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8 サッパリ綺麗に


「ねぇ、やっぱり僕ら、殺されるんだよ……あれ(・・)は、見ちゃいけなかったんだ!」


 ダニエルはかたかたと震えていた。比較的暖かい日とはいえ、二月の風に濡れた服をさらせば体は冷える。

 だが、震える理由がそれだけでないことは明白だ。

 アーネストもヴィンセントも、顔を白くして黙っている。


「どういうことですか? あなたたちは一体何を――」


 勢いのまま詰問しかけて、アーチはふと口をつぐんだ。

 嗅覚が復帰して悪臭が鼻を刺したからだ。それに刺激されて、腹の虫も活動を再開した。

 話を聞きたいのは山々だが、今は体を落ち着けるのが先だ。


「――いえ、話は後にしましょう。まずは、あなたたちの強運と無事に感謝を。それから、一つ魔法をお教えします。学校では習わないものですが、大して難しくはないですし、覚えれば非常に役に立ちます。……何より、今の我々にとって、一番必要な魔法ですから」


 少年たちは揃って何か不可解なものを見たような顔をした。

 アーチは彼らがなぜそんな顔をするのか分からなかった。が、構わずにコートを脱いだ。

 目に痛いほど真っ赤だったコートは、泥のような水をたっぷり吸い込んで、今や真っ黒になっている。

 それを抱えて膝をつく。

 アーネストがアーチの手元を覗き込み、沈んだ声で言った。


「そのコート、いいやつだよね。高かったでしょ」

「父のものですから、値段は知りません。ですが、ええ、良いものであることは確かです。よく分かりましたね」

「……ごめんなさい」


 アーチは驚いて顔を上げた。

 サラサラの金髪は泥と油にまみれ、束になって絡まっている。顔もひどく汚れて、潔癖症でないアーチですらハンカチでごしごししてやりたくなるほどだった。

 しかしその中にあって、彼のサファイアの瞳は輝きを失っていなかった。鈍感なアーチにも真っ直ぐ伝わるほど後悔と自責の念に駆られている。それらを真正面から抱え込んで、彼は瞳に真摯な光を湛えさせていた。


「ごめんなさい、俺たちのせいで」


 と、アーネストは繰り返した。


「俺たちのこと、無理して預かってもらって、なのに、それで、こんな……」

「無理して?」


 その言われ方は心外だ、とアーチは眉を顰めた。

 アーネストは唇を尖らせて、目を伏せた。その隣にダニエルも暗い顔を並べている。ヴィンセントはふくれっ面でそっぽを向いていた。

 三人を代表するようにアーネストが続けた。


「だって、バロウッズ先生に、無理だ、って……」

「突然子どもを三人預かれと言われて、迷わず受け入れられる人間などいませんよ」

「でも――」

「コートだって平気です。ほら、この通り――『直ちに危機を知り都合を問い質せ、そして汝に染み込みし不浄を取り払え、サッパリ綺麗に(refreshing)』」


 唱えた瞬間、コートに染み付いていたすべての泥水が、言葉通り“サッパリ綺麗に”取り払われた。そして、今まさに染めたばかりのような美しい赤色が鮮やかに現れる。悪臭まですっかり消え去っていた。

 わぁ、と感嘆の溜め息をついて、少年たちが輪を縮めた。

 魔法は彼らの憂鬱な気分すら“サッパリ綺麗に”したようだった。


「私たちは魔法使いですよ。あらゆる不都合をことごとく覆し、言葉一つでルールから飛び出す、常識外れの存在なんですから」


 励ますように言いながら、アーチは微笑みが自嘲的になるのを抑えきれなかった。


「さぁ、君たちもやってみてください。服の模様や色まで落としてしまわないように、気を付けて――魔力が服に流れて、汚れと一緒に蒸発するというイメージで――詠唱が違いますよ、ダニエル。“機器”ではなく“危機”――そうそう、その感じです――」


 少年たちが悪戦苦闘する横で、アーチも同じ魔法をわざと正式な詩文で使った。

 全身に染み込んだ汚れをすべて落とすのに、何度同じ文言を唱えただろうか。こういうところは魔法よりも、現実的なお風呂や洗濯の方が有能である。


 三人の中で一番飲み込みが早いのはヴィンセントだった。二回目でほぼ完璧になり、都合四回で全部の汚れを落とし切った。魔力の流し方が上手いのだろう。

 アーネストとダニエルは少しもたついていた。アーネストの方がコツを掴むのは早かったが、ムラがあり、上手く出来る時と出来ない時との差が激しかった。ダニエルはコツを掴むのこそ遅かったものの、一度掴んでしまえば安定した効果を出した。


 全員の汚れと悪臭が完全に消えるまで、十分もかからなかった。仕上がりも――水色だったアーネストのシャツがほとんど白になり、ダニエルのズボンからチェックの線が一本消えたこと以外は――非常に良い。

 バロウッズ先生が『優秀だ』と言うだけのことはあった。


「上出来です」

「本当?」

「やったぁ!」

「便利だなこれ。簡単だし……なんで学校でやらないんだろう」

「この魔法を知っている人は少ないと思いますよ。なにしろ、私が明星寮(ヴェヌス)の隠し部屋から盗んできたものなので」

「「えっ?!」」


 驚きと興奮を隠さずに、少年たちは目を大きく広げてアーチを見上げた。

 アーチはその真っ直ぐな期待を無視できず、さりとてこれ以上ここに立ち止まっているのも非効率的に思えて、「……歩きながら、話しましょうか」とスーツケースを手に路地を出た。




 昔のアーチがちょうど明星寮の隠し部屋に辿り着いた時、今のアーチはよく利用するカフェに辿り着いた。大通りから外れた住宅街の裏手にあって、いつ来ても数人の客しかいない。値段も味も悪くないのに。


「それで、どうなったの?」

「一冊だけ置かれていた本を読んだら、その中にいくつかの魔法が載っていて、その内のひとつが先程の洗濯魔法でした。正確に言うと“物理的な不浄を消去するための魔法詩文”ですが、まぁ要するに洗濯です。残念なことに、その本は読み終えたら消えてしまったので、もう二度と手に入らないでしょうね。ほら、注文」


 アーネストはまだ細かく聞きたそうにしていたが、アーチに背中を押されてメニュー表の方を向いた。

 アーチはコートを脱いで脇に抱えると、スーツケースを持ち直した。


「ハァイ、ミスター」


 カウンターの向こうで顔見知りの女性店員が微笑んだ。


「久しぶりにいらしたと思ったら、珍しいお連れ様がいるじゃない」

「少々入り組んだ訳がありまして。しばらくの間、預かることになったんです」

「あら、それは大変ね。手伝えることがあったらいつでも言ってちょうだい。さぁボーイズ、注文は決まったかしら。迷っているなら、魔法の言葉があるからね」

「魔法の言葉?」

「そう」


 興味を引かれて身を乗り出したダニエルに、店員はいたずらっぽく笑いかけた。


「お姉さんのお任せで、ってね。チャーミングに言ってくれたら、おまけしてあげるわよ」

「じゃあ、お姉さんのお任せで!」

「俺も、お姉さんのお任せで!」


 アーネストがびっくりするほどチャーミングに言った。

 ダニエルは天然ものの愛嬌だったが、アーネストはどうすれば一番見栄えが良いのかを分かっているような、それでいて“作っている”とは思わせない、熟練のモデルか子役のような笑顔だった。

 どうやら、こちらの魔法(・・)は得意らしい。


「驚いた、最っ高にチャーミングね! ぜひ彼にも教えてあげて」と店員は目線をアーチの方に振った。「彼ってば毎回お任せなのに、全っ然チャーミングじゃないんだもの。ねぇ」

「おまけが付くとは知らなかったもので」

「知ってたらやってくれたの?」


 アーチはパチパチとまばたきをして、わざとゆっくり微笑んだ。その時点ですでに、店員の頬は軽く上気していた。




 結果として、とんでもない量のフライドポテトがおまけとして提供されることになった。魔法を使うとお腹が空く彼らにとって、サンドイッチだけでは足りなかったのは確かだが、ここまで大盛りにされるとさすがに呆れてしまう。


「ちょっとやりすぎましたかね」

師匠(マスター)ってめちゃくちゃ負けず嫌い?」

「鋭いですね、ヴィンセント」

「いや、誰でも分かるだろ」


 ヴィンセントは呆れた顔でポテトをつまんだ。


「さて、それでは話してもらいましょうか。君たちは一体、何を見たのです?」


 三人はぐるりと店内を見回した。他に客はいない。店員はカウンターにいた一人だけだし、その一人も今は顔のほてりを冷ますため裏に引っ込んでいる。

 観念したように、アーネストが口を開いた。


「昨日、俺ら、放課後にロンドンに来てたんだ。ちょっと……かなり……帰りが遅くなって、アップミンスター墓地の北側でバスを待ってたんだけど」


 彼らはこの時点ですでに二つの校則違反を犯していたが、アーチは何も言わなかった。無断外出と門限破りなど、アーチにとっては初歩中の初歩である。


「その時に――」


 アーネストは言い淀んだ。


「――殺人現場を見たんだ」


 後を引き取って、ヴィンセントがハッキリと言った。


「あれは間違いなく殺人現場だった。しかも、殺してる方は一般人じゃなかった。絶対にあれはよくない何か(・・)だった」


 ヴィンセントの声には怒りがにじみ出ていた。


「だから俺たちは魔法を撃ったんだ。見間違うわけがない。あれは絶対に一般人じゃなかった! その証拠に魔法が当たった瞬間消えたんだぜ! もし俺らの見間違いで一般人だったとしたら、消えるなんておかしいだろ?!」

「どうどうどう、ヴィンス、落ち着けって」


 アーネストがなだめにかかり、その間をダニエルが埋めた。彼はヴィンセントとは反対に、ひどく沈んで怯えているようだった。


「でもね、その後そこに行ったら、殺されてた人も(・・・・・・・)消えてたんだ(・・・・・・)。血の跡だけ残ってて……僕、それを調べたけど、普通の人間のだったから……消えるなんておかしいと思うんだけど……それと――」


 ダニエルはか細い声で何事か続けようとしていたが、口をつぐんだ。不満げに背もたれへ寄りかかったアーネストが、それに被せて「見てた人もいなかったと思ったんだけどなー」と言ったせいだ。


「いったい誰が、俺らが一般人に向かって撃った、なんて魔法庁に通報したんだろう?」

「絶対にあの消えた奴が通報したんだ。俺らに顔を見られたと思って、証拠隠滅したいんだよ」

「顔を見たのですか?」


 アーチの問いに、三人はふるふると首を横に振った。


「君たちは見ていないが、向こうは見られたと思った。だから殺しにきている、と」


 今度は縦に、こくこくと。


「そうですか」


 と言ったきり、アーチは黙り込んだ。そのまま彼は、険しい顔で窓の外を睨みつけた。椅子に背を預け、片手で口元を覆い、冷たい思案の海に沈んでいく。

 その態度に耐えかねたように、アーネストがテーブルへ両手をついた。


「やっぱり、師匠(マスター)も信じてくれないの? 師匠も俺たちが嘘をついてるって言うの?」

「――え?」


 アーチは唐突に思索から引き戻されて、とぼけた声を上げた。



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