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第一章 ALMOST PARADISE 1-5 仄暗い底の底から

1-5 仄暗い底の底から


「夜、川へ潜る時に気を付けること……?」

 アナジャコの巣穴を広げる手をぴたりと止め、こちらを凝視(ぎょうし)したコハダだったが、

「ダメよ! 絶対に、ダメ!」

 転瞬(てんしゅん)、跳びつくように食って掛かった少女に帆織(ほおり)戸惑(とまど)う。

「何考えてんの、保安官! あなた、保安官でしょッ?」

「だから、自由漁業者指導員だって……」

 相手の剣幕に、つい、話を逸らすような言い方をしてしまう。

 彼は川面(かわも)へ目をやった。最大干潮で潮が止まった水面(すいめん)は、干潟(ひがた)に降り立って眺めると満潮の時より一層ギラギラして見えた。焼け付く日差しは肌を刺し、磯臭(いそく)さが鼻につく。

 大川の本流から相生橋(あいおいばし)方向へ折れ、橋をくぐってさらに先にある水門へ入ると、朝汐運河(あさしおうんが)と呼ばれる細い水路がある。船道(ふなみち)として掘られた流れの中心を除けばごく浅い水路で、特に総合高校の校舎(うら)には大潮の干潮時ともなると、それなりの広さを持つ干潟が現れる。   

 水路の中にありながら広々したこの干潟ではアサリなど貝類も取れるが、それ以上にアナジャコ釣りの名所(めいしょ)として水軍の子供たちに人気だ。この日も午後の河川巡回で帆織が通りかかると、ちょうど、コハダたち佃水軍の主要メンバーが鉢巻(はちま)きのように頭へ巻いたタオルに古い(ふで)を何本も挿して、バケツ片手に地底の住人と格闘しているところだった。

「コハダ、うるさい」

 かたわらで、今まさにアナジャコ釣りの佳境(かきょう)を迎えているマルタが声を押し殺し、じりじりした口ぶりで言った。

「シャコが逃げるだろ」

「だって、保安官が……変なこと言うんだもん」

 弁解しかけたコハダも最後のところは声を落とす。慎重な面持ちになる。

 見れば、しゃがみこんだマルタの足元で、巣穴の入り口へ穂先から差し込んだ毛筆(もうひつ)がそろそろと押し上げられ始めていた。ここで警戒されてしまえば、また最初からやり直しになるのだ。

 アナジャコは、シャコと名は付いているものの、寿司ネタなどで御馴染みのシャコとは別種の甲殻類である。全長は一〇センチ程度、ザリガニに丸みをつけ、上品に仕立てたような外見をしている。赤みがかった茶褐色や、くすんだ灰色の個体が多い。日本各地の干潟に、出入り口が二つある、全体的にY字形をした深い巣穴を掘って暮らしている。

 この甲殻類、しっかりと泥抜きしてから爪と腹側の脚を取り、みそ汁の具にしたり、揚げ物にすると独特の滋味(じみ)が感じられて実にうまい。九州有明辺りでは名物料理だが、この大川でも水がきれいになってから食べる人、好きな人が増えた。今回も聞いてみれば地元の老人ホームから出汁(だし)用にと注文を受けての漁なのだと言う。

「特に意味のある質問じゃないんだ……なんとなく思っただけさ」

 マルタの足元を注視しながら帆織はコハダへ(ささや)いた。

「ほら、夜行性の生き物を観察するには夜、観察するのがやっぱり一番だと思うだろ? この間のクルマエビの話じゃないけどさ」

「夜の川は危ないの」

 コハダも声を潜め、しかし厳しい調子で囁き返す。

「水軍はもちろん、そうでない子も、ここらへんの子は基本的に夜の川に出ない、って決まりを守ってるでしょ。夕暮れ前には絶対バヤックを陸上(りくあ)げする。川に近づかないし、夜っぴて罠を仕掛けとくこともない。フィンズの連中は夜罠を仕掛けるらしいけど、あれは元々、ルールを無視することが結成の動機みたいな悪党連中だからね」

 そこへ大人が悪い手本見せてどうすんの、と指摘されれば、帆織には返す言葉も無い。

 と、再びマルタがぎろりとこちらをねめつけたので、二人は慌てて口を閉ざした。彼の足元では深く差しこまれていたはずの筆の()が独りでに高々と押し上げられて、いよいよ、穂先の付け根まで見え始めている。ここからが肝心だ。

 アナジャコは深い巣穴に隠れ住み、泥中(でいちゅう)の微生物を食べて暮らす大人しい生き物だが、巣穴への侵入者には厳しく対処する。アナジャコ釣りはその習性を利用した古くからの漁法だ。

 使い古しや安物の毛筆を穂先からアナジャコの巣穴に差し込んでおくと、アナジャコは筆先を縄張りを荒らす侵入者とみなし押し出しにかかる。その様子はのんびりした見た目とは裏腹に非常に攻撃的で積極的だ。筆先を鋏状(はさみじょう)の前足で掴み、ぐいぐい巣穴の外へ筆を押し上げる。ついには入り口まで筆を押し上げ、仕上げに侵入者を放り出そうとする。そこを巧く捕まえるのだ。アナジャコの巣はとても深いため、干潟を掘って掴まえるのは効率が悪い。専門の漁師は大掛かりなポンプ一式を使うが、水軍の気軽な漁には少し重装備が過ぎる。ハンティングの醍醐味も味わえる筆漁がやはり一番やりやすく、面白い。

 筆先につられてアナジャコが穴の口まで到達したのを見計らい、マルタが手を泥の中へ突っ込む。よし、と頷いたのは指先がアナジャコを捉えた証拠だ。鋏だけを(つか)むと自切(じせつ)されて逃げられるので、指先の感覚を頼りに素早く本体を捕まえるのがコツである。ズボッ、と音がした次の瞬間、良いサイズのアナジャコが砂泥(さでい)混じりの水を(したた)らせながら彼の手の中にある。

 獲物がバケツへ放り込まれるのを見届け、帆織とコハダもホッと一息ついた。

「だけど、大人は夜でも出てるじゃないか」

 帆織が食い下がって会話を再開する。まだ言うか、と見上げた瞳に睨まれたが、

「ルアーを使ったスズキの夜釣りなんか相当流行ってるって聞くぞ?」

 大人らしくないしつこさだな、と我ながら思う帆織である。

 調査計画のリサーチとして役立つことがあればという思惑もあるにはあったが、どちらかと言えば話の流れで軽々しく夜間潜水の話題を振った数分前の自分が少し、恨めしく思われなくもない。今朝方(けさがた)、事務所で調査計画の資料を読んで以降、ジャック事件についてずっと思いをめぐらせているからかもしれない。そういえば、あの夜もコハダはメールで警告していた。

「ほんとはあれもやめさせるべきなの。保安官にもっと力があるならね」

「厳しいこと言うなぁ」

「私が、ううん、ここの子供が厳しいわけじゃないよ」

 自分の狙う巣穴の入り口が見えやすいよう、砂を掻き広げる作業を再開したコハダが言った。

「大人は鈍感なんだよ。すり減って鈍くなってる。あるいはフィンズ。あのメンバーには内陸からの移住者の家の子が多いの、知ってる? あの子たちが夜の大川へ平気で関わろうとするのは多分それが原因じゃないか、って私は思ってる。やっぱり鈍感なのね」

「鈍感? ……何に」

 少女は腕を組み、眉間(みけん)にしわを寄せる。言葉を探し、

「気持ち悪さ……かな?」

「――気持ち悪さ?」

「実際は、協定の理由づけみたいなもんさ」

 背後から声をかけたのはカジメだ。話を聞いていたのだろう。二人が振り返ると、 

「いくら川がきれいになって、資源がどっさり戻ってきたと言ったって、()りつづければまたどうなるか分からねぇ。それは今日び、子供だって分かる。いやよ、漁が財布に直結する分、水軍の子供らの方が資源管理を考えてンだよ、保安官」

 それはそうだろう、と帆織も思う。子供たちの漁は規模でこそ専業漁師に比べて可愛らしいものだが、(さい)穿(うが)つ目の鋭さと欲望への素直さではよほど大人たちに(まさ)っている。資源管理は重要な課題だ。

「だからこそ大川の水軍同士には、最も魚が油断しやすい夜、川で漁をしないっていう協定があるんだ。夜は他の生き物たちの時間。漁は夜明け後から日没前までとする、ってな。だけど、管理漁法(かんりぎょほう)だなんだって小難しい理屈を(はな)っから理解しようとしねえ馬鹿もいないわけじゃない。小さい連中はましてそうさ。でもよ、なんとなく危ない、不気味で怖いものなんだってことにしとけば、チビ共もそういうもんかなと思うじゃねえか」

 カジメの釣り方は筆をほとんど使わない。最初の一匹だけ筆を使って、あとは捕まえたアナジャコを(おとり)にするのだ。

 逃亡防止にひも付きの洗濯ばさみを囮のアナジャコの尻尾へ付け、狙いの巣穴に頭から差し込んでおく。巣穴の主が囮へ攻撃を始めたところを見計らい、ゆっくりと引き抜く。

 筆が囮に変わっただけだが、筆を使うよりもずっと警戒させないで捕まえられるというのがカジメの持論だ。言うだけあって、彼はひどく無造作にひょいひょい釣り上げながら話をしている。資源管理の必要性を確かに感じさせる腕前(うでまえ)だった。

「まあ、トヨミみてえに皆での決め事なんか屁とも思わねえで夜の川へ出る魔女っ()もいれば、今コハダが言ったみてぇに、フィンズなんかは()け置きのはえ縄やってるって噂だけどよ」

「エビとかスズキとか大雨の後のウナギとか、夜の方がよく獲れるに決まってるしなぁ」

 少し離れたところで再び筆を仕掛けているマルタも同意の声を上げたが、

「つまんない噂、保安官に吹き込まないでよ。それにカジメの意見、ぜんッぜん、違うッ」

 コハダが勢いよく首を横に振る。

「夜の川はほんとに危ないの! カジメ、あんたこの間のカメラ、全然反省してないでしょッ?」

漁労長(ぎょろうちょう)さんの御指示(ごしじ)だからな。泣く泣く、ちゃんとやめたぜ」

「あんたねェ……」

「何が危ないってんだい? そりゃ、夜の水辺が危険なことくらいは俺だって分かるし、むしろ夜遊びは絶対にやめてほしい。だがコハダ、君の言い方じゃ……」

「そういう危険」じゃないみたいに聞こえる、という帆織の言葉に、少女は顔をしかめた。

「カジメは夜の大川へ直接出向(でむ)くって言ってるわけじゃないだろう? 遠隔操作型のカメラを使った録画さえダメ、ってのはどういうわけだ?」

 コハダは(うな)り、

「……私、話したくないんだよね。絶対バカにする奴がいるから」

「お前は迷信深いからな。元々怖がりだし、変なところでビビりなんだ」

 笑い声を上げたマルタの顔を泥の塊が襲った。コハダが咄嗟(とっさ)に掴んで投げつけたのだ。

 罵声(ばせい)を上げながら波打ち際へ走る幼馴染みへ鼻を鳴らし、

「でもいいや。保安官なら、真面目(まじめ)に最後まで聞いてくれると思うし」

 確かめるような、(いど)むような目つきを向けられて帆織は頷く。



 立ち上がって腰を伸ばしながら、小学四年生の頃の話だけど、とコハダは前置きした。

「夏休み入ってすぐよ。本物のバヤックレースが見てみたくて、その頃うちに居候(いそうろう)してた叔父さんに有明のレース場へ連れて行ってもらったの」

「お台場の、バヤック競艇(きょうてい)?」

 帆織の問いに彼女はコクンと頷く。

「うちの親はそういうの嫌いだから、内緒でね。それで叔父さん、大穴当てたんだ」

 それまでもっぱら競馬に傾倒していたコハダの若き叔父は、自身初めてとなるバヤック競艇で超弩級(ちょうどきゅう)の大戦果に狂喜乱舞だったのだそうだ。コハダは思い出し笑いしながら、

「私が組み合わせ決めてさ、これがドンぴしゃ三連単! 記録に残る穴も穴!」

「有明の三連か、すげぇ!」

 カジメが叫ぶ。

「お前、天才だろッ?」

「私だって初めてだったから、単にレース前の周回(しゅうかい)見て、()さそうなの選んだだけよ?」

「でもよ、なんかコツとかさ」

「そうだな、ポイントはレーサーの肌の――」

「待ってくれ」帆織が制し、

「コハダ、俺が聴きたいのは、その先の話だ」

「オーライ、わかってるって保安官。あせんないでよ」 

「あとカジメ、未成年の賭博(とばく)は違法だからな」

「足の悪いじいちゃんの付添(つきそ)いでたまに覗いてるだけさ」

 ほんと固いナァ、とカジメは小馬鹿にした口調でうそぶき、

「それでどうなったんだよ、コハダ。その、大穴当てた後の叔父さんとお前の話な」

「私は叔父さんにとって、幸運の女神、ってことになったの」

 コハダは少しおどけて胸を張った。感謝感激雨あられ、彼女の叔父は普段からしてかなり、この姪っ子に甘かったが、この日はそれが一層だったらしい。気が大きくなり過ぎたものか、

「まずは、いい焼肉屋さんに行ってたらふく、食べさせてもらった。そのあとは銀座まで足を延ばして、文房具や本をこまごま買ってもらって、最後に買ってもらったのが――」

「あの顕微鏡だ」

 顔を拭き拭き戻ってきたマルタの台詞(せりふ)に、コハダがにんまり、いわく有り気に微笑む。悪戯(いたずら)っぽく目配せしたりする。

「研究者が使う本格的なやつさ。その頃はこいつの家に行くたびに自慢されたもんだ」

「保安官ならきっと知ってると思うな。国内メーカー製で見た目はシンプルな普通の双眼実体顕微鏡そうがんじったいけんびきょうなんだけど、ディスプレイ接続のデジタルズームで拡大倍率を千倍まであげられる機種。もちろん超高解像カメラも付いてて、試料台には高輝度バックライト付き!」

「子どもには過ぎたおもちゃさ、保安官」

「よく言う、あんただって使ってるじゃない! 去年の自由研究で地区優秀賞取れたの、誰のおかげ? そういやパフェおごる約束もまだ――わかってるって、保安官!」

 コハダに先手を打たれ、帆織は開きかけた口を苦笑いに変えた。

「じゃあ、よろしく」

「まあ、すぐばれて、叔父さんはお父さんにこっぴどく叱られちゃって、危うくうちから追い出されるところだったんだけど、私には最高の一日だったな。少し注意はされたけど、ちゃんとした顕微鏡ずっと欲しかったから。今年の自由研究は(もら)ったぜ、って思ってた」

「あれ? でも、小四の時って言えば……」とマルタ。

「お前の自由研究、セミの()(がら)標本じゃなかったっけ?」

「よく覚えてるなぁ! ファンなの? ストーカーみたい!」

「夏休みの最終日に、人を街中(まちじゅう)連れまわして抜け殻探しさせたの誰だよ!」

「誰だっけ?」

「お前なぁ――」

「その顕微鏡に絡んでくる何かがあって、コハダは不本意ながら自由研究のテーマを変えざるを得なかったってことだろ? 何があったんだ?」

「やっぱり保安官、鋭いわね。こいつなんかずっと一緒にいたのに、愚痴言うばっかりでさ、こっちの変化に全然気づかなかったもん。気配りが足りないよね」

「抜け殻探しに付き合ってくれただけでもありがたいさ」

「そうかしら?」

「そうだろ!」

 マルタの叫びを無視し、それはともかく――、とコハダの声の調子が変わる。

「保安官の御指摘(ごしてき)通り、最初は顕微鏡をフルに使いまくった自由研究をするつもりだったんだ。せっかく買ってもらったのに、そうしないなんて馬鹿よ」

「何をしようとしたんだ?」

「大川で観察される動物プランクトンの分類リスト作り」

「そりゃまた……対象が膨大だな」

「怖いもの知らずだったの」

 にやり笑って肩をすくめる少女を見て、帆織も「なるほど」と微笑みかえした。

「それで、夜の大川が関わってくるわけだ」

 神妙な面持ちで頷くコハダ。

 プランクトンの多くは(せい)光走性(ひかりそうせい)、つまり明りに引き寄せられる習性を持つ。都市の照明が漁火(いさりび)のように川面(かわも)を照らす大川でその習性を利用しない手はない。また、昼は水底付近にいる種類が夕暮れ以降に浮上して来ることも多いので、多様性に富んだプランクトン集めには夜間採集が欠かせない。その頃のコハダはもちろん、それを知っていた。

「でも、夜の大川に子供は近づいちゃいけない、とも知ってたしさ」

「大人と一緒に行けば、どうなんだ?」

「その頃の私もそう思った。大人と一緒なら多少は大丈夫だろうって。大人は夜釣りとかしても平気なんだし。だから、採集には叔父さんについて来てもらったの」

 最大満潮の潮止まり、丁度(ちょうど)この辺りだよ、と少女は広い川面を眺め渡す。

 昼間、こうして見る川に陰気な気配は微塵(みじん)もない。広々する干潟の隙を縫うように、しかしなみなみ、とうとうと平和に流れている。子供が遊び、大人が行来している。

「まあ、大学生だった叔父さんが大人と言い切れるかどうかは微妙だったけどさ」

 兄と兄嫁から散々にお説教を喰らい、それまでの食費やら生活費やらを徴収(ちょうしゅう)されてコハダの叔父は陰鬱(いんうつ)な様子だったが、姪の学習に貢献する理知的な叔父という建前(たてまえ)もあり、渋々ながらコハダのフィールドワークに付き合ってくれたらしい。プランクトン採集は網目の細かい専用ネットを水中で引いて行う。バヤックを出して引き網漁みたいにすればいいとコハダの叔父は提案したのだが、

「さすがに、それはやめたのよ」

 その場合は彼女の叔父にバヤックを漕いでもらい、荷台へ乗ったコハダが後ろ向きにネットを操ることになっただろう。だが、

「……何か、嫌な感じがしたから」

「嫌な感じ?」

「叔父さんの腰にしがみ付けば、私の背中がノーガードでしょ? 後に何かいたら困る。でも逆に、叔父さんと背中合わせに乗ったら、私だけ、何か見ちゃいそうじゃない」

 くぐもった笑い声を立てたマルタの(すね)をビーチシューズの爪先が蹴り上げた。シューズの主は無論コハダだ。涙目になって呻く少年を帆織はちらと見やり、

「……それで?」

 結局、コハダと叔父は護岸(ごがん)の遊歩道から採集することにしたのだそうだ。長いロープの先に繋いだ専用ネットを流芯(りゅうしん)目掛けて投擲(とうてき)し、二人でロープを引く。超小型の地引き網だ。

「採集自体はうまく行ったの」

 コハダが言った。

「網を引き上げたら、明らかに生き物っぽい粒々がいっぱい底の方に()まってて、夜光虫みたいなのもぽちぽち光ってたりしててさ」

 二人はロープの先をバケツに付け変えて川水を汲み上げた。持参したガラス製の大きな広口瓶(ひろくちびん)にその水をたっぷり注ぎ込み、裏返しにしたネットをその中へ突っ込んで捕獲した大群衆を移し替え、蓋をしっかり閉めた。

「その日は、それでおしまい」

 水を満たした瓶や濡れた荷物を叔父に持たせ、コハダは意気揚々(いきようよう)と家へ帰ったものだ。

「なぁんだ、夜の大川が怖いって言っても、こんなもんかな、って」

 今のコハダは遠い目つきで、ふっと微笑む。

「帰ったらちょうど晩御飯のできたところでさ、私は叔父さんから受け取った瓶を自分の部屋の机の上に置いて、それっきり」

 母親得意の唐揚げを叔父や父と奪い合うようにして(むさぼ)り食い、満腹の腹をさすりながら叔父とテレビゲームをやり、居間で少し宿題の残りをやり、母と刑事ドラマを見てから風呂に入り、髪を乾かしながら今度はバラエティ番組を見、いざ就寝、となって自室へ戻るまで、

「瓶のことは忘れてた。どっちにしろ、詳しい観察は次の日から始めるつもりだったし」

 ベッドに入ったコハダは瞬くうちに眠りに落ちる。そして真夜中頃、ふと、目が覚めた。

「音が、聞こえた気がしたの」

「音?」

「トトンッ、って。お祭りの御囃子(おはやし)の始まりに、小太鼓が少しだけ鳴った感じ」

 目を見開いた彼女はしばしぼんやりとし、それから、照明を全て落としたはずの室内が妙に薄明るいことに気が付いた。そして同時に、光源が机上(きじょう)にあることにも気が付いた。

「私の部屋、ベッドから勉強机の上が見える配置になってるんだ」

 コハダは簡単な自室の間取りを砂地へ指先でなぞって見せる。

「で、よく見るまでも無く机の上で大きな塊がぼーっと光ってるのが見えたのね。ベッドから出た私はゆっくり机に近づいた。その時にはもう、プランクトンを入れた瓶が光ってるんだ、ってわかってた。あと、ちょっと、うるさかった」

 耳を澄ますまでも無い。最初に聞こえた気がした音は、鼓動より少し大きい程度ながら、既に一定のリズムとなってコハダの耳へ届いていた。

「おもちゃ屋さんの小っちゃい子向けコーナーにさ、ウサギとかサルのぬいぐるみが太鼓を叩くおもちゃあるじゃない? あのボリュームを下げて、もうちょっと軽く上品にした感じの音なの。トントントトントントトン――」

 コハダは記憶を探って口ずさむ。

 彼女がばちを振る仕草をして見せた時、帆織は、自分の全身がくまなくざわめくのを感じていた。それは単なる血流の増加か、それとも……悪寒に似ていたかもしれない。

 間近(まぢか)に立ち、改めて瓶を見たコハダは眼前(がんぜん)の光景へ一瞬にして魅入られた。

 夜光虫やウミホタルなど発光微生物が光っているのかと思ったが、そうではなかった。水だった。水そのものが青白く輝いていた。(ささや)くような輝きは、ぬるぬると粘度を上げてガラスの内側を流動する。

 そしてその中で、

「みんながね、躍ってるの」

「みんな?」

「プランクトンたちよ。輪になって、踊ってるの!」

 その時の興奮を段々と思い出して来たのか、コハダの口調も上ずっている。

 極微(ごくび)に息づく有象無象(うぞうむぞう)、カイアシ類は立ち泳ぎしながらふさふさ毛の生える長い触角を振り回し、遊泳性介形虫(かいけいちゅう)()んだり()ねたり、珪藻(けいそう)やべん毛藻(もうそう)はくるりくるりと大回り、放散虫(ほうさんちゅう)のトゲトゲ、カニ幼生(ようせい)のカクカク、ゴカイ幼生のニュルニュル、果てはただ一点に(とど)まっていつまでも振動し続ける各種の魚卵(ぎょらん)に至るまで、確かに全てが踊っていた。軽妙な小太鼓のリズムに合わせ、盆踊りのように大きな円陣を組んで踊っていた。それはそれは嬉しげに、楽しげに、響き渡る水の旋律(せんりつ)を全身でめいっぱい味わっていた。

 トントントトントントトン、トントントトントントトン――。

 マルタが(あき)れ声で、

「顕微鏡で見るようなプランクトンたちが肉眼で見えたってのかよ? ありえないだろ」

「見えたんだから、しょうがないじゃない!」

 見惚(みと)れていたのはほんの数秒だったか、それともかなり長い間だったか、いずれにせよ彼女はいつの間にか、微生物たちの輪の中で一緒になって踊りまわる自分を感じていた。

 ただでさえ小さい彼女の体はどんどんどんどん小さくなって、体全体に水の表面張力がひしひしと感じられた。押し込められながら引っ張られるようで、だがそれは不快な感触ではない。太鼓のリズムに呼応し、呼び覚まされた原始の旋律が体の内からあふれ出してくる。原初の海。生命の源。濃縮され、ガラス瓶に詰め込まれた命のざわめき。きっかけの稲妻がスパークする。髪の毛を愉快にたなびかせ、でたらめな阿波踊りか何かのように手足を動かして彼女は踊る。体を揺する。くねる。笑って踊って、踊って笑って、

「トントントトントントトン、トントントトントントトン――」

 そして彼女は唐突に気付いた。

 総身(そうみ)の毛が逆立って一気に引き戻された。彼女は瓶の外にいた。だが、瓶の中にもいる気もした。深い海の水圧が四方八方からきゅうきゅうと体を押す。耳鳴りがする。瓶の水は光ってなどいない。暗く暗く、海溝の深淵(しんえん)めいて暗く――。

 気が付けば毛穴や汗腺(かんせん)、体中の穴という穴から臭いの分子が引きずり出され、闇の中へ拡散していた。ぞっとした。(こら)えてもどうしようもない。止めたくても止まらない。深海で少女の体臭は濃すぎるのだ。柔肌に厚くまとった臭いの粘液は、ほんのりと青白く闇に輝く。彼女は悪目立(わるめだ)ちしている。ざわめいて目立ち過ぎている。だから、やはり、

「誰か、見てた」

 誰か私を見ていたの――、とコハダは繰り返した。

「私が瓶の中にいるプランクトンたちを見ていたように、誰か、外側から私を見ていた。私を包む世界というガラス瓶の外側に誰かいて、暗い部屋の中でひとりのんきに、もっと小さな世界にくぎ付けになっている私をじっと見てた。瓶の中で踊る私を眺めてた。それからね、私、自分がパジャマしか着てないことにも気付いたんだ」

 ライフジャケットは、着ているはずも無かった。

「知らないうちに私の体はすごく疲れちゃってた。夢中で踊ってたから」

 今、潮の流れに飲み込まれても、浮かび上がれる保証はない――。

「そしたら、私が気付いたことに相手も気づいたらしいんだ。暗がりの中で、誰かが笑う気配がしたの。声を出すんじゃなくて、きゅーっと、口のはしを吊り上げる笑い」

 小さき者への(あざけ)り、無力な気付きへの嘲笑(ちょうしょう)

 空間へ浮かびゆく無数の泡に、いやらしいそいつの笑顔が映るようだった。

 コハダは確信した。視線の悪意を。罠だ。これは罠だ。

「瓶に覆いをかけて、布団に潜り込むのが精いっぱいだった」

 それでも彼女はまだ自分が暗い水中にいる気がして、息を止めたままでいた。呼吸することができなかった。我慢して我慢して、だが少しづつ口から息が漏れ出して……。コポ、コポコポ……、体中の力が抜けて、

「もうだめだって、思った」

 気が付けば朝になっていた。彼女は黙って起き上がり、何事も無かったかのように澄んだ水を(たた)えるガラス瓶を、そっと持ち上げて自室を出た。便所へ行き、下水に中身(なかみ)を流した。ガラス瓶は玄関外にある水道口で洗い、そのままリサイクルに出した。


「だからさ、やっぱり私、夜の大川って()くないと思う。危ないと思うんだ」

 コハダは真剣な顔で話を結んだ。

「それからは私、昼の川だって気を許したことないんだよ?」

 でけぇ、といつの()にか話の輪を離れて漁に戻っていたカジメが興奮した声を上げた。十五センチはあるアナジャコが囮をがっちりホールドした状態で穴から引きずり出される。歓声を上げてそちらへ走り寄っていくマルタを一瞬ちらと見やり、しかしコハダはすぐさまこちらへ視線を戻した。

「あの視線がなんだったのかは分からない。でも、つながっちゃいけないものだってことは、はっきりと分かったんだ。……だから保安官、私は」

 帆織を見据(みす)える彼女の両目は確信と警告に満ちている。

「夜の川を、おすすめしない」




© 2016 髙木解緒


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