6話 帰り道
日はもう完全に暮れてしまって、街灯があるところ以外本当に暗い。ただでさえ前髪であまり見えないのに、これでは本当に何も見えない。
それにしても、さっきからお兄ちゃんが黙ったままだ。それだけならそんなに気にすることでもないんだけど、深く考え込んでいるのかお兄ちゃんから重苦しいオーラが流れているような気がする。あぁ、何か気まずい沈黙だ……もしかして私のせいかな。特に思い当たることもないんだけどそう思ってしまう。
――もうイヤだ、耐えられない。いっそのこと聞いてしまおう。
「ね、お兄ちゃ――」
「なぁ月夜」
「――なに?」
聞こうとするのと同時にお兄ちゃんも話し始めた。なんでこうタイミングが合ってしまうんだろう。でも話してくれるのならその方が楽だ。
「俺、何かしたか? マジで」
声のトーンが深刻だ。これは本当に大変な悩みかもしれない。いつも明るいのに異常だ。でもなんの話かわからない。
「なにが? 何の話? 学校で何かあったの?」
「え、いや学校はいつもどおりだけど。いや、そうじゃなくて、さっき俺のこと無視しようとしただろ?」
「へ!? ……あぁ、いや……」
無視のつもりじゃなかったんだよ……どうしよう、そのことが原因で落ち込ませちゃった。どうしようもない……ってバカ。兄妹なんだから包み隠さず本当のことを言えばいいんだ。うん、そうだ!
「違うよ、怒って無視してたんじゃなくて、どうすればいいのかわからなくって振り返れなかっただけなの。ごめんなさい」
よし、思ったことをそのまま伝えることが出来た。それにちゃんと謝れた。
「へ? 何がわからなかったんだ」
と思ったんだけど、ちゃんと伝わらなかったみたいだ。
「あのね、呼ばれて振り返ったとして、どういう反応をすればいいかとか何言えばいいかとかがわからなかったの」
「あぁなるほど」
よかった、今度こそちゃんと伝えられた――
「って、いやいやいやおかしいだろ。兄妹だぞ、唯一無二の兄弟だ! なにを迷うことがあるんだよ、家と一緒の感じでいいだろ」
――と思ったのに、わかってもらえなかったみたい。でも、私にだって言い分があるわ!
「外に居るときと家じゃ勝手が違うもん」
「何が違うんだよ、場所が違うだけだろ」
何でわかってくれないのよ、全然違うじゃない!
「違うよ、人の多さが違う! だから外であまり何かしたないし人前で動きたくないの、目立ちたくない、ひっそりとしてたいの! 外は場所の問題だけじゃないよ!」
「そんなこと言っててどうすんだよ。何もできねえだろ」
「お兄ちゃんには私の気持ちなんてわからないよ!」
「……ちょっと落ち着け。興奮しすぎだ」
静止されて少し落ち着きを取り戻す。息が切れていて、気づかないうちに声が大きくなっていたことに気づく。周りを見回すけどあまり人はいない。よかった〜
何で私、あんなにカーッとなっちゃったんだろう。自分で言うのも変だけど、結構穏やかな性格のはずなのに。そんなにムカつくようなこと言われたかな。ううん、ただ価値観の違う点に疑問をもたれただけ。外と家の違いは場所だけだって言われただけだ。たったこれだけのことなのに、どうしてこんなにイライラしてくるんだろう。
ちょっと足を速めて私の前を歩いているお兄ちゃんの後頭部を見て考える。
「――へぇっくしょい! 〜んぁ、ふぁ〜あ」
……なんて自然体なの!? こんな、誰に見られてるかわからない普通の道で、突然俯いて口元に手も持って行ったかと思うと全力のくしゃみ。そして間髪入れずにあくびしてるし……しかもわざわざあくびをするのに手を口から離してる。口の中見られたり虫入ってくるかもしれないのに……私には信じられない。まるで家にいるかのようだ。
あ、そうか。何でこんなにイライラするのかわかった。イライラじゃないんだ、私が常に気を張り続けている外の世界に自然体であり続けているその姿勢が、羨ましかったんだ。
「あぁ。わからないよ」
突然お兄ちゃんが立ち止まり、振り返って真剣な眼差しで私を見てきた。端正な顔立ちだな、とこんなタイミングだけど思ってしまう。いやこのタイミングだからかな、羨ましいと思ってることを自覚してから必要以上にキラキラと輝いて見えてきた。これが憧れるってことなんだなぁ。なりたいな、お兄ちゃんみたいに。変わりたい。今、心の底からそう思う。
ところで、お兄ちゃんは何の話をしてるんだろう。
「俺にはわからないよ。外で動きたくない? 人前で何もしたくないだぁ? だからどうしたんだ、言ってどうにかなるのか? ならねぇだろ。自分ばっかり甘やかしてんじゃねぇよ。俺はそんな気持ち、わかりたくもない」
鋭く冷たい、普段では考えられないようなお兄ちゃんの声。反論もできないその内容がナイフのように私の心をグサッと刺した。
何の話ってそりゃ、さっきの続きだよね……もうそれは反省もしたし、憧れも見つけたし、私なりに終わった……つもりだった。けど自己完結だもん、こんな後ろ向きなことばかり聞かされたお兄ちゃんはそりゃ収まらないよね。突き放すように言われたって当たり前なのに、とても胸が締め付けられるようで、どうしても涙が溢れてくる。泣くのなんて大嫌いなのに、どうにもならないのに止まってくれない。
「……う、ふぁ、ご、ごめ……っひっく――あ゛〜」
あ゛〜、情けないよ、悔しい。だって、本当に弁解の余地もないくらいに今まで何もしてこなかったんだもん。
それに、怒られて今の自分を冷静に考えてしまった。いくら今変わりたいって思っても頑張れる気がしない。明るく人間社会の中で生きている自分を想像することすらできない。そんな風に生きれたとすれば、もうとっくに明るい人間として生活しているはずだもん。
情けない、こんな自分がもうイヤだ……。それに、いつも優しいお兄ちゃんにキレられたことも悲しくて仕方がない。
「月夜、泣くなよ。わり、さすがに言い過ぎたな」
少し前を歩いていたお兄ちゃんは、私のとこまで戻ってきて頭をポンと撫でた。
声はさっきとは全然違ってやさしくてやわらかい。うわ〜、高校生にもなってあやされるなんて子供過ぎる〜!
「……月夜、確かに人前は気を使うし何もしたくないかもしれない。でもお前は実際に何かをしたのか? ずっと縮こまって逃げてたんじゃないのか? 踏み出せよ、一歩でもいいから。世界が変わるぞ。傷つくこともあるかもしれない、でも幸せなことだってあるんだぜ」
怒られてショックを受けてなかば放心している中、お兄ちゃんの言葉がスポンジが水を吸い込むかのようにスッと入ってくる。
そうなの。本当に私は何もやってこなかった。今までただひっそりとすることにしか一生懸命になってなかった。たった一人で居るこの状況を守っていたんだ。
そのくせ楽しそうにおしゃべりしている人や楽しそうな人を見ると羨ましくてしょうがなくなった。どうしてみんな笑顔なんだろう、どうしてあんなに楽しそうなんだろう、私とは住む世界が違うんだなって思っていたんだ。
本当にたった一歩踏み出すだけで世界は変わるのかな。本当に変わるのなら、私の性格と一緒に変わってほしいな。「幸せなこと」があるんだったらそれを手にしたい。
明日から頑張ってみようかな。いや、頑張るべきなんだ。だって、今私は毎日が楽しくないもん。なら楽しくするために頑張らなきゃね。お兄ちゃんのようになりたいから。
「……お兄ちゃ、わ、私、あっしたから頑張る」
しゃくりあげながらでカッコ悪いけど、意思表明をする。明日からは本当に頑張ろう。目指すはお兄ちゃんだ! ……いやちょっと待とうよ私、ハードル高すぎるからやっぱり普通の人を目指そう。
ちょっと後ろ向きな私の思考も知らないお兄ちゃんは、それを聞いてニッコリと笑ってくれた。
「そうか。頑張れよ、大丈夫。なんたって俺の妹なんだから。やればできるよ」
「……うんっ」
せめて人に話しかけられたときにちゃんと返事できるようになろう。
「とりあえず月夜、顔拭けよ。ぐちゃぐちゃだぞ」
決意を固めていたらいきなり布が顔に押し付けられた。たぶんお兄ちゃんの首にかかってた汗拭きタオルだ。
「うぇ、くっさ!」
私は力いっぱい押し戻す。
なんだろうこれ、汗のにおいとは思えない。レモンと酢が混ざった上にさらに……砂糖かな? あと牛乳の後味も合わせたような匂いだ……吐きそう……
「あ〜わりわり。今日体育もあったしな〜。でもそんなにくさいか? さすがにショックだ……」
そう言いながら、においを確かめるお兄ちゃん。でもにおいは自覚できないものなんじゃないの?
「っぐぁ、くっせなんだこりゃ……あ!」
自覚できるんだ。にしてもなんだろう、この思い出したような声は。
「あ〜マジ悪い。今日はこぼした牛乳やらゼリーの汁ふき取ってたんだよ……それが汗と混ざってえらいことに……」
「うわ、最悪。そういえば顔がねちゃっとする〜最悪だ」
そう言いながら私は走り出す。もう鼻が曲がって死にそうだよ!
「何だよ、悪いって言ってんだろ。そんなに最悪言うな!」
追うように兄ちゃんも走る。でも自転車を支えながらだから遅い。
いや、荷物全部任せてるのに1人でさっさと走るのはダメかもしれないよ? でも顔に匂いがまとわりついて……
「ごべん! 先かえるで!」
鼻を押さえて家まで全力疾走した。息ができない……!
「おい月夜、待ってくれよ!」
どこか哀愁に満ちているような声が後ろから響いていた。本当にショックを受けてるのかもしれない。でもそんなこと気にしてられないよ、くさいんだもん!