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6 師匠の義務

 アーチは、自分の左の靴と床とを一生懸命縫い合わせている妖精の首根っこをつまみ上げた。


「ぎゃあっ! 何すんでぇ、旦那! おいらの仕事を邪魔しようってんのかい!」


 子ども脅し妖精(ボーギー)の一種だった。見た目は緑色の服を着た小さなおじさんである。この個体は特に身なりに気を遣っていなくて、下っ腹は丸く突き出ているし、白いひげはぼさぼさで食べ物のカスが絡まっているし、歯なんか黄ばんでいて前歯が欠けていた。

 短い足をばたばたさせて逃げようとするボーギーを、アーチは冷たく見遣った。


「今すぐこの糸を切りなさい」

「てやんでぃバーロー! んな注文聞けるかってーの! 金貨一枚、全額前払いでいただいてんだ、中途半端に終わらせられっか!」

「どんな注文だったんです?」

「この廊下に立ち止まった赤いコートの男の靴を、片方全部床に縫い付けてくれ、ってよ! ったく、待たせやがって。来んのが遅ぇんだよ赤コート!」


 アーチは溜め息をひとつつくと、内ポケットに入れていた財布から妖精金貨を二枚取り出し、ボーギーの鼻先に突き付けた。

 ボーギーがぴたりと動くのをやめた。


「仕事をやめてくれたら一枚。糸を全部切ってくれたらもう一枚、差し上げます」

「乗った! いよっ、旦那、気前がいいねぇ!」


 彼は瞬時に手のひらを返した。

 床に下ろすと、どこからともなく自分の身の丈ほどの大きさの糸切りバサミを取り出して、手際よくチョキンチョキン糸を切っていく。糸は切ったそばから空気に溶けるようにして消えていった。

 アーチは駄目元で聞いてみた。


「ちなみに、誰にこんな仕事を頼まれたのか、覚えていますか?」

「おいらはさっき、あんたの氏素性を確認したか?」

「そうですよね……」


 ボーギーはそういう性質だ。金を目の前にすれば理性が飛び、報酬の約束された仕事ならばどんなことでもする。約束さえ破らなければ非常に使い勝手の良い妖精だ――ただし、約束を破ると一生呪われることになる。

 また、同族殺しを極端に嫌うため、人や妖精を殺したことのある人間の言うことは絶対に聞かないし、傷付けられるとすぐに拗ねて消えてしまう。そのために、たいていのことは殴って済ませるアーチも慎重にならざるを得ないのだった。


「よっし、できたぜ!」

「ありがとうございます。では、約束のものを」


 金貨を二枚手渡すと、ボーギーはそれを両腕に抱えて飛び跳ねた。そして「いやっほーい! 儲けちゃ、儲けちゃ。こりゃまた儲けちゃ! はーっはっはー!」と高笑いを残して、ふわりと消えた。


 アーチは即座に乗務員を捕まえにいった。


「すみません」

「はい、何か」


 四号車にいた乗務員は、さっきヴィンセントが話しかけていた人と同じだった。


「さっき子どもに教えた、ロンドン行き乗り換えの場所と時刻をもう一度言ってもらえますか」


 不思議な質問には慣れたものだ、といった風情で、彼は手帳を取り出して淡々と答えた。


「三〇七号室、十一時三十四分三十二秒から五秒間」

「では、次に繋がる扉の中で、最もロンドンの近くに出るのは?」


 彼は腕時計と手帳を照らし合わせた。


「三〇二号室、十秒後から五秒間」

「ありがとう」


 アーチは脳内でカウントしながら三〇二号室に急いだ。いっそこの扉も彼らが落ちていった暗闇に繋がってくれないだろうか、などという無益な妄想が頭をよぎった。


 きっかり十秒後に三〇二号室の扉を開ける。


 扉の向こうは正常な一般車両だった。西へ向かう高速列車(HSL)。ああ、期待など元からしていなかった――少しだけがっかりしたのは確かだが。

 アーチは五秒だけ待って、扉の接続が切れたのを確認すると、すぐに車両の出入り口へ向かった。正しく繋がってしまったことを残念には思ったが、繋がった先が高速列車であったことには心の底から感謝した。

 なぜなら、この列車のドアは手動式で、たとえ走行中であっても開け(・・・・・・・・・・)ることができる(・・・・・・・)からだ。


 アーチは思い切りドアを開いた。


 車内にいた数人の一般人(オーディナリー)が悲鳴を上げた。罵倒するものもいた。“できる”ということと“やっていい”ということとは違う。

 が、アーチは無視して、ジャケットのポケットに手を突っ込んだ。取り出したのは小さな枝の切れ端。フッ、と息を吹きかけると、それはアーチの手の中で古ぼけた箒に変わった。

 一般人に魔法を見せるのは協会から推奨されていない。

 だが、あくまで“推奨されていない”だけで、“禁止されている”わけではない。まして今は緊急事態だ。

 アーチはまったく気に掛けず、緊急停止ボタンを押される前に行かないと面倒なことになるな、とだけ思ってすぐに列車から飛び降りた。


「『箒に(bestow)翼を(WINGs)』」


 重力に従って斜めになった体が(当然のように一段大きな悲鳴が上がった)、箒を起点にふわりと浮かび上がった(悲鳴が歓声に変わった)。

 膝で箒の柄を挟み、少しだけ列車と並走する。開け放したドアを元通り閉めて、それから急上昇した。何人かのスマートフォンには映ってしまったかもしれないが、時代が時代だ、この程度の映像なら今更である。


 人の目が届かない高度に至って、アーチはぴたりと止まった。


(彼らはどこに飛ばされた?)


 自律させたスーツケースが間に合ったから、多少の危険には耐えられるだろう。だが、“万が一”は今“千が一”くらいになっているはずだ。


(暗くて……声がよく響いていたな。日の光がまったくなかった……地下?)


 昨日散々走り回った場所によく似ているような気がした。

 アーチはスマートフォンを出して、スーツケースに仕込んであるGPSの電波を拾えるかどうか確かめた。

 ――拾えない。

 これで確定した。地下だ。ロンドンの地下水道。

 あそこならば、昨日駆除したばかりだから安心か――アーチは吐きそうになった息を慌てて吸い込んだ――いや、駄目だ。

 子どもは特に駄目だ(・・・・・・・・・)


(水棲悪魔がうようよしてたんだった……!)


 彼らは魔法界の生態系に則っているし、ゴーストのように気温を下げて水道管を凍結させることもない。目の前にいる人間が己の命を脅かす相手かどうかぐらいの判断はできるから、こちらから仕掛けない限り害はない。だからと放っておいたのだ。


 が――彼らの好物は(・・・・・・)子ども(・・・)である。


 アーチは血の気が引いていくのを感じた。ミル先生の厭味な笑い声が聞こえてくる。


『おっほほほほほほ、やはりスリム・ウルフ、所詮けだもの(・・・・)のあなたには少々荷が重かったようですねぇ。子守りすらまともに出来ないだなんて』


 うるさい、黙れ、とアーチは己の心を怒鳴りつけた。余計なことを考えている場合か? いつものように、淡々と、堂々と、求められることをすればいいのだ。この場合は、彼らの“師匠”になることが依頼なのだから、“師匠”として当然求められることをしなくては!

 アーチは必死に考えを巡らした。

 GPS信号は当てにならない、最後の発信は魔法界側だ。十一時三十四分三十二秒に、ロンドンに到着する少し前の一般車両に繋がったはずの扉。交通局の管理する扉をハッキングして座標をずらす。危険な行為。大きくずらせばすぐにバレる。ということは、そう遠くまでは行っていないはず。


(乗り換える予定だった列車の線路脇、地下水道、広い……いくつかの下水道の合流地点か。ということは……!)


 目星がついた。スマートフォンをしまい、箒の柄を北東に向ける。




 だいたいのところで地面に下りた。

 両足がしっかりと道路に付いた瞬間、ぐらりと視界が揺れて、目の前がチカチカとした。かなり飛ばしたせいだ。最後の急降下が特に、もともと弱い三半規管を痛めつけた。乗っている最中は平気なのに、下りた途端に音を上げるから余計にたちが悪い。

 頭を振って眩暈を飛ばし、箒をしまって、水道のマンホールを探す。

 その時、一人の男が喫茶店から転がり出てきた。


「おーう、ウルフじゃあないかぁ! 珍しく登場まで派手だなぁ!」


 それは、緑以外の服を認めて大きくなったボーギーのような風体の男だった。いつ会っても着ている黒のライダースジャケットは、表面がぼそぼそになっていて肘の辺りが擦り切れていた。若い頃はきっとファスナーを閉められただろうに、今は出っ張った腹が突っかかるのだろう、閉めているところは一度も見たことがない。一旦溶けてから固まったチョコレートのような髪は、ワックスの付け方が悪いのだろうか(あるいは皮脂なのか)遠目に見てもべとべとしている。


 アーチは己の不運を呪った――こんな時にディクソンに会ってしまうなんて!


 サイラス・ディクソンは『月刊カバラ』という怪しげなオカルト雑誌を作っているライターだ。少し前に、ちょっとした不幸な事故で出会ってしまって(・・・・)以来、腐れ縁が続いてしまって(・・・・)いるのだ。

 ディクソンは親しげに近寄ってきた。


「何っか良いネタでも落ちてんのか? ん?」

「ディクソン、今はあなたに構っている暇はないんです」


 アーチは彼を無視してマンホール探索に戻った。これはガス、これは電気――


「なぁんだよ、つれないこと言うなよぉ。こっちには良いネタがあるんだぜ」

「そうですか」

「聞きたいか? 聞きたいだろう。教えてやってもいいけどなぁ、代わりにこっちにも答えてもらうぜ」

「そうですね」

「反魔法使い主義筆頭、貴族院議員のキャベンディッシュ氏がいるだろう? 彼の息子が、魔法使いの素質を認められて、アンブローズ・カレッジに入学したのは知ってるよな。そいつがな――」

「あった!」


 建物の陰に水道のマンホールを見つけて、アーチはしゃがみ込んだ。それに触れながら「『開けゴマ』」(人を通すことを前提にしているもののほとんどはこれで開けられる)と呟くと、蓋はひとりでに持ち上がって、アーチのために道を開いた。

 途端に悪臭が湧き上がってくる。

 ディクソンが顔を歪めた。


「うえっ、下水道なんかに何の用があるんだよ、ウルフ」

「野暮用です」


 アーチはスーツケースから灯りを取り出そうとして「……そうだった、彼らに渡してしまったんだった」額を打った。

 仕方なくスマートフォンのアシストライトを点けて左手に。右手には杖を持った。


「潜るのか? 下水に? その格好で?」

「はい。では、失礼」


 アーチははしごも使わずに飛び降りた。どぷん、と、粘り気のある水に両足が埋まる。頭上で「ウワァ……」とドン引きしている声が上がった。

 こっちだって好きでやってるわけじゃないんだ、と抗議する代わりに、杖を振りかざす。


「閉めますよ。退いてください」


 ディクソンの顔がシュッと引っ込んだ。彼はアーチが“閉める”と言ったら間に何が挟まろうとも閉める人間であることをよく知っているのだ――かつてアーチの忠告に従わなかったせいで、バイクを木っ端微塵に爆破されたことがあるから。


「『閉じよ(close)ゴマ(sesame)』」


 重たい蓋が外気を遮断し、アーチの周囲は悪臭と暗闇に閉ざされた。スマートフォンの小さなライトが足下を丸く切り抜いている。文明の光を避けるようにして、そのぎりぎりのところを怪物ネズミが泳いでいった。


「さて」


 当てもなく彷徨うのは愚の骨頂。

 当てなどなくともどうにかするのが魔法使いの真骨頂。

 アーチはスマートフォンをしまうと、杖を掲げた。



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