プロローグ
プロローグ
煌々とした陸の灯りがずっと透かして差し込んでくるので、夜の川、と言っても水の中は意外に暗くない。
見渡せば灰色がかった川砂の砂漠がどこまでも這い広がっているかのようで、その上にきらきらと輝いてざわめくのは月星にも見える小魚の群れである。
静か、でもない。
耳を澄ませば、泳ぎ回る魚たちの骨の軋みや蟹の足音、近くの河口から上げ潮が満ち寄せる音、舞い上がった砂の落ちる音、実に賑やかで、そもそも潜って聞けば流れる水そのものが巨大な楽器だ。一〇〇メートル以上の川幅があるとはいえ、両岸をコンクリート護岸で挟まれていてはなおさら、ミシミシキシキシ、押し合い圧し合い唸っている。
目をこらすと、同じ川を流れる同じ川水でも、流れの筋によって見え方に違いのあることが分かる。
一口に透明と言っても、塩分濃度や温度差など様々な個性から、ある流れは遠く数十メートルに渡って見通せるほど透き通り、またある流れは、陸に立つ陽炎よりも濃く朦朧と光を屈折させている。それぞれの流速もまるで違う。
淡海が入り混じってそれが顕著となる河口域に限らず、一本の川は決して一筋の流れではない。化学、物理、生物、様々な要素を併せ持つ幾筋もの流れが絡み合い、せめぎ合う、連続する複合流体なのだ。
水深、約五メートル。砂底を歩いていたクルマエビが、ふと、立ち停まった。優雅に長い触角を一振り、二振り。直後、弾れたように跳んで姿を消す。イシガニは鋭い爪を精一杯に振り上げて威嚇の姿勢を取り、カタクチイワシの大群は一斉に旋回すると護岸へ突っ込んで散り散りになった。
何か来る。
はるか下流の方角、見通すこともできないほど水の濃くなった辺りに、ぽつり、と白い点が現れ、いや、点ではない。
何か上って来る。水を掻き分け、猛然と突き進んで来る。
今、輪郭が見え始めたかと思うと、瞬くうちに泳ぎ迫っている。白い顔、白い喉、白い胸、白い腹。気がつけばもう、通り過ぎている。
逃げているのだ。この何かは何かから、必死で逃げている。
水の上に目をやれば、すぐ後ろに追う者の姿がある。
しなやかな、影――。
波を蹴立てて進むその人は全身が真っ黒で、かえってくっきり、夜の中へと浮かんで見えた。
やはり黒い太軸のフレームにレンズの大きな二連式ゴーグルをかけているので、顔立ちは判然としない。しかし街からの灯りに照らされるすっきりした顎の尖り具合や桃色の唇、きめ細やかな肌の様子は女、それもごく若い娘と見える。
夜を切り裂いて彼女は走る。
川面へ直接に両手片膝をつき、長くもない黒髪を潮風へ強くなびかせ、身をかがめた姿勢で水上を疾走する。
前を見据え、膝立ちに水面を飛ぶようで……魔法?
そんなはずもない。水面直下を高速航行する推進機関に乗っているので、そう見えるというだけだ。
温い潮水へ頭からまみれ、唇を固く引き結んで波飛沫を突っ切る。ゴーグルの中の両眼は炯々と光って前方へ、すぐ先の水中を行く狩りの対象へ固定されている。
やがて彼女、巧みにバランスをとりつつ、すっくりと水面へ立ち上がった。手に提げているのは細身の銛だ。身の丈より長い竹製の柄の先へ、かえしを刻んだ一本刃の穂先が挿し込まれた分離式の銛である。この穂先は、射手が腰ベルトに下げた携帯式の巻き取りドラムから延びる、ごく強い細引きへ繋がれてもいる。獲物に刺さると穂先が肉へ潜って柄から外れ、やり取りを綱引きに切り替える、銛への水抵抗を軽減してばらしにくくするための工夫だ。大物を突くにはこれに限る。
骨製の穂先は濡れてたっぷりと水を含み、生気を帯びてぎらぎらと光った。
両手の位置を決めた彼女は柄を軽く握りなおし、銛を頭上へ掲げる。力む様子は無い。何気ない、自然な表情をしている。先を行く相手を見つめた両の眼が静かに、力強く澄んでいる。
小さな唇が禊の言葉を口ずさんだ。
合図だ。
水底から獲物を追っていた彼女の猟犬たちが牽制をやめ、一気に追い上げを開始する。水中のまぼろしは急速に形をとった。水面へ追い詰められ、白い影の輪郭が鮮明となる。彼女が照準を合わせたことに気付いたのだろう、今まで直線的だった泳ぎがジグザグになった。ランダムに方向を変え、狙いを逸らそうとする必死の思惑が生死の境界でまざまざと見える。
だが、そんなことで誤魔化されはしない。
構えが整い、彼女の双眸が閃く。
全身の筋肉が一気に張り詰め、右手が柄を固く、固く握り……、
「停まれェッ!」
突如、拡声器越しの怒号が響いた。
強烈な光線に射手の目が眩む。その隙が見逃されるはずはない。次の瞬間、標的が急停止して反転、盛大に水を割った。強靭な跳躍、獲物を襲う猛禽のごとく彼女へ躍りかかる。水かきをひろげ、生臭い体臭を撒き散らし、乱杭に並んだ牙を剥き出しに殺到する。
危うく体をかわし、薙いだ柄の一撃を相手の腹へ叩き込んだ彼女だったが、自分も鉤爪に左腕をかすられた。袖が裂け、肌に鮮血の筋が走った。そして体勢を立て直した時にはもう遅い、敵は深みへ逃れている。白い残像が波間に嘲笑った。
獲物を逃した狩人は、忌々しげに次の相手を見やるしかない。船だ。水上警察のパトロール艇だ。サーチライトの逆光で船名こそよく見えないが、
「こちらは警邏艇はるみ。そこの不審船、誘導に従って着岸しなさい!」
拡声器を通して聞こえるだみ声は毎度お馴染み。
銛の穂先を手早く外し、彼女は柄を川へ投げ捨てた。逃走に邪魔なのだ。流れ着く先は決まっているから、ほとぼりが冷めてから取りに行けばいい。
穂先は腰の革鞘へ収め、
「逃げるよ!」
鋭い声に呼応して水中の馬が加速する。
そのまま突っ込み、相手の左舷脇をすり抜ける。警邏艇が転回する間に出来る限りの距離を取る。
追う者は一転、追われる者へ。
白色光線の追跡、二色に煌めく回転灯、サイレンが鳴り響き、粘つくエンジンの振動は水面下にみなぎってしつこい。
川中の生き物を叩き起こすどころか、
「停まれ、停まれぇッ!」
両岸の住宅地で眠りについているはずの一般市民へもまるでお構いなし、警告は最大音量だ。今日こそは、という熱い思いが声音へありあり滲み出ている。
だがもちろん、彼女はそんな声を軽く振り切る。
拍車代わりの気合を飛ばし、波飛沫を断ち割って停まる気配を微塵も見せない。姿勢を低く保ち、むしろどんどん速度を上げる。
速力では警邏艇がはるかに勝る。だが、船体の小回りや潮目を読む能力では少女が圧倒的に優れている。彼女が繰り出すフェイントに「はるみ」は幾度も潮目へ挟まり、そのたびにスクリューが空回りした。空中に飛び出た船底と波が打ち合い、張りの悪い太鼓を打つような音が鈍く響いた。
しかし「はるみ」も諦めない。
進路を岸寄りに取った少女に対し、警邏艇は川の中央を走りつつ彼女の真横にぴたりとつける。深度のある本流域では航路を少々外れたところで座礁する心配はない。だが高速航行で潮筋を読み違えると、たちまち横滑りして護岸へ激突する。少女の舵取りはそれを巧みに誘っていた。追手を錯覚させるコース取りだ。
すぐ先に佃大橋が迫る。
突如、少女の船が「はるみ」の直前へ躍り出た。回避か減速か、操船の動揺が警邏艇の舳先を大きく揺らして船足が落ちる。だが、停船とまではいかない。二隻は続けざまに橋体の影を抜けた。早くも次の橋が迫る。
と、いきり立つ気配が夜の中で膨張し、
「ネット来るよ!」
彼女の船がほとんど横滑りに進路を変えた直後、軽い破裂音が背後で響いた。それまでの進行方向前方へ大型の投網が広がって空を掴む。捕縛用ネットランチャーは水上警察常套の非殺傷兵器だ。
だが、彼女と彼女の愛艇には毎度効果が無い。撃つ前の殺気が筒抜けだからだ。幾度もの追いかけっこでなぜ、それが分からないのか。
瞬くうちに中央大橋も過ぎる。
素早く追跡者を振り返った彼女、余裕の笑みを短く漏らして再び前を向いた。
刹那、
「停まって!」
間一髪、とっさの叫びがよく効いた。
つんのめって急停止、時置かず前方へ飛び出したのは五台の水上バイクだ。回転灯も眩い水上警察バイク小隊、普段の颯爽としたイメージにも似合わず、分流点の角で待ち伏せをしていたものらしい。得意気なエンジンの唸り、乱暴な航跡を描き、たちまち広がった陣形に行く手を阻まれ、彼女はたじたじと、少し、後退した。
後ろからはくぐもりがちだが無遠慮な笑い声が近づいてくる。
してやったり、という満足感が拡声器越しにでもひしひしと伝わってくるところから察するに、どうやら警邏隊は最初から、追跡の御芝居をしていたらしいのだ。彼らが「魔女」とあだ名した不審船に毎夜逃げられることへ業を煮やし、ついには倒錯した海軍チックなプライドやら何やらを捨て去って、姑息な、いや「戦略的」頭脳戦に打って出たものと見える。
そして成功した。
警邏艇の強力なサーチライトと水上バイク五台分の高輝度LEDに照らされて、黒尽くめの少女は一瞬、明るみへ閉じ込められたかのように見えた。前から後ろから包囲網は確実に狭められ、絶体絶命、万事休す――。
だがそう見えるのはあくまで、警邏隊から彼女を見た時の話だ。
眩しそうに額へ手をかざし、周囲を見回していた彼女だったが、やがて、ほう、と諦めと恨みの入り混じる溜息を小さくついた。
それから、
「……あと、お願い」
呟いた次の瞬間、その肢体は素晴らしい美しさで伸びきっている。そのまま波間へ滑り込み、潜水、さらに深く潜水。彼女は夜の川へと溶け込んだ。
不意を突き返された警邏隊の全員が呆気にとられる。
しばしの沈黙――。
転瞬、暗い水面が不気味に盛り上がった。
水上バイクが宙を舞った。
※
だめだなぁ、と思う。溜息をつこうとして、
「ゲ」
思わず後ずさったのは、欄干にこびりついたカモメの糞に気付いたからだ。直後、けたたましいベルを鳴らしながら背後を通り過ぎた自転車に慌て、同時に肘の汚れた可能性を嘆き、だが、幸いにも汚れてはいなかった。
そうなるとまた、彼女の注意は川へと向かう。欄干に頬杖をついて水面を見やる。時折水上バスが通り過ぎるだけの、だだっぴろい水の反射に目が眩む。
河口から数えて四番目、この永代橋から下流を臨むと、ちょうど、見る者へ突き込んでくるかのような地形が隅田川を分断していることがよく分かる。これが佃島だ。河口に生じた幾つかの砂州を江戸期から造成、埋め立ててできた半人工の島である。
機内摂津の漁師が江戸幕府から拝領して移り住み、漁村として開拓した。戦前、戦後も長らくは東京の歴史ある下町の一つとして栄えてきたが、近年は多分に漏れず再開発の波に呑まれている。豪奢な高層マンションやオフィスビルの建設が盛況で、足元には二線の地下鉄が走り、橋も多く、利便性は益々高い。こうした現状では日頃、古い地形を意識することも少なくなる。東京湾奥にありきたりな、埋立地の一区画に過ぎないと思わせる。
だが、やはり島だ。
永代橋からの景色が一番、それを感じさせる。橋から見える島の北端部、俗に新大川端と呼ばれる地域などは特にそうだ。林立する高層マンションが昼のうちは確かに近未来的な水辺の新興住宅地にふさわしい、ユートピアめく清潔感と明るさを演出しているのだが、夜となれば、それらの影がかえって全てを、大洋に浮かぶ巨大な要塞島と見せるのだ。
目を刺す西日と河口から吹き抜けるそよ風は、今日もまた、その刻限が近づいたことを知しらせている。色々と考えてしまう夜が来る。溢れ出そうとする有象無象と戦う、あの時が来る。
しばらくして、彼女は幾度目かの溜息をまたついた。
もう何も見えない。何も、出てこない。
スランプ?
そんな御大層なものは描いていなかった、と鼻を鳴らして自嘲する。
しかし……。
本当にそうだったのだろうか。
気楽にやっているつもりで、やっつけ仕事のつもりで、本当は、とても大切な――。
去年の今頃はどうだったかと思い出してみる。
一昨年の今頃はどうだったかと、思い出してみる。
いつ頃までかは見えていた。いつ頃までかは湧き上がるものがあった。
いつから見えなくなったのか。
どうして、見えなくなったのか。
そもそも、何を見ているつもりだったのか。
視界の隅で大きな魚のはねた気がした。
陽を浴びて、白い魚体は燦爛とした。
© 2016 髙木解緒