第一章 ALMOST PARADISE 1-2 今、川で……
1-2 今、川で……
「バイシクル」と「カヤック」を合わせた造語が「バヤック」だ。
フロートや胴などと呼ばれる縦長の浮力体を水に浮かべ、タイヤを外した自転車をその上に乗せたような外見を持つ軽船舶の総称である。自転車部分のペダルを漕ぐことで浮力体後部のスクリューが回転し、水面を道路代わりに滑走する。走る場所と仕組みの少々違うことを除けば、まさに「水上自転車」と言って良い。自転車のように気軽に、身近に――。
防錆はもちろん、滑走性向上のための船体表面の特殊加工、漕ぎ抵抗の限りない軽減、その他、水上走向に必要な工夫が様々に凝らされているとは言え、チェーンによる駆動系やハンドルによる舵取り、ペダルやサドルの突き出た車体の基本的デザインまで、内外の構造は自転車とかけ離れてしまうことが無いよう、敢えて設計されている。技術の向上によってメンテナンスも月に数度、真水で洗ってやれば良いだけ、自転車より少しかさばるくらいで、メインフロートの下部には牽引のための小さな車輪がついているから陸上でも移動可能、駐輪場に停めておくこともできる。
もちろん、船舶免許も必要無い。
初代バヤックを生み出したのは、川をもっと身近に、生活の一部として取り入れたいと願ってやまない佃島育ちのカヤック好きな自転車屋だったらしい。その心意気はメーカーがこぞって量産し、バヤックが手軽な水上ビークルとして世界化された今でもしっかりと息づいている。大川では使われ始めた当初こそ、水上バスや屋形船などの従来河川を利用していた船舶と航路問題などで揉めることも多かったが、水上モデル都市特区として船舶航行の決まりが一から見直された今となっては一応、そうした難点も克服された。
川岸の全てが切り立った護岸であるこの川では、干満時に生じる水面との高低差を解決する必要もあったが、河川利用者が増えた現在、クリーンな移動機関ということで行政もバヤックの活用を後押ししている。護岸遊歩道へ切り込んで作られた専用スロープ(船を出し入れするための水面へ続く坂)もこの数年で随分増えた。機能面でも交通面でも整備が行き届いているとあっては、川を日常空間へ加えたい人々にとって、これほど願望に沿い得るものも他に無かっただろう。大川の風景にバヤックは欠かせないものとなった。よほどの嵐でもなければ、川面に姿を見ない日は無い。
そして、新たな移動手段の普及は、新たな地域文化をも生み出した。
手持ち無沙汰に見えたのだろう、
「保安官も、ボサッと突っ立ってないで! ――はいッ」
と、押し付けられた引き綱の末端を、帆織は思わず受け取っている。笑いが漏れ、
「こっちは監視にきてるんだぜ?」
「硬いコト言わないっ!」
「それに、保安官じゃないっていつも言ってるだろ」
自由漁業者指導員だ、と、お決まりの台詞が口を突いて出てきたが、相手には聞こえなかったはずだ。彼が「保安官」の部分を言い切らないうちに、くるりと背を向けた少女は水中眼鏡をかけなおし、盛大な水飛沫をドブンと上げて川へ飛び込んでしまっている。
残された帆織は肩をすくめ、綱を握る自分の右手をもう一度見た。それから何気なく、周囲へ視線を移す。一緒に引き綱を握る年少の子供たちの、興奮に輝く目、わくわくした表情、瑞々しい眩しさに景色がふっと白む気がする。こういうのも悪くはない、と思う。
左手で額の汗を拭い、キャップとサングラスのずれを直した。今日は特に暑い、
「お前らッ、水分はこまめに取れよ」と子供たちにも注意したが、
「大丈夫だよ!」
「さっき飲んだ!」
「今、言われてもさァ!」
水を差すなとばかりに言い返される。
「じゃあ後でしっかり取れな」
やれやれと苦笑し、しかし何となくにやけてしまう帆織だった。
七月もそろそろ半ば、夏休みをほぼ一週間後に控える大川の午後――。
土手上に鬱蒼とする街路樹からはアブラゼミとクマゼミの混声合唱が騒々しく響き渡り、だだっ広い川全体を覆っている。日差しは目が痛くなるほど白く、焼き尽くすように辺りへ照りつけて、護岸式の遊歩道に敷き詰められた再生煉瓦はじりじりと熱い。
気を利かせたつもりなのだろう、女の子たちの打ち水もあっと言う間に湯気となって、かえって蒸し暑かった。冷房の効いた部屋でアイスキャンディでも齧っている方がよほど楽というもので、だが、この瞬間、少年少女の脳内にそれらが浮かぶ余地は全く無いだろう。
帆織の前で引き綱を握る子供たちにしても、大粒の汗を浮かべた額の奥底では水面下に展開される袋網、本流でうねる魚群、海獣のごとく泳ぎまわって獲物を追いたてる上級生の潜影などの諸々が本能の導く想像力によって鮮明に映像化されているにちがいない。
今、皆がいる佃島北端部の分流点は付近でも断トツの潮通しを誇る。イワシやサッパが大群をなして集まる、漁にはもってこいのポイントだ。
江戸時代初期には柔らかな砂の溜まりだったはずのこの場所も、今ではコンクリートですっかり覆われ、大川を鋭く分断している。分かたれた流れのうち下流へ向かって右側は中央大橋、佃大橋、勝鬨橋へ続く本流であり、最終的には旧築地市場の横手を河口として東京湾へ注ぐ。左へ流れる派川は相生橋を過ぎると朝潮、晴海、豊洲の各運河へ分岐するが、これらもしばらく行けば海との境がつかなくなり、おしまいには海となる。
山からの滋養を豊富に含んだ真水が流れ下って海水と出会い、せめぎ合う河口には大量のプランクトンが湧く。それを食べるためにイワシやイナッ子(ボラの幼魚)などの小魚やエビ、カニなどの甲殻類が集まり、さらにそれを狙って様々な大型魚がやって来る。
河口域は元来、生物相の豊かな場所だ。しかし、佃島はそれだけでない。
上空から周辺地形を見れば、上流からの流れがまともに島へぶつかっている様子が想像できるだろう。島に切り裂かれて分岐した流れは物理的な圧縮と干満の影響を受けて力をつける。そのために付近一帯は潮通しが非常によく、酸素を豊富に含む新鮮な水が絶えず行き来することになる。佃島は汽水域が元来持つ条件と併せ、固有の地形としても豊かな漁場となる条件を備えている。そして実際、豊かな漁場だ。川の隅々に至るまで魚介類が躍動している。小魚は舞い、甲殻類は鎧をガチャつかせながら闊歩する。貝類がひっそり砂中に潜み、流下する有機物を漉し取っている一方で、魚食魚は奸智と肉体の限り獲物を追い回している。そして、それら狙う子供たちがいる。鵜の目を持った子供たちだ。
大川っ子はバヤックを自由自在に操って広大な水面を縦横無尽に往来する。徒党を組み、そこそこ大規模な漁まで行ってしまう。
川、と言ってもこの辺りは河口がもうすぐそこ、水の性質は真水ではなく、海水により近い汽水、上げ潮のきつい時には完全に海水と言えるほど塩分の濃くなることも多い。
この辺りで川にある個々の水の流れを海同様「潮」と呼ぶのも、そんなところから来る慣習なのだろう。だだっ広い川幅いっぱいに海が満ちる場所なのだ。よって獲物はイワシにサッパ、スズキにクロダイ、カレイにアナゴと言ったお馴染みの魚類から大きなものには相当の値が付くエビ類まで、大部分が図鑑で海の項に分類されているものばかりになる。他にもノリや貝類など、春夏秋冬、四季折々、川は様々な恵みをもたらす。
そして、そんな恵みを余すことなく利用するべく、大川の子供たちは幾通りもの漁法を使い分けている。手網漁や普通の竿釣りは言うに及ばず、ナイロン糸に軽い錘と針だけの仕掛けを使い、指先で微妙なアタリを捉える一本フカセ釣り、素潜りの突き漁、幾種もの罠漁、浅瀬での投網など、小学校三、四年生ともなれば上手下手こそあれ、漁法は一通り覚えてしまっていると言って良い。中でも今始まっている大掛かりな引き網漁は、潮流と魚群の移動方向を読んで指示を出すリーダーの能力、水面を叩いたり、水中で威嚇したりして魚を網へ追いやる「追い子」とバヤックを操って幅広の袋網を広げる「網方」双方の技術や連携、岸からの素早い網引きなど様々な要素が必要となるダイナミックかつ難しい漁法だ。要は簡易の地引き網なのだが、プロのように魚群探知機を使うわけではないから魚を追うのは目と勘が頼りだ。それに子供たちの「漁ゴッコ」はローカルなルールのうちで大目に見てもらっているというだけ、網を引くのは一般の水路であって公式な漁場ではないのだから、他の通航人に迷惑がかからないように操業しなければならない。
だが、難しいからこそ面白いとも言える。子供たちにひどく人気のある漁だ。大漁の興奮と連帯感の充実が彼らをとりこにしてやまないらしい。
帆織は目を細め、ぎらつく水面を見やった。少年少女の歓声が響き渡っている。
バヤックを巧みに操り、流れの上をミズスマシのように滑走しているのは年かさの子供たちだ。時に慎重に、時に大胆に、網を展開する彼らの表情は皆生き生きと輝いて、川の照り返しに少しも負けるところが無い。見ているこちらの生気まで無理矢理引きずり出すような、無遠慮な清々しさがある。漲る生気に満ち溢れている。
東京を流れる隅田川のうち吾妻橋より下流、河口までをさして「大川」と呼ぶ。
荒川、多摩川、江戸川などの主要河川からその他大小の支流、運河までをも含めた俗に言う「東京水系」が環境省や国際水圏学界により「日本一美しい水辺」と認定されたのはそれほど昔の話ではない。今でこそ最高の水質と最高のテクノロジーが同居する街として世界遺産筆頭候補の呼び声も高い水系と周辺域だが、都主導の下「水上楽園都市」計画が発動して数十年経つまでは、それ以前と同様、御世辞にもきれいとは言い難い水が流れているだけだった。そしてそれは、この大川にしても同様だった。
江戸から東京へと名が変わってもしばらくの間、湾の沿岸域で有数の漁場であったこの川は、首都の垂れ流す排泄物により、いつしか見るも無残な毒汁の集積流と成り果てた。
特に高度成長期以降の一時期は耐性の強い魚介類がなんとかようやく棲める程度の場所とまで環境が悪化した。もちろん、この頃は東京湾奥や多摩川、荒川中・下流域など東京水系のほとんどが同様の状態にあったのだが、入り組んだ水路を多く持つ大川周辺では、人と水辺がごく近かっただけに、ことさら汚染された水が目に付いた。
場所によっては死んだ水がたっぷりと停滞して黒々と不気味に淀み、目もくらむ悪臭を放つ、そうした光景が当たり前だったのだ――と、郷土史にはある。
下水道の発達や法整備により、二十世紀も残り数年という頃からようやく回復の兆しを見せ始め、新世紀の最初の十数年、そして楽園都市計画が動き出してからしばらく経つ頃には随分と水質も改善して、幾らか、生き物たちも戻ってくるようにはなった。
しかし今のように「水質日本一」の東京水系の中でも「最高の良好環境」というような称号が与えられることまでは、誰も考えはしなかった。いや、できなかった。
普段は、だだっ広い川面を滑るように吹き抜けてくる潮風も心地良く、スズキだのハゼだのがそこそこ釣れるほどまでには生態系も回復した様子、ではあった。
だが、大型船が通ると水底に溜まったヘドロがもうもう浮き上がって流れの色を変え、波飛沫が口に入ればビリビリと舌が痺れ、豪雨の前後には嗚咽を誘うどぶ臭さを撒き散らす、そうした状況を見れば、それから半世紀も経たないうちに、大川へ頭から飛び込んで遊ぶ川ガキどもが夏の風物詩として帰ってくることなど誰が予想できただろう。
河口から四季折々に上ってくる数々の海の幸。渦を巻いて流れ下る潮を乗り越え、川の中をうねるように進む煌びやかな魚の群れと、その捕獲に打ち興じる人々――。
それは昔も昔、大昔に失われたはずの光景だった。もう無くなったと老人たちは思っていたし、若い世代はそんな風景がかつて在ったことすら知らなかった。
しかし、時代は変わる。必ず、大いに変わる。
新しい東京水系は科学の力によって甦った清流である。こと隅田川‐大川水系に関して言えば、人口密集地を貫く地形上の理由から他の河川に増してより特化された浄水技術が導入されており、我が国最新の科学技術によって一から作り直された、とすら言える。上下水道の完全普及、ゲリラ豪雨などによる急激な増水にも対処可能な排水設備における下水・雨水の完全分離は基本中の基本として、末端に至る下水管内常時洗浄システムの構築、超浄水技術の質・量双方における飛躍的向上、物理・化学・生物浄水技術の完全な活用、堆積したヘドロや有害物質の除去技術完成と実践、高効率集光反射板や光ファイバーケーブルによる高架下運河への太陽光照射、大型酸素供給施設の設置……。
その他様々な分野の最新知見、技術を、環境・観光産業活性化と雇用捻出を目指すこの国と首都は、水源となる首都圏全域をも巻き込んで応用、駆使徹底し、その結果、排水溝や運河から皇居の御堀まで、東京中の水辺という水辺を澄み渡らせることに成功した。
硫化水素と毒性汚泥の地獄と化していた巨大下水道網の中にすら、南アルプスの地底湖同様の清純な環境を再現して見せたのだ。そしてついに、モダンな高層ビルやマンションと古くからの下町が混生するいかにもな未来型巨大都市、そのど真ん中に、水中視界平時三十メートル以上、国際水質指標最高クラス、清き水迸る一大河川が生み出された。
今では、潮の香けぶる水面を一度くぐれば、そこには多種多様な生物が織りなす生態系が燦然と機能している。川岸のほとんどがコンクリート製の切り立った護岸遊歩道として整備されていることにさえ目を瞑れば、あるいは、有史以前の水圏が舞い戻ってきたかとすら見える。それが今の隅田川、そして大川なのだ。
「網引けーィッ!」
水の底でタイミングを見極めていたらしい前述の少女、佃水軍の漁労長コハダが水面をかち割って飛び出すと同時、声高な号令をかける。地引きの始まりだ。
ピンとロープが張った途端、思いがけない重量に体ごと持って行かれそうになった帆織は慌てて綱を握りなおした。両の手のひらがミシミシときしみ、濡れた綱がきゅうきゅうと鳴る。その場の全員が腰を落とし、魚と潮の重みを堪えている。
界隈の水軍の首領同士を比べた時、魚の動きを読むことについて佃水軍のコハダに敵う者は今のところいないらしい。それが証拠に最初の網入れから漁獲は期待以上、ずっしり詰まったカタクチイワシの手応えが引き子の血を騒がせる。水中へ網を広げる係だった上級生もやがて上陸、バヤックを係留し終えると早速引き子へ加わり、それどころか通りすがりの見物人まで手伝って、
「ヨーイヤサ、エンヤコラサ!」
皆で引く。
初夏の午後、強い陽光と水飛沫の中に子供らの歓声が響き合っている。
網が近くまで来ると辺りが段々にきらきらとして、しかし、それは水の反射ではない、剥がれやすいカタクチの鱗が水中に沢山舞って陽光を跳ね返しているのだ。一枚一枚、鱗はふらつくようにゆっくりと沈みながら青味がかった七色に輝く。川の中に虹を見せる。
「もうッ、保安官もちゃんと引いてよぉ!」
ウンウン唸り、顔を赤くして綱を手繰る少年に注意され、帆織は我に返った。おうッ、と返事を返し、休めていた両手を再び動かす。湿った縄が手の内でさらに鳴く。
水揚げ! と言っても、護岸の手すりに引き網の上端部を引っ掛けるだけ、
「ビニル袋、出してよおッ」
高学年の女の子が手網を使い、水中の引き網からがっさり無造作に掬い上げたイワシを、小さな子供たちはキャアキャア言って自前の袋へ満たしてもらっている。分け前に満足するとしっかり口を閉じ、氷を詰めたクーラーボックスに宝物か何かのように仕舞い込む。
この辺りの子供は皆、魚が大好物だ。無理もない。大川水を飲んだ魚は確かに美味い。
このカタクチイワシにしても、新鮮なうちは刺身にして良し、フライにして良し、夏場ならナメロウに冷汁、冬場ならつみれ団子にして餡かけにしたり鍋の具にしたり、大型魚と違って捌くのも簡単で、家に持ち帰ってもよほど面倒臭がりな親以外は必ず喜ぶという、御土産にもってこいの魚だ。大川河口域でのカタクチイワシ漁は春と秋がピークとされていて、今の時期に一匹一匹それなりの大きさをした群れに当たり、かつ、これほど獲れるのは珍しい。だが、季節外れとは言え、味がしっかりしていれば、それは気紛れな自然が与えた嬉しい誤算だ。需要は高い。あれだけあったカタクチがみるみるうちに減っていく。遊歩道を散歩中の人々にも振る舞いがある。その代わりと言ってはなんだが、それでも、彼ら近隣住民の理解と応援が漁場の保全に、ちょっとしたアドバイスが次の大漁に繋がる。
野良猫も集まってきた。猫は特に貢献することもないが、受け渡しで零れ落ちるイワシをかっぱらっては物陰でがっつき、喰い終わればまた、隙を窺っている。
佃島、夏の風物詩――。
それは新しい、ごく新しい風物詩だ。
満足したギャラリーがめいめい魚入りの袋を大事そうに抱えて帰ってしまうと、水軍は次の網入れまでしばらくの休憩に入った。濡れた子供たちはじりじり照り付ける陽光で体を温めながら、獲物が新鮮なうちにちょっとした間食をする。イワシは手開きが似合う魚だ。獲れたてのカタクチならなおさらで、子供らは皆丁寧に鱗を取り、腹から開いて骨と血合いを除くと真水でざっと流し、皮を引き、一尾丸々の刺身で食べる。
最初のうちは固辞していたが、労働の対価なのだからと説得されて帆織も自分の取り分を受け取った。子供たちに教えられるまま見様見真似で刺身を作り、口へ放り込む。
思わず笑った。透き通るようなのにしっかり肉厚の身、ピンと張りのある食感、歯触りはさっくりと地良い。脂は少な過ぎず乗り過ぎず、魚が持つほんのりした甘みの他、まだ潮気がしっかり残っているから生臭くも無い。醤油を付けなくても十分美味い。かえって口がさっぱりする。だが、ただ食べるだけなら飽きるほど食べている子供たちはめいめいお気に入りの調味料があって、それを小瓶へ入れて持参するのが普通だった。山葵や生姜の擦りおろし、梅干しの裏ごしなどを自己流の配合で刺身醤油と合わせたもので、それを手皿でちょいとつけては一口にイワシを頬張り、「うん、うめぇナ」などと笑っている。
さぞかし立派な呑み助に成長するであろうと思われる辛党揃い、ついでに言うとイワシにあわせるなら生姜醤油が一番人気だ。帆織も少し分けてもらった。
上流の永代橋、その向こうに見えるスカイツリーをぼんやり眺める。
嗅覚と味覚だけをいっぱいに働かせ、生姜と潮の香で鼻腔をくすぐるイワシの味わいをじっくり享受していると、陽炎にゆらぐ対岸の町並みはまるで別世界と思われてくる。
いや、本当に、全くの別世界に違いない。
川を挟んだ内陸側は特にそうだ。
満員電車での通勤、ビルの谷間の輻射熱、肩をぶつけて足早に行きかう人々――。
冷房の効き過ぎた部屋で上着を着込み、出前の盛りそばをすする昔の同僚たちの丸めた背中が見える気がした。おそらく彼らは、すぐ隣にこんな世界があることなど知りもしないだろう。こういう時、少し溜飲の下がる思いがする。ずっと沈んでろ、と呟きたくなる。
「保安官!」
甲高い声に呼ばれた帆織が振り返ると、漁労長コハダが軽やかな足取りで近づいてくるところだった。
「御協力感謝します!」
と、ふざけて敬礼などする。
「その呼び方は恥ずかしいから嫌なんだ。皆にも徹底してくれよ」
「だって、指導員さん、なんて言いにくいよ!」
あっけらかんと言うコハダ。
彼女に会うたび、帆織は淡水性の小さなエビを思い浮かべる。短めの髪を後頭部でエビの尻尾みたく一つにまとめ、手網に入ったばかりの川エビのようにいつもピンピン跳ねている。体格を見ると中学二年生にしてはかなり小柄な方だが、元気は人一倍どころか五倍も十倍もあって、明るく溌剌としたその雰囲気、天然モノにありがちのきらめく眩しさは常に周りを圧倒しているのだ。
元々、この辺りの女の子は内陸に比べて活発な子が揃う。今ここに男子と同じくらいの人数がいることからも分かるように、大川の少女たちは波飛沫を蹴立てて平然と、小麦色の肌を見せつけながら広大な水域を暴れまわる。だが、そうした少女海賊から悪戯盛りの悪ガキどもまで全てを率い、大掛かりな漁を次々成功させているだけあって、別格の素質をコハダは感じさせた。面倒見の良い姉御肌で、中学校の部活動である「地域文化研究会」の活動も兼ね、学校が終わるとすぐさま川へ駆けつける。地域社会参加型青少年の見本のような存在だ。彼女を慕って佃水軍に入る子どもも多い。本人もそのことについては重々自覚しており、後輩たちの範たるべく、潜る時を除いて水辺ではずっとライフジャケットを着ていなければならないのが面倒臭い――と、しばしばこっそり愚痴をこぼす。だが、
「そのジャケット、新品だろ? よく似合ってるじゃないか」
帆織が言うと、彼女の目がここぞとばかりに輝いた。
こくんっ、と頷き、
「おばあちゃんがハワイ旅行してね、そのおみやげ!」
「なるほど。モチーフとしては米海軍……ネイビー・シールズ、ってところかな?」
下は他の女子同様に水泳の授業で使う学校指定の水着なのだが、その上に装着した黒いライフジャケットの武骨なデザインは水着の滑らかな生地と相まって、妙に大人びた印象を与える。女の子たちがよく身につけている花や水玉などの、明るい色柄のジャケットとスクール水着の取り合わせにはすっかり慣れ切っていた帆織にもこれは新鮮だった。
着用者の顔立ちが幼い分、アンバランスな凛々しさが際立つ感じがする。
「さすが保安官、鋭い」
コハダはちんまりした鼻をひくつかせ、
「でも、海軍じゃないの。沿岸警備隊の対シージャック突入部隊が正式採用してるライフジャケットなんですって。大人用は大きすぎたから、これでもだいぶ縮めてもらったんだけど!」
えへへ、と得意気に笑う彼女。背筋を伸ばして胸を張り、再び敬礼をしてみせる。
「うん、君の空色のバヤックにも合ってる。いい感じだ」
「でしょーッ?」
おそろいのキャップもあとで見せてあげるね、とコハダが言った時、
「ケッ」
彼女の傍に立つマルタが鼻を鳴らした。引き締まった長身は陽に焼けて、どこか海浜性のヒヒを思わせる精悍な顔つきをした少年だ。
「俺も新車、とまでは行かないから、いいジャケット欲しいぜっ」
親戚の御下がりだというド派手な花柄のライフジャケットに色褪せたハーフスタイルの海パンという自らの出で立ちを見下ろし、彼は唇を尖らせる。所有者が小学生の頃からの無分別かつ悪趣味なカスタマイズの犠牲者であり続けてきたおんぼろバヤックと併せ、
「スチームパンク、いや、終末SFファッションてとこだな。そういうのも格好いいさ」
帆織は度々言ってやるが、本人は納得していない。
「あんたの場合は、儲けたお金をすぐ無駄遣いしちゃわなきゃいいだけ」
コハダが鼻を鳴らし返した。
「駄菓子、漫画、ゲーム、オモチャ、それに電子エロ本!」
「わかったよ! ってか、あれはエロ本じゃねぇ、単なるおまけのグラビアで……」
「ねぇ、聞いてよ保安官! コイツったらね、あたしの新装備にさっきからケチばっかり付けてんのよ。他の男どももそうだし、褒めてくれたの、保安官だけよ!」
言いながら、少女は片足を軸にくるりと一回転して見せる。
突き出した両脚は陽に焼けて健やかだ。ジャケットの裾から覗く紺色の布地に隠された尻は小さいながらも弾けんばかり、上物のクルマエビめいて身がぎゅっと詰まっている。
顔をそむけ、見ないふりをしているマルタが帆織にはおかしかった。自分にもこんな頃があったろうかと思う。少年と少女は同い年、ずっと昔からの幼馴染みだそうで、
「ほら、なんとか言いなさいって!」「知るか!」と、やりとりも板に付いている。
ずっと小柄な少女に手も足も出ない少年という定番と言えば定番中の定番、甘酸っぱい構図に帆織もつい口元が綻む。活力にあふれ、かつ、なんと呑気な世界かと思う。美しくなった大川は最高の舞台装置だ。漲る生命と潮騒は少年少女に、彼ら彼女ら以前の世代が失ってしまった弾けるような世界観を与えているのに違いなかった。ぎらつく川を背景に二つのシルエットは歳相応の情熱を取り込みながら、そのまま、成長していきそうにすら見える。川があるのだ。この川が。バヤックなど小道具も充実している。世界は確実に、着実に良い方へ、面白い方へ進んでいる。恵まれてるなァ、と二人とその世代に対し皮肉めかした台詞の一つも口を突いて出ようとする。と言って、同じ機会を与えられた自分が、この子供たちのようにそれを隅々まで活用する様子は、まるで思い浮かばないのだが。
「まあ、でもよ、夏休みに向けて、新しい何か欲しいよな、実際」
マルタが言った。「最近マンネリ気味な気がする」
「なにがつまんないってのよ?」
コハダはむくれた顔つきで幼馴染みを見上げた。彼女自身は日常が楽しくて仕方ないのだろう。そしてマルタが同意見でないことが心外なのだろう。
「楽しくないわけじゃねぇよ」
少年は慌てて弁解した。
「だけどほら、来年は受験だし、思いっきり遊べるのなんて今年が最後だろ? いつもと同じじゃ、物足りネェよ」
「そうかなぁ」
ま、今年の夏休みをおもいっきり楽しみたい、ってのは同意見だけど、とコハダが頷く。
「だろ? なんつーか、今年ならではの思い出っての? そういうのが欲しいんだよ」
「思い出? 思い出! あんたらしくないセリフッ!」
笑い飛ばす幼馴染みに今度はマルタがむくれる。こちらを向き、
「どう思う、保安官?」
「君らは毎日川にいるからな。そりゃ、飽きるような気になって不思議は無いさ」
問われた帆織は顎を撫でた。ふむ、と二人を見比べて、
「二人で遊園地にでも行けばいい。漁で稼いだ小遣いががっぽりあるだろ? 舞浜あたりどうだ? 近すぎず、遠すぎずで丁度いいと思うけどな。気分転換してくるといい」
自分ではおつな提案をしたつもりの帆織だったが、
「冗談!」「オエーッ!」
二人はのたうちまわって否定する。
「こいつとネズミの着ぐるみ見に行くくらいなら、そこらへんでドブネズミ探すわ!」
「そりゃいいな! 昔は多かったらしいけど今は希少種だ。せいぜいがんばれよな!」
「……悪かった」
帆織は謝った。二人で、のフレーズをわざわざ入れたことに後悔する。素直になりきれない年頃にはまだ早すぎるアドバイスだったらしい。
「別に、保安官に謝ってもらうことは無いんだけどさ」とコハダ。
「どうした、今更惜しくなってきたか?」
「ちがうって! 何言ってんのかなぁ、もう。ねェ、マルタ?」
「おうよ!」
「まァ、確かに俺の立場だと、あんまり気軽に異性交遊を勧めるのも良くないか」
「異性交遊ッ――?」
じゃあ、こういうのは、と耐え切れなくなったらしいマルタが割り込む。
「ちょっと豪華な自由研究を水軍のみんなでやるんだ。記念になるようなスゲェやつ!」
「ああ、それいいな。夏休み企画の正統派、って感じだ」
「だろ? テーマも普段はできない本格的なやつにする。夜の大川に挑むッ、とかさ――」
「それはダメ」
異性交遊、の単語でフリーズしていたはずの乙女が即座に却下した。
「なんでだよ! 色々おもしろそうじゃねぇか」
「またダゴンネットの影響? あんなサイト、見るのやめなって言ってるじゃん」
川ガキ御用達である人気情報サイトの名を上げ、コハダはゲテモノ食いを目の当たりにしたかのような声を出す。彼女はこの川で数少ないアンチ〝ダゴンネット〟の一人で、
「お前が気に入らねぇってだけで他人の知る権利を妨害すんじゃねーよ」
「知る権利! あんたにそんなものがあったとはね!」
マルタの主張をコハダは軽く笑い飛ばした。
「仮にそれがあるとしたって、あんな記事読んであんたの頭が更にとろけるくらいなら、私はいくらでもあんたの権利を踏みにじるからね。美しい川が蘇った、原始の川だ、万歳万歳って、あほじゃないの? 確かにこの川はきれいだけどエデンの川なんかじゃない。隅田川で、大川で、今の川よ。全然問題がないわけでもない。陸の生活に疲れて隣の河原がグレートバリアリーフに見える奴とか、ろくに川べりへ立ったこともなく、流れと言えばトイレでしか見たことのない奴が幻の川の役割をこの川へ押し付ける。今度はその記事を読んだ奴が、チラシ裏の落書きを聖典と勘違いしてありがたがる。変てこな幻を共有した連中は最後、どうすると思う?」
「――どうするんだ?」
「誰かに押し付けるの、呪いみたいな幻を。一番押し付けやすい誰かにね」
しっかりしてないと結局迷惑するのは私たちなんだよ、と若い漁労長は息巻いたが、
「すまん。俺、ああいう真面目な記事はあんまり読まねえんだ」
熱弁をひっくり返され、コハダは一気にげんなりした顔つきになった。
「……別の方向に〝あほ〟ってわけか。〝怪人ウーパールーパー女〟とか〝よどみに潜むモノたち〟とか、よく飽きないよ、オカルトマニアの鏡!」
鼻で笑われたマルタはにやにやと微笑む。ずっと小さい子を可愛がる仕草で、
「自分が怖がりだからってよ、ヒトの趣味にケチつけるなよな」
「怖がりなんかじゃないです。お化け人魚も笑う水死体もいいかげん幼稚。三葉虫拾ったとか、ネオネッシーを見たッ、とか、くだらなさすぎて腰が抜けちゃう!」
「古いなコハダ、今のトレンドは〝魔女〟だぜ?」
途端、帆織は心臓のざわめきを感じた。眉がひとりでにヒクついたが、二人はこちらを見ていない。言い出しっぺのマルタは少しうっとりした様子で、コハダは逆に、
「ちょっとアンタ、そういうこと軽々しく言わないでよ!」
厳しい口調で言い寄った。
「別にいいだろ? まさか、お前、あの噂本気にしてんのか? 魔女の正体が……」
「だからそういうこと言うな、っての! 噂とかそういうの関係なしに!」
「でもさ、どっちにしろかっこいいじゃん。水上警察を手玉に取る孤高の反逆者……」
「自分で意味の分からない言葉は使わないに限りますね。アホがばれるから」
言い切るコハダ。鼻面を上げ、
「とにかく、ダメなものはダメ。夜の大川に関わらないってことは、私たちの一番大切なルールなんだからね。いくらあんたの頼みでも、それを破るわけにはいかないの」
「カジメがすげぇやりたがってるんだ。最近は勝鬨の連中が、河口から出た場所ならもう川じゃないから夜釣りしても大丈夫かもしれないとか言いだしてるらしいしよ、あいつがそういう奴らや、あるいは最悪、フィンズとかに引き抜かれちまってもいいのか?」
「その時は、その時」彼女は少し前とはまるで違う、毅然とした口ぶりだった。
「――仮にあんた、夜の大川で何か面白いもの見つけたら、それをただ記録するだけで、ハイ、調査終了――ってできる?」
「そりゃ……できるさ」
嘘ね、と鼻をひくつかせて微笑むコハダ。
「一つ何かを見つけたら、二つ目を見つけたくなるのが人情ってもんよ。それで一つ目、二つ目、三つ目と追いかけていくうち、急に、自分が流れの強い深みに無理矢理立ってることに気付くんだわ。気付いちゃうとね、もう進むことも帰ることもできない。で、そのうち、引き潮にでも攫われるってのがオチね。私はリーダーとして、水軍の誰であれ危険にさらすわけにはいかない。あんたもカジメも、もちろん私自身もね」
「別に夜、川へ潜ろうってんじゃないぜ。カジメに観測メカ作ってもらってよ……」
「絶対にダメ。やったら絶交だから。二度と口利かないから」
言い切られ、マルタは鼻白んだ顔で、
「どう思う保安官? この漁労長、横暴じゃね?」
「はあッ? あんたねぇッ――」
「彼女の言うことが正しいさ」
いきり立つコハダを押しとどめ、帆織は笑った。
「コハダは見極めがついてると思うぞ。ノッてもいいところ、悪いところの。ぴしゃりと言ってくれるし、この子が漁労長だったことに感謝した方がいい」
「ほら、ごらん。やっぱり保安官だわ」
鼻をひくつかせ、得意気に胸を張るコハダを見て帆織は安堵する。この少女がリーダーである限り、少なくともこの佃水軍は安泰だろう。彼女が見せる天性のリーダーシップについては、相手が子供ながら敬服してさえもいる帆織だった。先ほどコハダが少し触れていたが、確かに今の大川が全くの理想郷、平和な楽園というわけでもない。
川の浄化とバヤックがもたらした、唯一無二の問題点――。
老若男女問わず快適に運転できる推進機関であるべく、水抵抗を限りなく減らすための特殊加工や樹脂成型技術など先端技術がふんだんに取り入れられてなお、普及型バヤックの価格は一般の中級自転車の二台分程度に収められている。それは「ただただ、身近に使える水上移動手段が欲しい!」 という開発者と、後押しをした界隈の町工場の親父たちの熱い理念と志が根底に息づいているからだ。
だがこの世の全てが楽しみに通じる道具に過ぎない子供たちにとって、大人の崇高な意志などそれほど価値を持たなかった。バヤック屋の親父たちも子供らが背伸びすれば手が届くより、もう少し上の価格帯で設定しておいてくれればよかったのだ。こんな面白いおもちゃを手に入れた水辺近くの子供らが、黙っていられるはずもない。
その上、目の前には過去の繁栄を取り戻した川が悠々と流れているのだ。特に大川では生活と川が近いだけに、より「そういう子供」が多かった。ただの水遊び、ただの魚取りなら、これほどの規模も組織化も無かっただろう。行政は老若男女に関わりなく一括りに「自由漁業者」と分類しているが、本人たちは徒党を組み、「水軍」を名乗っている。
バヤックを乗り回して楽しむだけに飽き足らず、交通網として再発展した河川内で専業漁師の操業が難しいのを良いことに、四季折々の海産物をせっせと水揚げして魚屋に卸したり、独自ルートを開拓、高級料亭と繋がりをつけては大枚を手にしたりする連中だ。
都会に暮らし川に暮らす、境界の子らなのだ。春夏秋冬、波蹴散らして騎馬武者のごとく水面を暴れ回り、釣りや素潜りは言うに及ばず、人数や技術を必要とする大規模な漁まで計画的にやってしまう。基本的には小学生から中学生までの男女混合集団であり、帆織の管轄近隣でも「佃」「月島」「勝鬨」「晴海」など十近くの水軍が確認されている。
もちろん、自由漁業者や水軍の存在そのものは、悪いことではない。
こんな大都会のど真ん中で、豊かな自然と、それへすっかり溶け込んだ子供たちを見ることを痛快であるとする大人も多い。我々が遠い昔、海の民であったことを想起させると言う識者もいる。ただ、文化的意義は一つの側面に過ぎない。問題は揉め事だ。
獲った魚介を最初に問屋へ捌いたのは誰だったのか。昔はそんなこともやっていたよと知恵をつけた者がいたのだろう。それにより小遣いへ上乗せができると知られれば競争の激化は必至だった。毎度毎度、トラブルの原因は大抵、漁場の取り合いである。
誰かここの子どもたちに満足を、彼らが世界屈指の漁場にいることを教えてやって欲しい、と帆織は日頃から思っている。注目されやすい原始共産的な漁遊び、水遊びはほんの一面にしか過ぎない。それは充分に楽しげで、子供子供したどんちゃん騒ぎに満ち溢れているのだが、その裏には、豊富な漁場を前に自分たちが今持っている水域へ「収まりきらない」と考える子供たちの血気盛んな対抗勢力がひしめいているのだ。略奪、謀略、縄張り争い、世界中のEEZで起こる様々な問題がここではひどく素直に、無邪気に再現される。
水産庁漁政部・新水面拓進課佃島出張所に所属する帆織の本来の仕事は、全ての自由漁業者たちを指導し、川の利用環境を向上させることである。しかし彼は春先に赴任してから、勤務時間のほとんどを水軍の監視と指導に費やしていると言って良い。川を舞台に学童保育へ携わっているかのような気分になることも多々ある。各水軍が、あるいは彼らの間のトラブルが他の河川利用者へ迷惑をかけないようにすることが、もはや彼の仕事の本質になっているのだ。
学生時代はフィールドワークがメインの研究をしていたから、外回りを含めた職務の内容そのものはそれほど苦にならない帆織だが、仲立ちは中々に苦労する仕事だった。
新しい地域文化として協賛する大人も多くいる一方で、水遊びの危険性や獲物の対価として多額の金銭を扱うことなどを問題視したり、水軍同士の喧嘩をストリートギャングの抗争に例えたり、あるいは、我が物顔で川を縦横無尽に利用していることそのものに対し子供たちを批判する声も根強く存在する。公共財産である川を一部の子供たちが占有していると彼らは言う。漁の制限どころか、水遊びを禁止しようという声すら聞こえてくる。
例えば最近では、古くから大川の水底に点々と設置されている水中道祖神「上津瀬石」が倒される事件が連続して起こり、水軍との関連を疑う声が出ていた。漁の最中に誤って倒したものか、あるいは無法な悪戯かは分からないが、とにかく根拠も明確でないまま、子供たちが真っ先に疑われたその裏には、毎日のように川へ潜っている水軍に対する偏見が明らかに感じられた。あの川ガキどもなら、と思って疑わない大人たちがいるのだ。
確かに、水軍の連中はおりおり、目障り、耳障りなほどに騒々しい。それは一番間近で接している帆織が一番よく分かっている。繰り返し起きる無用な揉め事に、時には怒鳴りつけたくもなり、うんざりもする。俺はシッターや教師を目指していたわけじゃない、と川へ出る気力さえ削がれることも多い。
しかし同時に「だが――」とも、彼は思うのだ。
弁護しようというのではない。ここの子供たちの喧騒には弁護の余地などまるでない。
だがそもそもは、これこそ本当の姿なのではないだろうか。生命力に満ち足りた環境を生命力をより必要とする子供たちが歓迎するのは自然な話ではないのか。混沌や喧騒は生き物らしい成長の副産物のはずだ。それそのものだけに注目すると結論が歪むのではないか。
陸上で沈黙を命じられることが多くなった今、水面で沈黙を命じられれば、子供たちに残された場所は水中だけになってしまう。巡回中の川べりで規制派住民に捕まり、水軍の行状について苦情を並べ立てられたりしている時など、子供たちに川へ沈めと言うのか、あるいは墓地でもあるまいに、どうしてそれほど静謐を必要とするのか訊ねてみたくなる時がある。昔の繁栄を渇望しながら、その繁栄の基盤を拒むのはおかしな話だ。理屈では、こちらこそがあるべき姿ではないのか。そして、もとは皆、こうだったのではないか――。
「保安官!」
呼ばれて帆織は我に返った。
「出番だよッ!」
見れば、少し離れた所、バヤックや小型船を係留できるようにと手すりが廃された水辺テラスで人だかりがしている。コハダは早くもそちらへ飛ぶように駆け出しており、帆織も慌てて後を追った。
各水軍の縄張り境界線付近はただでさえ揉め事の蓄養場みたいなものだが、この頃はフィンズと名乗る新勢力が台頭している大川だ。各水軍のはみ出し者が徒党を組み、相互利益のため水軍同士が結んだ協定や縄張りなどをまるきり無視して好き放題に活動する連中だ。自然、揉め事の原因となる。あるいはそれが本当の目的かもしれない。帆織の目の前ではやらないが、聞くところによるとあからさまな嫌がらせをしかけてくることも多いらしい。今回の地引き網のような大掛かりな漁は目立ちやすく、格好の標的になる可能性があった。それでコハダは、漁の予定をあらかじめ帆織へ知らせてきたのだ。立場のある大人、指導員を敵の牽制に利用しようという魂胆だろう。片方の味方をするわけにはいかないが騒乱防止も仕事のうちと、帆織は監督を引き受けた。嫌がらせについて、フィンズに一度注意する必要があるとも考えていた。
だが今回は、駆けつけてみると、フィンズではなかった。
「あ、保安官!」
低学年の子供が一人、大声と共に駆けよってくる。するとまるでフナ虫の集団が一斉に移動するかのように、騒ぎの群れも、ざわざわ、するするとこちらへ近づいてきた。
「保安官じゃない。自由漁業者指導員だ」
帆織が両手を広げて制すると一度は彼らも動きを止める。だが、
「で――、今日はどことどこだ? 佃と、……豊洲か? 喧嘩の原因は?」
周囲の面子を確認しながらの質問をきっかけにして、てんでバラバラ、今度は小さな口々が喚き始めた。
「抗争じゃねぇよ!」「漁の妨害!」
「ここで僕らが潜る準備をしてたら、あいつが邪魔してきたんだ!」
糾弾する大勢の人差し指が一点を示し、指された人物はゆっくりと顔を上げる。
「……君か」
どんな言葉を発するべきか迷った挙句、それだけ言った帆織へ、
「私」
黒尽くめの少女は淡々と答えた。途端、帆織の脳内に無数の白い腹が閃く。
夜の水中に渦を巻く、おびただしいアカエイの群れ。その向こうに、彼女がいる。
© 2016 髙木解緒