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長編小説を頭から書き直しているんだが、全然まったくこれっぽっちも捗らなくて心あうあうしてきたので、プロローグだけでも短編小説として十分読めるし、とりあえず投げとくか、はい、投げました、どうも阿呆です。

タイトル『妄想散録』(仮) プロローグ(予定)



 小説の面白さに触れられたのは、(ひとえ)水谷(みずたに)紗羽良(さはら)のおかげである。


 まだ高校生だった頃、僕は文字だけで成立するその娯楽媒体を好まなかった。ゲームや漫画、アニメにドラマ、演劇などの舞台芸術、一口にストーリーと言っても表現方法は多岐にわたり、それぞれ絵や映像、役者の演技などを駆使して僕たちを物語世界へと引き込むわけだが、小説はただ文字が綺麗に整列しているだけで、著しく刺激に乏しい。


 暇があればよく漫画を読んでいたものだが、どちらも本であり類似した趣味であるのに、僕は小説が苦手だった。文章を読むのに人一倍時間がかかるのが最大の原因かもしれない。授業中に教科書の指定された範囲を黙読するのが遅くて、級友に笑われたことを覚えている。たかだか数ページの文章を読むのに苦戦して、四十人近くいるクラスの中で、僕だけが決められた時間内に読み終えられなかった。屈辱的とは言わないまでも、いまだ時折思いだすほどには苦い記憶である。そして、僕が生粋(きっすい)の遅読家であることは、今なお変わりない。


 水谷紗羽良との出会いは、大学への進学を機に上京した頃まで(さかのぼ)る。


 彼女は恐るべき本の虫だった。


 喫煙者が煙草を手放せないのと同じ原理で、水谷紗羽良は読書を止められない。つまりは活字の中毒者であり、常住坐臥(じょうじゅうざが)、主に小説を読んでいる。スマホ社会を勇ましく逆行し、紙の束をわっと開いては、現代に蘇った二宮金次郎の如くひたむきに活字を見つめている。瞬きしたかと思えば、ついでにページを(めく)っている。人間離れした速読術に僕は辟易(へきえき)したものだ。


「面白いですよ」と彼女は言った。


「見りゃわかる」と僕は思った。


 彼女の部屋は静謐(せいひつ)の中にある。部屋に唯一ある腰窓のレースカーテンを透き通り、淡い陽の光が浮かび上がらせるのは、一架、二架、三架、四架──と並ぶ本棚の森だ。下宿屋の中の一室に過ぎないのに、その洋室は途方もない奥行きを感じられる。ベッドがあり、ライティングデスクと椅子があり、必要最低限の家具だけ(そろ)った簡素な室内には目を引く装飾の類がなく、ただ種々雑多な本で満たされている。本棚の谷間は薄暗く、北欧の森さながらの凛然(りんぜん)たる気配が漂う。初めてその部屋に入った時は眩暈(めまい)を覚えるほどに現実味が薄かった。以来、下宿屋に住む他の住人たちに(なら)い、その場所のことは『魔法図書館』と呼んでいる。


 彼女はさながら図書の森に暮らす姫君である。


 あるとき漫画は読まないのか訊いてみたところ、しばらくの沈黙の後に「読みますよ」と返事があった。単行本の活字に目を落としたまま、素っ気ない声音で「小説と同じくらい漫画も好きですよ」


 それからゲームやアニメも。音楽も好きで精通しており、マイナーな曲を聴いて楽しんでいるらしい。彼女はインドア気質で、僕とよく似たありふれた趣味をしているようだ。


「いつも小説を読んでいるから、小説にしか興味ないのかと思った」


「そんなことありません」否定しながら活字を追ってページを捲る。


 まだ小説の魅力を知らない当時の僕は、漫画を借りて読もうと魔法図書館を探索した。本棚の谷間はしんと静かでココアによく似た甘い香りが冷えた空気に馴染んでいた。古びた文庫本を試しに一冊手に取り開くと、劣化して茶色くなった洋紙からは、やはりココアの香りがするのだった。なるほど古書の匂いとは甘く優しいものなのだと一つ発見があり、好奇心が(くすぐ)られ、さらに奥へと踏み込んでいく。


 魔法図書館の本棚は軒並み背が高く、巨木のように厳然と(そび)えているために、窓際から離れてしまえば辺りは(たちま)鬱蒼(うっそう)とした樹陰の直中(ただなか)である。漫画を求めて目を凝らしても、一向にそれらしき本は見当たらない。手近の一冊を捲ってみると、暗いながらも、狭い紙面にひしめく活字の群れが目に痛かった。どうにも自力で探すのは困難に違いなく、部屋の主を頼ったところ「漫画は置いてありません」との返答。「あいにく漫画は置いていないのです」随分あっさり言われたものだから落胆する以上に拍子抜けした。「じゃあ、何かおすすめの小説はある?」こう返すより他にない。


 彼女は顎に指を添え、中空を(にら)みながら「そうですね」と(つぶや)いた。それからしばらく黙考していたかと思うと、ふいに目が合い、大きな瞳には喜色が見て取れた。


「織田作之助は、どうでしょう?」


「読んだことない。面白いの?」


 名前だけなら聞き覚えがある。現国だったか日本史だったか、織田作之助についてはいつか学校の授業で習ったはずだ。しかしどのような小説を書いた人物なのかはさらさら記憶になく、そもそも小説全般に興味がないのだから、織田作之助なんて馴染みがない。


「私のおすすめは『競馬』です。短編ですけど読み応えがあって面白いですよ」彼女の声がりんりんと鈴のように弾んでいる。「どうですか?」


 どうですか、と問われたところでどうこう思えるほどの読書経験などないのだが、なるほど彼女にとっては面白いものであるらしい。


「『競馬』は人情の物語です。未練や執着、嫉妬といった、主人公が亡き妻へ捧げた愛情の尾ひれのような一途(いちず)な感情が、最後の瞬間に、競争のシーンですけど、あらゆる(わだかま)りが最後にパッと弾けるようになくなるんです。純粋な競馬の魅力というより賭ける人間を描いた物語なんですけど、とっても人間くさくて、いいんです。随分昔の小説ですので現代の感覚とは合わない酷薄な面もありますが、実際の競馬を知らなくても楽しく読める、競馬の魔力が染み込んだ作品です」


 そして一息入れてから「何より比嘉(ひが)さんが言っていました。『この下宿屋に住む男子はみんな競馬が好きだ。そうに決まってる!』と。だから私は織田作之助の『競馬』をおすすめします」と締めくくった。小説の方の『競馬』が如何(いか)に面白いか十分に伝わってきたが、それはさておき、比嘉先輩の暴論が気になり気に(さわ)る。何を根拠にここの男たちがみな競馬好きだと主張するのか。まったくの偏見である。


「馬は好きかもしれないけど、比嘉先輩が言うようなことはないかな。競馬にはあまり興味がないよ」


「私も現実の賭け事は苦手です。競馬場には興味ありますけど」


「小説の『競馬』は、うーん」


 彼女の解説には熱があり確かな説得力があった。織田作之助の『競馬』は面白いのだと、読んでもいないのに僕の中でもすでに好印象である。しかし活字が苦手でこれまで自発的に小説を読んでこなかった小説初心者の僕にとって、初めて触れる一作がはたして『競馬』でいいのだろうかという無視できない疑念が、脳裏にむっくり(しこ)りのようにある。題名からして渋そうな小説だ。安易な気持ちで読み始めるのは危険ではなかろうか。


「いつか読んでみたいけど、今は止めておこうかな」


「そうですか」


 いつも物静かな彼女であるが、いつもより少し元気なさげに消沈した面持ちで(うつむ)いた。本当に小説が好きなのだ。当時の僕には彼女がどれだけ小説を愛しているのか計り知れなかったけれど、いつも真剣な眼差しで活字を追っている彼女の横顔は知っていた。だから話をしているうちに、ふと、今が潮時だと思ったのだ。


「実を言うと僕は文章を読むのが苦手なんだ。漫画は好きでよく読むけれど、小説はまったく読まない」


「なるほど、それは仕方のないことです」


「でも今は小説を読んでみたいし、君の話を聴いてますます読んでみたくなったよ。小説を読み慣れない初心者でも、楽しく読めるものってないかな」


「なるほど、なるほど、それは難しいリクエストですね」彼女は噛んで含めるように「それは難しいリクエストですね! 読みやすくて面白い小説なら、山ほどありますので!」と誇らしい口元で言い切るのだった。


 己が身を焦がさんばかりの情熱を背負って本棚と向き合い、白い右手を縦横に走らせては目当ての書籍を引き抜いていく。あれもいいこれも捨てがたいと口中で舌をもぞもぞ()わすような呟きを残して、次はあっちの本棚に突進、さらにこっちの本棚、指を何度も折り直しては、やがて不承不承といった落胆ぶりで大きな溜め息を床に落とす。そのまま数秒のあいだ固まっていたかと思えば、吹っ切れた晴れ晴れしい顔つきでこちらを顧みて、「二十冊にしますか? それとも三十冊にしましょうか?」と何やら物騒な質問を投げてくるが、これは明らかな危険球である。僕が面食らっているうちに森の奥深くへと舞い戻り、薄闇の向こうから聞き覚えのある小説、知らない小説、あらゆるタイトルが十把一絡(じっぱひとから)げになって転がってきた。彼女の澄んだ声が部屋の中にしんしんと積もり、次第に言葉の境界が曖昧になり、そのうち呪文めいてくる。これら一連の言動から、僕は水谷紗羽良のえも言われぬ生命力を感じ取った。


 再び姿を現した彼女は先ほど宣告した通り、大小様々な大きさの優に二十冊を超える書籍を抱き上げていた。バベルの塔を連想せずにはいられない(たくま)しい読書欲の塊である。威風堂々たる欲望の向こう側から、ちらりと(うかが)う控えめな目線を受け取ったけれど、結局僕は苦笑いで応じるしかなかった。


「面白いかどうかは読む人の好みによるので責任は負えませんが」


 彼女はさらに数往復してベッドの上に百冊以上の本を積み上げた。僕は(ひる)みながらも、いくつか心()かれるタイトルや表紙を選んで概要を聴いた。油断すると冗長になる梗概(こうがい)を時には強引にぶった切り、最後に一冊、今最も読んでみたい小説を選び抜く。彼女の白い頬が不敵に笑った。


「面白いかどうかは読む人の好みによって変わります。でも──」


 彼女は文学少女だ。清楚で、慎ましく、いつも静かに本を読む。しかし思考の奔流(ほんりゅう)は止めどなく、ひとたび(せき)が切られれば何者よりも雄弁である。「でも」と区切って、流暢(りゅうちょう)なる自信が溢れだす。


「その小説なら、読んで後悔だけはしないでしょう」


 つまりは、やはり面白いと確信しているのだ。そして実際に読んでみて、僕は堪らず(うな)った。活字が苦手なために小説を一冊読み終えるのに土日を丸ごと費やした。現実の僕なんてほったらかしで、文字だけですべてが成り立つ別世界に魅了され、没入した。最後のページの余白が目に入るなりふいに名残惜しく、ついに読破してしまうと、しばらく何も考えられなかった。面白い。それ以外何も思い浮かばない。穿(うが)った感想なんてすぐには出てきそうになかった。著者はよくこんなものを書けるなと感心するばかりだ。文字を読むだけで、こんなにも満足できてしまうのか。


 僕は遅読家だ。しかしこの時を境に苦手意識の(から)を破り、本の虫となった。読んでも読んでも魔法図書館にはまだまだ未読の本があり、遅読家であるのがもどかしい。訊けば彼女は魔法図書館の蔵書をほとんど読み尽くしているようで、蔵書数は数千どころか、数万冊はありそうなのだ。ここまで大量の本が一所に集まっているのも異様だが、僕が人生を捧げても到底読み切れない圧倒的な冊数の本をすでに読んでいる彼女という存在も、極めて稀有(けう)である。


 彼女には読書の才能があり、僕が知らない物語をいくつも知っている。


 僕は密かに彼女を称賛し、尊敬した。


 ゆえに敬意を込めて、水谷紗羽良のことは『サハラ嬢』と呼んでいる。




続きを頑張って書きます。

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