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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ヴィエノワズリー ~四つ辻の向こうのパン屋さん~


「……あっ! おにーさん、また来てくれたんだ。

 ふふっ、いらっしゃいませ。さあ、入って入って」


 最寄り駅から徒歩9分。

 閑静な住宅街の中に佇む一軒のパン屋さんがある。大きな窓で採光が取られヨーロピアンというかむしろメルヘンさすら感じるレンガ造りのお洒落な外観。

 比較的最近オープンしたこのお店は、そのリーズナブルな値段とは裏腹に頻繁に変わる多彩なアイデアと、どのパンも外れが無いという安定感で客足が途絶えない。


 けれど、やはり駅から9分という立地、そして駐車場の無いアクセス条件の悪さからか知る人ぞ知る隠れた名店としてSNSでも取り上げられているが、僕は極端にこのお店が混雑している場面に出くわしたことは無い。店内にもテラス席にもイートイン用の座席があるけれど、それも全て埋まっていたことは無かった。


 もっともそれは僕が、このパン屋さんを発見したのはオープンしてから1か月くらい過ぎてからのことだったらしく、開店当初の活気を知らないという理由もあるのだけれど……。

 大学からの帰り道。自分の一人暮らしのアパートに帰る道筋からは若干遠回りになるところにこのお店はある。

 けれど、最近僕は日課のようにこのお店に通い詰めていた。


 外はしとしとと雨がにわかに降っていてじめっとした不快感があったが、ガラスの扉を開けて店内に入るとそうした鬱屈とした湿っぽさは失せ、代わりに心温まるかのような焼きたてのパンの香りに包まれるかのようであった。


 そして店員さんの元気な声を耳に入れながら、僕は靴の汚れを入口の赤いラグで払い、傘立てに黒い無骨な雨傘を放る。

 人懐っこい声色と、いつ来ても楽しそうにぽやぽやと笑いかける姿、そして何より日本人離れした銀髪と蒼色の瞳をした彼は、まるで絵画や童話の王子様を切り取ったような洗練とした出で立ちをしている。……にも関わらず老若男女問わず誰に対しても分け隔てなく、それこそ一介の冴えない男子大学生でしかない僕のことも、他の女性客と同じように覚えてくれている。


「……ふふ、おにーさん、今日も店内で食べて行きますかー? いつもの席、空いてますよ?」


 壁際の隅の2人掛けの席。そこが僕の定位置。色々な創作パンが置かれるこのお店のイートイン席は、近所の主婦の方の井戸端会議や、僕と同じ年ごろの大学生の女子会が開かれていたりするので、場違いな僕は隅っこの席にちょこんと座っている。

 いつも通り。いつもの場所。僕は少し目線を下げると、話しかけてきてくれる銀髪ショートの店員さんの蒼い瞳と交差する。そして、目だけで頷くとこの店員さんは察して、トングとトレイを差し出してくれた。


「今日のおすすめは、アールグレイのフレンチトースト……そこの三角のやつですね。と、ダークチェリーデニッシュに、モーンシュネッケン、どちらもデニッシュ系のパンで甘くて美味しいですよ!

 あっ、うぐいすアンパンが先程焼き上がりましたので、こちらもいいかもです。……って、おにーさん。私のおすすめ全部トレイに入れているじゃないですか」


 そう言って「食べきれなくても知らないですよー」と店員さんは僕に笑いかける。その眩しい程の屈託のない笑顔に僕もほだされ、彼に比べると随分と不格好で不自然な笑みを返した。


 そんな彼に、食べきれなかったら持ち帰りますよ、と伝えれば。


「それもそうですね。

 じゃあ――あと、一つだけおすすめを。

 こちらのミニクロワッサン。使っている小麦はいつもと同じなのですが、ちょっと製法に変えているので良かったらいかがでしょうか。

 ……あっ、おにーさん、二つも入れてる。こりゃお持ち帰りですねー」


 そう言いながら、銀髪の彼は僕の手からトレイを優しく持ち去り、レジへと向かう。


「……えっと、合計6点で……1334円ですね。あっ、おにーさんは電子マネーでしたね、分かってますよー」


 思えばこんな日本人離れした容姿なのに、日本語も堪能だ。それに彼はパンの知識にも造詣が深い。ただ、いつもレジをさせていて申し訳ないが、数字でちょっと詰まる癖があることから、生まれながらの日本語話者というわけではないみたい。

 ……どこの出身か聞いたことは無いけれども、相当日本語を勉強して今このパン屋さんで働いているのだから、僕は月並みだけれどもすごいなあ、という言葉しか出てこない。


 そして電子マネーをかざす前に、端に小さく水曜定休日と書かれたロゴ入りの厚紙のポイントカードも出す。するとそのポイントカードを店員さんは両手で受け取り、スタンプを押す。


「今日のポイントは、6ポイントなので……あっ! おめでとうございます、おにーさん、今までのと足し合わせて全部貯まりましたよ。次回来店・・・・時に特典が付きますので忘れないでくださいね」



「あと……1000円以上購入してイートイン利用なので、飲み物は無料だけれど……って、分かってますよおにーさん。いつもの、ですよね?」


 決して狭くない店内に、銀髪の店員さんの「ベルガモットティーお願いします」という声は甲高く響き渡った。




 *



 一応頑張って食べようと思ったけれども、パンを4つ食べたところでお腹いっぱいになってしまった。折角美味しいパンなのに無理に詰め込むのも勿体無い。


 ということで、少々長居してしまったので僕の定位置――壁際の隅の席から店内を見渡すと、先程の銀髪ショートの彼が慌ただしく店内を駆け巡っていた。にも関わらず、彼は笑顔を崩さない。

 やはり、あの容姿もあるのだろう。女性客からの人気は絶大だ。前にこの席で他の席の会話が聞こえてきたことがあったが、『王子様』とか呼ばれているみたい。……正直、納得である。


 でもそうなると少し不思議なのは、日本語は堪能だけれどもどう見ても外国人な店員さんは、本当にパン屋の店員になるためにわざわざ日本まで来たのだろうか。多分、アルバイトなのか。でもそれにしてはパンに関する知識が深いが。


「……あれ、おにーさん。もしかして、もう食べきれない感じかな? じゃあ、残ったクロワッサンは包んじゃいますか?」


 無意識で彼のことを視線で追っていたのがバレてしまう。どこか気恥ずかしくなってしまった僕は、元々クロワッサンは持ち帰りにしようかなと薄々考えていたけれども、何も答えられず無言で頷く。

 すると、手際よくビニールの小袋に1個ずつ詰めて、パン屋さんのロゴの入った紙袋に入れてくれる。


「おにーさん、ポイントカードは袋の中に入れておきますね。

 ……それでは。……また、今度。

 ありがとうございましたー!」



 一瞬忘れかけていたけれど、そういえばポイントカードのスタンプが全部押されたんだった。次回来店時の楽しみが出来た、と少し上気分になりながら、パン屋さんの紙袋を通学用のリュックサックにしまって帰路に着くのであった。


 ――雨はすっかり止んでいて、分厚い雲と雲の間から夕陽の日差しが差し込んでいた。




 *


『――第二次ウィーン包囲戦において、攻撃側のオスマン帝国軍は、ウィーン市壁を破るために、壁の周囲に塹壕を築き長期戦の様相となった。この際オスマン帝国軍は遠征であったため火砲を持ってきておらず、坑道を掘り壁を地下から爆破する土龍攻めを行ったが、防衛側であるオーストリア帝国陣営に事前に察知され失敗に終わった――』


 その日の夜、キッチンと6畳のワンルームで構成されたアパートの居室へと帰った後、大学で出された課題を終わらせるために参考書を読んでいた。カリキュラムの名は、西洋史概論。教養科目であるために、そこまで踏み込んだ説明は教授の先生もしない。

 課題もそこまで難しいものではないが、来週の授業の出席票代わりになるのでやらない訳にはいかない。


 そんな課題をひとまず終えて、スマートフォンを開く。

 時刻は午後7時44分で、火曜日。

 SNSのメッセージ……0件。

 着信……なし。

 他に通知は……今やってるソーシャルゲームのイベントか何かの通知しかない。うん、特に何も無い。


 特に今すぐにやるべきことが無くなったので、何となくスマートフォンのホーム画面をスライドさせていると、明日の天気予報が目に付いた。

 明日の天気は、っと……あれ、また雨か。


 今日も降っていたけど、朝忘れずに傘を持っていたから良かった――って、あ。



 傘をあのパン屋さんに忘れてきてしまった。


 どうしようか、朝に寄れば回収できるだろうか。でもあのパン屋さん水曜日はお休みだ。

 最悪折り畳み傘は持っているから何とかなるけれども、雨が本降りになったら傘が小さいせいでリュックは濡れてしまう。


 今から傘を取りに外出するのは面倒だが、明日雨が降ったらそれも面倒。そんな気持ちが交錯する中で、ふと傘を置き去りにしたパン屋さんのことを考えていたら、あの銀髪ショートの店員さんの笑顔が不意に浮かんできた。



 ……うん、ちょっと取りに行ってみるか。そんな気分になってきた。

 でも、大丈夫であろうか。あまり遅い時間にあのパン屋さんに行ったことが無いからまだこの時間でもやっているか分からない。と、再度スマートフォンに目を移したら、時計は7時47分を示している。もしも8時閉店だったらギリギリか。じゃあ、すぐに出発した方がいい、うん。


 その時、僕は自分でも何故あんなに億劫に思っていたのに、いつの間にかリュックサックを持って玄関を飛び出していた。




 *


 入り組んだ住宅地の街路を迷いなく歩き最短経路でパン屋さんを目指す。

 すっかり暗くなった夜道は、昼間の雨の影響で水たまりが所々に残っているが、それらは街灯の灯りを頼りにして避ける。

 その度に背負ったリュックサックが揺れ、若干僕の重心をずらす。


 思えば傘を回収しに行くだけだから別に荷物を持っていく必要は無かったのだが、今更一旦家に戻り置いていく方が面倒だ。

 それに、この交差点を曲がれば――。


 信号の無い十字路を左に曲がると、先刻までイートイン席を利用していたパン屋さんが眼前にあらわれる。

 その大きなガラス窓からは明かりが漏れていることから、一応人は居るようだが、まだ営業しているかは分からない。店内にはお客さんも居なければ見える範囲には店員さんの姿も見えない。

 ただ入口の扉を入ってすぐの傘立てに僕の傘が置きっぱなしになっているのは分かった。


 これなら、扉が開くか試してみるくらいは許されるだろう。まだ営業中であれば開くだろうし。もし施錠されていたら諦めるしかないが。



 特に悪いことはしていないけれども、誰も居ない店内からこっそり自分の傘を回収するというミッションはどこか後ろめたさが生じてしまい、恐る恐る入口へじわりと近寄っていく。

 そして目と鼻の先まで来たところで扉に手を掛けて、力を加えて押す。


 ――開いた。


 よし。これなら。入口脇にある傘立てから自分のものを取って帰るだけだ。



 そのとき。僕は、折角このお店まで来たのにあの銀髪の店員さんに会えずに帰ることに僅かながら、寂しさを感じていた……ように思う。いや、多分無意識なのだろう、おそらく僕自身が意志を持ってそんなことを考えていたわけではない。


 傘立てを目指して店内に踏み入ろうとした僕は、右足からそのまま赤色のラグに吸い込まれていったのである。


 僕はその常識外の出来事と、身体に感じる落下に伴う異常な浮遊感にパニック状態となり、声にならない悲鳴を上げながら、そのまま傘を掴むことなく意識を手放した。




 ・


 ・


 ・

 ・

 ・




「おにーさん。

 ……うーん。起きないなあ。‥‥”ーー、・・√ ̄ ̄。まあ、こんなものかな。

 あっ、おにーさん。おはよーございます、ぐっすり寝てたね」


 どれだけ気を失っていただろうか。

 目を開けると、眼前にはガラス玉のように透き通って美しい蒼色に捉えられていた。それが銀髪の店員さんの瞳だと分かると、かなりの至近距離から顔を覗かれていることに気付き、慌てて仰け反ろうと頭を下げると後頭部を強打してしまう。


「えっ!? おにーさん大丈夫? すごい音したけど……」


 店員さんの言葉を聞きながら、痛みの残る頭で状況を朧気ながら把握する。まず僕は仰向けで寝ていたみたいだ……地面の上で。だから目を開け首だけを上げた状態で思いっきり仰け反ったから頭を地面に打ったようである。


 彼は、身体を起こした僕の額に手をかざすと、その手のひらは光に包まれる。

その幻想的な光景を上目で見ていたら、彼は言葉……というか異国の歌? のようなものを紡ぎ、しばらくしたら光は消えた。

 ただ茫然と眺めていた僕だけれども、


「他に痛いところは無いかな、おにーさん?」


 そう声を掛けられれば、確かに先程まで後頭部から発せられていた鈍い激痛が綺麗さっぱり無くなっていた。

 今のは一体……と疑問に思いつつも、ひとまず聞かれたことが先だと、立ち上がり身体の調子を確認する。地べたで寝ていたにも関わらず身体に痛みは感じないし、特に目立った外傷も無さそうだ。そのことを伝えると、蒼色の瞳は嬉々として揺れる。


「……良かった。それで、このかばんっておにーさんのだよね。

 離れたところに落ちていたけど」


 そうして見せられた鞄を見ると、それは確かに僕のリュックサックだった。地べたを転がりでもしたのか、泥まみれになっていたけれど。

 頷くと、リュックを持っていた彼の手が再度青白い光で発光する。


「近くにあって良かったね、おにーさん。

 …―”--。うん、これで良しと。

 そっちの湖に落ちてたら見つけられなくなったところだから危なかったよ」


 リュックについていた汚れが綺麗さっぱり取り除かれていることにも唖然とするが、それと同じくらい驚くべきことが周囲の景色。

 僅かな波の音が聞こえるだけの静謐な大きな湖。その湖には2つの光が落ち込んでいて、夜空を見上げればパンの仕上げ粉のように空に無数に振るわれた星空に、茜色に輝く月ほどの大きさの天体とそれより一回り小さい銀色の天体がトッピングされている。


 僕たち2人や、周囲の木々の影もその2つの衛星の反射光によって2方向に影が伸びている。


 ――つまり。

 天体を見るだけで、明らかにここは地球ではない場所である。



 湖から吹き付ける夜風は、少し肌寒くも心地よさを感じさせる。その風にたなびき、衛星の明るさから仄かに赤みがかった銀髪のシルエットの彼は、周囲との光景も相まってあまりに幻想的な……まるで宗教画のような神秘性さえ秘めていた。


 そしてその神秘性の正体を探る段階に至って、はじめて彼の服装の異彩さに気が至る。

 いかにも上質な装飾が施され袖口からはレースを覗かせる、湖のように深く吸い込まれるような青色の外套が脚まで覆っており。その下には黒色のチョッキと、膝丈のキュロットを身に纏っていた。

 ――服装までもが現実感を薄れさせる一助になっており、それが先程宗教画と僕が称した一因であったのである。



 そこまで考えると、ふと僕は我に返り、ここが何処で何故店員さんが居るのか尋ねようとした……が、それは突然の旋律のような風声が轟いたために声にならずにかき消されることとなる。


『・・~ - - ―^ ――! ‥‥、…――’ √‥――!!』


 その声とも歌とも思える抑揚を聞くや否や、店員さんは真剣な表情へと変え、僕のことを守るように声の聞こえてきた方角から遠ざけるように、店員さんが立ちはだかるように立つ。


 そして、銀髪の彼の両手は既に先程とは比べ物にならない程の青白い光で発光していた。


 何があったか全く分からないが、彼は一度僕の顔を見ると、少々驚いたような表情を見せ、すぐにこう言葉を紡いだ。


「……うん、おにーさん。大丈夫。

 すぐに終わるから。

 『‥‥” __』」


 彼が、僕には聞こえても聞き取れない言葉を口にするや否や、先程まで吹き付けていた冷涼さを感じさせる風が止む。にも関わらず、湖を囲う森の木々は、騒めくように枝葉同士を激しく擦り合わせ、静謐さに包まれていた先程の湖とは打って変わって不気味なほどに音の世界に包まれた。


 ――瞬刻。


 銀髪の彼の掌から、指向性のある光が森の一点に向け放たれる。その直後、森から黒い影が飛び出してきた。


 そして、その黒き影像は、こちらに向かって吶喊とっかんしてくる。が、それを看破していたかのように二本目の光が放たれ、影に直撃すると、其れは動きを止め、その場に蹲った。


 ここに至り僕はその影がようやく、何かの生き物で僕たちを攻撃する意図で迫ってきたのだと実感し、その非現実性と混乱状態からか、自らを襲ってきた生物の正体を確認しようと、蹲っている生命体に半ば無意識的に近付こうとした。


 そのとき僕の横から、心地の良いメロディが聞こえてきた。


「……。

 おにーさん。大丈夫だから……ね?」


 僕は、その言葉で急激に極限状態に陥り錯乱していたことにはじめて気が付く。そして、その横たわっていたはずの、亡骸だと思っていたはずの生き物が、四本の脚で立ち、いつでも此方を攻撃できるように睨み合いの姿勢を取っていたことにも……そのときはじめて気が付いたのだ。


 そして、やや間合いを取った先に居る獣は、突如高らかに遠吠えをあげる。すると、左と後方から別の遠吠えが返ってきた。


 獣は三匹居たのだ。

 しかし、その囲まれている事実を意に介していないのか、僕の横の彼は、また旋律を刻む。


「‥‥" " 、…” ・・―…√――” ” - - - - -――!」


 その旋律が奏でられた後、彼の両手の発光は更に強くなり、隣に立つ僕ですら眩しく感じる程であった。その光に黒い獣は間接的に照らされて姿が明らかになる。――狼のように見えた。


 その後、前の狼と森に潜む狼らは、更に遠吠えを数度繰り返すと、僕から視認できる狼が突如こちらに背を向け翻し、元の森へと入っていった。


 そして森の中に入り、僕の目からは狼が見つけられなくなった後も、隣に立つ銀髪の彼はただ一点を注視するかのように見つめていた。




 *


 一呼吸、二呼吸置くと彼はようやく森から目を逸らす。

 その直後には、僕に美しい蒼色の瞳を向けていて、真剣だった表情もいつの間にか、パン屋さんでよく見る笑顔に戻っていた。


「……ほら、おにーさん。大丈夫だった」


 その言葉で、朧気ながら危機が去ったことを脊髄的に認識し、僕は安堵からか地面に座りこむ。今まで極限状態で麻痺していた恐怖心がここに来て一気にきて、腰が抜けてしまったのである。


 店員さんは、そんな僕に笑って手を貸してくれる。

 そのとき握った手は、まだ仄かに青白く発光しており。けれども確かに、暖かかった。


「おにーさん。手が汗でびっしょりだよーふふっ」


 そう意地悪な笑顔を向けられて言われたから、僕は羞恥心で顔を赤くなってしまう。

 ――でも、その握る手のおかげで不思議と安心して、再度立ち上がった時には、恐怖心はいつの間にか消えていたのである。



「あっ。でもおにーさん、ちょっと一緒に来てくれる?」


 そう言われながら、店員さんは狼の消えて行った森へと入ろうとする。僕は置いて行かれまいと慌てて彼の足を止めようとするが「……でも、助けを呼んでいた人が居たし」と言われ、そういえば狼に出会う前に大きな歌声のような調律が聞こえていたのを思い出した。


 あれは、狼に襲われて助けを呼ぶ声だったのかな。そういうことであれば、確かに狼が去ったことを伝えなければいけないな、と思い、でも湖に置き去りにされる方が危ないし不安だから、一緒に店員さんと共に森の中の獣道を進んでいく。


 すると、一際大きな幹の木の前で店員さんは立ち止まる。

 そこで再び旋律のような歌声のような言葉を発すると、木の上からソプラノの声が返ってきた。そして、木の上から降りてくる人の姿を見定めると、何と籠を持った少女であった。

 何故、こんなところに子供が――。


「……近くの里の子だと思う。でしょ?」


「‥、”――”」


「ほら、この子もそう言ってる。『‥‥』はもう去ったからね。

 きっと大人たちが探しに来ているはずだから、それを待てばいいよ。さっき派手に追い払ったから残光を目印に、ここまで来れると思うよ」



 既に探し回っているのだとすれば、ひとまずは安心だ。なら、待っていればいい訳で。


 となると、僕ら3人は手持ち無沙汰となる。……というか正確には、パン屋さんの店員さんが、少女に色々と聞いているのを僕は何も出来ずに眺めているだけなので、手持ち無沙汰なのは僕だけか。

 とはいえ、それも致し方が無い。歌のような旋律で2人が意志疎通を図っている以上、僕は言葉が通じないから何も出来ない。



 ――あれ? でも、さっき銀髪ショートの彼が少女に尋ねたときには日本語で話しかけていたよな。それを少女はあちら(・・・)の言葉で返していたはずだ。

 そこまで思い至ると、奇跡的なタイミングで考えていたことに近似することを話しかけられる。


「あっ、おにーさんもこの子を安心させるような話を……って、ふふっ。言い忘れてた。

 おにーさんは僕たちの言葉が分からないかもだけど、この子は分かるから大丈夫だよっ」


 その後付け加えられたことをまとめれば。

 曰く、僕たちのように音で言葉を認識しているのではなく、音色や抑揚からなんとなく何を言いたいのか雰囲気が伝わる――ということらしい。


 にわかには信じ難い話な上、それが事実なら外国語なんて存在しないも同義なようだけれども。ただ、そのようなことを上回る程の超常現象を体験しているが故に、その時は、そういうものなのかと受け入れていた。


 となると、今パン屋さんの店員さんが話していた内容も、この少女にはある程度は伝わっているわけで。ちらりと見てみれば興味津々といった面持ちで僕の方を見つめている。まあこの子から見れば明らかに異国の人物だもんな僕、そりゃあ好奇心も持つよね。


 とはいえ、困った。僕に子供をあやした経験なんて無い。それに相手は日本人ですら無いのだから、何を言えば良いのか全く見当すら付かない。

 助けを求めるように銀髪のパン屋さん――ん? ちょっと待って。


 パン?



 あっ。そういえば。

 思い出して店員さんに汚れを落として貰ったリュックの中に……あった。


 パン屋さんの紙袋! 夕方食べきれなくて持ち帰ったミニクロワッサン。それがあった。

 ビニール袋に詰められたそれを1つ取り出し、女の子の手のひらの上に置く。



 そして、僕は言葉を紡ぐ。


「このパン、クロワッサンは。オスマン帝国……じゃ伝わらないか。

 ええと、とっても強い敵に囲まれた人たちが、頑張って敵を退かせたときにね。勝ったことをお祝いするために生まれたパンなんだよ。

 怖い狼達を追い払い、僕たちと君が勝った記念にこのクロワッサンを差し上げます。

 だから。里に戻ったら、大人たちにちゃんと探しに来てくれてありがとうってお礼を言うこと。いいね?」


 少女は手に置かれたクロワッサンを見つめて、きょとんとしていたが、僕の話を聞いている内に徐々に笑顔となり、話し終わるとこう僕に言ってきた。


「……krwasɑ̃?」


 おおう、随分とネイティブな発音だ。僕が首を縦に振り頷き返すと、手持ちの籠の中にクロワッサンを大事そうにしまっていた。

 いや、ちゃんと食べてね!? パンが食べ物ってことは伝わってるよね……大丈夫だよね?


 そうこうしている内に僕たちが森へと入った獣道の反対側が、赤みがかってきて、そのすぐ後には足音が複数聞こえてきた。


 僕は先程の狼が再び帰ってきたのかと警戒したものの、店員さんは笑顔のまま少女の頭をなでたりしていて、その変化に対して無警戒であった。

 その理由は、人影が見えたことで氷解する。目の前の道から現れたのが人だと僕が認識した次の瞬間には、少女はその人影に向かって走り出していた。




 *


「おにーさん。

 ……嘘、付きましたね?」


 少女を見送った後、いつまでも森の中に居る意味も無いので一先ず湖畔まで戻ってきたときに、開口一番店員さんに放たれたセリフがこれである。


 慌てて蒼色の瞳の彼の顔を見るが、その言葉尻の強さに反して彼は普段通りに笑っていた。そのまま二の句を継ぐ。


「おにーさんがさっきの子に話した、クロワッサンのお話。

 あれ、嘘ですよ」


 ――えっ!?


 確か、クロワッサンって第二次ウィーン包囲の折にオスマン帝国軍の撤退を勝ち取ったオーストリア側が、オスマン帝国の象徴である三日月を喰らう……といった意味合いで誕生したパンじゃなかったっけ。


 それを伝えようとすると、店員さんに片手で遮られこう伝えられる。


「クロワッサン――『croissant』は、確かに『三日月』を意味するけどフランス語ですよ。

 フランスはこの直前まで、オーストリアの同盟国であった神聖ローマに一時休戦したばかりだから、オーストリア側から見ればフランスは敵に近い。だからおかしい。


 そもそも、ウィーンはドイツ語を話す場所なのだから、ドイツ語で『三日月』を示す『mondsichel(モントズィッヒェル)』と名付けないとおかしい、よね、おにーさん?」


 店員さん、随分と西洋史と言語に詳しいようで。

 言語は、まあ先程の少女に日本語がおそらく通じていたことで、店員さん側は言語能力が卓越していると考えれば納得できなくもない。


 でも歴史に詳しいというのは……。あっ、店員さんパン知識の造詣が深いのだった。となると、僕はそんな彼の真摯な姿勢に泥を塗ったということに。


「……えっと、店員さん! ごめんなさいっ!

 僕、クロワッサンの逸話が嘘だなんてこと知らずに……」


 そう言い頭を下げると、店員さんは僕に顔を上げるように言い、何度か固辞したもののゆっくりと上げると、僕の口に何かが突っ込まれた。


「……ふふっ。許します。

 僕たちは、抑揚と言葉の音色で何となく伝えたいことが分かるのです。

 話したエピソードが嘘であっても、おにーさんの言葉からは誠意が感じられるので、きっとあの子もこのクロワッサンを受け取ってくれたのだと思う、よ?」


 そう言って店員さんは何かを口にした。……それは半分こになったミニクロワッサンであった。

 もう半分は……僕の口の中にあった。



 ――空に浮かぶ2つの『月』は、クロワッサンを食べる僕たちをずっと照らしていた。



「あっ! でもね、おにーさん?

 私のことを『店員さん』呼びはちょっと悲しいかなー? ……名前、知らなかったなら聞けば良いのに。ショックだなー。

 ま、しょうがないか。


 私……ううん。俺の名前は――」




 ・

 ・

 ・


 ・


 ・




 本日二度目となるベッド以外からの起床は、アスファルトからであった。

 起きてまず気が付いたのは、右手に収まっている黒い無骨な雨傘。そして頭の下に枕代わりとして敷かれていたリュック。

 起き上がって周囲を確認すると、パン屋さんからすぐ傍の歩道であった。そしてパン屋さんは既に明かりが落とされ閉まっている。


 ふと思い至り、スマートフォンを取り出し時刻を見てみれば午後10時15分。僕が家を飛び出してから2時間以上経っていた。


 あの出来事は夢……? いや、でも考えれば考える程に夢と思えばしっくりとくる。

 だって店員さん多分魔法みたいな力、使ってたし。あれを現実と捉えるには、あまりにも非現実的な出来事が起こりすぎている。



 ――でも。

 全てを夢だと断ずるのは、僕は嫌であった。


 だって、店員さんとの折角の……。


 気が付けば、僕はリュックの中をがむしゃらに確認していた。

 そして取り出したのは――パン屋さんの紙袋。


 恐る恐るその中を確認してみれば。



 ――2つあるはずのミニクロワッサンはそこには無く。


 ただ、空のビニール袋と。ポイントカードが入っているのみであった。



 僕は、その光景に心を揺れ動かされながら、ポイントカードを取り出す。


 取り出した瞬間。

 ポイントカードは青白く発光し……そのまま光は消え、元通りとなる。


 何が起こったか分からなかったが、無意識的にポイントカードを開くと、そこには今まで押されていたはずのスタンプが1つも押されておらず、新品同様となっていた。


 ということは、このポイントカードがもしかして……?






 *


 *


 *


「……ふふっ。

 おにーさん。ポイントカード……また全部貯まったね。

 次回来店・・・・時、特典があるので楽しみにしていてくださいね?」

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