20 ヴィンセント
朝ご飯はヴィンセントが作ることが習慣になりつつあった。毎日確実に一番早く起きるし、手際も良いからだ。ダニエルが起きられた時は手伝いにくるが、彼が起きるかどうかの確率は五分五分であった。
今朝もアーチは夢うつつの中で、小さな足音がパタパタと脇を通っていくのを聞いた。
が、普段と違って足音は戻ってきた。
不審に思った瞬間、ドン、と腹の上に重たいものが乗っかって、「うっ」と息を詰まらせながらアーチは目を開いた。
ヴィンセントは誰もいないソファに座ったかのように平然とした顔でアーチを見た。
「師匠、なぁ師匠」
「……なんですか……?」
「昨日誰かさんがぶちまけてくれたおかげで、牛乳が無い。卵も残り二つ。シリアルは袋にあと半分。パンが三人分ってところかな。今朝の分はどうにかなるけど、そろそろ買いに行かないとヤバいよ」
「……そうですね……では、今日あたり、買い物に……」
「あと、バロウッズ先生に電話するんだろ」
「……そうでした」
「しっかりしてくれよ、師匠」
そう言うとヴィンセントはひょいと飛び降りて、キッチンに消えた。
アーチは欠伸をしながら起き上がり、ボサボサの髪へ申し訳程度に手櫛を通して、ヴィンセントの後を追った。
「手伝いますよ」
「うん。……普通逆だよな」
「そうかもしれませんね」
ヴィンセントはバターをフライパンに放り込んで、塩と胡椒を適当に振り、卵を直接ぶち込んでフライパンの中でぐちゃぐちゃにした。
それで綺麗にスクランブルエッグになるのだから大したものである。
「家でもよくやってるんですか」
「家って言うか……」
ヴィンセントは一瞬だけ言い淀んで、すぐに続けた。
「まぁ、家ではあったか。もう無いけど」
思わぬ言葉に瞬きしたアーチが反問するより早く、ヴィンセントは早口で続けた。
「俺、生まれてすぐ親に捨てられたらしくてさ、両親とも分からないんだ。で、里親に育てられてたんだけど、いつもなんか長続きしなくて、何度か家が変わって。最後に預かってもらってたところは魔法嫌いの連中で、俺に魔法使いの素質があるって分かった瞬間放り出した。今はカレッジが夏休みも寮にいさせてくれてる。素質があって助かったよ。魔法使いになっちゃえば食いっぱぐれはないし……なに?」
皿を取り出す手を止めていたアーチを、ヴィンセントが睨みつけた。同情しようものならこの熱々のフライパンで殴ってやると言わんばかりの目付きだ。
アーチは皿を置いた。
「色々と腑に落ちたような気がします」
「何が?」
そう聞かれると、アーチは返答に詰まった。
ヴィンセントが少しきつい性格であることとか、服がやけに着古されているものだとか、大人のようなふりをしている部分があることとか、そういうものにはしっかりとした背景があったのだと納得したのだ。
だが、どんな言葉を使おうとも彼の気分を害しそうな気がして、アーチは逃げた。
「卵、焦げますよ」
アーチの指摘に、ヴィンセントは慌ててフライパンを持ち上げた。
改めて追及される前に、アーチはまったく別のことを言い始めた。
「一人で生活するのは良いですが、フリーランスはやめた方がいいですよ。順当に、魔法庁とかに入ることをお勧めします」
「フリーランスだと何が不便?」
「社会保障に不安があります。収入が不安定です。怪我や病気になれません。一般人の中にはただの便利屋と思う人もいますし、犯罪の片棒を担がされそうになることもありました。あとは単純に、依頼が中心の生活になりますので、生活習慣が乱れます。いつまでも続けることは出来ないでしょうね」
「うっわ、すっげぇ説得力」
ヴィンセントは冷たく笑った。それからスッと真剣な表情になって、
「じゃあなんで師匠はフリーランスをやってんの?」
「私が組織の中でやっていけると思います?」
「思わない」
「そんなに即答しなくとも……」
「でも我慢は出来るだろ。そんなに組織って嫌だ?」
「嫌ですね。だって好き勝手にできないでしょう」
「好き勝手やりたいからフリーランスなわけ?」
鋭い指摘に、アーチは一瞬だけ言葉を詰まらせた。
パンをトースターに突っ込んで、それからようやく答える。
「……それは少し違うような気がします。そもそもの始まりは大学の時に――私はアンブローズ・カレッジを出たあと、一般の大学に行ったのですが、そこで魔法に関連する相談事を聞くようになって……ある依頼をきっかけに、それが仕事になると分かったので。そういう成り行きに任せただけです」
「ホームズみたいな経歴だ」
とヴィンセントはフライパンを流しに突っ込みながら、
「根本的に人助けが好きなんだな、師匠って」
ポン、と卵のように放り込まれた言葉を、アーチは咄嗟に飲み込めなくて「……え?」と呆けた声を出した。
ヴィンセントはしれっと続けた。
「そうじゃない? でなきゃ出来ないだろ」
彼はわざとらしく顔を歪めながら
「おかげで俺らもこの通り、体よく押し付けられてるわけなんだし」
「……そうですね」
アーチは卵の盛られた皿をサッと持ち上げると、くるりと食卓の方へ行った。
それから
「二人を起こしてきます」
と寝室に向かう。
(さて、どうやって起こそうか……毎回『静電気』ではつまらないからな)
アーチは首の裏を落ち着きなく擦りながら、寝室の扉を開けた。
まだ何も食べていないのに、胃の中がぽかぽかと温まっているような感じがした。
超局地的な降雹で起こされてご機嫌斜めなダニエルとアーネストが、もそもそと朝食を食べている。
その横で、一足先に食べ終えたアーチは、バロウッズ先生に電話を掛けようとスマートフォンを手にした。
先生はスリーコールの内に出て、出しぬけに言った。
『ハロー、ウルフ。新聞の件かい?』
「新聞?」
『あれ、違ったか。てっきり秘石窃盗の話だとばかり……それで、なんだい?』
「ああ、ええと――」
アーチは話しながら、玄関に出てポストをまさぐった。普通のタイムズと魔法界のタイムズを引っ張り出す。
ソファに座って足を組み、その上に二つの新聞を置いた。
普通のタイムズの一面は『最悪の列車脱線事故から五年、勇敢なる魔女に感謝の花束を』だった。
(そうか、あの事故からもう五年も経ったのか、歳を取るのは早いな――)
などと思いながらアーチはそれを脇にのけた。
魔法界のタイムズの一面は『魔法庁とアンブローズ・カレッジの失態! 災厄を呼ぶ秘石【レディ・マフェットの瞳】窃盗される!』という大きな見出しが躍っていた。
『へーえ、一つ目と逆さ十字団に襲われた、か……それはそれは……』
アーチの話を聞き終えると、バロウッズ先生は深刻な声になった。
『もしかしたら、ウルフ、もしかするかもしれない』
「何がです?」
『新聞、見たかい?』
「ええ、今まさに見ているところです」
アーチは肩でスマホを挟み、新聞を両手に持ち直した。
ヴィンセントがソファの背によじ登って、肩口から覗き込んできた。
「【レディ・マフェットの瞳】が宝物庫から盗まれたそうですね。あの会議とはこれのことだったんですか?」
『あはは、実はね。その通りさ。君の階級の件はおまけだったんだ』
とバロウッズ先生はこともなげに言った。
『その秘石は、グイン・アップ・ニーズの魂と権能を封じ込めたものだ』
「グイン・アップ・ニーズの」
『うん。伝承では、物語によって徐々に役割が変化していったということになっているんだけれど、実際は反対でね』
「弱体化した結果物語が変化した、ということですか」
『その通り。彼女があまりに乱暴をするものだから、花の魔術師アンブローズがグラストンベリーのトーの丘に封じたんだ。これはアーサー王の命令だったとも言われている。で、その時、魂と権能の半分を秘石に封じた。それが【レディ・マフェットの瞳】だ』
バロウッズ先生は非常に流暢に話した。
アーチは、この人の専門ってなんだっけ、と首を傾げた。確か薬草学だったと思ってたんだけど、魔法史学の間違いだったかもしれない。
『魔法庁が封印を施した箱を、アンブローズ・カレッジの宝物庫で預かっていたんだけど、どちらも見事に突破されてね。宝物庫の場所は校長以外知らないはずだし、箱の封印は壊されたわけじゃなく正規の手段で開けられていた。だから、内部の人間の犯行なんじゃないかって言われていてね。違法魔法課が総動員で捜査中さ』
だからプレイステッドさんは忙しそうにしていたのかと思いながら、アーチはスマホを手に持ち直した。
「それが盗まれたということは、復活するんですか?」
『大正解。で、トーの丘を調査した結果、すでに封印は解かれていることが分かった』
「マズいじゃないですか」
『うーん、まぁまだ平気さ。魂だけの状態では顕現するのにエネルギーのほとんどを使っちゃうから、大したことは出来ない。依代が見つかってしまえば話は別なんだけど』
「それで、何が“もしかする”のですか?」
『三人が魔法を撃ったのが二月一日。秘石の窃盗が発覚したのがその五日前。依代に適合しなかった人間は、内部から破裂するように消え、後には血だまりだけが残される――』
「つまり、三人が見たのが復活したグイン・アップ・ニーズの魂だった、と?」
三人、と言ったのに反応して、アーネストとダニエルもこちらも向いた。パタパタとソファに乗ってきて、電話口に耳を寄せてくる。
『その通り。で、一つ目と逆さ十字団が犯人だとしたら、三人が襲撃されたのにも筋が通る』
「筋だけですけどね」
『魔法使いにはそれが大事だ。机上の空論でも成立するなら』
「魔法は出来上がる、でしたね。先生の口癖だ」
『そうそう』
バロウッズ先生はふふ、と笑った。
『ただ、復活させてから今までずっと依代探しをしていたとしたら、一般的にももっと問題になっているはずなんだけどね。依代が見つかったなら、今頃イギリス中に災厄がもたらされてるはずだし……どういうわけか、犯人はやけに大人しくしてる。何らかの狙いがあって潜伏しているのか、あるいは、復活させたときに何か問題が生じたのか……』
話を聞きながら、アーチは何か頭に引っ掛かるものを感じた。
「確か、魂の強制固着には何か特殊なものが必要になるのではありませんでしたか? なんでしたっけ、あの……」
言い淀んだアーチの後を、バロウッズ先生が引き取った。
『……ああ、【ハンプティ・ダンプティの黄身】か』
「そう、それです」
『それを用意していなかった、ってこと?』
「ありえないですかね」
『なくはないと思うけど……まぁ、それも含めて調査、かな。それにしてもウルフ、【ハンプティ・ダンプティの黄身】なんてマニアックなもの、よく知ってたね』
「……人間の体を材料にする道具や薬の類を調べていた時期がありまして」
『そっか』
バロウッズ先生は察したようで、深くは追及しなかった。
『気を付けるんだよ、ウルフ』
「ええ、勿論。依代探しを邪魔された逆恨みで殺させなどしませんよ」
『それもそうだけど、君自身もね』
「私?」
アーチは目を瞬かせた。
『君は魔力を普通より多く溜め込めるだろう? 依代にも適してるはずだ』
「ああ、なるほど」
アーチは他人事のように頷いて、軽く笑い飛ばした。
「わかりました、気を付けます。私をどうにかするより、他に適している人を見つける方が簡単だと思いますが」
『そうだったね、スリム・ウルフ』
バロウッズ先生の微かな笑い声が電波に乗って届いた。
『君の方で何か情報を得ることがあったら教えてくれ。頼むよ』
「ええ。では」
アーチは電話を切ると、自分の周囲を睨んだ。
「ボーイズ、重いのですが」
肩に膝にとのしかかって話を盗み聞きしていた少年たちが、しかしアーチの文句など意にも介さず
「【レディ・マフェットの瞳】って何?」
「【ハンプティ・ダンプティの黄身】って?」
と口々に聞いてくる。
アーチは冷たく、
「まずは退きなさい」
と答えた。





