第一章 ALMOST PARADISE 1-4 日本の黒い鱒
1-4 日本の黒い鱒
帆織はあるレポートを書いた。ある川を管理する漁業組合を主題としたものだ。
水産資源の排他的独占を保障される漁業権については、漁業従事者の生活や文化、権利を守るために重要である一方、適切な行使が求められている。佃水軍が闊歩する大川は、一度死んだとされ、漁業に関する権利関係が多く放棄されていたこと、また甦り方が異色であったことなどから、たまたま多くの問題を今のところ免れているだけに過ぎない。
内水面における漁業組合の主幹事業の一つに、管理河川や湖沼への遊漁対象魚の放流がある。
天然資源だけでは個体数に限りがあり、需要を満たせず釣り客を呼べないので、鮎や鱒類などを育成して放流し、遊漁料を徴収して釣り客に釣らせるのである。即ち、川を一本の巨大な釣り堀にする。昨今でこそ、この放流一辺倒のやり方は見直されてきているものの、一時期、日本の内水面は北海道等の一部を除いて総釣り堀化していたこともあった。
しかし帆織が調査したその組合は当時、放流事業すら、隔年のこどもの日に行われる鯉の稚魚放流以外にはしておらず、ほとんど形骸化していた。昔、この川で魚を獲っていたと自称する人の子孫の、そのまた子孫のための養老年金機関となって中学生以上の「大人」から遊漁料を徴収することで運営されていた。
だからその川の組合から「遊漁対象魚保護のための外来魚撲滅事業助成金」の申請が出された時には、誰もが(実態を知っていれば)首を捻ったはずだ。遊漁対象魚の「放流」はされておらず、むしろその川では撲滅されるべき外来魚、ブラックバスが唯一、やって来る釣り人たちの対象だったからだ。
日頃、その川に来る釣り人の中には「遊漁対象魚」ではない魚を釣るのになぜ遊漁料を払わねばならないのだ、と現場廻りの徴収人に食ってかかる者もあったが、多くの釣り人は「河川管理費」のつもりで渋々金を払っていた。
そもそもブラックバスフィッシングは「侵略的」外来生物を対象とし、その上、日本人にはただの魚虐待ととられることも多い「キャッチ&リリース」を主体とする釣りで、釣り人たちも以前より胸を張ってできなくなっているという事情がある。数百円如きで騒ぎ立て、今や貴重な釣り場を失うのは得策でないと判断したのかもしれない。あるいは「遊漁対象魚」が「外来魚」の餌になっているのだから、という理屈で納得した人もあった。ならば外来魚を遊漁対象に加えれば話が円滑になると思われ、また大部分の河川管理は実質、国と土建屋がしているのだが、今の問題はそこではない。
その川では他に幾つも不思議なことがあったのだ。使途不明な助成金にあっさり認可が下りたり、外来魚の推定生息数が撲滅運動の盛んなわりにはなぜか増え続け、それに合わせて助成金の額もまた増え続けたり、そういうことだ。
帆織は当初、単に、外来種撲滅運動のモデルとなりそうな河川があるから調査せよ、とだけ指示を受けたのだった。そして後に、当該河川が対象として選ばれた理由を聞いてみれば、その川が都市近郊を流れ、それなりに知名度があったからに過ぎなかった。
環境省の下請けのような仕事で上司もあまり乗り気でなく、帆織は実地に現場を訪れるまで、この仕事はすぐ終わると思っていた。一日かからないはずだった。
それが車を降り、
「釣れますか」
何気なく一言、そばにいた若い釣り人へ尋ねたのがきっかけで、
「いやぁ、良く釣れるッスよ」
気さくに答えた相手の釣り道具を見、携帯端末の釣果写真を見せてもらって、ふと疑問に思ったことが未来の変わる始まりだった。
若い釣り人のターゲットは撲滅運動が進んでいる「はず」のブラックバスで、その上、彼の好成績は彼の手腕によるものではなく、ここに来れば誰でもそうだということを帆織は聞いた。写真には五〇センチを超える大物も三尾、含まれていた。よほど鈍い人間でも違和感を覚えたはずだった。なぜならその場所は前々日、大規模な駆除作戦が展開された「はず」で、相当な大打撃を外来魚どもに与えた「はず」の場所だったのだから。
一.なぜ大規模駆除が行われた場所で、しかも作戦のすぐ後で、駆除対象が豊漁なのか?
二.駆除は本当に行われたのか?
三.駆除が行われなかったとすれば、そのための助成金はどこへ行ったのか?
ありがちな話だ。
とは言え、専門家ではない帆織には荷の勝ち過ぎる話だった。それで「この川では業者が駆除を徹底していない可能性があり、モデル河川として不適当」程度に仄めかした結論と、その答えを導き出すために用いた資料、データの類を添付して提出するに留めた。それは客観的に見ても、あくまで彼の仕事の範囲内のものだった。
誰かの領分を侵したわけでもない、決定的に誰かを告発したわけでもない。ただ自分の微々たる正義感と良心を少し満足させるために、少し方向性のある展開をして見せただけだった、と彼は今でも思う。
だが、その「少し」が気に食わない人間も居る。
処分が下った後のことで最早知りたくも無かったが、帆織は金の流れについてもう少し詳しいことを当時の上司から聞かされた。
釣り人の御布施はきちんと自称漁業関係者たちの懐に届いていたそうだが、助成金の方は組合から駆除作業を請け負う業者へと支払われるように見せかけて、どこかの邸宅に掘られた池で錦鯉の餌代になっていた、らしい。そしてその邸宅の持ち主は漁業組合を使ったからくりを使うだけあって、農水省のお偉方と仲が良かった、らしい、云々。
帆織の務める水産庁は農水省の外局である。雲上の交友関係を下っ端は知らぬ、という言い訳は通じない。
「まぁ、報復人事、という見方もできるけどねぇ」
上司は言った。なんでも駆除業者を含む関係各所に査察が入ったのは、なぜか流出した帆織の報告書が後押しになったかららしい。ただ、本命まではその効果も及ばなかった。
そして帆織は大川へとやって来た。
※
前方から滑走してきた娘たちの一団は帆織の顔見知りだ。
目が合う間もなく挨拶を寄越す。毎日着ている揃いの制服から見て、上流にある高校の生徒なのだろう。「おはよう」と返す彼の横を、バヤックを巧みに操る少女たちは笑い声とともに、朝もやを纏っては脱ぎ纏っては脱ぎ、白い歯を煌めかせながら通り過ぎる。
大川の七月、朝の風景。
日に日に日差しが強くなってきてはいるものの、この時間の川面はまだだいぶ涼しい。
両岸に聳え立つビル群が日光を遮り、また、夜の間に川面を強く吹き抜ける海風が停滞する暑気を拭い去って新しい朝を用意している。自然、行きかう人々の顔にも余裕がある。
そんな大川の水面を帆織は毎朝、職場へ通うのだ。よほどの大風で水面が荒れない限り通勤に陸路を使うことはほとんどない。雨が降れば少しつらいが、水上移動者が増えた今ではシャワールームの導入と就業前のシャワータイムが多くの職場で一般化している。汗や潮気を落としたり体を温めるのが本来の目的だが、爽快感を得る名分に水上移動を選択する者もいるらしい。江戸の街にあった朝湯の習慣も大川の近辺で甦りつつあると聞く。
船体が表層の横流れに押されてしまわない程度にゆっくりペダルを漕ぐ。職場は下流にあるから、それだけ注意していれば、あとは流れに任せて自動で目的地へ到着出来る。気楽なものだ。
この時間、帆織のように川下へ向かう者は少ない。水上を滑走している人々のほとんどが河口に浮かぶ佃島、月島・勝どき、晴海など人工島界隈の住人であり、大抵はこれから川を上り、近くは日本橋のオフィス街、猛者は板橋区の学校あたりまで通勤・通学する。
今度は顔見知りのサラリーマンが数人、にこやかな会釈とともに通り過ぎて行った。
各人へ必要以上の空間が与えられる広々とした水の上は、痴漢の濡れ衣を警戒し、骨の硬さも関節の向きも無視されて満員電車へ押し込まれる陸の朝とは比べようも無い。人々の顔が晴れ晴れとしていること、青空以上の大川だ。
水上通勤!
それは今や、内陸部都民羨望の贅沢となっていた。
次々と建つ超高層ビルディングが海陸風を遮ることでヒートアイランド現象は促進され、灼熱の鍋底となった都市の内側では昼と夜の気温差が日に日に無くなる。熱帯夜が一日と一日をぺったり貼り合わせて長い長い一日にしてしまう。
内陸では日にちが連続する。
日付は事務処理の印に過ぎず、更新されない一日の中、不況だの無能政治だのといった各種社会問題からごく個人的な問題まで様々に粘つき、汗だくのごった煮になった人々は差し水もされないままにどんどん煮詰められてゆく。飲めもしないスープに変わる。
だが水の上は違う。人が様々な問題を抱えていることは同じだろうが、ここには明確な朝がある。一日一日は毎日きちんと更新されて、時間は連続しながら生まれ変わり続けている。明けない夜は無い、その言葉の根拠がここにある。
それだけで、この川に来たかいがある、と帆織はいつも自分に言い聞かせていた。
家賃の関係で出張所のある佃島では無く、大川を挟んだ向かい側、越中島と永代の間に部屋を借りたのも結果としては良かった。川へ出る以外には何をするにも不便で、遺跡的風格すら漂わせる年代物のアパートだが、水上通勤の後押しになると思えばそれも悪くない。陸の上にだが専用の駐輪場もあり、公共のスロープからもほど近く、バヤックをスムーズに取り扱えることを考えれば、大川を仕事場にするのにはおあつらえ向きな住まいだ。
バヤックは貸与でなく、自前の新車を買おうとすぐ決めた。出張所への異動が決まったその日の昼休みには、当時のオフィスからネットで注文した。
最初はあてつけの気持ちもあったかもしれない。だがメーカーサイトでパーツオーダーを繰り返し、モニターの内に未来の愛艇が組み立てられていくのを見ているうち、気持ちが乗っていた。
あれはこの朝への予感だったのか。
周囲から自分の背中へ集中する嘲笑混じりの好奇な視線に気づいてはいたが、あまり気にならず、むしろ彼らへ見せつけるように、予算の許す限り最良の仕様を頼んだ。もっとも、仮に真後ろからディスプレイを覗き込んだところで、純然の陸上人たるあの頃の同僚にパーツの善し悪しなどまるで分らなかっただろう。
納品日は引っ越しの当日だった。子供の頃、欲しかったおもちゃを手に入れた時の興奮を彼は久しぶりに味わった。色はガンメタル。機能重視、質実剛健なデザインと相まって蒸気機関的な力強さを感じさせる容貌だ。外洋型の双胴艇でエンジン付き小型ボートを一隻、軽く曳航できるくらいにパワーがある。自重が重いため漕ぎ抵抗は少々大きいが、多少の波風にはびくともしない。
また、通常モデルで標準装備されている大型荷台は取り外して座部を延長、完全なタンデムシートとした。注文当初こそ積載量が減ることについて心配もあったが、届いたものを見てそれは杞憂であったことが分かった。伊豆下田―八丈島間の無補給単独航行を広告に使用しているだけあり、シート下の積載スペースすら一般の単胴艇と同程度の容量が確保されている。二人での日帰りツーリングには充分過ぎる。
今はまだ暑い。
もう二ヶ月も経って昼間でも涼しい風が川面を撫でるようになったら、真奈を乗せて遠乗りをしよう、と帆織は心に決めていた。恋人は今頃、内陸部にある実家から職場へ地下鉄通勤の真っ最中のはずである。
笑い上戸の彼女のこと、川へ連れ出せば離れて通る水上バスの引き波にも楽しげな歓声を上げて、水飛沫が真珠のように光る中、笑いながら帆織へしがみつき、それでもまだ彼の背中に顔を押し当てながら体を揺すり、くつくつくつくつ笑うだろう。
その時、その一瞬を想えば、これからまた疲労感溢れる騒がしい一日が待ち受けているにしても、現状への不満は通過点に過ぎない。そんな気がしてくる。
いつの間にかそれらを、ただ通り過ぎているはず。
それこそ、この川みたいなものだ。
柄にもなくそんなことを想い、帆織は学生時代に知った古典の一節を思い出そうとしたが、それらは記憶からきれいさっぱり洗い流されていた。水の上で独り、苦笑いする。
だが職場に到着し、シャワー室で潮気を流し、アメリカかカナダあたりのパークレンジャーの制服を意識したであろうフィールド用ワークシャツに着替え、デスクに座って数分後には問題が解決した。
「行く川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」
それだ、と手を打った帆織が視線を戻すと、同僚の潤地が向かいのデスクから呆れた顔でこちらを見ていた。彼女は教育委員会から出向してきている教育社会学者で、
「あなたねぇ、それぐらい覚えとかなきゃ」
帆織より十ほど年上の彼女は、できの悪い少年を諭す姉か教師のような口ぶりで言う。
艶のないボブカットに化粧の薄い意志の強そうな面立ちという風貌が小学校か中学校のベテラン教師を思わせる彼女で、
「方丈記、鴨長明、くらい習ったでしょう?」
「習った記憶はあるんですが」
「淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」
「……そんなのもありましたね」
笑って誤魔化す帆織を、潤地は益々白い目で見た。
「まあ、ここの子供たちの相手をする分にゃ、教養より体力だわな」
なあ帆織君、と自分のデスクから聞いていたらしい所長の汐田が取り成したが、潤地は「あら」と心外な顔つきになって首を振る。
「あの子たち、学力でも期待できるんですよ」
一転、まるで自分の子供を自慢する母親のごとく得意気な女史だ。
教育委員会付きの学者として特殊な地域文化が与える教育効果を調査するためにやってきた彼女は、帆織より二年ほど長くこの出張所に籍を置いている。水軍との付き合いでも彼の先輩で、大川とその子供たちにぞっこんだと公言してやまない。
「少なくともここの子たちは、子供の頃の帆織君より確実に勉強ができるはずです」
自信満々に断言され、帆織は複雑な気持ちになった。
天候や潮、すなわち流れの筋を「読む」ことに関しては淡海入り混じって流れも複雑な遊び場だけで育ってきただけあり、特に水軍の子供たちの中には大人ですら舌を巻くほど熟練した者も少なくない。そしてそのことが、子供たちの学力をも高めているらしいのである。大自然の複雑系に由来する大量の情報を瞬時に処理する能力が基礎応用を問わない学力向上へ反映される実例として、大川の子供たちは最良のモデルとされる。特に小さい頃から川に潜っているためか彼ら、彼女らの三次元的な空間把握能力は人並み外れているそうだ。
加えて「水軍」という、利益を共有し、人づきあいの濃密な組織に低年齢のうちから所属することが社会性の飛躍的な向上を促すともされる。
水軍の子供たちが悠々と川で遊んでいられるのには「漁遊びと学業・社会適応能力向上の関連性における肯定的仮説」が、新鮮な食材を持ち帰ってくれることや小遣いをそれほどねだらなくなること以上の重要性をもって親に理解されているという、まことに現代的、競争社会的な理由がきちんとあるからだ。
その仮説がなければ、果たして、ここまで川遊びする子供たちが一般的になっていたかどうかは不明だろう。危険、の一言で抹消されるはずの未来ではなかったか。そう考えてみると、そんな気配は微塵も見せないが、この世界は思っている以上に弱々しく、危うい。ノスタルジーのみが支配する水辺などあり得ない。
そんな中、悪ガキ共の船団を見事に率いて水面を疾走つつ、学業でも優秀との太鼓判を押されているらしいコハダなどは、やはり〝今の大川〟の子供たちを象徴する存在と言えるのだろう。
「そうだ――」
ふいに潤地が話題を変えた。
「帆織君、最近、トヨミ見た?」
「一昨日会ったばかりですよ」
また喧嘩してました、との言葉に彼女は顔をしかめる。
「まったく、困ったもんね」
「不良少女トヨミ」については、学校の方でもかなり持て余し気味らしい。地域の子供と密接に関わっていることや潤地の教育委員会との繋がりで、彼女については、この出張所へも「見守って」欲しいとの要請が学校側から来ていた。
「何かあったんですか?」
「昨日の夜、塾帰りの小学生が三人、川辺でトヨミに追いかけまわされたらしいの。その保護者が苦情を小学校に入れたのね。小学校からトヨミの中学校に、中学校からうちに、クレームの連鎖。さっき朝一で電話があって、ちゃんと見張っとけだって。丸投げもいいとこよ」
「なんでトヨミは追いかけまわしたりしたんです?」
「特に理由は無いみたい。ただ、今回が初めてじゃないんですって」
潤地は肩をすくめ、
「夜の川が彼女の縄張りなのね……まあ、盛り場へいったりしないだけでも、ましかな」
それはどうかと帆織は思ったが、黙っていた。
いつも独り、背筋を伸ばしてすっくりと突っ立ち、川風に吹かれている黒い影が目に浮かぶ。潤地が続けて、
「学校に馴染めてないのは前からなんだけど、最近じゃ怠学傾向が強くなって、授業中はずっと寝てるんだって。相変わらず反抗的だし、先生方はかなり手を焼いてるみたい」
無理もない、というのが帆織の感想だ。馴染める馴染めないではない。夜更かしで川へ出ていれば昼はひたすら眠いはずだ。机に突っ伏して眠りこける少女の見える気がした。
「何か知ってるの?」
訊かれて帆織は我に返る。
「……何か、って言われても困るんですけど」
逡巡してしまう。トヨミを単なる不良少女と見て、矯正をしかけてしまえばいいのだという結論には、一度ならず達している。実際、それが一番オーソドックスな方法だろう。
そしてその道を選ぶならば、トヨミに関して知っていることを洗いざらいここで話し、教育の専門家に任せてしまえば良い。潤地か彼女の知り合いの誰かが彼女を「ふつう」にしてくれるだろう。
だが――。
だがやはり、それで何かを失うのだとしたら?
(こいつはたてまえだ!)
帆織は心の中で呟いた。
そんな危惧は嘘だ。確かに存在する危惧だが結局は嘘だ。納得できないことへの言い訳だ。とどのつまり、帆織は自分の気持ちが冷めるのを待っているのだ。続くきっかけがなければ多分、そのうち、冷める。イメージとはそういうものだ。真奈が聞けば、「恋だね」と、笑うかもしれない。確かに似ていると言えなくもない。だがこれはそんなものではない。そんな個人の感情に収まるものでない。一度完全に冷めてしまえば、帆織はトヨミを他の子供同様、他人としてぞんざいに、あるいは色々拗らせ、捻くれた子供として丁寧に、扱うことができるのかもしれない。だが、今はまだ、できそうにない――。
「ああ、無理して言う必要はないからね」
不意を突かれて帆織は動揺する。見れば、潤地が穏やかに微笑んでいた。
「教育の現場では、教員同士での生徒に関する情報の共有が絶対の理想みたいに言われることが多いけど、それにそれが後々、教員を助ける場面もすごく多いんだけどね、でも、情報の共有によって失われるものもやっぱり、確かにあるんだわ」
システムに見張られてるなんて、子供でなくたって気持ち悪いでしょ、と彼女は笑い、
「あなたはせっかく、そういう理想に縛られない立場なんだから、情報を明らかにすることで失われる何かを見つければ、そっちを大事にする選択だって十分ありなのよ」
「それでうまくいきますかね?」
「そんなこと分からない。でも、その選択なりのハッピーエンドは必ずあるはず」
まあ、難しそうだったら手伝うから、と潤地。
「あなた、彼女のお気に入りなのよ? 私なんかいまだに、相手にもしてくれないのに」
「そういうのではないと思いますけどね……」
首を振る帆織へ教育学者は悪戯っぽく笑いかける。楽しそうに、だが真剣に、
「せっかく、こんな素敵な環境が用意されているんだから、って思わない?」
役者が和気藹々と勢揃いして、大団円を繰り返した方がずっと気持ちいいじゃない、と信念に溢れる目付き、熱い口調で彼女は快活に断言する。大団円を繰り返す、という台詞が学校関係者らしい、と帆織は妙な納得をした。
「私たちはその素敵な舞台の裏方なのよ。私たちのこと不要だって言う主張もあるけど、裏方がいない舞台なんてない」
「……不要? 誰がそんなことを」
「ネットの意見なんて気にしてたら、今時やっていけんよ」
汐田の声へ合わせるように、「これこれ」と潤地が自分の携帯端末を帆織へ向ける。
「ダゴンネット、ですか」
記事では「自律する楽園に管理者は不要である云々――」と仰々しい論調が長々続き、
「初めて見ましたけど、コハダが嫌がる気持ちも分からないでもないですねぇ」
「私たちは管理者じゃない。大舞台の名誉ある裏方よ。それがコイツには分かってない」
「そう言えば、その裏方仕事がまた来てたな。――今、送ったよ」
汐田が言った。帆織が自分の机上にある内部回線専用端末を開くと、確かに新しい電子書類が届いている。『大川下流における夜間調査計画書』という表題だ。内容を読み進めるにつれ、彼は自分の顔が強張るのを感じた。
朝の茶を啜り終えた汐田はこともなげに帆織の出身大学の名を告げ、
「要は調査協力の御指名だ。君に夜間潜水のガイドをして欲しいそうだ」
「それは読めば分かります。……どうして、また、僕なんです?」
「知らんよ」
汐田は分厚い唇をへの字に曲げ、小さく首を横に振った。
「あまり気乗りしませんね。この間の、ジャック事件の時のこともありますし」
「だが、仕事だからね。それに、失点を返すチャンスは多けりゃ多い方が良いだろう?」
そう言われると、帆織には何も言えない。確かにそうなのだ。
「それに君は知らないだろうが、あの事件については君の働きを認める声もあるにはあるんだ。ガイドは確実だったってな。突入失敗は警察の問題だ。うちには関係ない」
それに、前回に比べれば楽な仕事さ、と宥めるように上司は諭す。
「なんでも国海大の先生で、この間のジャック事件に巻き込まれた人が居てだな……」
「恩師ですよ。婚約者の上司です」
「なんだ。それならなおさら都合がいいじゃないか。彼女からでも聞いてないのかね?」
「何をです?」
「その先生は監禁されていた水中遊覧船の窓越しに、川の中で何かを見たらしい」
帆織の心臓が一つ、大きく脈を打った。
「――何を、見たんですか?」
迫りくる水底の花畑が脳裏へまざまざ甦る。あの感覚。甘美な、安らぎの予感。ふと、トヨミの顔がそれに重なる。澄んだ瞳に見据えられる。静かで冷ややかな、あの目付き。
なぜ今まで気付かなかったのか。
いや、気が付かなかったのか?
――本当に?
あの晩、確かに川でトヨミと会ったのだ。ならば、あれも現実だったはずだ。
「昨日、君が帰った後に電話があったんだ」
汐田は苦笑いしながら説明した。
「さらなる河川浄化への新しいステップとかなんとか。まあ言ってる内で理解できたのは調査へ協力しろという部分だけだったな。一方的に向こうがまくしたてるんだよ。楽園が開くとかなんとか。水神信仰も最近は流行りらしいし、最初は新手の勧誘かと思ったな……」
その言葉、一つの単語だけが帆織の心に染み入った。ストンと腑に落ちた。もう一度、今度はまじまじと見てみたい気持ちが湧き起こる。
いや、見るだけでない。
次は……。
© 2016 髙木解緒