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第一章 ALMOST PARADISE 1-6 LIKE THE VIRGIN

 1-6 LIKE THE VIRGIN


「タブー、ってやつかなぁ。東京のど真ん中にもあるんだね」

絶海(ぜっかい)の孤島とか山奥の寒村(かんそん)とかのイメージだよな。名探偵でも来そうなさ」

 つい先日、帆織(ほおり)の部屋でそんな内容の古いドラマを一緒に見たばかりだ。真奈(まな)も覚えていたのだろう、うんうんと微笑む。

「そういうのって、子供が(いち)から考え出すのかな?」

潤地(うるち)さんが言うには、当たり前にある自然発生なんだってさ。こんな特別な環境で俗信が出てこない方がむしろおかしいって」

「……確かに特別だよねェ」

 しみじみと彼女が言う。

 帆織は慣れているのでそれほどとは思わないが、世界有数の未来型巨大都市、そのド真ん中で漁遊(りょうあそ)びに(きょう)じる(かわ)ガキという構図は客観的に見れば、やはり特殊な部類に入るだろう。

「先輩も大変だよね。今日は、他には?」

「すぐ後で喧嘩が一件。例の不良娘とフィンズの連中がクソ暑い中で取っ組み合いだ」

「なんでまた?」

「前に子供らの一部がキャシャロット・ガンってのを作った話はしたよな?」

「キャシャロット……ああ、マッコウクジラの採餌法(さいじほう)を真似した水中銃ね。音響護身具(おんきょうごしんぐ)と指向性防水スピーカーの組み合わせで、衝撃波を撃って魚を気絶させるやつ」

「そうだ。だけど、あれは禁止になったんだ。うちの管轄(かんかつ)には音に敏感なスナメリがいるし、他の生物環境にも悪影響がある可能性が高い。何より人に怪我させるかもしれないしな。ところがフィンズはこの規則を破ってた。それどころかキャシャロット・バズーカを作って障害物の影にいるスズキを群れごと仕留めてたんだ。そこへトヨミが現れた。水中でバズーカを奪い、衝撃波の射出部を護岸(ごがん)壁面(へきめん)へ押し付けて撃った。当然バズーカはぶっ壊れた」

「トヨミちゃん、悪くないじゃん」

(あと)が悪い。上陸して、フィンズの男子三人をぼこぼこにして、駆けつけた俺の顔を見るなり弁解(べんかい)もしないでまた逃げた。だいたい、あいつなら三人を痛めつけないで去ることもできたはずなんだ。結局、(おのれ)の暴力衝動(しょうどう)を正当に行使できるチャンスを利用しただけと見られても仕方がない。魔女だなんだの周りから言われるように自分で仕向けてるんだ」

 ほんと、悪ガキばっかりだ、とうんざりした調子で肩を(すく)めた帆織へ、

「教職課程なんか取ってなかったのにね。子供の相手ばっかりで、学校の先生みたい」

 お疲れ様です、と真奈は冗談めかして頭を下げ、アイスティーに口をつけた。

「でも先輩、だいぶ元気になったよ」

「そうか? むしろ疲れっぱなしの毎日だけどな」

 意味有り気に微笑んだ真奈が今度はチーズケーキにとりかかる。垂れがちの目を爛々(らんらん)と輝かせ、一口一口をじっくり味わうその様子を眺めているだけで、帆織の(ほお)は自然と緩んだ。

 婚約者を「先輩」と呼ぶのは学生時分から続く彼女の癖だ。籍を入れ、同居が始まれば他の呼び方を用意してはいるそうだが、楽しみな一方(いっぽう)、あまりあてにはならない。還暦を過ぎてもまだ先輩呼ばわりかも知れない。

 帆織もアイスコーヒーを一口飲んだ。鼻から抜ける香りのうちに、日頃の喧騒(けんそう)から解放された自分を感じる。

 真奈は彼が学生時代に所属していた研究室の後輩であり、博士課程を修めた後、ひとつ別の大学での職を挟みはしたものの、今は助手として再び母校で働いている。

 二人の出た国立(こくりつ)国際(こくさい)海洋科学技術大学かいようかがくぎじゅつだいがくの校舎自体、帆織の出張所がある佃島(つくだじま)から月島(つきしま)へ抜け、相生橋(あいおいばし)を渡ってすぐにあるから、そもそも自分の移動先が大川に決まった時点で色々近場にまとまってきたなと感じてはいた。それが今回の夜間調査計画で、世間が一層(せば)まった気がする。

 もっとも、会いたい時に会えるのはありがたい。調査手順の打ち合わせを終えた二人が一緒に校舎を出たのは充分過ぎる必然だ。それまで冷房の効いた研究室で御茶を(すす)っていたはずなのに、校舎を出てすぐ、二人同時に喫茶店での休憩を提案したのには、お互い、声を出して笑い合った。

 月島の駅近くにあるこの店は二人の行きつけだった。甘いものの味もさることながら、なんと言っても雰囲気が良い。店内は静かで、年輪を容易に数えられるほど磨き込まれた木製テーブルの数々が薄暗い照明に黒光りする(さま)は亜寒帯の奥深い森を想わせる。

「もう少し涼しくなったら、バヤックでツーリングに行かないか。もちろん俺が漕ぐ」

「いいね。でも、私も漕ぎたい!」

 その後に訪れるちょっとした()が、帆織にはなんとなくもどかしい。

 それは相手も同じようだ。先ほどから面と向かって話をする時は普段通り軽口を叩くくせに、何かの拍子(ひょうし)に目が合うとはにかんで、顔を伏せたりする。

 帆織の急な配置換えを理由に結婚が延期された時には双方の友人からだいぶ心配されたものだが、婚約そのものは至って健全、有効であり、彼が今の職場に慣れて、一区切り付けばすぐにでもと約束ができている。そうなってみると今の状況は、学生時代がそのまま延長されたかのようだ。

 お互い気心が知れるどころか、()むほど知り尽くしているはずなのに、どことなく初々(ういうい)しく、気恥ずかしい。リブートとでも言おうか、新鮮と親愛が同時にある。帆織の感じる不思議な刺激を、おそらく真奈も同様に感じているに違いなかった。

 この店のチーズケーキは彼女のお気に入りで、嬉々(きき)として食べるこの顔を帆織はここ何年か、ずっと見ている。

 ゆるやかに巻きのかかった、亜麻色のセミロングがよく映えるおっとりした風貌(ふうぼう)の彼女だ。一見(いっけん)育ちの良いお嬢様然としており、洒落(しゃれ)たカフェやケーキがよく似合う。実際、練馬の地主の娘だからある程度お嬢様だろうが、真の姿はけっこうお転婆(てんば)で、ハキハキしていて、その癖、大きな黒目勝ちの瞳には他人を心底(しんそこ)心配し、思いやる温かな気遣いが(またた)いて、飴と(むち)、と言うのも変だが、その二つの合力(ごうりょく)がとにもかくにも素晴らしい。他人をひどく大切にするタイプだ。

 だがそれだけに、帆織は彼女自身について心配させられる時がよくあった。

「俺たちが潜る前に無人機で予備調査やるんだってな。準備、進んでるか?」

 彼が訊ねると、

(ゆう)べ、やっと一段落ついたんだ。水中ドローンなんかの準備はすぐなんだけどさ、大学へ出す計画書がね。先生の言葉を他の人に分かる原稿に起こすのが一番、大変だから」

「……イタコみたいだな」

 思わずくぐもった笑いを漏らした帆織を真奈が睨む。

 唇を突きだし、頭を振って、

「進水式典の招待状を私が先生へ渡さずに、シュレッダーにかけちゃえばよかったんだよね。解放されて警察のボートで桟橋(さんばし)についた時、よっぽど弱ってるだろうな、いたわってあげなきゃな、って思ってたのに、小躍(こおど)りしながら出てきたんだよ、あの人。あの(あと)すぐ大学に戻って口述筆記させられたんだから。ただでさえ早く帰りたかったのに……」

「確かに、そんなこと言ってたな」

 帆織は言葉を濁した。

 あの乗っ取り事件に人質として巻き込まれた二人の恩師、井崎は遊覧船のガラス越しに大川の水底(みなそこ)へ楽園が現れるのを見たと主張している。おそらくは帆織の見た「何か」と同じものだろう。そしてあれは確かに、名づけるならば――、(いな)

「先生には悪いが……ちょっとなぁ」

「犯人たちが投降したのは楽園を見て回心(かいしん)したからですってよ。ダマスカスへの道のりでキリストの声を聞いたサウロと同じじゃよ、ってすごい得意気(とくいげ)に言われた時は私、自分が今、何の研究室にいるのか分からなくなったもんね」

「その例え、俺もさっき聞いたわ。お前がトイレに行ってる間にさ」

 肩をすくめる帆織へ、やっぱりね、と真奈は皮肉と困惑の入り混じった笑顔を見せた。


 国海大(こっかいだい)井崎善太郎(いさきぜんたろう)は、最近では日本における「海洋記憶仮説」の第一人者ということになっている。疑似科学の愛好家や神秘家たちからは頼れる旗振り役として、真剣な科学の学徒、研究者たちからは落ちぶれた異端者として。元々はごく普通の、むしろ名うての進化生物学者と言えるほど真面目な科学者だったのだが、帆織が修士課程を出て就職する少し前辺りから、彼には奇妙な言動が目立つようになってきていた。理由は分からない。

 進化論の魅力については、その(とら)え方が各人の思想や哲学に直接、影響を与えることは確かだ。生命に関する美しく精緻(せいち)で巧妙な全ての諸々(もろもろ)が全くの偶然の産物なのか、意識的あるいは無意識的な意志の産物なのか、脅迫めいた選択が常に、潜在的について回る。

 老境において人生を総括し、教授は自分なりの選択をしたのかもしれなかった。専門に関する発言に論理の超越的飛躍や独善的倫理観、世界観が混ざり始め、ついにはデータや共通認識より、(おのれ)のインスピレーションを重視し過ぎるばかりになった。今では、国海大にその人在り、とまで(うた)われた生物学者であったのも遠い昔、過去の名声において在籍と俸給(ほうきゅう)を許されるマッド・サイエンティスト、ないし一種の宗教家として、嘲笑と憐憫(れんびん)の対象となっていると帆織は聞いている。学際における典型的「老害」の一つ、とのこと。

 そしてその井崎教授の近年の主張によれば〝海洋記憶に接続することで、生態系は地球生命史を再現することができる〟のであり、それゆえ我々は未だに〝(けが)れ無き原始の楽園へ至る可能性を持つ〟のである。

 生命が海を外付けハードディスクのような記憶媒体として利用し、体外にも進化情報をバックアップしているというのが海洋記憶仮説の骨子だ。

 例えばウィルス、と井崎は言う。

 情報と生命の境界にあるウィルスが宿主のDNA複製、翻訳機構を借用して自前(じまえ)のDNAやRNAをコピーしたり、必要なタンパク質を合成する存在であることは知られている。井崎によればウィルス自体もまた、思い出されるための機能を得た上で単純化され、生命史から飛び出した進化の記憶、情報そのものなのだが、

「沿岸部の海水には一ミリリットルあたり一億個のウィルスが含まれると言われておる。深海では一ミリリットルあたりに三〇〇万個、海全体に含まれるウィルスの重量は総計でシロナガスクジラ七五〇〇万頭に匹敵するという学者もおる。だが、こうしたウィルスはカプシドに囲まれた核酸という構造を持つから発見されるのじゃ。目印となる形があってこそ、再生の目的があってこそ在ることが分かる。それらが無ければ、どうじゃな?」

 他にも例えば、植物における病原体としてウイロイドというRNAのみからなる存在も発見されているが、それとてやはり、病原体としての存在意義を持つからこそ同定が可能なのだと彼は言う。

 記録そのものを目的とした場合、塩基配列を表現できさえすれば、記録媒体がDNAやRNAである必要すらない。生命進化における核酸情報は地球史上、様々な過程を辿(たど)って流出し「裸の遺伝子」として海洋に蓄積されてきた。現実の海はそのまま情報の海、記録と記憶の海なのだ。海性アカシックレコードへの定常(ていじょう)アクセス手段の確立や如何(いか)に――。

 環境DNA等を参考に考えれば、なるほど、何かの拍子に化学的に安定した生体情報の断片が海洋中に存在するということもあるだろう。だが細胞記憶として保存されたミームや感情の(たぐい)までもが転写を繰り返され、海中に保存されているのだと唱えれば、それはやはりオカルトである。しかも老博士が〝海洋記憶〟を研究する目的が、原初に在ったとされる〝生命の楽園〟とやらへ回帰するためともなれば……。

 同窓会や専門の(つど)いで教授の噂を聞くたびに、帆織は胸が重くなるのを感じた。恩師の悪評そのものも気持ちの良いものではない。井崎の郷里(きょうり)で彼のエッセイが道徳の教科書に掲載され、特定の宗教を教育に持ち込むものだと批判する県教職員組合と、問題は無いと言い張る教育委員会の攻防に関するネット記事も胃を鉛のように重くする。だが何より、彼の愛らしい婚約者が零落(れいらく)した科学者の助手として生計を立てているがため、怪しい宗教家の一味として十把一絡(じっぱひとから)げに評価されていることが不満だった。同情の声とて同じことだ。

「大丈夫、今のうちの辛抱だよ」

 支離滅裂な論文だって反面教師にはなるんだし、と学術的野心家である真奈はこちらの心配を(おお)らかに笑い飛ばすが、帆織は納得していない。「恵まれない女助手」の噂話を耳にするたび、居たたまれない気持ちになる。彼女が無為(むい)な下働きの合間を縫ってコツコツと続けている、大川における(せい)人為的環境改変じんいてきかんきょうかいへんが生態系に与える影響を主題とした研究や論文が至極(しごく)()(とう)な、贔屓目(ひいきめ)を抜きにしても非常に出来の良いものと知っているだけに、なおさらたまらないのだ。

 教授が暫定(ざんてい)目標として掲げるのが「エディアカラの(その)」への接続であることからも、まともな研究者が相手にしないであろうことは目に見える。


 一九四六年、オーストラリア南部フリンダーズ山脈のエディアカラ丘陵(きゅうりょう)における発見はその後の生物学、特に進化学、生命史分野における一大事件であったにも関わらず、当初はその重要性をあまり理解されなかったと言う。発見者は地質学者、レッグ・スプリッグ。

 彼は堆積岩(たいせきがん)中に軟体動物のものらしき印象化石(いんしょうかせき)(生物の形だけが岩に刻まれた化石)を発見した。最初、彼はこれをカンブリア紀前期のクラゲだと思ったらしい。全長はわずか三センチ、キャタピラ(こん)のような形状をし、(のち)に「スプリッギナ」と命名されるこの化石が「カンブリア大爆発」以前、五億六千五百万年前から五億四千万年前の地球に誕生した最初の大型多細胞動物「エディアカラ動物群」研究の発端となった。

「エディアカラ」とは先住民の言葉で「水がある」という意味である。海における大進化の痕跡を残す生命史の聖地には全くふさわしい名だろう。

 エディアカラ動物群の持つ生物学、地球史的な意味としては最古の多細胞動物としての重要性もさることながら、一般的には(のち)の「カンブリア大爆発」、(すなは)ち海洋動物相の突然の多様化へ至る準備期として、重要性が強調されやすい。

 アノマロカリスやオパビニアなど、エビを奇天烈(きてれつ)にデフォルメしたようなカンブリア紀の古代生物たちはいまや有名だ。だがアイコン的存在である彼らと比べ、エディアカラの動物は想像図の見た目もごく地味であり、存在が一般に膾炙(かいしゃ)しているとはまだ言い(がた)い。

 角も棘も無く、プールや海水浴で使う安物のエア・マットのような、ただの肉塊に少し個性が生じた程度の、取り立てて見るべきところもない造形がプレカンブリアンの住人に共通する特徴である。カンブリア紀の動物に比べてインパクトに欠け過ぎる。

 とは言え、エディアカラ動物群が生命史の奇跡的トロフィーであることは確かだ。

 元々他の単細胞生物だったミトコンドリアや葉緑体を取り込み、DNAを核で保護した真核細胞型(しんかくさいぼうがた)の単細胞生物の登場が約二十億年前、真核細胞が単位として連なり、それぞれが分化して個体を形成する多細胞生物の登場が十五億から十億年前頃とされている。

 全て海中での話だ。そしておよそ七億年前から六億年前にかけて起きたとされる氷河が赤道まで達する全球凍結(ぜんきゅうとうけつ)、いわゆる「スノーボールアース」が、大量絶滅とその後の生命の大躍進を招いた。大量絶滅によりほとんど消費されることなく海の底に蓄積されていた栄養を利用できた集団が、生命史の先頭を行くチャンスを掴んだのだ。彼らは潤沢(じゅんたく)な資源を元手(もとで)に高度な多細胞化を実現、それまでの生物に比べてはるかに巨大な体を手に入れた。

 ミクロな多細胞生物とマクロな多細胞生物では、自己複製の速度や頻度(ひんど)で後者は前者に大きく劣る代わり、一つの個体としての安定は段違いである。(すなは)ち、この〝多細胞生物としての巨大化〟を経て我々は〝個性〟獲得への足掛かりを得た。最初の発見地にちなみ、この時期に登場したこれら生物を総称して「エディアカラ動物群」と呼ぶ。地球の生命は誕生以降、肉眼で見える大きさを維持できるようになるまで、三十億年以上の年月を要したというわけだ。しかしここに来て、個性の確立と多様化の準備が整ったことを示すのろしがようやく上げられた。

 こうした動物は五億四千万年前頃のいわゆる「大爆発」を境に、外骨格で武装した新手の動物が海に溢れるまで生命史の主役だった。彼らは確かに一つの時代を作った。そして新しく登場したバージェス・澄江(チェンジャン)型の動物たちにほとんどが食い尽くされ、絶滅した。


 エディアカラ動物群の系統について一石を投じたのはドイツの古生物学者ザイラッハーである。一九九二年、彼はエディアカラ動物群の内で代表格とされた「ベンド生物群」と呼ばれる一グループについて、「生物の五界説」が唱えられていた当時としては大胆な発表をした。チャルニオディスクスやディキンソニアに代表されるチューブ状構造が接合して木の葉のような全体構造を形作っているこれらベンド生物群は「動物」でも「植物」でもない、現在は完全に絶滅してしまった多細胞生物の一界である、と提唱したのだ。これら生体膜のチューブへ原形質の詰まった「キルト」のような生物は大型多細胞生物の誕生に至る「実験過程」を表す存在である、と彼は結論付けた。生まれるには生まれたが結局は地球に受け入れられなかった生命の一形態(いちけいたい)なのだと。

 こうした古生物の一部を特別視し、ロマンをかきたてる論調は、古くは恐竜、最近ではカンブリア紀のバージェス・澄江動物群についても同様に、古生物研究の黎明期(れいめいき)には往々(おうおう)にして見ることができる。

 しかし時間が経つにつれ、夜明けの興奮に対する見直しが進むのも世の常だ。

 ベンド生物群については、そもそも名前の由来となった先カンブリア時代後期を示す「ベンド紀」という言葉自体が、二〇〇四年に国際地質学会が地層区分の見直しを行ったこともあり、あまり使われなくなっている。今では約六億三千万年前から五億四千二百万年前の当該時代は「エディアカラ紀」と呼ぶのが学術的には正しく、その時代に繁栄した多細胞動物が「エディアカラ動物」ということに統一されている。

 またエディアカラ動物群が最初の大型多細胞生物であったという通説についても、新たな知見が加わるにつれ、見直される可能性が生じた。カップのような形をしていた生物の印象化石がカナダの六億三千万年前(エディアカラ期より前)の地層から発見されている。あるいは米国の研究者が、エディアカラ動物の一部が干潟や完全な陸上で生活していた可能性があるとする論文を発表したこともある。この説については現在でも論争が継続中だ。

 だが、

「新たな知見(ちけん)が加わるにつれ、暴君竜(ぼうくんりゅう)ティラノサウルスの再現図が死肉を(あさ)ったり、走れなかったり、子育てをしたり、けばけばしい羽毛を持っていたりするようなものじゃな」

 と、井崎教授は言う。注目すべきはそこではない、と断言もする。

「分類や生態などという、前時代的にして些末(さまつ)な問題などは取るに足りん」

 彼はいつも「エディアカラの意味」について、赤味がかった禿頭をさらに赤く光らせ、ダーウィンと並ぶ進化論の始祖ウォレスを連想させる豊かな顎髭(あごひげ)を揺らしながら熱心に語る。エディアカラの意味とはつまり、生命史における唯一の楽園の存在可能性、「エディアカラの園」仮説である。

 それは絶滅動物に対するロマンチズムの(さい)たる例であったかもしれない。

 内部に独立栄養型の微生物を共生させたエディアカラ動物群には食う食われるの捕食、被食(ひしょく)関係が無かった。後に続くカンブリア大爆発以降の世界がまさしく生存競争、弱肉強食の凄惨(せいさん)な世界となるのに対して、エディアカラ紀は平和な、生命史最後の「楽園」だったのだ、というのがこの説の眼目(がんもく)だ。

 (いにしえ)の海底に広がる平和の理想郷(りそうきょう)(おおかみ)子羊(こひつじ)とともにやどり、(ひょう)小山羊(こやぎ)とともにふし、小牛(こうし)獅子(ライオン)幼子(おさなご)に導かれ云々(うんぬん)と預言されたユートピアが未来ではなく(はる)か遠い昔、確かに実在した――。


 しかしこの説は随分前に化石証拠から否定され、現在は忘れられた説となっている。意味のあるものとして覚えているのは井崎教授くらいなものだ。例えこの説そのものは誤りであったとしても、ヒントを我々に与えてくれていると彼は強く主張する。

捕食器(ほしょくき)の完成が先か、自他(じた)の区別が先か、考えてみれば分かるじゃろ。とすれば、捕食被食関係へ移行するまでの世界はやはり、楽園だったのよ。自他の区別と平和の共生するバイオスフェアじゃ」

 彼はそう言ってニンマリ微笑むのだ。

 そして、

(いにしえ)の美を取り戻した大川に呼ばれ、今やこの川で楽園の門が開かれてようとしておる」

 教授は開門の(きざ)しを自分が見たと確信している。

 ジャックされた遊覧船から彼は、帆織が見たのと同じ光景を、帆織より長く見た。そして強烈なインスピレイションに襲われた。

「おそらくは世界的俯瞰(ふかん)における東京水系の浄化の偏りが、門を招いたのじゃ」

 記憶は回想を求め、情報は表現を求める。

「かきたてられた人々の郷愁が呼び水となった可能性もあるじゃろう」

 だが、繊細な記憶にとって現代の昼間は、投影するには明るく騒がしすぎた。励起状態(れいきじょうたい)は崩壊を予見させる。よって海洋記憶は自らの再生に夜の大川を選んだのだそうで、

騒々(そうぞう)しい楽園なんぞあるものか」

 忌々(いまいま)しげに彼は断言する。

「今の有様(ありさま)では門を固定することはおろか、定常観察も至難(しなん)(わざ)じゃろうて」

 打ち合わせで教授は興奮してまくしたてた。

 義理でも話へ丁寧に耳を傾ける客の来訪が嬉しかったのだろう。「これを見い」とモバイルタイプのディスプレイシートを示し、

「夜の大川で見慣れぬ生き物を見た、不思議な気配を感じたという目撃談は数多くあるんじゃ。わしが考えるに、これ全て楽園開門のきざしじゃな」

「……先生も、そういうサイトをご覧になるんですね。意外です」

 その時ばかりは、帆織は己の顔が引きつるのを必死で誤魔化さなければならなかった。水軍の子供たちから人気のオカルトサイト「ダゴンネット」のトップページが映っていたからだ。だが教え子の配慮に気づくことなく、老教授は当然とばかり胸を張る。

「時々寄稿(きこう)もしておるぞ。学問のためには全ての可能性へアクセスせねばならんからな」

 帆織君、と彼はやぶにらみの目でかつての弟子を見据え、

「いつでも門を叩けるとすれば、常に向こうに別の世界があるということになるじゃろうが。門は開かれる可能性があるだけで向こう側たりえる。楽園に至る門を知っておれば、それすなわち、楽園にあることと同義よ。それが門を固定するということよな」

「門を固定して、それでどうするおつもりなんです?」

「まずは固定そのものに意味がある」

 彼は得意気にのたまう。

「君も一目(ひとめ)見さえすれば、あれはこの世界において固定され続けなければならないものだと分かるはずじゃ。少なくとも、いつでも門が開けられるようになっとる必要はある」

「なぜです?」

 この問いに教授はきょとんとした目で帆織を見返した。眉根(まゆね)を寄せ、

「なぜと言われてもな……楽園へ通じる門が閉じて良いわけは無かろうが?」

 君にはまだわからんかもしれんなァ――と、帆織の疑念をよそに井崎教授は嬉々として、今度は事前調査に使うドローンの説明へとりかかったものだ。



「でもね、この調査計画、悪い話ばっかりじゃないみたいなんだ」

 喫茶店の薄暗い店内で真奈の目が意味ありげに輝いている。

「スポンサーに新経連(しんけいれん)が入ってるらしいんだよ!」

「……嘘だろ?」

 思わず鼻で笑ってしまう。新経連は「新日本経済連合しんにほんけいざいれんごう」の略称だ。国海大は国立大学ということもあり、財界や国の支援を受けたプロジェクトそのものは珍しい話ではない。

 だが日本経済を牛耳(ぎゅうじ)る最上部組織が、こんな怪しげで非生産的計画へ少しでも金を出すとは思われなかった。彼らの行動原理は利益か不利益か、それしかないはずだ。零落した科学者の道楽は応用の可能性から離れ過ぎている。

「ところが、なんだな」

 真奈は自慢気な口ぶりで言い、バッグから書類の束を取り出した。

 一枚を抜いて帆織へ差し出す。今回の調査への協力・協賛企業の一覧だ。彼は半信半疑でリストに目を走らせた。真奈が指で示し、

「その〝中津瀬会(なかつせかい)〟ってやつ」

 井崎教授がまっとうな科学の旗振り役を離れてから付き合いの始まった、名前からして怪しげな団体名の連なりを帆織は複雑な気持ちで眺めた。一番最後にその名がある。

「ナカツセカイ……右翼団体か?」

「違うって! 私も初めて見る名前だったから一応調べてみたんだ。新経連の文化事業部なんだよ、これ。相当の大口じゃん? 今までで一番大きいことは確か!」

 わくわくした顔つきの真奈を前に、だとしても……と帆織は首をひねる。

「なんでまた先生の研究に? トンデモ理論でなくたって応用なんか絶対に見込めない、一文にもならない分野だろ。夢見る大富豪ならともかく、こういう所が出資するか?」

「その先にある私の研究を目当てにしてるんじゃないか、って(ひいらぎ)さんは言うの」

 柊とは帆織の学部時代の同期で、今は水上警察(すいじょうけいさつ)(つと)める男だ。教授が様々な団体と付き合い出して以降、本当に危険な団体を避けるためのアドバイスをよく貰っている。

「中津瀬会が新経連の文化部ってことは、柊も認めたのか?」

 帆織の問いに真奈は頷く。ならば確かに、

「……そう考えるのが一番妥当かもなァ」

「でしょ!」

 バチンとウィンクして見せる真奈。

「新経連が東京水系の浄化技術を輸出の基幹にしたがってる、って話はよく聞くしな」

 それが事実だとすれば、地道に蓄えられた科学的根拠が保証する広告塔として、真奈の研究はうってつけだ。地味な研究だがそれだけの価値はある。人為的環境改変を肯定する膨大なデータが提示されれば、工業発展と自然保護が反目(はんもく)する理由は最早無い。となると新経連が利益を見込み、文化事業のふりをしながら人脈作りも兼ねた投資をする可能性は大いに考えられる。

 帆織は唸った。

「先生の顔を潰さず、今から君に恩を売っておく、ってわけか。うまいもんだ」

「だからさ」

 きゅっと、真奈は悪戯っぽい笑顔をわざとらしく作る。にっこり微笑んで、

「夜間調査のガイド、頑張ってね。私のために!」

「……そうするよ」

「でも先輩だって、いいコネできるかもよ? コネ作っといて悪いことないでしょ?」

 そりゃどうだか、と帆織は肩を(すく)めた。

「本部に戻れるほどじゃない?」

 全然、と笑い飛ばしたのが気に食わなかったらしい。彼女は少し唇を尖らせた後、残りのケーキに取り掛かった。美味しいのだろう、表情があっと言う間に明るくなる。



     ※



 その老人は唐突に現れた。声をかけられるまで、帆織はまるで気配に気付かなかった。 

 このところ残業続きだったから、さすがに今日は終電前に帰りたい、という彼女の意見を尊重し、真奈とは地下鉄の駅で別れていた。十五分も歩けば帆織の住む永代(えいたい)のアパートだ。泊まって行けばいいと一度は提案してみたが、彼女は笑って首を振った。

「今はもう、ひたすら眠りたいんだ。泥のように!」

 親にもこのところ心配かけてたしさ、と言われればぐうの音も出ない。

 外は熱帯夜だった。真奈についてもさることながら、冷房の効いた喫茶店が恋しい。

 アルコールが入ることも予想してバヤックを事務所に置いてきたから、独りとぼとぼ、陸路(りくろ)を徒歩で帰る羽目になった。水上通勤では川を最短距離で渡ることができるが、陸では橋まで回り道をしての(はる)かな遠回りになる。

 ほんのりした期待に裏切られ(さび)しく家路(いえじ)辿(たど)る途中、相生橋(あいおいばし)を中ほどまで渡った時、彼は異変に気が付いた。涼しい風が吹き、ふと立ち止まった彼の目に赤いランプの光が見えたのだ。見覚えのある色だった。

 本流から分岐してすぐ、大川派川(はせん)にかかる相生橋の江東区側(こうとうくがわ)橋脚(きょうきゃく)のたもとが小さな親水公園になっている。水際まで下りることができ、バヤックを上げ下ろしするスロープがあるのは当然として、陸にはケヤキやカエデなどの植栽が小規模な林を作り、夏の昼間はちょうど良い水辺の木陰となる河川利用者(いこ)いの場だ。休日はバーベキューを楽しむ人々も多い。同様の公園が最近の東京水系ではよく整備されている。学校が終わった頃を見計らって川沿いの各公園を巡れば、周辺の水域を縄張りとする水軍の子供たちが潜りで冷えた体を温めている。漁の合間に一息入れる「SUIGUN」に出会えるでしょう、と外国人観光客向けのガイドブックにもある種の名所として載っているくらいだ。

 だが日も暮れて大分(だいぶ)経つその時の公園には、人の姿がまるで無かった。覆い繁る木々の(こずえ)に街からの灯も遮られ、林の中は暗く、うっそうとした雰囲気は昼間とまるで違う。暑さもあるのだろう、スズキ狙いの釣り人が川辺で竿を振っている様子も今日は無い。

 そんな中、赤いランプが点滅していた。妙に遠いようで、しかしはっきり光っている。

 観測箱の表示灯だ。水際に設置された金属製の箱には川の水温や流速、化学変化などの連続的な計測を行う機器類が収められており、その管理は帆織たち指導員の仕事に含まれている。月一の点検時以外、開けられることはほとんどないはずだった。

 なのに赤ランプ、施錠(せじょう)されていない警告が(とも)っている。

 誰だよ、と内心(ないしん)舌打ちする気分で帆織は公園に入った。出張所の職員で誰か、前回の点検で鍵を閉め忘れた者がいるのだ。当番は誰だったか――。

 記憶を探り、

「あれ? ……俺か?」

 公園と言っても規模は小さい。思い出すのと、観測箱の前に辿りつくのとが同時だ。

 そして彼には前回、きちんと施錠した記憶があるようだった。では誰か最後の点検以降に開けた者がいるのか。そう思って箱を見ると、ランプはついていなかった。施錠は完全で、取っ手を引いても扉はびくともしない。

 見間違いか。暗がりの中で独り首をひねる。

「夜の川は()いですな」

 急に声を掛けられ、帆織の心臓が大きく()ねた。振り返るとその老人がいた。

 好々爺然(こうこうやぜん)とした笑みを浮かべて会釈(えしゃく)した相手に、帆織もつられて頭を下げる。

 この辺りは人が多い。古くから下町に住む人々に併せ、高層マンション群へ住み始めた新区民が加わり、昨今(さっこん)臨海部の区は軒並み人口が増加している。この老人は格好や雰囲気から見ておそらく下町の住人で、夕涼みの散歩にでも出てきたのだろうと思われた。

「本当に、夜の川は好いです」

 老人はまた言った。

「昼と違って、静けさがありますね」

 騒がしい子供たちを思い出し、帆織も微笑みながら答える。左様(さよつ)、と老人が頷く。

「昼の川は美しいですが、少々()き通りすぎている。年寄りには少し疲れます」

「しかし今の大川は、郷愁を(さそ)うほどだと聞いたことがありますよ。白魚漁(しらうおりょう)が盛んだったはるか昔の頃を、その頃を知らない人々にまで思い出させるんだそうですね。昔の美しさを取り戻したという意味だと思っていたんですが……」

「――まだですな」

 帆織はハッとして老人を見返した。相手の声音(こわね)には何か、含む調子がある。

「まだ、すっかり戻ったとは言えません」

 にこやかに目を細めつつ、しかしはっきりと首を振る老人に、どうやら外来種完全排除論者らしいと帆織はあたりを付けた。近隣の住民に近頃増えていると聞く。区民館の公開講座でも排除論やその方法論は人気科目で、駆除ボランティアも盛んに行われていた。

 浄化された大川は水圏(すいけん)の生物ばかりでない、様々な人も()きつける。高潔な理想を胸に抱く人々だ。帆織の事務所にもよく、環境保護活動のアピールに関する事業提携や協力の申し入れがある。もっとも、少なくとも現場レベルでは全て丁重に断っている。

 公的機関としての中立性を保つため、というのが表向きの理由だが、数少ない指導員で子供海賊を治めるだけでてんてこまいな日常へ、頭の湧いたロビイストの金切り声を追加する気になど誰もならない、というのが正直な話だ。それでもこの「人工楽園」に一枚噛みたい組織は多いらしい。最近では国際海洋保護団体の有名どころから「河川環境経営に関するオブザーバー参加の申し入れ」があり、原則通り丁寧に御断りしたのだが、素直に大歓迎されると考えていたらしい相手側からかなり辛辣(しんらつ)で攻撃的な物言いがついた。

「だから噛ませたくないんだってぇの」

 相手からの電話をようやく切った後、汐田(しおた)所長が大声でぼやいていたのを帆織も覚えている。結局、所長の巧みな誘導を受けたその団体は今、区と提携して「遺伝子多様性保護学」の公開講座を受け持ったり、実習と称したデモを主催したりしているらしい。この老人もそうした講座の受講者にありがちな「目覚めた」雰囲気があるようだった。

「まだ、足りませんか」

 帆織の問いに、

「まだです。まだ足りない」

 まだまだ、と歯を見せて笑う。

 水質環境が有史(ゆうし)以前とまで(うた)われるようになった大川で、外来種問題は確かに、現実的な次なる課題と言って良かった。水が澄み渡り、川の隅々(すみずみ)まで目を()らせるようになってみれば、ヨーロッパや中国原産のカニ類、北アメリカ原産の二枚貝など、記録に無い動植物たちが跋扈(ばっこ)するようになっていた。元々在った生態系は泥水の中で大きく変化していたのだ。完全排除論者はそれらを駆除し、大川の復活をさらに強化しようと声高(こわだか)に訴える。

「ですが」

 帆織は言った。

「生態系を元通り復活させることは、相当難しそうですね」

 彼はどちらかと言えば中立な見方をしているつもりだ。

 学生時代に生物学、特に遺伝進化学を専攻し、生物多様性保全の重要性を理解している。外来種についても、よく取り上げられがちな生態学や遺伝学分野での観点より主にウィルス学、疫学の観点から安易な導入はやはり避けるべきだと考えている。その上、彼はある意味、外来種によって実害を(こうむ)った。こうした点だけを考えれば彼自身、外来種(はい)すべし、と徹底的に唱えてもおかしくは無い。

 しかし進路が狂わされた経験そのものが(かえ)って、完全な信仰を(さまた)げもしたのだ。

 確かに彼は外来種問題によって人生のコースを捻じ曲げられた。だがそれは外来種そのものの問題ではなく、明らかに、人に起因する狂いだった。

 外来種問題に限らず、環境保全を隠れ(みの)に私利私欲を()やす連中がいることは確かだ。環境にせよ何にせよ「こう在らねばならない」という狂信はそうした連中につけいる隙を与える。既得権益を作る口実にもなる。まずは人が変わらなければ、いくら周囲の環境を良くしたところで、今度は人そのものに関わる汚染を生むだけだ、と帆織は思う。

 チチュウカイミドリガニの脱皮固体を「アメリカンブルークラブ」の名で売り出そうと画策した豊洲(とよす)水軍が「外来種で金儲けしようとはなんたること」と一部の大人たちに非難され、獲物も罠も没収されて燃やされる事件が以前あったが、不正の燃料になるくらいならば、水軍の子供たちのようにあけっぴろげに、堂々と利用する方がよほど健全な気がする。

「なに、簡単なことですよ」

 ニッと、老人の笑みが大きくなった。

「それが、あるべき姿なんですからね」

 帆織は答えに(きゅう)した。信仰者は苦手だ。それは変貌(へんぼう)した恩師を訪ねた時から確認済みだった。温かな微笑みを見せながら心を固く閉ざしている人間が彼には不気味だった。

 川を見やり、なんと言うべきか考える。

 穏やかにこの場を離れるには――、

「例えばの話なんだけどさ」

「え?」

 声に再び振り返り、帆織は目を見張った。

 トヨミがいた。

「おじいさんは?」

「おじいさん?」

 怪訝(けげん)な表情を向けられる。

 黙ってしまったこちらを不信心者(ふしんじんもの)と感じ、目を離した隙に行ってしまったのか。穏やかな表情のわりに意外と偏屈な性格だったのかもしれない。見回してみても、周囲にあの老人の姿は無かった。

「……この辺りのお年寄りは足が速いな」

「うん。うちの大叔母さんも、結構速いかな」

「君に大叔母さんが居るとは知らなかった」

「私も、あなたに彼女さんがいるなんて知らなかった」

「……見たのか?」

「キスされて、にやにや笑いながら地下鉄口にバカみたいな顔で突っ立ってるところ?」

 帆織は腕を組んだ。次会ったら思い切り叱りつけてやろうと思っていたのだが、

「……君はここで、なにしてる?」

「好きな人がいるとして、好きです、って言うのと、好きです、って言ってもらえるのを待つのと、どっちがいいと思う? ――ああ、だから、例えばの話ね」

「どうしたッ?」と目を丸くした帆織を見て、トヨミは慌てて最後の言葉を付け加えた。

「すまないが俺には婚約者がいるんだ。それに、年齢の差もある」

「ひどい勘違いだわ、おじさま」

「おじさまの方がひどい」

「オッサンでも何でもいいよ。参考に訊いたまでだから。それに、例えばって言ってる」

 で、どうするの、と促すトヨミに帆織は唸った。

「……俺なら、言うかな。うん、自分から言う」

「どうして?」

「結果はどうあれ、次に進むためだ。大事なのはそこだろ」

「次に進んでる人らしい意見だなァ。……なるほど」

 トヨミは妙に納得した様子だ。

 少々の沈黙、二人の(あいだ)を川風が通り過ぎる。

「で、そっちの話ってのは?」

 ふいにトヨミが言った。きょとんとする帆織へ向かって、

「言っとくけど、今日のお説教はいらないよ。あの三人しつこくてさ、水の中まで追ってこられたらあいつらが溺れちゃうから、陸にいるうちに追ってこられないようにしただけだもん。そうじゃなくて、このあいだ会った時、言ってたじゃない。(あと)で話があるって」

「イワシ漁の時か? だいぶ前の話だな」

「後で、とは言ってたけど、いつ、とは言ってなかったと思う」

「そりゃそうだが……」

「事件の時、私の体に触ったことについては、まあ、あの状況だから許してあげる」

「謝るつもりはこれっぽっちもなかったがね」

「じゃあ何? わざわざ来てあげたんだから、早く言ってよ。私、忙しいの」

 今度はトヨミが腕を組み、ねめつけるように見上げた。帆織は躊躇(ちゅうちょ)し、相手がこんな夜でも見慣れた潜水スタイルであることに目をつけ、

「忙しいってのは、やっぱり……」

「要点のみ、手短にお願いします」

「二つある。一つ目はジャック事件で君がなぜ俺たちを妨害したのかということ。二つ目は……あれはなんだ? あの時、川底で見たアレだ」 

 はいはい、とぞんざいにトヨミは頷き、

「やっぱり見たんだね」

「説明できるか? 君が犯罪に加担してないことと、あれの正体」

「犯罪に……加担?」

 (いぶか)しんだ少女、一転カッと目を見開き、帆織へ喰ってかかった。

「それ、私が強盗の一味だと思ってるってことッ?」

「言葉のあやだ。だけど、警察の突入を邪魔しただろ?」

「だから何!」

 胸を強く小突(こづ)かれ、帆織はよろめく。トヨミは本気で怒っていた。

「ただの女の子が特殊部隊を全滅させたんだぜ? 普通はありえない」

「あんな連中、水の中ではただのウスノロよッ。それが理由?」

「いや、だからさ。俺だって本心でそう思ってるわけじゃない。君が犯罪者の味方だとか魔女だとか信じてるわけじゃないんだ。君が本当はいい子なんだってことは分かってる。だが、結果的に彼らを利したことにはなるわけで……」

「知った風な口きかないで。通報でも何でもすればいい!」

 少女は棒立ちに突っ立って帆織を(にら)みつけた。両の(こぶし)はぎゅっと握りしめられており、

「ああ、もうッ!」

 地団太(じだんだ)を踏まんばかり、苛立ちを抑えきれない様子で(うな)る。

 ばかばかしい、と吐き捨てる呟きを帆織は聞いた。それはどこかで聞いた台詞(せりふ)で、

「きちんと説明してくれればいいだけの話じゃないか」

「そんなヒマ、無い!」

 握りしめた右の拳が、帆織の目の前にぐっと突き出される。 

「……な、なんだよ」

 帆織の問いにトヨミは唇を噛んで答えない。と、次の瞬間、勢いよくその拳を開いた。掌中(しょうちゅう)から放たれた水飛沫(みずしぶき)が顔面へ飛び、帆織は反射で目を(つぶ)る。両の(まぶた)がたっぷり濡れて、

「もっと、ちゃんと、見て」

 押し殺した声がした。続けざま、飛び込む水音が聞こえる。目をこすり、顔を(ぬぐ)った帆織が再び瞼を開いた時にはもう、夜の大川がとうとうと流れているだけだった。




© 2016 髙木解緒



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