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第一幕:月彦




 音が聞こえる。

 聞きなじみのない、妙な節のついた、あれは歌声だ。

 低く、静かに、どこか遠くから、忍び寄るように。




  あちらこちらで手を叩く

  手の鳴る方へと夜叉(やしゃ)を呼ぶ


  花いちもんめと売り声上げて

  寄り付く獣はしたを舐めずり


  無知を気取りし生意気な子ら

  宵に呑まれて堕ちてゆく


  通りゃんせ、通りゃんせ、

  黄泉の国より

  通りゃんせ、通りゃんせ、

  浮世の果てに消えていけ。




 そこまで聞いて、月彦(つきひこ)はだんだんと意識がはっきりしてくるのを感じた。

 知らない声だ。恐らくは女の声。

どうやら寝転がっているらしい体を包む何かも、普段屋敷で眠るときの上等な布団とはまるで違う、固くて薄くて冷たい布地。


 月彦は重たい瞼を開き、寝転がったまま、自分の住まう屋敷よりずっと狭くて薄暗いあばら家の中を見回す。

 難しくて読めない文字が記された本、何が入っているかわからない硝子(ガラス)瓶が所狭しと並んだ棚、使い道のわからない、ともすれば我楽多(がらくた)とも呼べそうな謎の道具が散らばる床。

 その奥に、歌声の主がいた。

 ゴリゴリと、石か何かで出来た道具を擦り合わせ、それを伴奏に静かに歌う女。大人であることはわかるが、正確にいくつなのかは見て取れない。色あせた赤い着物は雑に気崩され、胸に巻いたさらしが覗いている。手入れされていないぼさぼさの髪の隙間から、頬に描かれたひっかき傷のような模様が見えた。


 月彦がごそごそと起き上がると、女は気配に気づいたのか、歌うのをやめてこちらを振り返った。


「なんだ、起きたのかい。ならそう言いな」


 異国の血が混ざっているのだろうか、少し色素の薄い瞳が月彦の姿をとらえた。

 寝起きで渇いた喉から、月彦は掠れた声を上げる。


「……ここは」

「覚えてないのかい。あんたあたしの家の前で倒れてたんだよ。まったく迷惑ったらありゃしない。あたしがたまたま外に出たからよかったようなものの、下手すりゃ人買いの悪党にでも攫われていたところだったよ。あんた運がよかったね」


 女はそう言って月彦の方ににじり寄る。

 びくりと体を震わせる月彦の様子を意に介さず、淡々とした手つきで月彦の額に手を当てた。


「うん、熱はないね」

「あんたの家の前? ……あっ、じゃああんたが」

「そうさ、この街じゃ鼻つまみ者のまじない師だよ。それがどうかしたのかい」


 ふんと鼻を鳴らして、月彦から離れる女。

 月彦は、布団から這い出て、女と向かい合うように正座をした。まじまじと女の顔を見つめる。


「本当にいたんだ……」

「失敬な、人を化け物か何かみたいに」


 まあ大して変わらないけど、という自虐的な女の言葉は、月彦には届かなかった。

 次の瞬間、月彦が勢いよくその頭を下げたからである。


「お願いします! あらゆる病を治すという万能の妙薬を僕に売ってください!」

「……は?」


 しばしの沈黙がその場を支配する。

 女は目を丸くして、まだ幼さの残る少年の頭を見つめていたが、やがて呆れたようなため息で沈黙を破った。


「ないよ、そんなもん」


 そっけなく返されたその言葉に、月彦は驚きと不満の混ざった顔を上げた。


「え、でも」

「作れるもんなら作りたいさ、あたしだって」

「でも、どんな医者でも治せない病気を治せるって」

「治せないとは言ってないけどね。万能薬なんかがあるとも言ってないよ」

「……そうなんだ」


 月彦の言葉を二度遮って、女は面倒くさそうに欠伸をひとつしてみせた。

 突っぱねられた月彦は、俯いて拳を握りしめる。

 その様子をちらりと見て、女は興味なさげに問いかけた。


「あんた、病気なのかい」

「……僕じゃない。僕の兄上が寝たきりなんだ。いつも熱で苦しそうで、それなのに僕の前では明るく振る舞って見せて、見てられないんだ。あのやぶ医者も勝手に匙を投げて、父上も母上も諦めかけてる。……でも、僕は、僕は……」


 ぎゅう、と握られた両の拳は、女のがさがさとした骨ばった手と違い、つやつやと潤って程よく肉のついた、苦労を知らない子供の手だった。

 着物も地味な灰色ではあるが、一目見ただけで上等な布だとわかる。先ほどまで眠っていたと思えないほど、行儀よく整っており、髪もよく手入れされていた。

 女は、自分とは明らかに違う身分の少年を眺めながら、また欠伸をひとつ。


「……ふーん。あんた、相良(さがら)家のとこの次男だね」


 相良家。

 この街を統べる名家である。

 言い当てられた少年は驚いてまた顔を上げた。


「なんでわかったの?」

「有名な話さ。跡取りが熱病に侵されて死にそうで、次男があちこち駆けまわってるってね。ついにあたしのとこに来るほど切羽詰まるようになったのかい」

「……父上たちには止められた。そんな怪しいものに頼るなって。何を要求されるかわかったものじゃないって。……でも、僕は何したっていいから、どうなったっていいから、兄上の命を助けたいんだ」

「あんた、ずいぶん短絡的だね。そのお偉い父上方が言うように、あたしがどんなものをお代に要求するかわかったもんじゃないってのに。そんなんじゃ簡単に悪党に騙されるよ。あたしが悪党だったらどうするつもりなんだい」

「あんたが悪党とは思えないけど」


 きょとんとした顔で首を傾げる世間知らずな少年に向かって、常人の世から外れた女は不遜にも馬鹿にしたように鼻で笑って見せた。


「見るからに悪党って奴は総じて小物さ。本物の悪党は、悪党面なんかしてないもんだよ」

「じゃあ、あんたは悪党なの?」

「そう尋ねられて馬鹿正直に悪党だって言う奴はいないさ」

「それは、そうかもしれないけど……。じゃあ、僕が熱病に効く薬をくださいって言ったら、どんなお代を要求されるの? お金なら持ってきてるよ。足りないかもしれないけど……」


 (たもと)から何かを取り出そうとする月彦を手で制して、女は言う。


「あんたみたいなガキからお金なんかもらえるもんか。もっと馬鹿な大人からさんざ搾り取ってるからいらないよ」

「でも、僕は」

「まあ、そう焦りなさんな。そう急がなくてもあんたの兄上はすぐには死なないよ」

「どうしてそんなことわかるのさ! 今こうしてる間にも兄上は」

「あたしを誰だと思ってんだい。人にできないことができて、人にわからないことがわかるからまじない師なんだよ。あんたの兄上のことは診なくたってわかるさ」


 苛立ちを隠さなくなってきた少年の言をのらりくらりとかわしながらも、女は棚に並べられた硝子瓶たちをごそごそと漁り出した。

 不満を前面に出した顔で、月彦はその様子を黙って見つめていた。先ほどから何を言っても遮られてばかりな気がするのは気のせいだろうか。

 ふと、女が思い出したように月彦の方を振り返った。


「茶でも飲むかい? 大した茶菓子もないけど」

「いらない」

「あ、そう」

「そんなことより、早く兄上の熱病に効く薬をください。お代はいくらでも出すから」

「いくらでもって、あんたどんだけ何ができるつもりでいるんだい」


 また鼻で笑う女に向かって、月彦は今度こそ袂から取り出した小さな袋を振って見せた。ちゃりちゃりと音がする。銀貨か、はたまた金貨か。

 女はひとつため息を吐いて、また棚を漁り始めた。


「だから、お金なんかいらないって。困ってないし」

「でも、父上は」

「あたしの客はあんたみたいな純粋な奴じゃないんだよ、元々。そいつらにふっかけてるから、人が思う程あたしは生活には困ってないよ。ま、あんたたちみたいな貴族にはわからない話さ。……ああ、あったあった。こんなところにいたのかい、探したじゃないかまったく」


 まるで生き物に話しかけるようにしながら、女は瓶を一つ手に取った。漁られた他の瓶たちが元の場所に戻されることがないのを見るに、彼女は整理整頓というものをしないたちらしい。

 女は月彦の傍に戻ってくると、ずいと手に持った瓶を突き出した。


「ほら、これだ。これを食事の後にひと匙ずつ飲めばいい。あんたの兄上がものも食べられない程弱っているなら、朝昼晩に一度ずつで構わない。七日も経てば兄上はすっかり元気になってるだろうよ」

「たった七日で? 兄上はこれまでずっと……」

「あたしの言葉が信じられないなら別に持ってかなくていいよ」


 女がそう言って瓶を持った手を引っ込める前に、月彦は必死の形相で瓶を女の手からひったくるように受け取った。


「持ってく、持ってくよ。で、お代は……」

「別にいらないよ。あんたみたいなガキから欲しいものなんかなんにもないさ。ほら、それ持ってさっさと帰んな。ま、あたしみたいな怪しげなまじない師からもらった薬を、あんたの父上たちが兄上に飲ませるかは知らないけどね」

「大丈夫、うまくやるから」

「……へえ?」


 平然と言ってのける少年はずいぶんと年不相応な顔をしていて、女は面白そうに眉を上げた。

 じっと手の中の硝子瓶を眺めていた月彦は、やがてまた年相応な不安げな顔で女を見る。


「……本当にお代はいいの?」

「いいよ。あたしのとこにたどり着けた時点で、あんたは運に恵まれてたってことさ。そういうことにしておきな」

「……ありがとうございます」


 ぺこりと頭を下げる月彦。艶の良い髪がさらりと流れた。

 女はひゅいと口笛を吹いてみせた。


「兄上が熱病じゃなきゃ、あたしのとこなんか絶対来ないお家柄だね、本当に。もう来るんじゃないよ」

「どうして?」

「あんたみたいないい身分のガキがこんなとこに出入りしてたら外聞が悪いからさ」

「がいぶんって?」

「いいからさっさと帰んな。兄上に薬飲ませてやらなきゃ」

「そうだ!」


 女が外へ繋がる扉を指さすと、月彦ははっとして勢いよく立ち上がった。

 そのままばたばたと戸口へ向かうが、扉を開ける前に、またおずおずと振り返った。


「……あの、お代本当にいいの?」

「いいって言ってるだろ。ほら」


 女がひらひらと手を振る。

 月彦はうなずいて、もう一度行儀よく頭を下げると、ガラガラと引き戸を軋ませて、暗い夜道を駆け抜け、闇へと溶けていった。

 座ったまま、少年が閉めていった扉の向こうをじっと眺めていた女は、やがてかったるそうに立ち上がり、元居た定位置に戻る。

 少年が起き上がる前と同じように、ゴリゴリと薬草をすり潰しながら、歌の続きに戻っていった。




  南の(かど)からお帰りなされ

  「(にえ)もなく夜叉を帰せるものか」


  あはれな座敷に飾りし花は

  野から手折りて活けたる(むくろ)


  子どもと言えぬ年増の娘

  わからずに世を儚むふりを


  通りゃんせ、通りゃんせ、

  墓場の祭

  通りゃんせ、通りゃんせ、

  常世の際に帰りましょ。




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