表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/33

プロローグ

 プロローグ


 煌々(こうこう)とした(りく)(あか)りがずっと()かして差し込んでくるので、夜の川、と言っても水の中は意外に暗くない。

 見渡せば灰色がかった川砂(かわずな)の砂漠がどこまでも()い広がっているかのようで、その上にきらきらと輝いてざわめくのは月星(つきほし)にも見える小魚の群れである。

 静か、でもない。

 耳を澄ませば、泳ぎ回る魚たちの骨の(きし)みや(かに)の足音、近くの河口から上げ(しお)が満ち寄せる音、舞い上がった砂の落ちる音、実に(にぎ)やかで、そもそも潜って聞けば流れる水そのものが巨大な楽器だ。一〇〇メートル以上の川幅があるとはいえ、両岸(りょうぎし)をコンクリート護岸(ごがん)で挟まれていてはなおさら、ミシミシキシキシ、押し合い()し合い(うな)っている。

 目をこらすと、同じ川を流れる同じ川水でも、流れの(すじ)によって見え方に違いのあることが分かる。

 一口に透明と言っても、塩分濃度や温度差など様々な個性から、ある流れは遠く数十メートルに渡って見通せるほど透き通り、またある流れは、陸に立つ陽炎よりも濃く朦朧(もうろう)と光を屈折させている。それぞれの流速もまるで違う。

 淡海(たんかい)が入り混じってそれが顕著(けんちょ)となる河口域(かこういき)に限らず、一本の川は決して一筋(ひとすじ)の流れではない。化学、物理、生物、様々な要素を(あわ)せ持つ幾筋もの流れが絡み合い、せめぎ合う、連続する複合流体(ふくごうりゅうたい)なのだ。


 水深、約五メートル。砂底すなぞこを歩いていたクルマエビが、ふと、立ち停まった。優雅に長い触角を一振(ひとふ)り、二振(ふたふ)り。直後、(はじか)れたように跳んで姿を消す。イシガニは鋭い爪を精一杯に振り上げて威嚇(いかく)姿勢しせいを取り、カタクチイワシの大群は一斉(いっせい)に旋回すると護岸(ごがん)へ突っ込んで()()りになった。

 何か来る。

 はるか下流の方角、見通すこともできないほど水の濃くなった辺りに、ぽつり、と白い点が現れ、いや、点ではない。

 何か(のぼ)って来る。水を掻き分け、猛然と突き進んで来る。

 今、輪郭が見え始めたかと思うと、(またた)くうちに泳ぎ迫っている。白い顔、白い(のど)、白い胸、白い腹。気がつけばもう、通り過ぎている。

 逃げているのだ。この何かは何かから、必死で逃げている。

 水の上に目をやれば、すぐ後ろに追う者の姿がある。

 しなやかな、影――。

 波を()立てて進むその人は全身が真っ黒で、かえってくっきり、夜の中へと浮かんで見えた。

 やはり黒い太軸(ふとじく)のフレームにレンズの大きな二連式(にれんしき)ゴーグルをかけているので、顔立ちは判然(はんぜん)としない。しかし街からの(あか)りに照らされるすっきりした顎の(とが)り具合や桃色の唇、きめ細やかな肌の様子は女、それもごく若い娘と見える。

 夜を切り裂いて彼女は走る。

 川面(かわも)へ直接に両手(もろて)片膝をつき、長くもない黒髪を潮風(しおかぜ)へ強くなびかせ、身をかがめた姿勢で水上(すいじょう)疾走(しっそう)する。

 前を見据え、膝立ちに水面(すいめん)を飛ぶようで……魔法?

 そんなはずもない。水面直下を高速航行する推進機関(すいしんきかん)に乗っているので、そう見えるというだけだ。

 (ぬる)潮水(しおみず)へ頭からまみれ、唇を固く引き結んで波飛沫(なみしぶき)を突っ切る。ゴーグルの中の両眼(りょうがん)炯々(けいけい)と光って前方へ、すぐ先の水中を()く狩りの対象へ固定されている。

 やがて彼女、(たく)みにバランスをとりつつ、すっくりと水面へ立ち上がった。手に()げているのは細身(ほそみ)(もり)だ。()(たけ)より長い竹製の()の先へ、かえしを刻んだ一本刃(いっぽんば)穂先(ほさき)が挿し込まれた分離式(ぶんりしき)の銛である。この穂先は、射手(しゃしゅ)が腰ベルトに()げた携帯式の巻き取りドラムから延びる、ごく強い細引きへ(つな)がれてもいる。獲物に刺さると穂先が肉へ潜って柄から(はず)れ、やり取りを綱引(つなひ)きに切り替える、銛への水抵抗を軽減してばらしにくくするための工夫だ。大物(おおもの)を突くにはこれに限る。

 骨製(こつせい)の穂先は濡れてたっぷりと水を含み、生気(せいき)()びてぎらぎらと光った。

 両手(りょうて)の位置を決めた彼女は柄を軽く握りなおし、銛を頭上(ずじょう)(かか)げる。(りき)む様子は無い。何気(なにげ)ない、自然な表情をしている。先を行く相手を見つめた両の眼が静かに、力強く澄んでいる。

 小さな唇が(みそぎ)の言葉を口ずさんだ。

 合図だ。

 水底(みなそこ)から獲物を追っていた彼女の猟犬たちが牽制(けんせい)をやめ、一気に追い上げを開始する。水中のまぼろしは急速に形をとった。水面へ追い詰められ、白い影の輪郭が鮮明となる。彼女が照準を合わせたことに気付いたのだろう、今まで直線的だった泳ぎがジグザグになった。ランダムに方向を変え、(ねら)いを逸らそうとする必死の思惑(おもわく)が生死の境界でまざまざと見える。

 だが、そんなことで誤魔化(ごまか)されはしない。

 (かま)えが(ととの)い、彼女の双眸(そうぼう)(ひらめ)く。

 全身の筋肉が一気に()()め、右手が柄を固く、固く握り……、

「停まれェッ!」

 突如、拡声器越しの怒号が響いた。

 強烈な光線に射手の目が(くら)む。その隙が見逃されるはずはない。次の瞬間、標的が急停止して反転、盛大に水を割った。強靭(きょうじん)跳躍(ちょうやく)、獲物を襲う猛禽(もうきん)のごとく彼女へ(おど)りかかる。水かきをひろげ、生臭い体臭を撒き散らし、乱杭(らんぐい)に並んだ牙を()き出しに殺到(さっとう)する。

 危うく(たい)をかわし、()いだ柄の一撃を相手の腹へ叩き込んだ彼女だったが、自分も鉤爪(かぎづめ)に左腕をかすられた。(そで)が裂け、肌に鮮血の(すじ)が走った。そして体勢を立て直した時にはもう遅い、敵は深みへ(のが)れている。白い残像が波間(なみま)嘲笑(あざわら)った。

 獲物を(のが)した狩人かりうどは、忌々(いまいま)しげに次の相手を見やるしかない。船だ。水上警察(すいじょうけいさつ)のパトロール(てい)だ。サーチライトの逆光で船名(せんめい)こそよく見えないが、

「こちらは警邏艇(けいらてい)はるみ。そこの不審船、誘導に従って着岸(ちゃくがん)しなさい!」

 拡声器を通して聞こえるだみ声は毎度お馴染(なじ)み。

 銛の穂先を手早く(はず)し、彼女は柄を川へ投げ捨てた。逃走に邪魔なのだ。流れ着く先は決まっているから、ほとぼりが冷めてから取りに行けばいい。

 穂先は腰の革鞘(かわざや)(おさ)め、

「逃げるよ!」

 鋭い声に呼応(こおう)して水中の馬が加速する。

 そのまま突っ込み、相手の左舷脇(さげんわき)をすり抜ける。警邏艇が転回(てんかい)する(あいだ)に出来る限りの距離を取る。

 追う者は一転、追われる者へ。

 白色光線(はくしょくこうせん)の追跡、二色に(きら)めく回転灯、サイレンが鳴り響き、粘つくエンジンの振動は水面下にみなぎってしつこい。

 川中(かわじゅう)の生き物を叩き起こすどころか、

「停まれ、停まれぇッ!」

 両岸(りょうがん)の住宅地で眠りについているはずの一般市民へもまるでお(かま)いなし、警告は最大音量だ。今日こそは、という熱い思いが声音(こわね)へありあり(にじ)み出ている。

 だがもちろん、彼女はそんな声を軽く振り切る。

 拍車代(はくしゃが)わりの気合(きあい)を飛ばし、波飛沫(なみしぶき)()ち割って停まる気配を微塵(みじん)も見せない。姿勢を低く(たも)ち、むしろどんどん速度を上げる。

 速力そくりょくでは警邏艇がはるかに(まさ)る。だが、船体(せんたい)小回(こまわ)りや潮目(しおめ)を読む能力では少女が圧倒的に(すぐ)れている。彼女が()り出すフェイントに「はるみ」は幾度(いくど)も潮目へ(はさ)まり、そのたびにスクリューが空回(からまわ)りした。空中に飛び出た船底(せんてい)と波が打ち合い、張りの悪い太鼓(たいこ)を打つような音が(にぶ)く響いた。

 しかし「はるみ」も(あきら)めない。 

 進路を岸寄(きしよ)りに取った少女に対し、警邏艇は(かわ)の中央を走りつつ彼女の真横(まよこ)にぴたりとつける。深度(しんど)のある本流域(ほんりゅういき)では航路を少々(はず)れたところで座礁(ざしょう)する心配はない。だが高速航行で潮筋(しおすじ)を読み違えると、たちまち横滑(よこすべ)りして護岸(ごがん)へ激突する。少女の舵取(かじと)りはそれを巧みに誘っていた。追手を錯覚させるコース取りだ。

 すぐ先に佃大橋(つくだおおはし)が迫る。

 突如、少女の船が「はるみ」の直前へ(おど)り出た。回避か減速か、操船(そうせん)の動揺が警邏艇の舳先(へさき)を大きく揺らして船足(ふなあし)が落ちる。だが、停船とまではいかない。二隻(にせき)は続けざまに橋体(きょうたい)の影を抜けた。早くも次の橋が迫る。

 と、いきり立つ気配が夜の中で膨張(ぼうちょう)し、

「ネット来るよ!」

 彼女の船がほとんど横滑りに進路を変えた直後、軽い破裂音(はれつおん)が背後で響いた。それまでの進行方向前方へ大型の投網(とあみ)が広がって(くう)(つか)む。捕縛用(ほばくよう)ネットランチャーは水上警察常套(じょうとう)の非殺傷兵器だ。

 だが、彼女と彼女の愛艇(あいてい)には毎度(まいど)効果が無い。撃つ前の殺気が筒抜(つつぬ)けだからだ。幾度(いくたび)もの追いかけっこでなぜ、それが分からないのか。

 (またた)くうちに中央大橋(ちゅうおうおおはし)も過ぎる。

 素早く追跡者を振り返った彼女、余裕の笑みを短く漏らして再び前を向いた。

 刹那、

「停まって!」 

 間一髪、とっさの叫びがよく()いた。

 つんのめって急停止、時置(ときお)かず前方へ飛び出したのは五台の水上バイクだ。回転灯も(まばゆ)い水上警察バイク小隊、普段の颯爽(さっそう)としたイメージにも似合わず、分流点(ぶんりゅうてん)(かど)で待ち伏せをしていたものらしい。得意気(とくいげ)なエンジンの(うな)り、乱暴な航跡(こうせき)(えが)き、たちまち広がった陣形(じんけい)()()(はば)まれ、彼女はたじたじと、少し、後退した。

 後ろからはくぐもりがちだが無遠慮な笑い声が近づいてくる。

 してやったり、という満足感が拡声器越しにでもひしひしと伝わってくるところから(さっ)するに、どうやら警邏隊(けいらたい)は最初から、追跡の御芝居(おしばい)をしていたらしいのだ。彼らが「魔女」とあだ名した不審船に毎夜逃げられることへ(ごう)を煮やし、ついには倒錯した海軍チックなプライドやら何やらを捨て去って、姑息(こそく)な、いや「戦略的」頭脳戦に打って出たものと見える。

 そして成功した。

 警邏艇の強力なサーチライトと水上バイク五台分の高輝度(こうきど)LEDに照らされて、黒尽くめの少女は一瞬、明るみへ閉じ込められたかのように見えた。前から後ろから包囲網は確実に(せば)められ、絶体絶命、万事休す――。

 だがそう見えるのはあくまで、警邏隊から彼女を見た時の話だ。

 (まぶ)しそうに(ひたい)へ手をかざし、周囲を見回していた彼女だったが、やがて、ほう、と(あきら)めと(うら)みの入り混じる溜息を小さくついた。

 それから、

「……あと、お願い」

 (つぶや)いた次の瞬間、その肢体(からだ)は素晴らしい美しさで()びきっている。そのまま波間へ滑り込み、潜水、さらに深く潜水。彼女は夜の川へと溶け込んだ。

 不意(ふい)を突き返された警邏隊の全員が呆気(あっけ)にとられる。

 しばしの沈黙――。

 転瞬(てんしゅん)、暗い水面(すいめん)が不気味に盛り上がった。

 水上バイクが(ちゅう)を舞った。


     ※


 だめだなぁ、と思う。溜息をつこうとして、

「ゲ」

 思わず(あと)ずさったのは、欄干(らんかん)にこびりついたカモメの(ふん)に気付いたからだ。直後、けたたましいベルを鳴らしながら背後を通り過ぎた自転車に(あわ)て、同時に(ひじ)の汚れた可能性を(なげ)き、だが、(さいわ)いにも汚れてはいなかった。

 そうなるとまた、彼女の注意は川へと向かう。欄干に頬杖(ほおづえ)をついて水面(みなも)を見やる。時折(ときおり)水上バスが通り過ぎるだけの、だだっぴろい水の反射に目が(くら)む。

 河口から数えて四番目、この永代橋(えいたいばし)から下流を(のぞ)むと、ちょうど、見る者へ突き込んでくるかのような地形が隅田川(すみだがわ)を分断していることがよく分かる。これが佃島(つくだじま)だ。河口に(しょう)じた幾つかの砂州(さす)を江戸期から造成、埋め立ててできた半人工(はんじんこう)の島である。

 機内摂津(きないせっつ)の漁師が江戸幕府から拝領(はいりょう)して移り住み、漁村として開拓した。戦前、戦後も長らくは東京の歴史ある下町の一つとして栄えてきたが、近年は多分に漏れず再開発の波に呑まれている。豪奢(ごうしゃ)な高層マンションやオフィスビルの建設が盛況で、足元には二線の地下鉄が走り、橋も多く、利便性は益々(ますます)高い。こうした現状では日頃、古い地形を意識することも少なくなる。東京湾奥にありきたりな、埋立地の一区画(ひとくかく)に過ぎないと思わせる。

 だが、やはり島だ。

 永代橋からの景色が一番、それを感じさせる。橋から見える島の北端部(ほくたんぶ)、俗に新大川端(しんおおかわばた)と呼ばれる地域などは特にそうだ。林立する高層マンションが昼のうちは確かに近未来的な水辺の新興住宅地(しんこうじゅうたくち)にふさわしい、ユートピアめく清潔感と明るさを演出しているのだが、夜となれば、それらの影がかえって全てを、大洋(たいよう)に浮かぶ巨大な要塞島(ようさいとう)と見せるのだ。

 目を刺す西日(にしび)と河口から吹き抜けるそよ風は、今日もまた、その刻限(こくげん)が近づいたことを知しらせている。色々と考えてしまう夜が来る。(あふ)れ出そうとする有象無象(うぞうむぞう)と戦う、あの時が来る。

 しばらくして、彼女は幾度目(いくどめ)かの溜息をまたついた。

 もう何も見えない。何も、出てこない。

 スランプ? 

 そんな御大層(ごたいそう)なものは()いていなかった、と鼻を鳴らして自嘲(じちょう)する。

 しかし……。

 本当にそうだったのだろうか。

 気楽にやっているつもりで、やっつけ仕事のつもりで、本当は、とても大切な――。

 去年の今頃はどうだったかと思い出してみる。

 一昨年(おととし)の今頃はどうだったかと、思い出してみる。

 いつ頃までかは見えていた。いつ頃までかは()き上がるものがあった。

 いつから見えなくなったのか。

 どうして、見えなくなったのか。

 そもそも、何を見ているつもりだったのか。


 視界の(すみ)で大きな魚のはねた気がした。

 ()を浴びて、白い魚体(ぎょたい)燦爛(さんらん)とした。




© 2016 髙木解緒



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ