第一章 ALMOST PARADISE 1-3 海獣たちのいるところ
1-3 海獣たちのいるところ
小魚がはるかに増えた現在では、それらを深追いした海獣類が東京水系の奥まで姿を現すこともそう珍しくない。元々湾内に生息するスナメリやマイルカの類は常連であるし、アザラシやオットセイの迷子も放っておけば勝手に腹を満たし、好きな時に海へ帰る。
こうした海獣に対して水軍の子供たちは基本、距離を置く。例外は河口近くを縄張りとするスナメリの群れくらいだ。小型鯨類の一種であるスナメリは、体長が一メートルから二メートル程度、このあたりの個体は成体でも乳白色に近い明るい灰色をしているものが多い。河口近隣の水軍とは友好関係にあるばかりでなく、好奇心旺盛な種としての性質も相まって、各水軍に新しいメンバーが加わる春先にはまるで新入生を歓迎、あるいは部活勧誘の品定めをする上級生のようにふらりと姿を現すし、逆に自分たちに子供が生まれた時はお披露目に来たりする。成体にも増して好奇心の塊である新生児たちとしばしじゃれあったり、若い個体と最近会得した新しい漁のコツを伝授しあったりする時を心待ちにする水軍メンバーも多い。
だがそれはあくまで、気心の知れたご近所付き合いの延長だ。はぐれイルカの危険性はよく知られている。何年か前、まだ浄化された大川との付き合い方を皆が模索していた頃には、水の青さと未知との遭遇に興奮し、飛び込んだ外国人観光客が人々の見ている前でオスのカマイルカから残虐に弄ばれた挙句レイプされかけ、それが達成できないとなると半死半生の目に遭わされた。「イルカを見たら陸に上がれ」は大川の合言葉だ。人間同様、親し気な表情の裏にとんでもない狂暴性を秘めたサイコパスもいるのがイルカなのだ。
だから大川に配属されて最初の緊急出動がイルカ絡みと知った時、帆織は緊張せずにいられなかった。イルカが一頭、昨日から入り込んでいることは彼の事務所でも把握していたが、新たな通報ではそれに近づこうとしている子供たちがいるというのだ。
まだ四月で水は冷たい。
通報のあった佃大橋のたもとへ急行すると、騒ぐ子供たちの中で厚手のウェットスーツを着込んだ少年と少女が二人、川から上がったばかりらしく、髪から水をたらし、風に歯を鳴らし、鼻水をたらしながら腕組みして考え込んでいた。
「とにかく、しっかり頭を拭きなさい」
帆織は濡れた二人によく乾いたバスタオルを渡し、お説教を始めようとしたが、
「あのイルカ、ケガしてんだ」
「口に引っかかったルアーに太めの糸がまだだいぶ残ってて、それが吻に巻き付いてるの。なんで今頃あんな太い糸使うかな? アイツ、あのままだと餌が獲れずに死んじゃう」
「でも触らせてくれねぇんだよ。あのバカ、こっちをめちゃくちゃ警戒してやがる」
「あれはマイルカだよ。警戒心がとても強い種類なんだよ!」
子供たちは帆織へ口をきく暇を与えず、最後に海獣博士とあだ名されているちびっこが叫んだ。
結局、翌日の干潮時に浅瀬へ仕掛けた漁網へ追い込み、ナイロン糸の戒めを解く段取りとなった。
帆織は監督係として現場に残された。翌日には追い子の一人になる予定だった。
子供たちがバヤックを操ったり、交代で潜ったりしながら水底へ突き刺した竹杭で枠を作り、それへ漁網を取り付ける様子を水際に立って眺めていると、
「新しい指導員さんですよね。なにしてるんですか、あれ?」
声に振り向けば、これも初めて見る少女が立っていた。
おや、と思わせる澄んだ気配を漂わせているものの、近所の中学校の制服を着た彼女に帆織は気やすい調子で、
「あのイルカ、だいぶ弱ってるらしい。口に釣り針が引っ掛かって、吻に糸が巻き付いてるんだと。明日の引き潮にあの網へ追い込んで、取ってやろうって計画さ」
そう言って、彼は再び川面へ目をやった。
後ろでがさごそと音がしていたから、少女もしばらく見物を決め込むことにしたのだろうと思った帆織は、ふと隣に立った彼女を見て驚いた。黒い長袖とレギンスタイプのラッシュガード姿に早変わりし、いそいそと自分の体表を強くこすっている。皮下脂肪とて、まだ、それほどあるようにも見えず、
「おい、君……」
「あ、これですか? 制服の下に着てるんです。黒タイツOKだから先生にばれづらいし」
「いや、そういうことじゃなくて。それで水に入るつもりか? 夏物だろ?」
「そうですよ?」
言うなり彼女は飛び込んだ。その頭が水面へ浮かぶ頃には水軍のメンバーも岸辺の異変に気付いたらしい。皆、手を止めてこちらの二人を、正確には少女を凝視している。
「トヨミだ」「トヨミが来た」と、幾人か囁き合うのが帆織にも聞こえた。
「やっぱりちょっと冷たいです!」
こちらを振り返った少女、トヨミは立ち泳ぎで笑いながら手を振って見せる。
「待て!」
背を向ける彼女を帆織は呼び止めた。この子なら、という気持ちで、
「こいつを使え!」
先端がニッパーになっているマルチツールを投げる。釣り針が深く刺さっていれば、ちまちま糸を解くよりも針ごと絡まりを切断した方が生体へのダメージが少ない。ツールを器用に受け取った少女は帆織としっかり目を合わせ、にやり、と笑ったように見えた。
「火を焚いておくよ!」
「お願いします!」
澄んだ雰囲気が川水の色によく似合っていた。彼女は大きく息を吸い、深く潜航した。
※
大川の、夜の娘――。
出会いは悪くなかった、と帆織は思う。
だがしばらくすると、二人の間には見えない壁ができていた。そしてその理由が帆織にはまるで分らなかった。
水温に合わせて服の素材や薄さが変わったり、細面には無骨と見える大型の二連式ゴーグルをつけたりつけていなかったりするものの、初対面の時にしてもジャック事件の時にしても、トヨミはいつも、ほとんど同じ格好をしている。
今もそうだ。
艶々と黒い、癖のあるミディアムショートを風になびかせ、首から下、全身をぴったりと覆う夏用のダイブスキン、その他、指無し手袋から潜水足袋、装備ベルトに至るまで、装いのほとんどが黒を基調にした黒尽くめ、それが健やかに延びる四肢をいよいよほっそり見せつけて、彼女は明るみに動く影と見える。
年頃の少女をかたどった、瑞々しい影――。
陽の光が燦々と降り注ぐ昼の川辺には、もとより馴染みようが無いのかもしれない、と帆織は思う。
その日の現場には彼女と、カジメという少年をを中心に、周囲には一触即発の不穏な空気が渦巻いていた。カジメがトヨミを突き飛ばそうとしたところが、体をかわされ、逆に腕を取られて背後へ捻られ、あっさり固められてしまったということらしい。関節を決められた上、地面へ諸膝をつかされた佃水軍技術主任の少年は憤怒の塊となって脂汗を流していた。
トヨミはと言えば涼しい顔で、勝気な視線を帆織に送ってきたりなどする。
帆織は渋い表情でそれに応えた。視線で対峙する二人の間へ割り込んで、訊きもしないうちから周囲の子供たちが口々、事細かに状況を説明してくれる。鳥の雛が喚くようだ。その中でカジメと仲の良い少年が幾人か、隙あらば飛び掛かってトヨミを引き剥がそうと身構えている。
帆織はまず、彼らを下がらせた。
「はなせよ! くそったれの魔女め!」
悪態をつき、もがいていたカジメが悲鳴を上げた。トヨミが腕に力を込めたらしい。
「怪我させちゃ駄目だぞ」
「怪我なんかさせない」
帆織の注意に、トヨミは淡々、平然と答える。
「とにかく二人とも落ち着け」
「私は落ち着いてる」
「――トヨミ、カジメを放してやってくれ」
静かな声掛けに少女は一瞬躊躇して、そっと手を離すと一歩、下がった。何か言いたげな目つきを帆織へ向け、しかし何も言わない。
イテテ、と呻きながら立ちあがるカジメ。体つきはそれなりにしっかりしつつ、はしこそうな印象の少年だ。いかにも痛めつけられた側という表情で、
「サンキュー、保安官。助かったぜ」
「カジメ、こっちに来い」
帆織の呼びかけに、ああ、と答えた彼が踏み出す。と、その目が小狡くきらめいて、
「と、見せかけてッ――」
一転、トヨミに躍りかかった。間一髪トヨミがかわす。勢いづいたカジメはたたらを踏み、川へ向かってつんのめった。カジメのライフジャケットの後襟を掴んだトヨミが力任せに引き倒す。倒れざま、少年が回転しつつ振るった拳がトヨミの口元を打った。
トヨミが怯み、体勢を立て直したカジメは鼻息荒く身構える。
「いい加減にしろッ」
帆織は思わず怒鳴った。
カジメがぎょっとしてこちらを見る。その時、帆織の視界の隅で黒い影が素早く動いた。気付いた時にはもう遅い。鋭い音が響く。頬をぶたれたカジメがふらつき、片膝をつく。
トヨミは帆織へ向き直った。口をきく隙を与えず、
「これで、おあいこだから」
冷たく言い放ち、顔を顰めて口元を押さえる。手についた血と見比べるように、上目使いでこちらを睨む。二人とも戦意だけは収まったらしい。
コハダが差し出した白い手ぬぐいへ首を振るトヨミを見て、帆織は溜息をついた。彼女はいつでも、揉め事の只中にいる。
「喧嘩の大安売りだな」
帆織は自分の口角が曖昧に緩むのを感じたが、相手はにこりともしなかった。「馴れ合い御断り」と書いてあるかのような顔をして、じっと突っ立っている。
下唇を引き込むように少し噛んで、ぼそっと、
「したくて、してるんじゃない」
無愛想に答え、こちらを見据えた。
「そりゃ、そうだろうさ」
彼女の目付きに、帆織はいつも痛痒いようなもどかしさを覚える。しばし見つめ合い、互いに腹を探り合う。やがて彼は自嘲した。
(ばかばかしい!)
「――なに?」
「いや、なんでもないんだ」
ただの子供だ。反抗期をこじらせた、ただの子供だ。「眩い一瞬」はあてにならない。
同じ中学二年生のコハダに比べれば歳相応の背丈、細身ながら体格もしっかりしているが、彼の肩にも届かない少女である。
あの晩、なぜあんなイメージを得たものか。多分、普段から強めな彼女の目力を、夜の川の屈折が余計に増幅させて見せただけだったのだ。
ただの子供だ。
陽の光の下でよく見れば、生意気で反抗的な、ただの女の子だ。
帆織はもう一度、自分に言い聞かせた。
回復したあのマイルカが子供たちとイワシの群れを追い回す様子を眺めながら、彼はトヨミが地域のはみ出し者であることを知った。水軍にも、フィンズにも属さないアウトロー、それどころか学校でも地域社会でも、孤独な不良娘扱いされているのだった。
彼女が夜の川へ出ているという噂が、そうした扱いを受ける主な理由だとも知った。夜の大川に現れる謎の不審者「魔女」の正体であるという噂も、子供たちの中ではまことしやかに囁かれていた。その目的は噂によって密漁であったり、都市伝説や怪談めいたものであったりした。
最初、帆織はそのことをそれほど深く考えなかった。捻くれる時期は誰にだってあるだろう。それにあの潜水能力を見れば、他の子供たちから僻まれてもおかしくはない。不良娘という評価にしても、援助交際や薬物に関わったりする不良ではなく、水面の一匹狼、孤独な第三勢力として在るというだけだ。同ぜず和せず、自主規制や同調をはねつける上、何かしら傑出した能力の持ち主とあれば、周囲からの評価は話半分以下に聞くくらいで良いと思っていた。
それに、何より、初対面での清々しい雰囲気がかなり長い間、鮮やかに彼の心へ残っていた。
(悪い子じゃない)
思春期をこじらせた一匹狼の不良少女、というだけなら見逃すこともできる。ある程度なあなあに、穏便に済ますこともできる。彼女を健全な中学生として更生させるのは帆織の職務の範囲外だ。彼女の通う学校の教員や彼女の保護者がその任を負うべきであって、彼は彼女が川で揉め事を起こした場合にのみ、指導を施せば良いはずだった。むしろ彼女を証拠もないのに噂の「魔女」呼ばわりする子供への指導がよほど必要だと考えていた。
だが、あの夜から状況は変わった。
実際彼女は夜の大川へ出ていたし、それにどうやら本当に「魔女」なのだった。そしてそれを実体験に基づいて心の底から確信しているのは、今のところ帆織だけのようだった。捜査する権利も義務も彼に無い。しかし見てしまった大人の責任を意識せずにもいられない。正直なところ、帆織は未だにあぐねいていた。
ジャック事件に関する警察の調査委員会には帆織も幾度か出席しなければならなかったのだが、彼が驚いたことには、特殊部隊の作戦失敗は純粋に機器の誤作動によるものであるとすでに結論付けられていた。煙幕の中から隊員たちを襲った妨害者など初めから存在しないことになっていたのだ。あの晩行動を共にした小隊長や隊員たちは帆織の目の前で幹部へそのように証言し、そして帆織自身には証言の機会そのものが与えられなかった。
帆織は戸惑った。
武力行動のプロフェッショナル、それも複数人を、いくら水中活動に秀でているからとは言え一人の少女が挫いた事実も充分、非現実的すぎる。だが、それにしても隊員全員の機器が同時に誤作動するなど、強引すぎる結論づけとしか思われない。結局、これが武張った連中のプライドやらなにやらを守るための落とし処なのだろうと納得するしかなかった。会議室を出た時、幾人かの隊員とすれ違ったが、彼らはこちらへ目を向けもしなかった。
(これだからな)
その晩の帆織は珍しく、少し、深酒をした。事件そのものは忘れなければならないのだ、と自分に強く言い聞かせた。だが、完全な見て見ぬふりが難しいことも彼はよくわかっていた。水軍ではないがトヨミも大川の子供だ。川を縄張りにする非行少女の指導を目的とするならば越権捜査には当たらないだろう。しかしそのその結果、彼女が事件そのものに関与していると分かればどうすべきか? 職務上知り得た新事実として、しかるべき筋へ届け出なければならない。それはよく分かっている。彼が関わるのはそこまでだ。彼女を引き渡し、それで本当のおしまいとなる。だが、それでいいのか、という思いが帆織にはあった。
なぜなら、彼女は――、
(だからそれは、間違いだったんだ)
帆織は慌てた。心の中でもう一度、念入りに否定しておく。
相手はただの子供、ただの、不良少女だ。
「手のケガ、直った?」
血の混じった唾を一筋、川へ吐き捨てたトヨミがふいに訊いた。
「ん? ……ああ、あれか。うん。けっこう浅かったからな」
今はもう絆創膏すら取れた左手の甲を帆織が示す。彼女は「ふぅん」と呟き、
「どうして来ないの?」
核心に斬り込んできた。
「私に訊きたいこと、あるでしょう?」
「……そりゃ」
あんなところで会ったんだからな、と帆織は言葉を選ぶ。
「そうだよね」と彼女。
帆織も頷く。
そうだ。会ったのは、やはり確かなことなのだ。
「この川で、何が起こっている? そして、その何かの中で君は、何をしてるんだ?」
彼女だけに聞こえるよう囁いたその問いへ、トヨミはしばし無言でこちらを見上げ、
「――そうね。あなたはまず、それを知らなくちゃいけない」
「まず、君の言い分を聞こうと思ったんだよ」
(よく言うよ)
内心、彼は自分に呆れた。これだから大人は油断がならない。
「色々忙しかったし、川でそのうち会えると思ったのさ。でも君は姿を見せなかった。結局、会うのはあれ以来だな。君のことをずっと考えてはいたさ。あれから、ね」
「私も色々忙しかったから。説明しに行くひまが無かったの」
トヨミは飄々と言う。間の取りづらいこの相手に、帆織は言葉を出しあぐね、
「よく寝てないだろ。夜更かしは成長期に良くないんだぞ」
「大きなお世話」
「――最近、ちょっとやり過ぎなんじゃないか?」
「補導する口実にはなるでしょ。問いかけのきっかけを作ってあげてるの。助かる?」
「……まったく、とんだ不良少女だな」
悪い子じゃない、と思っていたんだが――と腕を組んでしみじみ言った帆織へ、尖った顎先がツンと向けられた。
「お互い様でしょ」
少し険はあるものの南方系の愛嬌ある顔立ちをしているのだ。仏頂面にきつい眼差しを浮かべてさえいなければ、鼻筋の通る大人びた面立ちは気持ち好く陽に焼けて、清々しく夏の大川に映えるはずだった。
だが、少女の表情は一層険しい。抑えた調子で、しかしはっきりと、
「あなたが私のことをどう思おうと、それはあなたの勝手。でも、そういうふうに感じているのがあなただけじゃないってことは、知っておいて欲しいな」
「……君の方でも俺に幻滅してるって言うのか?」
帆織は戸惑う。子供たちとの付き合いが増えるにつれ、成長期の気紛れな発言に慣れてきてはいるものの、こうも鼻先へ突きつけられると軽やかに流すのは中々に難しい。
「もしかすると、あなた以上にね」
トヨミは突き放すように言った。それから素早く目を伏せる。
「君が俺にどんな幻を見ていたって言うんだ? 幻滅される覚えは、俺には無いぞ?」
「……そうだよね」
小さく尖った鼻が膨らみ、強く息が抜かれた。再び見上げた瞳の輝きが見る見るうちに弱くなって、トヨミはもう、これまでの話題にすっかり興味を失くしたらしい。帆織にしても今の短い会話のうちにひどく疲れた気がして、
「とにかく、後で話がある。このあいだのことだ。いいね」
穏やかに言うと、相手は気の無い様子で頷いた。
「――で、今日はどうして彼らの邪魔をしたんだ?」
「……まずはそれ」
トヨミはカジメの足元に転がっている幾つかの小さな機械を指さす。
「これは、単に届けてあげただけ。カジメの落し物でしょ?」
「何よ、それ?」
目敏く気付いたコハダが駆け寄り、カジメが隠すより先に取り上げた。
「暗視装置がついた防水カメラね。造りが甘いから試作機ってとこかな。でも、流速計や温度計も一緒になってて結構イイ感じ。橋脚にひっかかってたから持って来てあげたの」
しゃあしゃあとトヨミが言い、
「ひっかかってたんじゃねぇ! ありゃ、俺がッ……」
「あんた、これで何を?」
コハダが詰め寄る。カジメはみるからに狼狽えて、
「いや、別に何を、ってわけじゃねぇよ。ただ、魚を見たかったから……」
「泳いでるクロダイに触れる距離まで近づけるあんたが? 魚を見たけりゃ、潜りゃいいだけの話じゃない。それに、暗視機能や記録計のついている必要がある?」
眉を吊り上げるコハダにカジメはたじたじだった。その様子を、トヨミは皮肉めいた微笑みを浮かべながら眺めている。人が悪い、と帆織は素直に思った。コハダはなおも少年へ詰め寄り、
「あんた、まさか……」
「違うって、コハダが考えているようなことは誓って全然ない! それに保安官、トヨミが今、漁を邪魔してきたのは事実だぜ。それが喧嘩の原因だ、そっちを訊いてんだろ?」
「このポイント、危ないから」
トヨミが、帆織が頷くのと同時に言った。
「流れが良くないの」
言い切り、すっくり背筋を伸ばして周囲の子供たちを見回す。大山猫の幼獣とシャチの成獣を同時に思わせる彼女の伸びやかな体つきは、首から下がるゴーグルの効果もあるだろうが、いかにも潜水が得意そうで、
「嘘だッ」
カジメの恨みのこもった怒声が響いた。
「危なくなんかない!」
「俺らが網入れの合間にエビを突こうとしてたら、急にそいつが因縁つけて来たんだッ」
「昼の川も独り占めしたいだけなんだよッ。自分がヌシかなんかだと思ってるんだッ」
声高な弾劾に周囲の子供たちも同調、そうだそうだと大声で囃し立て、
「かもね」
トヨミの台詞と睥睨が火に油を注ぐ。たしなめるコハダやマルタを彼女は見ようともしない。
喧騒に顔を顰めた帆織には、眉根をぴくりとも動かさず平然としている少女が小憎らしいとすら思われてくる。と、子供たちを一巡した彼女の眼が再び彼を向いた。
「――エビ、いるのか?」
見透かされた気がして、帆織は誤魔化しに周囲へ声を掛ける。澄んだ威圧を受け流し、大人らしく曖昧にこの場を収めることにする。子供たちの中からひょい、と箱メガネが手渡され、
「覗いてみてよ!」
促されて護岸へ腹這いになり、帆織はメガネを水中に突っ込んだ。
すぐ隣へ腹這いになった低学年の少女が得意そうに、
「いっぱいいるでしょ!」
だが、彼にはエビの姿がまるで見えない。
「どこにいるんだ?」「そこらへん!」「どこ?」「そこだってば!」
言いながら、帆織はちらちら横目でトヨミの様子を窺う。黒尽くめの少女は気の無い目つきをして突っ立ったままだ。と、ふいに再び、その視線がこちらを捉えた。
「エビなんて影も形も見えないぞ!」
目を逸らしざま帆織が大声で言うと、
「あれ、エビがそっくり見えると思ってたの?」「バッカだなぁ」
そんな台詞が背中へ降り注いだ。
「目を見るんだよ、保安官。目」
「メ?」
聞けば、クルマエビは昼間、砂に体をうずめ、たまに目だけを突き出して辺りを窺っているらしい。隣の女の子がこましゃくれた調子で、
「川の専門家でしょ。知らないの?」
「――知らないことの方が多いのさ」
画像や水揚げされた個体を見、相手がどういう存在か分かっているつもりでも、いざ生態や分類学的特徴を問われると、持っている情報の少なさに気付かされることが往々にしてある。ここへ来てから帆織はそれを意識する機会が多かった。今にしても彼は、スーパーの鮮魚コーナー同様、クルマエビが普段から水底を這い歩いているものとばかり思っていた。
「ま、夜はそういうふうに砂の外へ出て、餌を探してるらしいけどな」
少年の一人が慰めてくれる。
「よく見たら、白い砂の上に不自然に丸くて黒いものが二つ、並んで乗っかってるようなのがあるんだ。小さいけど、一回見つければ簡単だよ。それが、クルマの目玉」
言われて目を凝らせば確かに、灰白色の砂底にビーズのような球体が不自然に二つ、並んで散らばっており、
「ああ、あれか。一つ、二つ、三つ……おい、こりゃどれだけいるんだ?」
「な!」
少年が満足気に鼻をすすった、その時だ。
すぐ横でざっと飛沫が上がって、帆織の視界へ大きな黒い影が滑り込んできた。
洗練されたダイブスタイル、水底目掛け急降下した後、ぐるぐると辺りを掻き回すように乱暴に泳ぎ回る姿は悪戯好きのカワウソかなにかのようだったが……トヨミだ。
彼女が底を蹴り上げ、砂を巻き上げるそのたびに、一匹で充分、一人前の天丼くらいになりそうな大型のクルマエビたちが泡を食って跳ね上がり、腰を曲げたり伸ばしたり、腹肢を必死でざわめかせ、遠く遠くへ逃げていく。砂煙とエビで辺りが渦を巻くようだ。
これほど荒らされてしまっては、この場所は数日、エビの漁にならないだろう。
「何するんだ!」
水面へ顔を出したトヨミへ思わず声を荒げた帆織だったが、彼が言うまでも無い。今回最初にエビを見つけたカジメたちとトヨミの間だけの問題でもなくなった。
この辺りの子供は生まれこそそれぞれ違うかもしれないが、大川の水に浸かった時点で最早短気な江戸前の漁民だ。漁場荒らしに対し、少なくとも言葉で容赦はしない。どこで学んだのかと思われる罵詈雑言が次々浴びせかけられる中、川面の少女はゴーグルをはずし、ちらとこちらを一瞥すると方向転換、ツ、ツイと平泳ぎで離れて行く。
距離を置いて係留されていた、これまた黒一色、フロートが一般より細めにデザインされたスポーツタイプの単胴式バヤックへ水から伸び上がるように跨り、彼女は悠然と漕ぎ出した。
一度も振り返らず、追撃する罵声を尻目に段々と小さくなる後姿はやはり影と見える。
「保安官、トヨミと仲良いんだね」
いつの間にか横に来ていたコハダが帆織へ言った。
「――今のが仲良く見えるのか?」
「まあね」
不思議な微笑みを見せたコハダに、帆織は「おや」と思った。
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