第一章 ALMOST PARADISE 1-1 A dream of the amphibian
1-1 A dream of the amphibia
水中呼吸器のマウスピースを咥えていても、喉に貼られた声帯振動感知型のマイクと骨伝導レシーバーを通して隊員同士の会話は可能だ。
だが、思わず溜息をついた帆織の口元から大きな泡が一つ、音をたてて漏れた時、彼を突いたかりそめのチームメイトから言葉は無かった。
素直に頭を下げた帆織は前を向き、再び、水底を舐めるように這い出す。
両手に握る小型の杭を交互に砂泥底へ突き刺し、流れに逆らって這い進む。その様子はまるで、巨大な崖を水平に登攀しているかのようだ。影になる部分を選んで片方の杭を打ち、体を引き寄せ、今度はその少し先にもう片方の杭を打つ。延々、この繰り返しだった。
水中の夜陰に紛れて五百メートル下流から接近、隠密的に乗船して一気に鎮圧と人質救出を行う作戦だ。だが、灰色の砂漠めいた川床には終わりが見えない。はるか彼方まで広がるように思われてくる。水塊がきしみ、鼓膜がイヤーピースごと水圧に押され続ける。
青味がかって明るい砂漠の所々には軟体動物のコロニーがあった。各個体が側毛の生えた太めのミミズとも見える体を長々と巣穴から突き出し、頭頂部の網状触手を広げて流下するプランクトンを漉し取っている。僅かな水流の変化にも敏感で、帆織たちが近づくのを感じると素早く穴へ隠れ、通り過ぎてしばらくするとまた、全身を揺らめかせながら慎重に姿を現して採餌を始める。
ふと、帆織の目に、十数メートル先、まだ到底こちらの気配を感じられる距離ではないコロニーの蟲たちが一斉に、猛然と体を引き込む様子が映った。
「来ます!」
無線を通して彼の声がチームに伝わり、手杭に仕込まれた射出式スパイクを全員が素早く砂底深くへ撃ち込んだ。錨代わりのガジェットが砂中で展開するのとほぼ同時、激流が彼らを包み込む。皆、水底へ張り付いて姿勢を低く保ち、ただ二点にしがみついて堪える。濛々と砂が舞う。帆織の目の前を大きなイシガニが軽やかに転がって行く。流れは一直線で終わらず、二度、三度と方向を変えて隊員たちを嬲った。そのたびに全員が棒杭へ引っかかったゴミのように軽々弄ばれた。叫び出したくなる気持ちを抑えつけ、帆織は呼吸器のマウスピースを噛みしめた。
梅雨など無いような近年だが、慣例としての明けが宣言された、よく晴れて暑い今日の昼間が思い出される。その頃の彼はまだ、水辺で遊ぶ子供たちの涼しげな様子を羨望の眼差しで眺めていたのだ。今更ながらその時の自分に毒づいてやりたくなるが、そんな気分すら迸る激流が一瞬にして運び去ってしまう。
事件は本日、午後三時半頃、佃島から少し上流にあたる日本橋の運河沿いで発生した。
現金輸送車の襲撃に失敗した武装強盗グループが大川へ逃げ、小型プレジャーボートで水上警察と追走劇を繰り広げた末、折悪しく別の運河から出てきた新造観光船「トヨ」へ衝突した。こちらの船は記念式典と進水式を終え、初めて航路へ入ったばかりだった。
プレジャーボートは半沈、強盗は自らの船に比べ損傷の少なかったトヨ号へ乗り移り、瞬く間に警備員二名を射殺、遺体を投棄すると船の乗っ取りを宣言した。
間の悪いことに、トヨには運航スタッフや殺害された警備員の他、都が進水セレモニーへ招待した各界の名士、公募抽選の当選者や周辺の小中学校を代表する子供たち、併せて三十五名が乗船していた。大川の再開闢以来、最大級の凶悪事件が発生した瞬間だった。
最寄りの警察署へすぐさま対策本部が開設され、解放交渉が始められたが、それは最初から徒労の気配を漂わせた。
トヨの定位置維持装置を除く、ほとんど全ての推進機関が衝突によって機能しなくなっていたことだけが唯一の幸いだった。東京湾へ出られていれば事態は更に厄介なものとなっていたはずだ。
佃島上流部まで流されてきたトヨでは島への衝突や座礁回避のための緊急自動操船が起動、船は定位置維持装置を作動させ、大川分流点の真ん中で停船した。
トヨが燃料切れとなり、本格的に漂流を始めれば対処が難しくなる。事態が膠着したかに見えているうちに本部が早々と急襲作戦を決定したのは必然だったろう。
当初はこのまま突入、制圧の流れかと、ある意味、楽観視されていたとも言える。だが、ちょうど月末間近という事件発生日時が解決をより難しくした。
大潮の、特に上げの時刻、大川の底近くには複雑な流れが幾筋も現れることが知られている。川そのものの下る流れと、上げ潮が勢いよく遡る流れがぶつかり合って潮筋が縦横無尽に暴れるのだ。潮汐観測からこの晩の大川では作戦決行時に最も変動が大きくなると予測され、これがSAT(特殊急襲部隊)による夜間突入を決めた警視庁最大の懸念だった。
水深の充分な海での作戦とは異なり、常に街からの灯火に晒される都市型河川での激流は間違いなく、障壁にしかならない。
さらに具合の悪いことに、ジャックされたトヨ号は全方位展望型の船体を持っていた。
美しく甦った大川を観光資源として活用するため、都が肝いり、鳴物入りで送り出した水中遊覧船だったのだ。死角となるトイレなどの床と後部駆動系、制御部を除けば船倉はすべて透明な特殊強化樹脂製、乗客が水中の絶景を楽しめるよう設計されており、これは警察の接近、突入を警戒する犯行グループにとって非常な有利に違いなかった。
犯人たちは陸からの狙撃を警戒し、甲板には人質の壁を作った。また現場周辺には高層ビルが立ち並び、気流が乱れやすいので空からの急襲は選択肢にない。船は目立つ。消去法で水中からの接近が最適と考えられたのだが、それにはトヨの視界の隙を縫って移動しなければならない。見張りの死角となる川底の影や流水のヨレに隠れて素早く進む一方、潮筋を読み、突然の激流をやり過ごす必要がある。
水中戦術を会得しているとはいえ、プール訓練がメインの警視庁特殊急襲部隊にはこのスキルを持つ者が少ない。もちろん警視庁下部である水上警察にも大川の流れに精通した者がいるにはいるのだが、数日前の出動で不審船を追跡した際、水上バイクごと水面へ叩きつけられて打撲、軽傷とはいえ激流うねる水底のガイドを務められる状態では到底なかった。かと言って海上保安庁に協力を要請すればSST(海上保安庁特殊警備隊)の独壇場となり、せっかくの晴れ舞台でSAT水上チームの華々しい御披露目が期待できなくなる。それに、海中と都市河川内で同じ戦術が通用すると安易に考えるのは、甚だ危険でもあるだろう。
こうした理由から、同じ公僕とは言え、なんの特殊訓練も受けていない帆織が突入部隊に加わり、危うい夜の川底を泳ぐはめになったのだ。大川の状況に通じつつ警視庁と直接の利害が絡まない省庁の部署であり、元々が警察業務補助の役目も併せ持つ帆織の職場へ協力要請受諾の命令が下るのに、そう時間はかからなかった。上層部も警視庁への借しは大歓迎らしい。
そして水中ガイドの大役が帆織に割り振られるのもほとんど即決だった。学生時代に潜水行動術、水中体術を齧っており、作戦にある程度順応できるであろうと考えられたこと、毎日の巡回で大川にかなり馴染みがあることなどが評価を得たからだが、もちろん、他に適当な人材がいなかったということも大きいだろう。
「船の近くまで案内するだけが君の仕事だ。あとは全て、こちらがやる」
突入担当の小隊長はブリーフィングで居丈高に彼へ説いたものだ。それ以上できるものか、と帆織は思ったが口には出さなかった。
犯行グループは北九州経由の武装を相当に充実させているらしいとニュースサイトが伝えている。できれば船に近づくことすらしたくない。突入隊員たちの装備するアサルトライフルが帆織の目に黒々と、冷たく迫った。
「君のキャリア回復にも、うちの名誉にも関わることだよ」という直属の上司の言葉も、彼の心に寒々した感想をもたらしただけだった。秘密作戦なので恋人へ連絡しての遺言はともかく、励ましをもらうことすらできない。だが、
kohada:知ってる? この辺りの水軍の子も何人か、人質になってるんだって!
携帯端末にコハダから届いたメッセージを見て、帆織は行かざるをえない気持ちになった。
犯行グループは事件発生から一時間足らずのうちに、人質から不運な著名評論家一人を選出して射殺、撮影した殺害シーンをインターネットを通じて大手動画サイトに投稿している。警察側の強引な解決手段選択への警告とも言えたが、逮捕後の損得を考えられない精神状態を彼らが行動で表したと見た方が良いかもしれなかった。いつ何時、子供たちが犠牲にならぬとも限らない。
kohada:なんとかならないの、保安官?
ho‐ri:今、警察の人たちが一所懸命やってくれてるよ。
彼は自分が突入部隊へ加わったことには無論触れず、ニュース番組へくぎ付けらしいコハダと少し、やりとりをした。
ho‐ri:危ないから、夜になる前に解決した方が好い、って特殊回線を使って電話したのは君か?
kohada:してない。そんな電話があったの?
ho‐ri:匿名で、うちの事務所に。対策本部にもかかってきたらしい。
kohada:てか、対策本部の番号なんか知らないし。あ、回線破りもしてないよ。でも、夜の大川が危ないのは事実だね。
ho‐ri:それ、みんなよく言うよな? 具体的に、何が危ないんだ?
返信が無いまま作戦準備の説明へ呼ばれたので、そこでやり取りは中断された。だが、出張所や本部にかかってきたという匿名の電話が帆織には気にかかっていた。夜の川を忌むのはここの子供たちに共通するタブーのようなもので珍しくもない。だがそれを態々回線ハックした上、社会的重大事件の最中にまで伝えて来るだろうか――。
「あれだ」
小隊長の声で我に返る。
いつにもまして陸上のビル街は煌々と輝き、水底まで光を送り込んでいる。コンクリート護岸の影や、重い流れが幾重にも縒り合って生じるよどみを除けば、淡く青い透明の薄暗がりが延々と続いて、川の中は新月の陸の上よりよほど明るい。
その向こうにぽつんと、トヨ号の透き通る船底が確認できた。
水中客室の照明は完全に落とされており、暗視機能付きのゴーグルをもってしても外から中の様子を完全に窺い知ることはできない。流れに逆らって座標を維持するための小型スクリューを数基、動かしているはずだが、遊覧船は完全に沈黙しているようにすら見える。
泳いでは水底に留まり、泳いではまた留まり、隊員たちはハゼ科の魚のように船との距離を縮めていく。水深は平均八メートル。フード付きウェットスーツにゴーグルという出で立ちをした帆織の、僅かに露出した顔の肌に、大川の水はぬめるようにまとわりついてくる。
突然、トヨの船倉から鋭い光が伸びた。皆、反射的に頭を下げる。藻の塊のように水底へへばりついて敵を窺う。透明な船倉の内部で動く人影が見えた。見張りだ。気になることでもあったのか、人影は手にしたフラッシュライトで幾度か、帆織たちの潜む方向へ光の槍を突き刺してきた。こちらとしては身じろぎせず、見逃されることを祈って堪えるしかない。
やがて光線は消えた。
だが油断はできない。やっとの思いでここまで来たのだ。水中呼吸器の使用可能時間は残り少ないが、慎重に、影が伸びるように水底を這い、そろそろとにじり寄って最接近ポイントに集結する。最早通話機器は使わない。数秒の間、ハンドサインで乗船方法や装備の最終チェックをおこなう。船倉の死角を確認し、流れを読んで突入経路を見極める。
君は下流へ、と小隊長が帆織へサインを与えた。頷く帆織。幾人かの隊員が彼へ親指を立てて見せる。感謝の印だろう。ほんの数十分だったが帆織の働きは彼らの認めるところだったようだ。帆織も軽く頭を下げて返礼し、武運を祈った。
いよいよその時だ。
部隊突入後、彼だけが全速力で下流へ泳ぎ下り、回収班に引き上げてもらう手はずとなっている。帆織は泡を漏らさぬよう、少しずつ排気した。
船側に目立った動きは感じられず、気付かれた様子もない。
チェックが終わり、急襲開始の合図を出すタイミングを小隊長が計り始める。
その時だ。
急に視界が陰った。
ぎょっとして見上げた帆織の目に、頭上を覆い尽くす、金色がかって白く蠢く連なりが映る。
エイだ。エイの腹だ。全てアカエイだ。いつの間にか尋常でない数のアカエイが水面近くに群れをなし、陸からの灯りを遮っている。そして群れは悠々と、帆織たちを包囲するように泳層を下げてきた。
アカエイの尾には人間に重傷を負わせることのできる毒の棘が備わっている。ウェットスーツなど簡単に裂き貫くことのできる、長く鋭利な棘だ。不用意に彼らを驚かして水中で攻撃されれば、作戦遂行が不可能になるどころか生死にも関わる。
水中で出会うエイの危険性はある程度、海や魚に通じた人間ならば誰もが知っているし、ブリーフィングでの注意喚起もあった。部隊全員、身動きが取れない。
気が付けば水が濁り始めている。川底に堆積した微粒子をエイの作る水流が巻き上げているらしい。
(動くな)
刻々と効かなくなる視界の中で、小隊長のハンドサインが微かに見える。
帆織は酸素計に目をやった。ギルシステムはあくまで小型かつ軽量に特化した装備だ。特殊な膜に水流を通し、水から直接酸素を得る機構だが、取り出した酸素はほぼそのまま使い、ごく少量を呼気バッテリーへ蓄えるのみで、ボンベ式のものほど長く酸素を安定供給することができない。その上、この泥だ。外側のフィルターが目詰まりを起こし始めていた。使用限界は通常時より大幅に下回るはずだ。
だが耐えるしかない。外洋で鮫に使う軟骨魚類用の忌避剤は、場所が場所だけに誰も所持していなかった。濁りはまだ止まない。まるで砂嵐に襲われたようだ。白いシルト粒子が視界を遮って、ついには隊員たちの姿を完全に消してしまう。エイのたてる泥流だけでこれほど濁るものなのか、白濁した流れは最早視界を一メートル程にまで狭めている。この泥煙幕がどれほどの範囲で展開しているのか帆織に分かるはずもなかったが、遠くから見ればアカエイの魚体と泥水による巨大な竜巻が突如、水底へ立ったように見えるだろう。トヨ号の乗っ取り犯たちも外の異変に気付いたらしい。水中をせわしなく光線が走るが、彼らにも何か見通せたとは思われない。
「ベストに異常!」
戸惑いの沈黙を破ったのは一人の隊員の無線連絡だった。
「緊急浮上装置が誤作動しました! 浮上します!」
直後にくぐもって聞こえた音は、おそらく小隊長の舌打ちだ。
帆織も含めた全隊員がウェットスーツの上から着用している水中兵用戦闘ベストには防弾・防刃機能の他、自力で泳ぐことが困難な時のためのガス充填式フローティング機能が備わっている。着用者の脈拍が一定を下回った場合は自動で、または手動で、超小型ガスボンベの栓へ接続された浮上スイッチを引けば、タクティカルベストは一秒で鮫の歯でも貫通できない防刃フローティングベストへ早変わりし、強力な浮力で着用者を水面まで引き上げるのだ。
「……下流に移動して回収班に合流しろ。船上の標的とエイを刺激しないようにな」
押し殺した声で小隊長からの通信が入った直後、コードネームの名乗りとともに、
「こちらも誤作動! 浮上します!」
「何ッ?」
「いや、違う!」
「何者かがスイッチを……」
「こちらも浮上します!」
「畜生ッ!」
回線が混乱する。瞬くうちに浮上の報告が続きに続き、
「ガイド、そっちに行ったぞ!」
「なにが起こってるんですッ……?」「すまない、俺も上がるッ!」
無線に気を取られ、隙が生じる。
だが、白い濁りの中から自分の浮上スイッチに伸びた黒い手を、帆織はあわや払いのけた。逆にその手首を掴もうとしたが、するりと逃げられてしまう。濁りの向こうに何者か、四肢持つ者の泳ぐ気配がする。水中に定位してこちらを見つめる、意志のこもった視線を感じさせる。人だ。ふと、その気配がゆらぐ。ふいを突き、帆織の全く予想外の方向から彼のスイッチへ再び手が伸びた。僅差でかわす。
何者か、相手は相当に泳ぎが達者らしい。それにこちらが見えるようだ。だがその理由を考える暇は無い。帆織も潜水活動にはそれなりの自信があるほうだが、相手は彼にない身軽さで縦横無尽な間合い取りから彼を襲った。
身を引いて帆織は逃れ、また逃れ、
(――強盗の、仲間ッ?)
違う気がした。
間を置かず圧倒する攻勢には悪意や敵意より、何か、ひどくがむしゃらな想いを感じる。苛つきが水を通して伝わってくる。剥き出しの焦りが叩きつけられている。
(捕まえてやる)
なぜか、彼は逃げる気にならなかった。
無関係な手柄を意識するはずはない。小隊長も含め他の隊員が全滅したらしい中で、部外者に過ぎない帆織が粘る必要はまるで無かった。素直に浮上するか、相手の隙を突いて流れに乗り、逃げてしまえば良いだけの話だ。だが、それらの選択肢は不思議と出てこなかった。
(よし!)
相手が動いている間合いのうちなら、アカエイはいないはずだ。帆織は呼気バッテリーの残りを最後に深く、一吸いして呼吸器を捨てた。記録用動画カメラ付きのヘッドセットも外れて流れていったが、少しでも身軽な方が良い。やるべきことは、この襲撃者を捕まえ、拘束し、一緒に流れ下る、それだけ。突入はどうせやり直しだ。
相手にはこちらの動きが分かる。そこにつけこむ。
視線を外して誘いをかけると、相手は拍子抜けするほど不用心に襲いかかってきた。
帆織の右手が細い手首を今度こそ、がっちり捕らえる。
掴み取りの魚にあるような骨の軋みがぎくぎく伝わってきた。浮力を使い、体全体をひねって巧みに逃れようとしているらしいが、こうなれば帆織も離さない。体格で勝る分、重さと筋力ではこちらが有利だ。後ろ手に相手の手首を捻じり、ぐいと煙幕から引き摺り出す。左手は後ろ襟へかけ、上半身の動きを封じた。大反りの頭突きをかわす。影がもがき、黒髪が彼の鼻先で揺らめく。
さらに右手で手首を捻り、左手を前へ回して華奢な上半身を腕全体で抱え込むようにした時、帆織は相手が少女であることを知った。育ち盛りの体つきがウェットスーツ越しでもひしひしと感じられ、自分がこの場から逃げ出さず、素直に相手へ向き合った理由を、彼は一瞬にして悟ったのだった。見知った顔がまざまざと思い起こされ、
(こいつは、俺の仕事だ――)
少女。
とある少女。
彼は唸った。思わず腕に力がこもる。
その時だ。どう、と風が吹いた。いや、水中に風は吹かない。一瞬の大風とも思われる衝撃波が通り過ぎたのだ。無数の小さな渦潮が一斉に流れ下った。水中で絡み合う二人を置き去りに、世界だけが過ぎ去った。
一呼吸おいて気が付けば、濁りがすっかり消えていた。どこまでも透明な水と、耳の痛くなる静けさだけがそこにあった。
大都市の灯りがさしこむ川床は、どこまでもどこまでも広がる灰色の砂漠のようであり、
(――なんだ、あれは?)
遠く遠く河口の方角、はるか遠くから砂の色が変わりつつあることに帆織は気付く。
違う。砂の色が変わっているのではない。白や桃色の何か、葉の無い、茎と花弁だけの植物のようなものが次々と川底から芽吹いていた。水底に咲くチューリップめいたそれらは次から次へと砂を突き破ってはにょきにょき柄を伸ばし、幾つも幾つも、一輪ずつの花を咲かせる。砂漠のようだった川底がたちまち一面の花に覆われ始めている。
やがて開花は押し寄せて来た。
ゆらゆらゆらと揺れている。歩いて迫ると思われる。トットコトットコやってくる。生えてくる。生えてくる。生息密度も濃厚に、みしみしみしと生えてくる。いつしか始まっていた耳鳴りが、楽しげな太鼓のリズムに聞こえ出す。
トントコトットコトントコトットコ、トントコトットコトントコトットコ。
〝御前に行きて道を備え! 御前に行きて道を備え!〟
芽吹きはどんどん近づいて来る。嬉しげに、生命の息吹をこれでもかと纏いながら迫って来る。喜びの福音、安らぎと慈悲の気配に満ち満ちて、どんどん、どんどん近づいて来る。
生えてくる、生えてくる、体の中から生えてくる。みしみしみしと呼応する。
トントコトットコトントコトットコ、トントコトットコトントコトットコ。
呼ばれている、呼ばれている。呼ばれている、この感覚……。
ふいに、帆織の左手の甲へ鋭い痛みが走った。
思わず力が緩んだ隙を突き、影はするりと彼の腕から抜け出してしまう。身を翻し、帆織と対面したその手には白々と、ぬめるように光る骨のナイフが握られていた。
己が口から空気が漏れ出しているとも気付かないまま、帆織は相手の手元をまじまじと眺める。よく見ると骨でない。奇妙なほど大きな、エイの尾棘だ。エイの棘から毒を抜き、研ぎ加工したナイフ……。
漸く目線を上げる。誰であるかは、もう知っている。なぜここに、とは思ったが、同時に、それほど不思議ではない気もした。対策本部へ怪電話をかけてきた人物にも見当がつく。二連式水中眼鏡の奥で輝く両眼に焦点が合い、彼はその光に囚われた。視線を外せなかった。満月に照らされた夜の外海を思わせる、静謐な力に満ちた眼差しに帆織はただ、見惚れた。
(しまった!)
幻想は瞬時に消滅する。
こちらへ伸びる指先へ気付くのが一瞬、遅れた。浮上スイッチが素早く引かれ、帆織のベストが時置かず膨張する。浮力の増した彼の体は水面目掛けて急激に引かれ始める。
一方、少女は水底に留まり、ぐんぐんと登っていくこちらをずっと、見上げていた。そして帆織もまた、見ていられる限りずっと、彼女を見下ろし続けた。
揺らぐ視界の中で、しなやかな影は凛と佇んでいる。輝く両眼は濁りなく澄み切って、邪な色などただの一滴も無い。彼女は無垢で、確かな決意に満ちている。
〝御前に行きて道を備え!〟
はっとした。
帆織の心の中に突如としてあるイメージが芽生えた。それはほんの一瞬、ひどく眩く閃いたのだ。だが一瞬で充分だった。水面を割った時、帆織はもう一度潜ろうとさえ思った。纏わりつく浮力体が無かったら実際そうしていたに違いない。
乗っ取り事件そのものは突入部隊の自滅後、犯行グループが急遽投降を宣言して決着がついた。
※
山麓から染み出す雪解け水は岩体を緩く削り、超大陸の一部に広大な傾斜地を形作っている。鮮烈な清水をたっぷり含んだ苔類がはるか地平線まで這い広がり、大地は一分の隙も無く、鮮やかな緑に覆われていた。
仰向けに寝転んで空を見上げれば、植生の絨毯に濾過された岩清水が肌に沁みて心地良い。弾む苔の感触は、直下に硬い岩盤があるはずなのに、そのまま地のうちへ沈み込んでしまいそうな浮遊感を与えてくれる。
体を起こせば、その連続する天然の寝台の上にちらほらと、白い物体が二つずつ、寄り添いあっている様子を認めることができる。つがいだ。まだ雄雌の区別もつかぬまま、じゃれ合い、歓声を上げているのもおり、性に目覚め、相聞の歌を交わすのもおり、半身を清らかな水溜りへ浸して精包の取り込みや産卵を行う雌、それを外敵から守るべく辺りをうかがう雄など、それぞれのつがいにそれぞれの時間がある。
空には鉛色の雲が垂れ込め、はるか山々の頂には万年雪が積もり、そこから吹き降ろす風はこれから訪れる寒冷化の予兆と思われるほどに冷たい。
しかし彼ら、彼女らはしっとりと白い体表を余すことなく外気へさらし、精力的に蠢いている。
もっとも、そもそも有尾類、すなわちサンショウウオやイモリなど、両生類のうちカエルでなく尾があるものの多くは基本的に耐寒性が高い。氷河地帯に生息する種もいるほどで、気候の冷涼なぶんには活発に動き回り、繁栄を謳歌することができるのだ。
ふと、胸にかかる吐息に変化を感じた彼は、自分の腕の中へ視線を転じた。
先ほど彼が目覚めた時にはまだ、昏々と眠り続けていた彼女だったが、鋭敏な触覚が何か不快を感じたらしい、眠りこけつつも顔を僅かにしかめ、唇を尖らせて、肉付きのしなやかな体をよじったり、丸めたりしている。こちらへ身を寄せ、額や鼻づらをこすりつけてくる。
原因を探して! と、夢のまにまに寝相で命じているのだろう。
彼は微笑んだ。横着者を抱き寄せ、薄い背中へゆっくり手のひらを滑らせる。そっと指先を這わせ、優しく異物を探す。
有尾人の少女はくすぐったそうに身をよじって再び体を押し付けてきたが、その癖まだ目覚めない。くうくうと眠る相当のねぼすけだ。寝息がまだ、温かかった。日毎に研がれる滑らかな肌具合は未だに人のものだから、体温も高めなのだろう。摂氏三十度を切るまでに幾らか余裕がある。
だが回帰は確実に進んでいる。
基幹分泌腺からは溶媒粘液、毒腺からは毒液、年頃の娘らしい青臭さと甘い腐臭の入り混じるあの毒液、が分泌されて、体表のパレットで混合された乳液として彼女の全身を薄く覆っていた。それは紫外線や有害な微生物から彼女を守るために生成されるのだが、どうやら望まない雄を退ける効果もあるらしい。彼の手には少し、刺激が強かった。彼女は単に甘えたいだけなのだ。彼の体温を欲しているだけだ。
流れる髪の下へ手を入れ、耳の裏から首筋、脇から脇腹、陰る部分を重点的に、彼は柔肌の温もりをまさぐる。
やがて指先が二匹、吸い付いていた蛭を見つけた。
爪を使って引き剥がす。一匹はまだだったが、もう一匹は早くも肌を食い破って盗み飲みを果たしていたから、彼は咬傷の周辺部をやんわりと摘み、少女の血中に溜まっているであろうヒルジン(蛭の分泌する麻酔性の血液凝固防止物質)を追い出すことにしばらく専念した。
(――この時代の蛭も、すでにヒルジンを持っていたのだろうか)
指先を伝って流れる熱い滴りを感じながら、ふと彼は考える。
生物は常に、より良く生きる方法を身に着けてきた。体を変え、環境に応じ、例えそれが数世代のうちには実現されずとも、より良い暮らしを目指してきた。
とすれば、彼の時代の蛭と同等の能力を石炭紀の蛭が有しているとも考えにくい。仮に、既にヒルジンを獲得していたとしても、その効力は弱かったのではないだろうか。
そう考えてみると、心なしか血の止まりも早かったようだ。岩盤の裂け目から出る水で手を洗い、水苔や自分の体で拭った彼は、彼女を驚かせぬよう、ゆっくり半身を起こした。
胡坐をかき、さらに調べるべく、たおやかな裸体へ向き直る。
彼の時代の情報が正しければ、石炭紀後期の寒冷な気候から遡ってデボン紀が近づくにつれ、世界は段々と温暖になっていくはずだ。それだけ蛭も多くなるだろう。
それに、今のうちに彼女の人間としての形、直立二足歩行する四肢動物の形を留めた段階での素晴らしい造形を、しっかり記憶に刻みつけておきたかった。もちろん、最終的に彼女がどんな姿になろうと、最後まで見届けるつもりに変わりはないのだが。
いつの間にか伸びに伸びた黒髪は艶々と長くうねり、うつ伏せの背中へ見事に照り映えていた。二つの吸着痕と一つの咬傷の他には染み一つない肌が、空へ焼き付くように白光りする一方、細いうなじやはっきりした肩甲骨を覗かせながら背中を覆う漆黒の流れが明滅し、強烈な対比をなしている。
伸びやかな腕や脚の際立つ肢体は一見、華奢だ。だが、その内側には柔軟な筋肉が存分に待機していることを彼は知っていた。肩骨の丸い張り出し、腕から手のひら、指先へ至る輪郭も依然として優美なままで、こうしたところは、すっくりした立ち姿が印象的だったあの頃と少しも変わっていないように思われた。
しかし、腰の僅かに下辺りから、変化は如実に現れる。
臀部の割れ目を埋め合わせるように、半透明な尾鰭の外縁が始まっていた。
上等の葛餅のようにぽってり滑らかで肉厚の鰭は真横から見ると鉾先形をしており、かかとを超える長さにまで伸長した尾骨を覆う肉と肌とを垂直に緩く縁取っている。鱗はまだ無い。
有尾人たる所以、少女はオタマジャクシの尾を持っているのだ。
どう見ても大地を駆けるために用意されたであろう二本の長い脚と、その間から伸び、寝乱れた着物の裾に似てしどけなく地を擦る尻尾には不釣り合いな官能がある。
と、こちらが体を離したせいで体温を外気に奪われたらしい、一瞬ぶるりと震え、きゅっと体を丸めた彼女を見て彼は我に返った。
変温動物化が進んでいる最中なだけに、温度変化には気をつけてやらねばならない。慌てて彼女を抱き上げる。抱え込んで密着し、体温を分け与えてやる。
未完成ながら形好く膨らんだ乳房、贅肉の無い、なめし皮のようにすっきり張り詰めた腹部のまだ瑞々しいことは背面と同じだ。明らかに人間の少女である。肺呼吸も確かで、ゆっくりと息が出し入れされるたびに胸や腹が艶めいて柔らかく蠢く。
だが、へそが無い。
つるりとした下腹部はそれこそ冬眠明けのサンショウウオのように滑らかで、その下をさらに見やれば、無毛の恥丘向こうに潜むのは人間のそれでない、総排泄孔なのだ。
繁殖準備の整いつつあるサインだろう、赤味がかってきた周辺部位がふと視界に入り、彼はとっさに目を逸らした。それは最早〝秘所〟とも呼べぬ、便と、寒天質に包まれた卵嚢を放出するためだけの穴に過ぎない。真胎性は有胎盤型哺乳類にとって勝利の証ではなかったか。
そんなこちらの気分はまるで知りもせず、彼の胡坐の上で丸まった彼女はもぞもぞ体を動かしては寝返りを打ったり、身をよじったり、そのうち収まりの好い位置を見つけたのだろう、自らの尻尾を掛け布団代わりに再びすやすやと、寝息を立て始めた。
今はまだ、両生類の時代……。
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