最終回
裁判が結審し、あとは自分が決着をつけるのだと準備をした昨夜。
克樹は通常より朝早く家を出て、会社に赴いた。デスクに座り、落ち着かない様子で幾度も更衣室の方を見る。待っていた課長の小野が出勤してきた。克樹はすぐに小野のデスクの前に立った。
「おはようございます」
「おはよう」
デスクの引き出しを開け、眼鏡を出したり、パソコンを開きながら小野は応えた。
「すみません。少しお時間頂けませんか?」
改まった口調に手を止め、克樹を見上げる。「どうした?」
「ここではちょっと。いいですか?」
会議室を指して言う。「わかった」
小野は足早に会議室に行き、入ると同時に「裁判の話か?」と口火を切った。
「あ、いえ。…長い間色々ご迷惑かけて申し訳ございません。昨日で結審しました」
「そうか。良かったな。やっと終わったんだな」
「はい。ようやく終わりました」
「そうか。…の割には浮かない顔だな。何か問題か?」
「実は…これを」
克樹は胸ポケットに手を入れ、昨夜書いた封筒を出した。表書きを一瞥した小野の顔が険しくなった。
「どういう事だ?」
「すみません。恩を仇で返すようなまねをしてしまって…」
小野は封筒を受け取らず克樹から離れ、部屋をぐるぐる移動した。手を大きく振り回し、大声で
「今までどれだけ便宜をはかってやってきたかわかっているのか!一体どういうつもりだ?」
克樹は肩を縮こませ、小さく「すみません」と謝った。
「謝罪などいらん!理由を言え!」
克樹に詰め寄った。克樹は目を伏せた。小野の顔を見る事ができない。
「申し訳ありません。散々迷惑ばかりかけた挙げ句にこんな事をしてしまって、お詫びのしようもありません」
頭を下げつぶやくように言う。
「理由は何だ」
「……」
「理由すら言えずに一体」怒りのあまり小野は言葉に詰まった。克樹の胸ぐらを掴みかけ、なんとか自制する。
克樹は一度顔を上げ、また頭を下げた。「本当に申し訳ありません」
小野は憤懣やるかたない様子で鼻から息を吐くと
「辞めてどうするんだ?」
「やらなければならない、と思う事をします。いえ。そんな言い方は正しくない。逃げるだけですから」
「逃げる?」
小野の目が怒りから疑問に変わった。
「そんなに仕事が辛いのか?」
「いえ。仕事は。皆さんに迷惑をかけた分取り戻そうと頑張らなければと思っていたんですが」
「プライベートか。それを言えんのか」
「一身上の都合としか」
小野はまた怒りの目をしばらく克樹に向けていたが、ひったくるように克樹の手から辞表を掴むと、そのまま部屋を出ようとした。克樹はその背中に
「課長!本当に申し訳ありません」
身体を折るように深く頭を下げた。小野は背を向けたまま荒々しくドアを開けると出ていった。克樹は深く嘆息すると顔を上げた。そしてのろのろと会議室を出た。胸ポケットの携帯を取り出す。昨夜何度も推敲したメールをもう一度読み返す。宛先は美沙と理恵子。もう一度それを確認すると、一斉送信ではなく別々に送信した。
•
土曜日の午後。克樹、美沙、理恵子の三人が理恵子の部屋で顔を揃えている。美沙と理恵子は不安な表情、克樹は固い顔だ。理恵子が重苦しい空気を払うように努めて明るく
「裁判、結審したんですよね。詳しく聴きたいです」
紅茶の入ったマグカップをそれぞれの前に置く。真ん中にクッキーの缶を置いてふたを開けた。美沙も強ばった顔に無理やり笑顔を浮かべた。「私も聴きたい」
克樹は唇を舐め首を回すと、紅茶を一口飲み話し出した。
「…それで、刑は確定して二人は服役することになったよ。上告もなくてね。懲役五年と三年。求刑通りだったよ」
長い話を終えると顔を歪めて、残っていた紅茶を一気に飲み干した。紅茶は冷めきっていた。飲み物に手をつけていなかった理恵子は、カップに手を伸ばすと慌てたように「ごめんなさい。入れ直します」と台所に立った。
理恵子が熱い紅茶をそれぞれの前に置くと、美沙は両手で包むようにカップを持った。「暖かい」
克樹は湯気の立つ紅茶を飲むと
「自分が原因で誰かが罰を受けるなんて。やっぱり嫌なものだよ」
「でも!」美沙と理恵子が同時に声を出したのを制する。
「でも刑事さんが。罪を償った方が、逃げ続ける人生よりも平安に暮らせるだろうって」
「平安?」
「アタラクシアだ」
克樹はそう言って窓の外を見た。マンションや電線の隙間から切り取られた空が見える。空は青く、薄い雲は透けるように白く光っている。
「アタラクシアって?」
「哲学の用語だったと思うけど。確か、外的なものに左右されない平静な心の状態、っていう意味だよ」
「アタラクシア」理恵子がつぶやく。
「それで克樹はその刑事さんの言葉で心の平安を得る事ができたの?」
美沙の言葉に首を振り苦笑する。
「それが正しい決着なんだって思うことにした、ってところかな」
「そう…」
それからしばらく誰も口を開かなかった。壁に掛けてある時計の音が不意に大きくなったように感じられた。
「だけど」
託宣のように克樹が言葉を発した時、二人ははっと顔を上げた。
「僕にはもう一つ決着をつけなければならないことがある」
美沙と理恵子を交互に見ながら言った。二人の顔がいよいよだというように引き締まった。克樹はそこで持参してきた紙袋を引き寄せた。中から白い箱を出す。箱を開けると白いサテンの布に包まれたワイングラスが三つ入っていた。それを取り出し卓袱台の上に並べる。さらに袋から赤ワインのボトルを出し、続けてワインオープナーを置いた。二人は何が始まるのかという表情で克樹を見ている。克樹は最後に小さな茶色の小ビンを出した。手が少し震えている。
「でも。僕は」
声も震えている。克樹は茶褐色の粉末が入ったビンを握りしめた。
「二人とも好きなんだ。そんなのはおかしいって思われるかも知れないけど、どちらとも別れられない」
二人の顔が強張った。
「だから」ビンを手から離すと、そっとテーブルに置いた。赤ワインの栓をオープナーで開ける。
「こうしようと思う」
「どう…?」
美沙の囁きのような言葉に「これだよ」小ビンを二人の方に見せる。
「ネズミ駆除とかの薬だよ。中でも強力なもの。それを濃縮してある」
克樹は片頬を歪めた。だが、笑おうとしたその表情は引きつっているようにしか見えなかった。
「三人で死ぬの?」
かすれた声で美沙が訊いた。
「まさか」
美沙に向かって笑おうとしたが、やはり顔は引きつっているだけだった。
「死ぬのは一人だけだよ。…三つのグラスのうち一つだけに毒を入れる。そのワインを三人同時に飲み干す。僕が毒を入れている間、二人はそれを見ないでおく。で、二人が先にグラスを選んで、残ったのが僕。それで公平だろう?」
「何で?どうして誰かが死ななくちゃいけないんですか?」
理恵子の言葉に克樹はお手上げというように両手を広げた。
「強制的な方法でもないと決められない、と思うから」
「でも!」
なおも言い募ろうとした理恵子を美沙が止めた。
「それで?」
「一人死に、二人生き残る。死ぬのが美沙か理恵子さんなら、僕は残った方と幸せに暮らす」
「克樹だったら?」
「まあそれは仕方ないと思って二人は新しい人生を送る」
克樹は皮肉っぽく笑った。「元々死んでたかもしれない人生だしね」
「でも…」
震える手を強く握ることで止めようとしていた理恵子は
「死体はどうするの?残った二人が殺人犯って事になっちゃいませんか?」
「それは大丈夫」
また紙袋に手を入れる。「自殺するんだから」白い封筒と便箋、ボールペンを二本出した。「これ」
不審そうな二人の前に、便箋の綴りとボールペンを置く。
「遺書を書くんだよ。それぞれが。で、死んだ人間のだけ警察に届ける。そうすれば自殺で片がつく」
美沙がごくりと唾を飲み込んだ。
「本気なの?」
「ああ」
二人の顔を見、そして窓の外に目をやって答えた。
「でも。この部屋で理恵子さんが死んだら自殺だけど、私や克樹が死んでも自殺にならないんじゃないかな。警察はおかしいと思って捜査するんじゃない?」
美沙が額に手を当てて言った。理恵子も同意するように頷いた。克樹は考えこむように左手を顎に当て、右手を腕組みのようにした。少しの沈黙の後
「まあでもそれは、遺書の書き方で解決するんじゃないかな。美沙の場合は僕と理恵子さんの事に腹を立てて、その腹いせにここで死ぬんだ、とか書けば」
「克樹は?克樹は何て書くの?」
美沙がなおも訊く。克樹は一瞬言い澱んだが
「三角関係に悩んで死ぬ事にした。で十分だと思うけど」
「でも!ここで死ぬのは不自然だよ。何で中に入れたのかとか色々」
克樹はうんざりした表情を見せた。ムッとした美沙が言葉を発する前に
「本当にやるんですか?」
声の震えを抑えるような低い声で理恵子が訊いた。
「本気だよ。僕はね。でも、二人がそんなバカな事はしたくないって言うなら、もちろんやらなくていい」
薄く笑いを浮かべて言った。
「そしたらどうなるの?」
反発するように美沙が訊く。
「どうなるのかなあ」
克樹は上半身を後ろに反らし、両手を後ろに付くとふざけるように言った。
「そしたら僕と別れるってことでいいんじゃない?」
ぞんざいな言い方に二人は苛立ちの目を向けた。克樹はまた窓の向こうを見た。
「二人が僕を見捨ててもいいんだよ」
つぶやくように言った。
「そうしたらこんなバカな事しなくていいんだ」
何度目かの沈黙がおりた。それぞれが様々に想いを巡らせる。
「やります」
理恵子の声に他の二人ははっと我に返った。
「私、克樹さんの事が好きだから」
美沙は怒りと嫉妬の混じった目を向けた。これで美沙が降りれば、理恵子に負けた事になるのではないか、と思ったのだ。だが「じゃあ二人でやろうか」と克樹が言った。
「要するに、一人がいなくなればいいわけだから」
「え?でも、そんなのおかしいよ。だって…」
美沙の言葉に克樹は首をすくめた。
「僕は死んでもいいんだよ。もうとっくにいなかったかも知れないんだから」
ひらひらと手を振り挑発するように言う。
「それで。どうする?」
「私もやる!」
勢いに任せたように美沙が言う。
「本気なのか?」
低い声で問い直す。電気が走ったように一瞬動きを止めた美沙は「やるわよ」とやけくそ気味に言い返した。克樹は暗い目をして卓袱台の上の封筒と便箋を二枚ずつ二人の前に置いたが、その顔は窓からの逆光になって二人からは見えなかった。
顔を上げた時にはふざけたニヤニヤ笑いを浮かべていた。
「はい。じゃあこれに遺言書いて。僕のはもうここにあるから」
封をした白い封筒を紙袋から出して、卓袱台の端に置いた。
「もう書いてるの?さっき言ってた事は書いてるの?」
美沙の問いかけに曖昧に頷く。
「僕なりに矛盾しないように書いたよ。で?どうする?まだ何か質問ある?」
美沙と理恵子は一瞬目を見合せたが、何も言わず便箋を引き寄せると書き始めた。
克樹は立ち上がると窓際に立ちサッシを開けた。冷たい空気が流れ込んでくる。
卓袱台の上に白い封筒が三つ揃った。
「さて」克樹は手を一つ叩くと「じゃあ準備するから、二人は外に出てて」
克樹に追い立てられ二人は部屋の外に出た。克樹はドアに鍵を閉め、チェーンまでかけると卓袱台に戻った。慎重にグラスを拭き、指紋などが付いていないか透かして確認する。そして三つのグラスのうちの一つに褐色の粉末を入れる。「ここからが本番だ」呟くと他の二つに風邪薬の粉末を入れる。見た目の色を同じにするためである。そして、三つのグラスに同じ高さになるように慎重にワインを注ぐ。最後に粉末の痕跡がなくなるようにしかっりとかき混ぜる。
ワインが輪を描くのをやめたところで最後の仕上げを施す。
「出来た」
克樹はグラスにふわりと不織布の紙タオルをかけ、空気を揺らさないようにそっと立ち上がった。チェーンを外し玄関のドアを開ける。寒そうに通路で待っていた二人はお化け屋敷に入るような及び腰で入ってきた。「そっとね」克樹が注意を促す。卓袱台の上には一ミリの差もなく注がれた液体の入ったワイングラスが、三つキレイに一列に並んでいる。「そっとそっと」
克樹の言葉に二人は息を詰めて腰をおろした。克樹は紙タオルを外した。二人共グラスを凝視している。
色も量も全て同じに見えた。
ーが。美沙は左端のグラスに小さな埃が一つ浮かんでいるのを発見した。
「さて」
揉み手をしながら楽しげに話し出した克樹に、理恵子は眉をひそめた。美沙は苛立ちの目を向ける。
「じゃあ始めようか。ワインには一つだけ毒が、後の二つには色が同じになるように風邪薬を混ぜてある。だから味はどれも不味いと思う。でも途中で止めないで。一気に飲み干すこと」
歌うように言う。あくまで不謹慎な様子に二人は嫌悪感を抱いた。
「僕は後ろを向いてるから。二人が先に選んで」
くるりと克樹は背を向けた。祈るように組まれた美沙の両手はぶるぶる震えている。理恵子は自分の身体を抱くように腕を回している。
「さ、選んで」
美沙と理恵子はお互いを伺うように見ながらおずおずと手を伸ばした。美沙が迷っている間に理恵子が左端と真ん中のグラスを入れ換えた。
「あ…」
二つのグラスの中身がゆらゆら揺れている。美沙がその片方を取り、理恵子は動かしていない右端のグラスを選んだ。
「選んだよ」
美沙が声をかけた。克樹はゆっくりと身体を反転させた。残っているグラスの中身を凝視する。グラスの液体はまだ揺れている。位置は左端。だがー
克樹の眉間に大きくシワが寄った。顔を歪めて二人の手元のグラスを見る。美沙のグラスの中身を確認する。
と、
「いいいいい」
奇声を発した克樹に二人はビクッと身体をすくめた。克樹は頭をかきむしりながら身体をのけぞらせ、二人を睨み付けると
「嫌だああ!」
叫ぶなり一目散に部屋から飛び出した。玄関のドアが大きな音を立て壁にぶつかり跳ね返ると、その後を追うようにドカドカという耳障りな足音が響いてきた。
残された二人は呆然と玄関の方を見やっていた。足音は階段を降り、遠くなってやがて聞こえなくなった。しばらくは凍りついたように動かなかった美沙は「何…?」という理恵子の呟きに我に返った。
「何?今の?」
理恵子に訊いた。理恵子は大きく首を横に振った。美沙はワイングラスを自分から遠くに押しやる。
「どういうこと、かしら?まさか…死ぬのが恐くなった?」
「まさかそんな!克樹さんが自分から言い出したことなのに」
「でもそうとしか…何なの!一体!」
美沙の言葉にまだ釈然としない理恵子は美沙が遠くに押しやったグラスを手元に持ってきた。それを見た美沙は他の二つのグラスを理恵子の目の前のグラスに並べた。三つのグラスの中の一つに、さっきと変わらず小さな埃が揺れている。
「まさか…」
「どうしたの?」
「これ」美沙はグラスを取って理恵子に見せた。
「他のと同じに見えるけど?」理恵子は怪訝な顔をした。
「ほら、ここ。小さな埃が浮いてるでしょ?これ、私が取ったグラスなの」
「ええ。でもそんなの、たまたま入っただけじゃないの?」
「私もそう思ったんだけど。私達が戻ってきた時にはもうあったの。それに。あの不自然な紙タオル。あれって他の埃が入るのを防ぐためだったんじゃないかな?それにこのグラスは、克樹から取りやすい左端に置いてあった」
理恵子は首を傾げた。
「じゃあこれに毒が入ってるって事?」
美沙は首を横に振った。
「だったら克樹が逃げる必要はない。たぶん、これは克樹が自分用に準備した、毒の入っていない二つのうちの一つだと思う」
「そうか。毒の入っているものに印を付けるんじゃなくて、入っていない二つのうちの一つに印を付けておけば…」
「そう。もし私達が埃に気付いても、普通なら一つだけ違っているものがあれば、それに毒が入っていると思う。だったらそれは選ばない。もし気付かなかったとしても…」
「気付かなかったとしても、自分から遠くにあるものをわざわざ取る可能性は低い。そう考えてグラスを配置したんだとしたら」
そこまで喋ると二人は顔を見合せて黙った。口に出してはみたが、信じがたい気持ちの方が勝っている。美沙はグラスを見比べた。その先に先ほど書いた三通の遺書がある。手を伸ばして克樹のものを取った。裏返したりしてしばらく眺める。
「開けてみます?」
理恵子が訊いた。美沙は封を破いて中の便箋を出した。三枚入っていた便箋はすべて白紙だった。覗き込んで見ていた理恵子も息を飲んだ。
「やっぱり…」
美沙はブルブル震える手で便箋を破くと、グシャグシャに丸めて壁に投げつけた。
「バカみたい!なんなの!あいつ!」
言いながら大粒の涙があふれている。
「美沙さん…」
「信じられない!こんなくだらない!」
泣きじゃくりながら声を震わせて言う美沙に、理恵子は棚からティッシュの箱を持ってきて渡した。
「どうしてそんなに冷静なの!?あいつ、私達のどちらかを殺そうとしたんだよ!悔しくないの?」
八つ当たりのように理恵子に詰め寄った。
「……」
理恵子はあ深くため息をついた。
「悔しいし、腹も立つんだけど」
「けど?」
「何て言うか。もう…バカバカしくて」
美沙は渡されたティッシュで涙をぬぐい、鼻をかんだ。
「バカバカしい?」
「そう。くだらない事考えて、本当に死ぬ度胸もなくて逃げ出すなんて。あきれて涙も出ないっていうか」
自嘲的に笑った。
「私、本当にあんな人の事好きだったのかなあって。…何やってるんだろう?何もかも捨てて来たのに」
話しているうちに瞳から涙があふれ落ちた。
「私もわからない。何であんなやつ好きになったんだろう?二人のうちのどちらかを殺して、残った方と上手くやっていこうなんて。それで、自分が死にそうになったら逃げ出すなんて!こんなにダメな奴だとは思わなかった」
ティッシュで何度も涙を拭いながら言う。二人はしばらく感情の奔流のまま泣き続けていた。泣き過ぎて、目蓋が開かなくなるほど泣き、やがて涙も枯れ、部屋は静かになった。
日はすっかり暮れている。理恵子は立ち上がるとカーテンを閉めた。そして、三つのグラスをトイレに持っていき、中身をトイレに流し何度も水を流した。グラスは台所のシンクに乱暴に放り込む。グラスは派手な音を立ててぶつかり合い、粉々になった。その上からザーっと水を流し、手を洗う。一連の行為を美沙は無言で見ていた。理恵子は冷蔵庫を開け、缶ビールを二本取り出すと美沙の隣に座り、一本を美沙に手渡した。
「飲もう!」
プルトップの蓋を開けた。美沙は鼻をすすり上げ缶を開けた。
.
薄い雲が幾筋かはしる水の色の空の下。川岸に続く、灰色に煙るような枝だけの桜の樹々の下をくぐり、バスに乗る。空港までノンストップのリムジンバス。外を眺めているうちに、バスは成田空港に到着した。刺すような風が吹きつける中足早に建物に入ると、克樹は荷物を置いて一面のガラス越しに飛び立つ飛行機を眺めた。
成田国際空港、午前7時。
克樹はバックパックに小さなボストンバッグ、着古したジーンズと黒のタートルネックのニットにブルゾンという出で立ちだ。飛び立つ飛行機を目で追っていると、後ろから声をかけられた。振り返る。佐藤だ。彼はダークグレイのスーツにピーコート姿だ。
「わざわざ見送りなんてよかったのに。すみません」
頭をかきながら言う。その髪はずいぶん短く切られている。
「いや…」佐藤はマジマジと克樹の顔を見つめた。
「お前、本当にこれでよかったのか?」
克樹は空の一点からにわかに大きくなってくる旅客機を見たまま「いいんです」と呟くように言った。
「昨日、美沙ちゃんに会ったけど。彼女、全然整理できていないみたいだったぞ。怒ったり泣いたり。お前の事恨んでるって…」
克樹は歯をくいしばって笑顔を見せた。
「憎んでほしいんです。あきれて見下げ果てて。とっとと忘れてくれればいいんです。気持ちを残したままじゃどこにもいけないから」
「北山…」
「すべて僕が悪いんです。僕は二人とも好きだっていう卑怯なことしか言えなかった。それなのに彼女達は僕を見捨てなかった。僕を好きだと。待つと言ってくれました。…でもこのままでいいわけはない。だから。二人が僕を見限ってくれるようにしなくちゃいけなかったんです。…僕からは離れられないから」
佐藤は強い目で克樹を見た。克樹はその視線を正面から受け止め、苦々しく笑った。
「でも。結局僕は卑怯者です。僕を憎んでいる彼女達と向き合う勇気がなくて、こうやって逃げるんですから」
佐藤の方に向き直る。
「本当に色々すみませんでした。仕事も放り出して。佐藤さんにも黒沢さんにも。いや。部長や皆に迷惑かけて。美沙…高木さんの事、よろしくお願いします」
深々と頭を下げる。佐藤は怒った顔を横に向けた。
「お前に言われなくても彼女の事は大事にするよ。俺は浮気はしない」
克樹は息を吐き出して自嘲的に「そうですよね」と言うと眼鏡を直した。
佐藤はランディングしてくる機体を目で追う。轟音が響いてくる。
「昨日美沙ちゃんが言ってたけど」
克樹の肩が微かに震える。
「理恵子さんって人、徳島の病院にいた時に付き合っていた人から連絡があったらしい」
克樹の顔に赤みが差した。確か不倫だったはずだ。その恋は閉塞感ばかりが募り、疲れたのだと言っていた。
「前向きに二人のことを考え直して欲しいって。やり直そうってことかな?」
克樹は空を見上げた。雲は消え、青だけの空。広くて遠くて、徳島での空を思い出す。アナウンスの声が響いてきた。搭乗手続きの時間だ。
「前向きに…ね。うまくいくといいですね」
「そうだな。それで。おまえはこれからどこに行くんだ?」
行き先の表示の並んだ案内板を見て訊く。
「まずは南米です。インカ帝国の遺跡とか、ナスカの地上絵とかを見たいんで。ペルーやメキシコ、チリなんかを回ります」
「ああ。いいな。羨ましい」
克樹は寂しげに笑った。バックパックを担ぎ上げた。
「できれば世界中見て回りたいんです」
「そうか。…気をつけてな」
「ありがとうございます。じゃあ行ってきます」
「なあ」歩き出した克樹に後ろから声をかける。振り返った克樹に「帰ってくるよな?」
真面目な調子で訊く。克樹は晴れやかな笑顔を見せた。
「もちろん。お土産はありませんけど、土産話だけは沢山持って帰れると思いますよ」
「そうか」
「じゃあ」
手を振るとカウンターに向かった。佐藤は人に混じった後ろ姿をしばらく見送ると、腕時計を見て踵を返し、会社に向かった。
搭乗手続きを終えた克樹は、搭乗ゲート前に並んでいる背もたれのないベンチの一つに腰をおろした。
ポケットから携帯を出す。これはある意味、執着の象徴だ。持っていれば世界のどこにいてもGPSで、消息不明という事態は避けれるだろう。だが。
しばらく迷っていたが、電源を落とすと思いきり踏んだ。画面がクモの巣状になった。それをゴミ箱に捨てる。指紋認証の端末は悪用される事もないだろう。
搭乗開始のアナウンスが辺りに響いた。克樹はバックパックとボストンバッグを持ち、ゲートをくぐった。