3話 ブランシュ侯爵の侍従 (3)
「ずいぶんとお気に召されたのですね。」
マルが出ていってから、レーゼンがケイトにそう言った。
「ああ、レーゼン。私はずっとターゼン侯爵家の公子に会いたいと言ってただろう?公女の間違いだったんだ。」
「おや。それは嬉しい誤算でしたね。」
「養女にできないかな?」
「難しいと思いますよ。ターゼン侯爵家のご子息は病弱だと聞いています。侯爵は娘を手放さないでしょう。」
「残念だな。」
マルはキティに部屋に案内され、そのままお風呂に入った。
「あの、キティさん。」
マルはキティに頭を洗われながら話しかけた。
「何でしょう。」
「ケイト様はお風呂もご自分でされるんですか?」
「はい。夜会に参加される日は、侍女達で力ずくで磨かせていただきますが、普段はお一人でされます。お帰りが遅い時もあるので、私達に気を使っていらっしゃるのだと思います。」
「こちらに慣れたら、私もそうします。」
「ふふ、かしこまりました。明日は侯爵様は騎士団の仕事で朝からおりません。執事のレーゼンがマルグリット様の事を言付かっているでしょうから、彼にいろいろお聞きください。」
「分かりました。」
***
次の日の朝、レーゼンがやって来た。
マルは用意してもらった侍従の服に着替えて待っていた。
「マルグリット様、まずは侯爵邸をご案内します。この一週間で屋敷と帝都の主要な部分に慣れていただき、その後、侯爵様に付くようにしましょう。ですので、一週間の間に帝都の貴族達、第一近衛騎士団の騎士達についても頭に入れましょう。」
「分かりました。できれば、剣の稽古も続けたいのですが。」
「それについても、希望があれば、手合わせするようにと侯爵様よりご指示いただいてます。」
「誰がですか?」
「私です。」
「ええっ、レーゼンさんがですか?」
「はい。腰を痛めて騎士を辞しましたが、稽古の相手くらいならできるでしょう。」
「光栄です。ありがとうございます。あと、私の事は、マルとお呼びください。侍従で勤めますし。貴方は剣の師になりますので。」
レーゼンの眉がぴくりと動いた。
「それについては、侯爵様にお伺いをたててからにしましょう。貴方はターゼン侯爵家のご令嬢ですから。」
***
次の日から、レーゼンはマル嬢と呼んでくれるようになった。
一週間、マルは忙しく過ごした。
朝は新聞を読んでから貴族の系譜と第一近衛騎士団のメンバーを頭に叩き込み、屋敷内をレーゼンについて回って、余力があれば剣を握り、午後はレーゼンやキティに帝都を連れ回された。
最初の3日は、夜にはへとへとでもうろうとお風呂に入って、すぐ眠った。
4日めからやっと体が慣れてきて、倒れこむように寝ることはなくなった。
ケイトは騎士団の仕事が王宮の行事で立て込んでいるらしく、全然顔を会わせず、マルはそれが少し寂しかった。
***
一週間後の夜、マルはケイトから夕食に呼ばれた。
「こちらには慣れた?」
「はい。皆さん、よくしてくれて慣れてきました。」
「良かった。明日からは、私に付いてもらおうと思っているんだ、最初は本当にただ付いてくればいい。慣れたら用事をお願いしようと思う。王宮にも行くから、まず王宮内に慣れないとね。広いから迷うんだよ。」
「分かりました。あのう、」
「なに?」
「ケイト様も、私のことはマルとお呼びください。」
「実は呼びたくてうずうずしてたんだ、マル。」
「はい。」
「ちょうどいいね。外では偽名でも使おうかと思っていたけど、これならそのまま呼べる。」
翌日から、文字通りマルはケイトに付いて回った。
騎士団の巡回や、警護のときは屋敷で待機だったが、王宮への報告や、練兵場での訓練、貴族からのお茶の招待の場や、ケイトの私的な買い物にも付いていった。
お茶の席では、ご婦人方がマルの美少年ぶりに興味津々で、身の置き場がなかった。
「きれいな青年ですね。あら、もしかしてまだ子供かしら?腰が細いですものね。」
「名のある名家のご子息ですか?所作が美しいわ。」
「町で拾って、側に置いているのです。」
婦人達の質問攻めには、ケイトはそう言って誤魔化した。
そうやって1ヶ月ほどが過ぎ、マルは王宮内を迷わずに歩けるようになった。
書類の受け取りや提出をこなし、よく顔を合わす事務官や貴族の名前と出自も覚え、簡単な伝言はこなせるようになった。
次は簡単な書類なら作れるようにならないとな、とマルは決意を新たにしていた。
ケイトからも領地や帳簿の事なら、ターゼン領に帰ってからも使えるだろうから、レーゼンから学ぶように言われている。
そろそろ、レーゼンさんにお願いしてみよう。とマルは思った。
***
その日、マルがケイトに付いて、王宮の庭を歩いて練兵場へ向かっていると、前から2人の男女が歩いてきた。
「ランドルフ・ビット伯爵とマリー・グレア侯爵婦人だよ。」
ケイトがマルを見ないでそうささやいた。
マルは頭の中で貴族図を描いた。確か、グレア侯爵は貴族派筆頭で、ビット伯爵は中立派だ。
ケイトのブランシュ侯爵家は皇族派だった。
「ごきげんよう。ブランシュ侯爵。聞きましたよ、そちらが最近お気に入りの侍従ですね。まあ、美しい青年ですね。」
「ごきげんよう。グレア侯爵婦人、お耳が早いですね。」
「ふふ、ブランシュ侯爵はいつでも噂の的ですもの。おいくらでしたの?」
マルはその言葉に、ケイトがピリついたのが分かった。
ひゃあ、明らかに挑発なんだけどな。
「私にとっては、彼は値段のつけようもありませんよ。婦人。」
声に怒りが混じっているのが分かる。
「あら。ごめんなさい。そんなにお怒りにならないでください。」
「ごきげんよう。ブランシュ侯爵。」
ランドルフが2人の間に割って入った。
マルは少しほっとした。
「どんな人でも、値段のつけようはないものです。しかし、素性の知れない者に気を許しすぎるのは危険ですよ。」
ランドルフはにこやかにそう言って、マルをちらりと見た。
その目には、敵意や牽制のようなものが含まれていることにマルは気付いた。
何だろう、嫌われているのかな。
「ご心配ありがとう、伯爵。でも手遅れですね。私はこの者に既に溺れきっていますからね。」
ケイトはそう言って、マルの肩を抱いた。
グレア婦人は、まあっと言い、顔を赤くしてさっさと行ってしまった。
「婦人を追わないのか?ビット伯爵。」
ケイトはその場に残ったままのランドルフに言った。
「いや、まとわりつかれて困っていたのだ。ちょうど良かったよ。お邪魔のようだし、私も失礼しよう。」
ランドルフはにっこりすると、婦人とは反対の方向へ去っていった。
「マル、ビット伯爵には気をつけなさい。巧妙な人だよ。商才があって彼の代で伯爵家の財力はかなりの額になったんだ。多方面に金を貸している。」
ランドルフが見えなくなってからケイトはそう言った。
「中立派ですよね。」
「そのはずだ。グレア婦人と居たのは気になるけどね。」
マルはランドルフの顔を覚えておこうと思った。
柔らかそうな茶色のくせ毛にケイトより少し深い緑色の目だった。マルの父親より少し若いくらいだろうか、普段騎士達を見ているので、華やかさに欠けるが落ち着きのある男だった。
練兵場に付くと、既に第一近衛騎士団は訓練を始めていた。
マルはいつものように、入り口の付近で衛兵と少ししゃべり、訓練を見た。