んでいた布団をばさっと広げた。


「じゃあ、今日はもう帰んな」

「えっ」


 弟子になったというのに一瞬で追い返されようとしている事実に朧が驚きの声を上げると、真耶は機嫌悪そうにひらひらと手を振った。


「えって何だい。あたしは眠いんだよ。どっかのガキに叩き起こされたせいで」

「あっ……ごめんなさい」

「明日の夜からなら色々と教えても構わないから。ほら、わかったら帰った帰った」


 しっしっと羽虫を払うような仕草に、朧は仕方なく戸口の方へ向かう。

 家を出る前に、早々に布団に潜り込もうとする真耶に向かって、朧は声をかけた。


「それじゃあ、真耶、また明日の夜に来るね。これからよろしくお願いします」

「はいはい。それまでに準備しておくから。おやすみ」

「――ふふ。おやすみなさい。また明日」


 戸口から一歩外に出た朧は、カラカラと努めて静かに扉を閉めた。

 夕日に照らされた柳の木がゆらゆらとそよ風に揺れていた。

 扉の向こうから微かに真耶の歌声が聞こえる。

 別れ際に見たあの機嫌悪そうな顔とはかけ離れた、どこか弾むような声色だった。




  人のふりした夜叉が微笑む

  行きはよいよい帰りはこわい


  渡してなるかと領主の財や

  埋もれてなるかと這いずる才よ


  地獄をねぐらに歩く大人は

  子を売り払い姨を捨てゆき


  通りゃんせ、通りゃんせ、

  夜行はこちら

  通りゃんせ、通りゃんせ、

  奈落の底を練り歩け。





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