幕間 Ⅰ
幕間Ⅰ
「虎は死んで皮を残し、人は死んで名を残す」のだと、おじいちゃんはよく言っていました。そのおじいちゃんは皮も名も残さなかったけれど、代わりに僕の家の地下室へ大きな、大きな水槽を残したのです。子供なら入って泳げるくらいの大水槽です。おじいちゃんが亡くなってからと言うもの水を抜いて放ったらかしにしてあったので、最初、その水槽に水を入れ始めたとき、今にもどこかのヒビ割れから漏れ出してくるのではないかと心配で心配でしょうがありませんでした。でも結局、満タンにしても漏れは全然無く、明かりを透して青々するいっぱいの水を見ながらほっと一安心、僕は溜息をついたのです。
「あっ、ごめん」
ずっと抱いていた腕の中で彼女が「まだ?」と言うようにぐるんと身をくねらせたので、僕は慌てて三段脚立のてっぺんまで上り、その体をボシャンと放り込みました。
「お待たせ」
それから床に下り、ガラス越しに見守ります。
ぱしゃっ、と彼女は遠慮がちな水飛沫を立てて少し潜ったかと思うと、水質の違いに驚いたのか、しばらく立ち泳ぎをしながらちんまりした鼻をひくつかせたり、首を傾げたりしていましたが、やがて慣れてきたのでしょう、「うんッ」と満足そうに頷き、尾鰭をはためかせて泳ぎだしました。髪の毛がゆらゆら水になびきます。小さな体をメいっぱい伸ばしながら潤う感じを楽しんで、全身で水を味わって、とっても気持ち良さそう……。
ただ、気持ち良さそうにうねうねと泳いではいるのですが、相変わらず胸を両手で覆うようにして、こちらをチラチラ見ています。腰から上は普通の裸ですから,彼女だって恥ずかしいのでしょうが、見ている僕だって恥ずかしいのです。それに見た目にしろそんな素振りにしろ、想像していたよりずっと大人に近付いているようで、これは、ズルイ!
だからあとで、僕のTシャツを持ってこようと思います。うまくやれば、お姉ちゃんの服の一着や二着持ってくることも出来なくはないのですが、そしてそちらの方がずっと似合うのでしょうが、それは、ばれたら、あとが怖い。気が付くと、彼女の顔が目の前にあります。片手は胸を隠したまま、反対の手でコツンコツンと強化ガラスの壁をノックして、僕と目が合うと少し微笑み、小さな唇をちょっと突き出して見せました。
「ああ、そうだった。うん、今、抜いてあげるよ。ちょっと待ってて」
工具箱からニッパを取ってきて、また脚立に上がります。相生橋のたもとで彼女を見つけた時、すぐ気付いてはいたのですが、誰にも見られないように、緊張し通しで帰ってきたせいもあり、水槽の中の彼女を見ると気が抜けてしまって、ちょっと休憩したい気分だったのです。
なのに、水面へ肩まで出して、ゆるゆると立ち泳ぎで寄ってきた彼女は、
「ほら、早く!」と、唇を尖らせて突き示し、その様子がまた、妙に偉そうでしたから、
「っていうか、手はあるんだから、自分でもできるよね?」
意地悪だって言ってやりたくなります。
思っても見ない言葉だったのでしょう、彼女は驚いた様子で口をぽかんと開けて、それから少し怒ったような表情でこちらをキッと睨みつけました。なんとなく得意な気持ちになって僕はその顔を見返してやったのですが、
「もういい!」
彼女がぷいっとそっぽを向いて潜行しようとしたので、
「嘘だよ! 冗談! ごめんっ」
慌てて、謝りに謝ります。
「まったく、もう」
そんな顔をして再びこちらを向いた彼女、「ほら」と唇をまた突き出したので、僕は恐る恐る左の手を伸ばし、その下唇をそっとつまみました。
ぬるっと、でも、あったかくって、やわらかい。
「いタッ!」
彼女がきゅっと眉を寄せて、「やさしくしてよッ」と、僕を見る目が言っていて、
「ごめんごめん。でも、少しは我慢してよ。麻酔なんて無いんだし」
「しょうがないナァ」
言葉は、いらない。顔を見れば、何を言いたいのかなんてすぐにわかります。だってずっと以前から、僕は彼女ばかり眺めていたのです。おでことおでこをくっつけるように体を寄せて、なんとか、彼女の唇に突き刺さった釣り針をニッパで挟むことが出来ました。カエシまで貫通しているので、取るには針そのものを切断するしかありません。
「ちょっと痛いよ。でも、一瞬だから、我慢して」
言って、僕がニッパを握る両手に力を込めるのと、彼女の右手が僕の左肩あたりをぎゅ、と掴むのとが一緒だったようです。パチン! 切れ抜けた針がどこかへ飛び、床へ落ちてチンと音をたてました。彼女の方は棒立ちのままスぅっと沈んで行って、水底にうずくまってしまいます。「大丈夫?」と声をかけてみましたが返事はありません。左腕全部で両方の胸を囲って、右の手のひらで、痛むのでしょう、口のところをぐっと押さえ、水槽の隅っこから僕をじっと睨むように見ています。でも本当のところそれは睨んでいるのでなくて、懸命に痛みを堪えている目付きなのです。それと、泣いているのを知られたくない、ということもあるのでしょう。まわりの水で涙をごまかしているつもりなのかもしれません。彼女の指の間から漏れた血が、もやもやと水中に拡散して、薄れていきます。
お父さん、お母さんは馬鹿です。お姉ちゃんは、前々からそうではないかと疑ってはいたのですが、二人に輪をかけて馬鹿です。彼女のことが、よく、わからないらしい。ただの白い大きな魚にしか見えないと、皆、口を揃えて言うのです。
「ぶよぶよしていて、なんだかドザエモンみたい」
お姉ちゃんがひどいことを言うと、
「そうねぇ。あんな気味の悪い魚の、どこがいいのかしら」
お母さんが付け足します。
「いかにも秘密基地っぽくていいじゃないか」
地下室を僕の部屋にしてと言った時、そう頷いてくれたお父さん。
「それに、生き物に興味を持つのは好いことだよ」
口ではそう言って、だけどその目は、やっぱりお母さんやお姉ちゃんと同じように、
「なんだい、あの気持ち悪い魚は」と言っていて……。
でも、そんなことは無い。
水槽の中にいるのは確かに彼女なんだ。ほら、傷のすっかり治った唇はぷっくりしていて、僕にニコニコ、微笑みかけている。Tシャツを着せたのは良いけれど、水圧で体に張り付いてしまうので、やっぱりちょっと恥ずかしいのだろう、両手で胸を押えるようにして、ゆらゆら泳いでいる。嬉しそうに、気持ち良さそうに、時々はにかんだ横目で、ちらとこちらを見る。僕が笑いかける。すごく照れて、でも、向こうも笑う。
ぐぅん、と彼女が水中で宙返りをしてみせる。水が渦巻く。透き通った尾鰭が光る。
そんなわけで、僕は今でも、彼女を飼っているのです。
© 2016 髙木解緒