夢を追うということ
当たり前のように続いてきていた札幌での日常から環境が変わったことに伴って柾年の気持ちにも変化があった。しばらく休んでいた自身の創作活動の再開である。亀村からの依頼を受けて雑誌掲載文は書いてはいたが、その時々に自分の気持ちが書きたいと動いたわけではなかった。仕事なのだからそれはそれでよいと思ってはいた。
大きな転機はきびで真実の朗読を聞いている時に始まっていたが、決定的に動機付けをすることになったのは、由紀江と真実を引き合わせた出来事であった。そんな自分の中の意識の変化の理由をあえてつきつめるならば、真実と由紀江との相性が悪くなく、自然な成り行きで自分も含めた三人が友人同士のようになれたことであった。これから先、由紀江の存在しないここ岡山で同じ創作者同士としての関係を様々な意味で深めていくことについて、由紀江に対しての自分の心の中の罪悪感が消えたことによるのであろうことにも気付いてはいた。
「きびにはよく行っているの?」
朝一番で佳子は尋ねてきた。
「時々かな」
「田中真美さんているでしょ」
「朗読者だろ」
「そう、朗読者であり、同時に作家でもある」
佳子が突然真実のことを話題にしてきた意図が柾年には分からなかった。
「自分で書いて自分で読めるんだったら、著作権とかも問題にならないし、誰かに代わりに朗読してもらわなくてもいいから話が早いよね」
「なかなか綺麗な人でしょ」
「そうだな」
「あの人ハーフなのよ」
「そうなのかい」
柾年は、佳子の言葉で自分が感じていた思いが間違っていなかったことを知った。
「父親がモンゴル人で、母親は日本人なんだって」
「随分詳しいね」
「きびのママが言っていたから」
そう聞くと、真実の顔つきが一般的な日本人というよりは、中央アジアと呼ばれる地域の少数民族の女性に似た容姿をしていたことも納得できた。
「今は独身みたいよ、子供はいるみたいだけれど」
「そんなに色々と話してもいいのかい?」
「きびに出入りしている人ならだれでも知っているわ。田村さんは札幌から来たばかりだから知らないでしょうと思って。今後もきびに出入りしようと思ったなら、知っておいた方がいい情報かもしれないでしょう」
支社長が出社してきたところで、私達の会話は終わった。
その日の仕事の帰りに柾年は思心へ向かった。
「こんな時間に来るなんて珍しいな」
順二は驚いた様子だったが、店内はお客で一杯で順二は忙しそうな様子だった。いつも朝から出勤している牧子はもう帰ったようで姿が見えなかった。
空いていた端の二人掛けの席に着くと、柾年は近くにあった雑誌を手にした。北海道では目にすることがなかった地元の情報紙のようだった。朗読特集という見出しが目にとまったのだ。それほど厚いくはない冊子であったが、ページの半分以上が朗読に関する特集だった。もしやと思いながらページをめくっていくうちに、予想通り岡山のきびと倉敷のすずらんが朗読の会場として紹介されていた。更に写真入りで田中真実が朗読者として紹介されていた。プロフィール欄の自分の夢として、やはり作家と記されていた。年齢は三十五歳で生誕地は東京となっている。顔写真を見ていると、確かに佳子の言っていたように中央アジアの少数民族に特有な東洋でもなく西洋でもない顔立ちに思えて来た。
「彼女とはいつ結婚するんだい」
不意に姿を見せた順二はいきなりそう問いかけてきた。
「まだわからない。この度こうして離れ離れになってしまったから、なお更先のことが分からなくなってきたね」
「一年で札幌に戻るんだろう」
「仕事だからね、会社が決めることだよ。もしかしたらまた別の場所へ飛ばされるかもしれないしさ」
「それでもいいのかい?」
「勤め人には選択の余地はないよ。かと言って会社をやめて無職になって札幌に戻ったところで、生活なんて成り立たないしね」
「確かに難しいところだよな。その点確かに俺は自由にできているけれど、商売ってやつは不安定だから、嫁の来てもないからな」
どうやら順二も独身者らしかった。
きびで行われる朗読会は毎月一回だった。少しづつでも田中真実と創作についての話をしようと思うなら、きびの朗読会の常連になることが早道だと思った柾年は、次の会も参加した。幸いなことに経営者の真智子は柾年の顔を覚えていてくれた。
「朗読がお好きなのですね、ご自分でもされているとか?」
「朗読はしませんが書くことは好きでよくやってます」
「あらそうなの、いつもここで朗読してくれている田中真実さんが朗読できる作品を探しているから、提供してあげたらどうかしら。著作権の問題とかが最近はうるさくて大変そうなのよ。でも知り合いに書いてもらったなら、すぐに承諾ももらえるし便利でしょう」
柾年にとっては思いがけない展開となって来ていたが、願ってもないことでもあった。
「私のほうはぜひやってみたいところですけど、田中さんはどうでしょうね」
一度は由紀江を紹介したとは言え、柾年自身はよく話したこともなかったから真実が了解するという確証は何もなかった。
「一度話してみましょう。そろそろ来るはずだから」
真智子のほうが乗り気な様子に見えた。
そして、その言葉通りに程なく真実が姿を見せた。
「いらっしゃいませ」
柾年の顔を見て笑顔でそう言った様子から、どうやら柾年のことは覚えていてくれたようだった。
「ちょうど今話していたんだけれど、田村さんて、ご自分で文章を書くのが好きだというから、今度田村さんが書いた作品を真実さんがここで朗読したらどうかという話をしていたのよ」
「二人でそんな話をしていたんですね。でも面白そうな話ですね」
思いがけず真実も興味を示した。
「じゃあ一度二人で相談してみたら」
この真智子の言葉で、話は確定した雰囲気になった。
週末土曜日に、柾年は朝から倉敷を訪れていた。真実とすすらんで会うのは午後からだったが、倉敷の雰囲気を改めて感じてみたくなったのだ。観光客の姿が多い美観地区は避けて、普段着の倉敷の顔が見たいと思ったので、裏の道を歩いてみた。それ程広くはない昔ながらの道の両側には、木材と白漆喰で建てられた落ちついた感じの二階屋が並んで続いている。それこそ明治になってから計画的に碁盤の目状に道幅広く作られた、札幌の市街地とは全く異質であり、昔の風情を残していると思った。途中で目についた看板に従って鶴形山へも登った。頂上には阿智神社という古い神社が建っている。人の営みがある古い街並みの真ん中の小高い丘の上に、由緒ある古い神社が存在しているという、信仰と生活の距離の近さが柾年にとっては珍しい光景と言えた。石段を登り、緩やかに登る坂道になった参道の途中からは、瓦屋根の家屋が並ぶ倉敷の街並みが下に見えた。
昼食は早く着いたすずらんで済ませた。午後真実が姿を見せた。
「田村さんはどのようなものを書かれているんですか?」
「最近は出版社に勤めている友人の依頼で旅の記事とかが多いけれど、自分の趣味で小説を書いたりしています」
「題材はどんなところから見つけるの?短編?長編?」
真実は立て続けに問いかけてきた。
「題材は身近なところから。今までに出会ってきた人がモデルになったり。長さは短編、長編両方かな。その時々の内容によって」
「私は主に絵本と短編を書いているから、長い小説が書ける方ってすごいと思います」
「終わらせないつもりで書いているうちに自然と長くなるだけですよ」
柾年の答えが面白かったのか、真実は笑顔になった。
「田中さんもご自分で書かれるんだったら、朗読する作品をさがす必要はないんじゃないですか?」
「私のものばかりを読んでいても、お客さんが楽しんでくれているかどうかはわからないから。朗読作品は色々個性があったほうがいいような気がして」
「そういうものなのかな」
柾年にとっては、以前にきびで聴いた真実の作品は良い印象として残っていた。
「どんな内容なら朗読しやすいのかな?」
「内容によって変わりはないわ。次はどんな内容の小説を思っているのですか?」
「今考え中かな。真実さんをモデルにしてみようか」
それは、不意に柾年の心の中に起こって来た思いだった。
「そんなんじゃ小説は成り立たないでしょう」
真実は微笑んだ。柾年が小説の題材にすることは、日々の暮らしの中で特別印象に残った出来事であり、それを中心にして創作を加えていくという創作手法だった。その意味では、柾年にとっては真実と出会ってこうして話していることは、特別印象的な出来事であったから、それらを題材にして物語を作ることも、柾年にとっては自然な流れではあった。
「自分で自分の作品を朗読をする作家さんを主人公にするなら、物語が成り立っていくと思うよ」
真実は少し真面目な表情になったが、まだ半信半疑な様子だった。
「書くためには、少し取材をさせてもらわないといけないけれど、そのあたりは大丈夫?」
「何だか本格的ね、でも私も童話や短編を書こうと思ったら、その中心になる対象のことをよく調べたり、観察したり、情報を集めたりするからそれと同じことなのね」
「まあそういうことだろうね」
「でも私のことなんか取材して、何か楽しいことが見つかるのかしら」
「それはやってみないと解らないいけれど、多分見つかりそうな気がしているよ」
もしも真実のことを主人公として書こうと思うなら、私生活も含めて色々なことを聞かなければならなかったが、どこまで立ち入って尋ねていいものかという思いはあった。
「何だか面白そうね、私でお邪魔にならないのならやってみようかしら」
真実の表情は、次第に輝きだしてきたように柾年には見えた。
「どうして童話作家になろうと思ったの?」
「それは簡単よ、文章が短くて済むから。あとは絵を描くことが好きだったことと、何か子供が喜ぶようなことがしたかったから」
そのことについての真実の答えは簡潔で明確だった。
「いつからやっているの?」
「そろそろ十年になるかしら。初めの頃は仕事の依頼なんて何にもなかったから、別の仕事もしていたわ」
「よく諦めなかったね」
「やっぱり好きなことだったからかしら、続けられたのは」
互いの距離感を計りながら遠慮がちに始まったが、時間を置かないうちに自然な会話へと移行してきていた。互いに創作者を目指そうとする者同士の親近感がそうさせたのかもしれなかった。
「そう言えば、会社の同僚から聞いたんだけれど、子供が海を越えて旅をするお話があるんだって」
「よく知っているわね。表向きに出しているわけではなくって、自分の心の向くままに作ったお話だから、すすんで他人様に聞いてもらおうとは思っていないものよ。でもその会社の同僚の方ってよくその話のことを知っていたわね」
「きびでの朗読会には以前から参加しているらしいよ。私もその人からきびでの朗読会のことを聞いたんだから」
「そうだったの」
真実は納得したような様子だった。
「どんな内容のお話なんだい?」
「子供が旅をするといっても一人旅ではないのよ。親と一緒に故郷を離れて遠い異国へ引っ越す話」
「絵本にしては刺激的じゃないのかい」
「そうね、あまりない話しよね。ある意味悲劇的でもあるのかもしれないわ。だから外には出していなかったのよ」
「詳しい内容を聞いてもいいのかな」
「いいわよ、小説にするんでしょ。私が子供の頃の実話をもとにしたお話なのよ」
「君の実話なのかい」
これには柾年は驚きを隠せなかった。
「私の父親はモンゴル人で母親は日本人。私は東洋同士のハーフなのよ」
佳子から聞いていたこともあってこのことについての驚きはなかった。柾年は次を促すように黙って頷きながら聞いていた。
「物語はどう展開して、どう終わるの?」
「母親は留学生としてモンゴルにいた。そこで通訳をしていた父と結婚した。私が小さかった頃に両親は離婚して母親は日本へ帰国することになった。まだ小さかった私も一緒に日本へ渡ったのよ」
そして日本の学校へ行って日本で暮らしてきた。ただそれだけのことよ。珍しいじゃないでしょ。小説にはならないわね」
「でも童話にはなったんだ」
「子供にとっては運命に翻弄されるようなことだから、衝撃的なお話とも言えるのかしらね」
「今までモンゴルへ帰ろうとは思わなかったのかい?」
「色々と迷った時期はあったけれど、将来のことを考えた時には日本にいた方が何かと便利なことが多いという結論に至ったのよ。友達も日本人ばかりだったから。でも今、モンゴルへ移住することを考えているわ。移住といっても私にとっては故郷へ帰るということなのだけれど」
「どうして今なの?」
「私の子供達はまだ小さいから動くなら今しかないと思うの。もう少し大きくなって学校へ通うようになったら友達と別れなければならなくなるでしょ、子供達が」
「そういうことか。でも旦那さんはどうするんだい、日本人なのではないのかい」
「三年前に病死したわ」
まだほとんど知り合ったばかりの真実に、ここまで個人的な事情を話させてしまってよかったのだろうかと柾年は思った。個人的な事情を小説という形でどこまで公表できるのかという疑問符が付くのだ。勿論創作という建前であれば個人が特定される心配はないと思うのだが、真実の事情を公表することに、何の意味があるのだろうかという思いがしてきた。
自分の意識が中央アジア方面へ行ったことで、柾年の心に思い浮かんできたのは、昭和の初めの頃に旧満州へ渡った祖父のことだった。子供の頃の真実と同じように大陸と日本の間の海を越えて自分の夢を実現しようとしたが、結果は終戦と共に失意のうちに再び海を越えることとなった。そのことを思う時には、真実には失意のうちに再び海を越えて欲しくはないと柾年は思った。
「僕の祖父もずっと以前に、日本から海を越えて大陸へ渡ったことがあったんだ。結果的には失意のうちに再び海を越えることになったけれどもね」
「中国東北部の旧満州のこと?」
「そういうこと」
旧満州国については真実も知っていることだろうから、今更説明する必要はなさそうだった。
「いつ向こうへ帰るの?」
「来年の春頃までには行きたいわね」
だとしたら、残された時間はそれほど長くはなかった。これから小説を書きあげて、実際に朗読会で披露するには時間の余裕はあまりなかった。対象としようと思う真実を前にして、どのような内容にしようかということについては、良い考えはすぐには浮かんではこなかった。
夕刻で仕事が終わり、残業の無い日には柾年の足は自然と思心に向かうようになっていた。二階の席に座って日が暮れだした岡山の街を眺めていると、自分の中に新しい感性が生まれてくるような気がした。札幌と最も違うのは、古い建物が目につくことと屋根が瓦ぶきだということだった。
誰にも見られることもなく、誰にも話しかけられずに時間を過ごせる時には、自分の心が真っ白になっていけるような感覚にもなれた。当然のことながらその土地として人間の長い歴史を刻んできた街の様子の中に、目には見えないが独特の空気が漂っているように思えた。それは札幌では決して感じることのなかったものであり、時々訪れた函館の街でだけはほのかに感じた感覚だった。そんな思いで岡山の街を眺めていると、自分が今ここにいること自体が不思議な気がしてきた。気持ちに整理をつけるための安易な方法は、今は旅の途中なのだと思い込ませることだと柾年は思った。旅の途中ならば、またいつかは札幌に帰るのだと思うことで心の平静を保とうという作用なのだ。きっとそうでも思わなければ自分の心は混乱したままになりそうな気もした。
間もなく故郷のモンゴルへ帰ろうかと思っているという真実も、今の自分と似たような心境で歴史ある倉敷の街並みを見詰めているのではないかという思いに柾年は至った。まだ幼い子供心にも、未知の土地に何らかの期待を持って海を渡り、長い年月を経た後で再び元来た海を渡っていこうとしている姿は、祖父の姿とも重なって見えた。
次第に外の様子が見えにくくなって来ていた。店内の照明よりも外の方が暗くなったためだ。更に時間が経つと、灯りだした街の明かりとネオンが輝きだしていた。
静かだった二階の空間に木の階段を登って来る足音が聞えた。現れたのは牧子だった。
「あんまり静かだから、誰もいないのかと思ったわ」
柾年が静かな雰囲気を好むことを知っている牧子が、ずっと一人の時間を作ってくれていたことは柾年には解っていた。
「仕事は終わったのかい?」
時計は七時を指していた。
「ええ、あとは帰るだけ」
思心の営業時間は八時までだったからあと一時間はこの場所に居れそうだった。
「やっぱり札幌の夜景とは違いますか?」
柾年が迷惑そうな様子でもないのを確認したうえで、牧子は向かいの席に座った。
「札幌は街の中のイルミネーションも多いけれど、岡山は歴史のある街並みだからきっと派手な装飾は控えているんだろうね」
「私は何だか不満だわ。神戸みたいにキラキラにすればいいのに」
「神戸は港町だし、洋館も多いからキラキラも似合うのだろうけれど、岡山は昔ながらの城下町だからね、寺院なんかも多いのだろうし、少し控えている感じかな」
「札幌の街って四角なんでしょう。道路が解りやすいって聞いたわ」
「京都と似ているかもしれないけれど、道の名前は京都と違って解りやすいよ。数字の順番通りだからね。でも後から開けた郊外の住宅地域になると道路が環状になっていたり、不規則に斜めになっていたりして迷うこともあるよ」
「そうなんだ」
牧子は北海道に興味があるらしく、よく札幌のことを話題にしたがった。
「今度いつ帰るの?」
「まだ決めてないな」
「由紀江さんに会いたくないの?」
不意の問いかけに柾年は答えに詰まった。最近は、真実をモデルにした小説をどうやって書き上げようかということばかりに気持ちが向いていることを、見透かされたかのような思いがしたからだ。
「ずっと会っていたから、少し距離を置いてみるのもいいかな」
そんな柾年の言葉には、牧子は納得していないような表情を見せた。
「由紀江さんは絵を描くんでしょう、田村さんは小説を書くなら一緒に絵本を作ればいいのに」
「僕は子供向けの文章は書けないんだよな。子供がいないから子供の気持ちが解らないからな」
その言葉には牧子は納得したような表情を見せた。絵本と言われるとやはり今は真実のことが思われた。真実が海を越えて行ってしまうまでに小説を書きあげて、朗読会で披露しなければという思いがいつも頭を離れないのだから。
「札幌には地下鉄が走っているんでしょう」
「一九七二年の札幌オリンピックに合わせて開業したんだ。札幌は雪が多い都市だから、札幌に住んでいる人にとっては、地下鉄と地下街は本州の街で暮らしている人よりもずっと便利だと感じていると思うよ」
「雪が多いのね。岡山では一年に数回降るくらいで、積もることなんかめったにないもの」
「雪は確かに綺麗だけれど、都市部での暮らしには大きな影響があるからね」
「どうして失恋した人は九州・沖縄じゃなくって北海道へ向かうのかしら。何かいい心の慰めになることがあるのかしらね」
「そんなことを言ったら、北海道の人は失恋したときにはどこへ行けばいいんだい?」
「そう言われればそうよね。きっと北海道という土地は誰でも受け入れてくれるようなおおらかさがあるのかもしれない」
牧子は暗くなってきた窓の外へ視線を向けた。北海道に対しての憧れは日々大きくなっていくようだった。
真実との二回目の打ち合わせも、倉敷のすずらんで行うことになっていた。真実の住まいが倉敷であることと、何よりも普段のすずらんの店内は静かで落ち着けることが大きな理由だったし、野村夫妻の理解があることもまた重要なことだった。
小説化するためには、やはりもっと真実の人間性とこれまでの経緯を知りたかったが、個人的な内容も多いことから、柾年の方から問いかけることは難しい部分もあった。柾年にしてみれば、時間をかけて、真実が自分から話してくれるのを待つことも必要だろうという思いがあった。
「二回目ね、お会いするのは。私なんかでは書きにくいんじゃないのかしら」
「多分、対象となる人に関心があれば書き易いと思うんだけどね」
真実はそれには答えなかった。
「倉敷はどんな街?」
柾年はともかく真実の目に見えない警戒心を解くために、真実自身とは関係の無いところから会話を続けてみようと思った。
「観光客が多い街ね。倉敷の人にとってはみんな大事なお客様。きっと倉敷の街は表と裏の顔をうまく使い分けているのだろうと思うわ。いい意味でね」
「観光用の顔と生活の顔ということかい?」
「そういうことね。いつも観光用の笑顔ばかりでは生きていけないもの。本音の部分の生活の顔も持たなくちゃ」
「それはそうだな。でも外部から来た人間であっても、純粋に観光目的ではない人間にとっては、どこまでが表の顔で、どこからが裏の顔なのかはわかり難いよ」
柾年は自分の率直な感想を述べてみた。
「案外田村さんのような立場の人からは、両方の顔が少しずつ見えているのかもしれないわね。考えようによっては一番怖い人達なのかもしれないわね」
「お話がうまくいっているようで良かったわ」
野村早苗がコーヒーのおかわりを持ってきてくれた。
「ここのお店は広々としていて静かなので、大事な話をするには本当に良い場所だと思います」
それが柾年の本心だった。
「真実さんは本当に素敵な女性だからよろしくお願いしますね」
真実が旦那さんと死別しているという事実を知ったうえでそう言われたことで、柾年としても様々な憶測をせざるを得ないような雰囲気となった。真実はそのことについては、何も言いようがないといった表情で黙っている。
「優しいお母さんなのよ、いつもお世話になってばかりで」
早苗がいなくなると真実はそう教えてくれた。柾年が受けた印象もまた同じだった。
「さて、倉敷の話だったね。倉敷は岡山と同じように繁栄してきたように思えるけれど、城下町ではないんだよね」
「そう、城下町ではないのよ。幕府直轄の天領ということで代官が置かれていたのよ。商人の町でもあったんでしょうね」
「武士の時代であっても、商業都市として繁栄することができたんだ。堺みたいなものかな」
「きっと平和な時代になって来た時には、経済力が力を発揮したのかもしれないわね」
「田中さんはいつから倉敷で暮らしているの?」
「子供の頃からずっとよ」
「そうだったんだ」
「いつからここでのお話し会をしているの?」
「五年くらい前かしら、童話の文学賞に応募しようと思ったことがきっかけね。思いがけず賞をいただくことができて、それがきっかけになって、時々ここで読ませてもらっているわ」
「岡山のきびでの朗読会とは違いがあるのかな?」
「きびでは一般のお客様が対象なので、有名な作品や一定の評価がなされている作品を選ぶようにしているのよ。より多くのお客様に理解していただける内容になりがちね」
「どちらが好きなの?」
「内容が違うからどちらとも言えないわ。いずれにしても誰かが楽しんでもらえるならそれが楽しいわ」
「朗読は、最近はブームなのかい?」
「世間ではそう言っているわね。きっと元々は俳優や役者さん達が表現方法の一つとして選択していたのだと思うけれど、今は一般の人も趣味のようにして朗読自体を楽しんでいるのかもしれないわね」
「実際に朗読をしていて、お客さんの反応は分かるものなのかい?」
「夜だと客席が暗いので解り難いけれど、昼間だったらお客さんの表情も見えるから反応は感じるわ」
「絵本を読むときの子供達はどう?」
「子供は正直だから反応もはっきりしているわ。大人みたいに誰かに気を遣う必要なんてないから、興味があれば真剣に聞き入ってくれるけれど、面白くなければ集中しなくなる、ただそれだけのことよ」
真実と向き合って話していても、どことなく真実の表情がさえないことが、柾年は気にかかり出していた。真実に対して感じていた印象としては、もう少し社交的な人柄だと思っていたところが、目の前の真実は、柾年が問いかけたことにだけ淡々と短い言葉で答えるだけで、互いの会話にそれ以上の広がりがないのだ。真実の体調が悪いのか、あるいはひどく気にかかることでもあるのだろうかと柾年は思った。それとも自分の問いかけ方に何か問題があるのだろうかとも考え始めていたが、所詮は他人の心の内がのぞけるはずもなかったし、まして異性となれば感覚的な違いも大きいような思いがあった。
思心の二階席であれこれ思いを巡らせていると、木の階段を踏む音がして牧子が現れた。
「今度、札幌へ行ってみようと思うのだけれど、由紀江さんと会ってきてもいいかしら」
どことなく意味ありげにそう言った。
「札幌か、いつ行くんだい?」
「今度の夏休み」
「ここには夏休みなんてあるんだ。一流企業並みだな」
ここ思心では順二と牧子以外には、夕方に勤務しているパートらしい女性を見かけたことがあったが、夏休みが取れるほど沢山の従業員がいるとは思えなかった。
「それが何とかなるのよ。マスターは二人分働くし、それに代わりに来てくれる人もちゃんといるのよ」
以外な答えにも思えたが、そうなのだとしたら牧子の札幌行の話は、現実味を帯びてくることになりそうだった。
「そらなら、僕には何ら気遣いは必要ないから、札幌へ行って由紀江と会ってきたらいいじゃないかい。帰ったら札幌の様子も教えてほしいから」
「本当に大丈夫?由紀江さんから岡山での田村さんの様子を聞かれたら、本当のことをしゃべっちゃいそうだけれど」
牧子は嬉しそうに笑った。
「今のところは何らやましいことはないから大丈夫だ」
柾年が帰るために階下へ降りてゆくと順二が話かけてきた。
「どう、最近は小説とか書いているの。新作は?」
「こちらに来てからというもの、何だか現実にばかり気持ちが向いていてから書けていなかったけれど、そろそろ話題を見つけて岡山が舞台の小説を書き始めようかと思っているよ」
そう言うと、柾年は昨日の真実のどこか重苦しいような表情を思い返した。
「それは楽しみだな。俺達で協力できることがあったら手伝うよ」
「ありがとう、岡山に関することとカフェの業務に関する情報をそのうち尋ねるよ」
「私のことを書いてもいいわよ。もしくは札幌で取材してくるわよ。そしたら情報提供してあげる」
牧子がグラスを下げ終えて階下に降りて来ていた。
岡山の七月は暑かった。その月には、柾年はきびでの朗読会には夜の部に参加したが、それでも気温はなかなか涼しくはならなかった。
真実はその日は三番目の順番だった。やはり心なしかその表情はさえないように柾年には感じられた。
「何か気にかかることがあるのだろうか」
そう考えるのが自然なような気がした。丸顔で目が大きいという顔だちは、薄暗い照明のもとでは、なお一層異国の雰囲気を感じさせて、それが真実の個性であり魅力でもあるのだと感じさせた。その日は、帰りがけに互いに挨拶をしただけで真実と柾年の間には会話らしい会話はなかった。
翌日、真実からメールが来た。朗読会へ参加してくれたことへの礼と次にすずらんで会う日程が提示されていて、柾年の都合を尋ねる内容だった。真実が柾年の取材に対して乗り気でないのなら、少し時間を空けようかとも思っていたが、真実の方から日程を提示してきたのなら柾年にとっては何ら異存はなかった。
会う約束の日の朝、真実からメールが来た。場所を変えてほしいというものだった。アイビースクエアの中を待ち合わせ場所として希望していた。柾年にとってもすずらんまで歩くよりも美観地区の方が駐車場からも近かったからそれでも良かった。夏の観光シーズンでもあり、美観地区の人出は多かった。別の見方をすれば、どこか隠れ家的な雰囲気が漂うすずらんよりも、観光客に開放されているアイビースクエアの方が自然に話ができそうな気もした。
真実は先に来ていた。場所を変えた理由を尋ねる必要などなかったから、柾年としてもそれはしなかった。
「向こうへ渡って何か仕事のあてはあるのかい?」
「通訳か観光のガイドかなら何とか見つかるかもしれない。日本語教師もいいわね」
「子供達の学校は入れるの?」
真実は答えずに小さくうなずいた。日本にいる間にモンゴルのことについては自信を持って答えられることではなかった。
相変わらず口数は少なかったが、モンゴルのことを話題にする時には、真実の表情が心なしか穏やかに見えた。
「田村さんはいつ札幌に戻るの?」
今度は逆に真実の方から質問された。
「当初の予定では一年間ということだったから、変更がなければ来年の三月までというところかな」
「もし変更があったなら」
「長くなることはあっても短くなることは考えにくいから、二年ということはあるかもしれないな」
「由紀江さんが待っているんでしょ」
牧子からも真実からも由紀江の名前が出てきたことで、女性二人から由紀江のことで責められているような気がしてきた。
「人の心の中は解らないよ。待っているのか、そうではないのかという事についても」
「それはそうだけれど、長い時間を離れて暮らすということは、お互いの関係においては難しい局面につながりかねないから心配だわ」
真実は、同じ女性同士として由紀江のことを気にかけているのだろうと柾年はそう理解した。
「もちろん男女の付き合いを優先にする考えもあるだろうけれど、僕はそればかりは思いたくないような気がしている。自分の生き方を見詰めたうえで、縁があればそのようになっていくだろうし、縁がなければ、それもまたそのようになっていくのだろうと思うようにしているよ」
「そうなの、そこまで割り切れれば、それはそれでいいかもしれないわね」
真実の口調は穏やかだった。
「きっと私達は縁がなかったんだわ。私も私の母も」
そんな真実の言葉は柾年の心には重く感じられたから、何も言葉がなかった。
「今は、これで良かったんだと思っているわ。今は独身になったからモンゴルへ帰る決心もついたから。それに便利な時代だから、日本に来たいと思えばいつでも来れるし。それは子供達も同じことよね。子供達にとってはこの日本が故郷なのだから、将来留学したいとか移住したいと言い出した時には止めたりはしないわ」
「田中さんにとって日本で暮らした時間はどんな意味があったのかな?」
「今思えばとっても良い時間だったと思う。日本にいたからこそ経験できたことは沢山あると思うから。私にとっては少し長い留学の時間だったのかもしれない」
「今はどんな気持ち?失望や失意はないのかい?」
「失意はないわ。ある一定の時間が経過して、これから先また新たな時間が始まる気分よ。学校を卒業して、次の一段上の学校に上がる時の少し期待感が膨らむ感じかな」
「それなら良かった。失望しているんじゃないかと思っていたから」
「それはないわ」
真実は笑顔を見せた。
「最近何か気になることがあるのかい?」
真実が笑顔を向けてくれたことで、柾年としても気にかかっていることが尋ねやすくなっていた。
「最近ね…」
真実はそこで黙った。さすがに少しためらっているかのようだった。その様子からは、柾年が感じているように、何か心にひっかかる出来事が存在しているらしいことが推察できた。柾年は真実の反応を見ながら答えが返ってくかどうかを待ってみた。
「母親は大阪にいるんだけれど、私達がモンゴルへ帰るとなかなか会えなくなるし、孫たちともね。それがちょっと気がかりなのかも」
「そういうことなのか」
「一度は決心したつもりだったけれど、本当にこれでいいのかって思い始めているのよね」
「何を迷っているんだい?」
普通に考えた時には、柾年が立ち入って尋ねるようなことではなかったが、小説を書き上げるための取材となれば意味が違っていた。
「母親のことは勿論、子供達の将来を考えた時にも、このまま日本にいたほうがいいんじゃないかと思う時があるのよ」
「自分と子供達の将来のことを考えて決めたことなのだろうから、それでよかったんだと思うよ」
「第三者からそう言ってもらえるなら嬉しいけれど、当事者にしてみれば迷うこともあるのよ。」
「みんな同じだよ、これでいいんだろうかと迷いながら進んでいくしかないのかも」
「ところで、こんな話ばかりで本当に小説になるのかしら。今のうちに他の題材を見つけたほうがいいんじゃないの」
「今は本当に小説が完成するかしないかも僕にもわからない。完成できたとしてもその内容を評価するのは、田中さんが朗読してそれを聞いたお客さんなのかもしれない」
「そういうことなのよね」
真実も納得したような表情を見せた。
その日も真実とは随分と長い時間話すことができた。そして結果的に見えてきたことは、やはり真実一人だけに焦点を合わせて小説にしようと思った時には、互いに共有してきた時間は少なすぎるということだった。ずっと長い間の真実との関わりの中から自然と書きたいことが湧き出てくるような状況にはなかったのだ。しかし、真実がこの先日本に滞在する時間が限られている状況の下でも小説を完成させなければならないということになれば、やはり別の視点が必要だと思われた。
柾年が手法を模索しながら自分の気持ちを追い込んでゆく過程でふと浮かんできたのは、真実だけを主人公にするのではなく、柾年自身も含めた沢山の周囲の人達と真実との関わり合いを表現してみようかということであった。その時点では、どのような構成になってゆくのかということについては、全く見えてはきていなかったが、柾年はともかく書き始めてみることにした。
内容は、
「一人の女性が自分の家系を調べ始めたことから、昭和の初めの頃に祖父が夢を持って大陸に渡り、現地で新しい事業を起こし、順調に経営していたところが、昭和二十年の終戦により再び海を渡り全てをなくしての失意の帰国をしていたことが分かってくる。存命中は多くを語らなかった祖父であったが、その心中はどんなものだったのかと想像するしかなかった。
童話作家であった彼女は、そんな祖父の生き方を童話にしたいものだと思い始める。子供達に伝えたいことは、かつて戦争という時代があったということと、その頃には沢山の日本人が夢を持って海を越えたのだということ、しかし、現実にはやがて夢はかなわないまま失意のうちに再び海を越えて帰還せざるを得なかったという事実などである。
たとえ失意のうちに終わるようなことになったとしても、自分の夢を持って生き続けていくことの大切さを伝えたいと思い、彼女は完成した童話をカフェのスペースを使って自ら読むことにする」
ということにしようと思い至った。
夢を持ち続けることは大切なことではあるが、時としてその夢はかなわないままついえてしまうこともあるのだという現実も伝えたいと思った。一般的に朗読するにはあまり長すぎないほうが良いと聞いていたので短編小説の設定にした。
出来上がるまでには、真実の生活している街である倉敷へ何度も行ったし、イメージの中では舞台しようと思っている思心で過ごす時間も多くなった。
「田村さん、最近よく来てくれますね。何か心境に変化があったんですか?」
そんな柾年の暮らしの変化に敏感に気付いたのは牧子だった。順二のほうはといえば、何事もないかの様子でいつものように客の対応に追われていた。
「この店を舞台にした短編小説を書こうかと思ってさ」
牧子はことのほか嬉しそうな反応を見せたが、半分は冗談だと思っているようだった。
「私も登場しますか?」
「もちろんさ」
「何だかドキドキしますね。夢のお話しみたいで」
「小説なんて、夢を話にするようなものかもしれないよね」
牧子が階下へ降りてゆくと、入れ代わりに順二が二階へと上がって来た。
「この店が短編小説の舞台になるって本当かい?」
「今製作中」
「完成したらお客さんも増えるかな、見学も兼ねて」
「多少はあるかもしれないね」
「俺達でできることがあれば協力するよ」
順二は嬉しそうにそう言うと階下へ降りて行った。
柾年は時間がある時にはなるべく創作にあてて、一月ほどで最初の原稿は推敲までが仕上がった。
ともかくは当事者である真実に見てもらうことにして、メールに添付して送った。今までに亀村から依頼されての旅の記事であったり、自分自身の創作としての小説は書いたことがあったが、この度のように実在する人物をモデルにして、周囲の人間関係や風景も取り込んで書くという経験は初めてだったので、真実がどのような反応を示すのかということについては気にかかった。直接会って直接渡してしまって、その場で率直な感想を聞くことは何だか怖いような気がして、メールという手段を選択した。真実にしてみても、本人を目の前にしては感想も述べ難いであろうという配慮もしたつもりであった。かえってその方がお互いに時間を置いて内容の修正にも向き合えるという利点があるように柾年は思っていた。
真実からの返事はやはりメールでなされた。三日後だった。
≪短編小説を読みました。この内容でいくと、昔あった出来事を絵本に記した私がいて、その私の姿を田村さんが小説にして、その小説を私が皆さんの前で読むという構図になりそうですね。何だかとっても不思議な感じがしています。内容については私が何か言うようなことは全くありません。舞台設定となる思心さんが良ければそれで良いように思います。是非皆さんの前で読んでみたいと思いました。≫
メールにはこのように記されていた。一番の当事者である真実からの了解を得られたことで、柾年にとっては一安心だった。思心には原稿を直接持ち込んだ。
「面白そうだな、ここを舞台にした小説を、そのモデルになった人自身がこの場所で朗読するんだから、より臨場感があるよな」
順二は上機嫌だった。
「まさか私まで登場するとは思っていなかったわ。でもいいわ、これで私も有名になれるかもしれないから、そのうちどこかからスカウトされるかも。そしたらここでは働けなくなっちゃうけれど」
思いがけず自分のことらしい人物が登場したことで、牧子の表情は嬉しそうだった。
「いいよ、牧子ちゃんが有名になったら、この店にも取材が入るかもしれないからさ」
その場での会話は妙に盛り上がりを見せていた。
当初柾年は、舞台設定を倉敷のすずらんか、あるいはきびにしようかと考えたが、夢を持ち続けるという観点からは、文字通り自分の夢の実現としてカフェを開業した順二と、これから先自分の夢を見出そうとしている牧子のいる店がイメージにより合っていたことと、思心で朗読会を開くことによって、これを機会に真実と思心とのつながりもできれば、お互いにとって好影響が生まれるような気がしたからであった。
朗読会が開かれる日の思心はいつもとは趣を変えていた。朗読を落ついた気持ちで聴くのなら夜のほうがいいという真実の提案によって、夜一回だけの開催となった。テーブルと椅子の配置を正面に向けて、照明はいつもよりも薄暗くしてあった。チラシを作製したことや友人・知人への連絡への告知もしたことから、夕方から次第に人が集まり出していた。作品の内容を知って興味を持ったという高齢者の姿も多くみられた。二十人ほどが集まったところで思心の一階の店内はほぼ満席となった。予定の六時半から朗読会は始まった。通常きびで行われる朗読会の時には読み手が複数いるので一人の持ち時間は三十分程度であったが、今回は真実一人ということもあって、休憩を挟む形での各三十分ごとの二部構成としてあった。時間を長くしたのはわざわざ来てくれたお客さんに対しての配慮であり、柾年が作った原作からしてもそれ以上に短縮するのは不都合なこともあった。
真実の穏やかな口調によって展開する物語は思心が舞台であり、その内容からそのことはお客さんにも伝わっているようであり、時々思心の店内を見回す人もいた。途中の休憩時間には、隣のお客さんと真実のことを話題にしているらしい声も聞こえた。この物語の主人公が今目の前にいる真実自身であろうことにも気づいている様子に柾年は満足していた。ほぼ満席の店内では、順二と牧子がお客さんの対応に追われていたが、その表情は嬉しそうだった。
会が終わるといつものように真実は出口のところに立って、お客さん一人一人に挨拶をしている。
「このお話しってあなたのことだったのね、途中から分かってきたわ」
「とってもいいことをしているわね」
そんな声も聞こえてきた。帰っていくお客さんの表情は楽しそうだった。
「お客さんの反応がとても良かったわ」
最後のお客を見送り終えた真実は笑顔だった。
「確かにそうだね」
「読んでいる途中からもそんな気配は感じていたわ」
「わかるのかい?」
「読みながらでも気配はいつも気にしているのよ」
それはお客さんに対する真実の配慮なのだろうと柾年は理解した。
「私も自分で朗読していながらも何だか不思議な気分だったもの。お客さんもそれを感じてくれたんじゃないかしら」
「どんな不思議な気分だったの?」
牧子がそばへ来ていて問いかけてきた。
「自分の姿を客観的にみている自分。そりゃそうよね原作者は田村さんなのだから、私のことも客観的に見えるわよね」
「自分で思う自分の姿とは違うっていうこと?」
牧子の興味は尽きないようだった。
「田村さんが私のことをとてもよく書いてくれていたから、きっとお客さんは、私のことを良い人だと勘違いしたんだと思うわ。それがさっき反応に表れていたんだわ」
「そんなことはないさ、僕は真実さんのありのままの姿を書いただけなのだから」
「多分、田中さんが自分では気づいていなかったところを田村さんが見出したということじゃないのかい」
カウンターの中にいた順二も会話に参加してきた。
「そういうことなのかな」
柾年も牧子もこれには納得したような表情を見せた。
もしも真実の言う通りにお客さんの反応が良かったのだとしたら、そのことは、真実にとっても思心にとっても、今後良い展開に向っていく兆候のように柾年には思えた。
「モンゴルへ帰ることについての気持ちの整理はつきそうなのかい」
柾年は、順二と牧子が自分達の仕事に戻ってその場を離れたところで尋ねてみた。
「全然つかないわ」
真実は首を横に振って否定した。どこか重苦しい表情を見せた真実に対してかけられる良い言葉は見つからないと柾年は思った。
「今日はとっても盛況だったよね。もしかしたらこれがあなたのやるべきことなのかもしれないね」
柾年は深く考えて言った言葉ではなかった。ふと自然と口に出た言葉だった。真実はそれには何も答えなかった。ただ、微笑だけを見せていた。
程なくお盆の時期が来た。牧子は予告通りに休暇を取って北海道へと旅立って行った。柾年が驚いたことにはそこへ真実も同行したということだった。
牧子と真実は、岡山市郊外の高台にある岡山空港から新千歳行きの飛行機に乗った。
「傷心の旅人は北へ向かう」
などと、歌の歌詞で聴いていて
「そんなものかな」
と漠然と考えていた牧子であったが、いざ自分が北海道行きの便に乗り込んでみると、自分の意思で最果ての土地へと向かうという、考えようによっては自虐的とも思える行為にも思えた。同時に自分の心の中の余計なものをそぎ落としてゆく、喪失感を伴ったような爽快感のような感覚もあった。
順二の店で働き出してから一年が過ぎたが時々、自分の生き方がこのままで良いのだろうかと思うことがあった。心の中ではまだ諦めていない夢もあった。
空港ではなく広大な原野の真ん中にでも不時着するのではないかと思うような不安を感じさせるような風景のあと、突然視界の中にコンクリートの滑走路が飛び込んできた。すぐに、下からの軽い衝撃があり、飛行機は減速しはじめた。
津軽海峡によって隔てられた、どこか別世界のようにも感じていた北海道の地であった。
想像以上に広々と視界の開けた周辺の風景を目にしながら、想像以上に広い新千歳空港ターミナルの中を歩いていると、いよいよ北海道に来たことを、牧子は実感した。
札幌へ向かう特急エアポートの車窓からも、今迄あまり目にしたことがないような、広大などこか荒涼とした原野が広がっていた。
「真実さんは初めてではないのでしょう、北海道は」
「一度来たことがあるのよ。モンゴルと似た風景だと思ったわ、故郷に帰ったような懐かしい感じを持ったわ」
札幌駅に着くとすぐに由紀江に連絡をとった。由紀江と待ち合わせたのは、札幌駅の中であった。数年前に大幅に改装され、多くの商業施設が入った札幌駅は通勤帰りの人であふれていた。つい数ヵ月前に会ったばかりとはいえ、こんな大勢の人が流れてゆく夕方の駅で、一度しか会ったことがない由紀江のことを見つけられるかどうか、不安がつのってきた。
「やっぱり人が多い駅はまずかったかしら」
「岡山駅よりは人の流れが多いわね」
二人は駅構内の人の流れに目を凝らして由紀江の姿を探した。待ち合わせに駅を指定したのは、牧子だった。初めての札幌では、他に分る場所がなかったのだ。夕刻の六時になっても、正面の大きなガラス張りの開口部から差し込む日差しは明るかった。目の前に見えている札幌の街並みは、自分が見慣れた岡山のビルの姿の何らの変わりがないことに気がついて、牧子はちょっと安堵すると同時に、自分が描いていた北海道のイメージとも、千歳空港から札幌へ向かう間に見えていた広大な原野とも違う札幌の街の風景には、やはり多少の驚きはあった。不安そうな牧子をよそに真実は二度目の札幌の街の様子に懐かしさを感じている様子だった。牧子の心配をよそに由紀江は程なく現れた。
「牧子さんよく来たわね。真実さんも一緒だなんて思いもしなかったわ」
ことのほか喜んでくれた由紀江の反応に真実も牧子も何だか嬉しくなり、北海道を旅先に選んで良かったと改めて感じた。
由紀江に案内されたのは、駅前通りに面した新しい商業ビルの八階にあるレストランだった。
「札幌の街って大きいんですね」
「一極集中なのよね、北海道も。札幌以外の地域では人口密度も低いし、仕事もあまり多くはないのよ。だから北海道全域から進学や就職で札幌に人が集まって来るのよ。その点は東京と似ているかもしれないわ。でも真実さんが来てくれるなんて本当に驚いたわ」
「何となく自分の気持ちを見詰め直してみたくなって、ちょうど牧子さんが札幌へ行くという話を聞いたもので、一緒に来ちゃった」
「それにしても行動力があるわ。私とは全然違うわ」
由紀江は本心から感心しているようだった。
「見方を変えれば計画性がないということかも」
真実は自嘲的にそう言った。
「きっと大陸的なおおらかさがあるんでしょう」
牧子は肯定的だった。
「牧子さんは自分の夢の実現に向けた下見に北海道へ来たらしいんだけれど、由紀江さんの夢って何?」
唐突に真実が尋ねた。
「そうね、何だったのかしら。最近考えること自体をやめているのかもしれないな」
「諦めたっていうことなの?」
「何だか毎日の現実の生活の中で気持ちにも余裕がないのかもしれない」
幾分寂しそうな表情で由紀江は答えた。
「真実さんの夢は?」
牧子が尋ねた。
「私は、本格的に童話と短編小説の作家になること」
「大きくて明確なのね」
由紀江は同姓で年齢も近い真実がはっきりした将来像を思い描いていることに感心した。
「まだ聞いていなかったけれど、牧子さんが北海道に来た理由は夢のためなんでしょう」
「実現できそうかどうかわからなかったからまだ誰にも言っていなかったけれど、お花の農家になりたいの。お花畑のように色々な種類のお花を栽培したいと思うのよ」
「それはいいわね」
真実も由紀江も同時にそう言っていた。
「方法は見つかりそうなの?」
「明日から面接の予定が二件入ってます」
「どうして農家なの?」
真実の関心はそこにあるようだった」
「今は接客業についているけれど、自分に合っているのかなっていつも思っていて、本当は自然が好きで、お花が好きで、一人の作業が好きで、そう考えたら花農家が合っているのかと思って」
「それならお花の農家がぴったりね、理想的な仕事なのね」
「就職はできそうなの?」
由紀江は現実的な部分が気になっていた。
「最初は農業法人に就職して、生産方法とかを勉強して、数年先にはお役所の新規就農支援制度を利用して独立したいんです」
牧子の目標もまた明確であり、意思も固まっていた。
「二人とも自分の目標がはっきりしていてすごいわ。毎日を何となく生きている私は何だか恥ずかしいわ」
由紀江自身は、日々の自分の暮らしに何となく張り合いがなくなっているような気がしていながらも、その理由を自分でも見つけられずにいたが、明確な目的意識を持った二人の話を聞くうちに、自分の気持ちにも変化が起きそうな予感がし始めた。
牧子は、翌日朝早くから札幌から少し南に位置する恵庭市にいた。「花の街」と呼ばれるほどにガーデニングが盛んに行われているという街であり、花農家も数軒あるという情報を得て、自分の目で見ようと思ったからだ。
由紀絵は真実を同人仲間が集まるカフェへ案内した。由紀江自身でも久し振りでの訪問だった。由紀江の姿を見たマスターがすぐに木村へ連絡した。丁度同人の事務所に来ていた美奈子も一緒にすぐに現れた。
「久しぶりだな。お客さんかい」
「田中真実さんと言って、岡山で童話作家さんをしている方です」
「そうか、岡山からね。田村君の紹介かな」
「ええ、あちらでは時々朗読会で田村さんとお会いしています」
「朗読会をやっているんですか?」
「ええ、毎月。岡山と倉敷のカフェで」
「最近は朗読ってブームのようになっていますよね、聴いてみたいな」
美奈子が興味を示した。
「ちょうど良かった、ここでやりませんか。明日でも」
木村の唐突な申し出だった。
「それはいいな」
人の好さそうなマスターも同意した。是非という何人かの声に押されて翌日の開催が決まった。いつも人前で朗読している真実にとっては、場所が変わったところで何ら問題はなかった。
真実がその日の宿のホテルに帰るとほどなく牧子が帰って来た。
「どうだった恵庭は?」
「いい感じでした。お花の力って大きいんだなって改めて感じました。人と人をつなげたり、孤独な人の心を癒したり。自分がやろうとしていることは、このままでいいんだと思いましたよ」
いかにも嬉しそうな牧子の表情を見ていると、自分も自分の得意なことで誰かの力になりたいと真実は強く思った。
翌日も面接があると言って、朝早くから牧子は札幌の郊外へ出かけて行った。真実はお盆休暇の由紀江と一緒に札幌市内を観光することにしていた。作家である真実の関心がありそうな場所として、由紀江は道立の文学館を選んだ。
「北海道って文学を生む風土なんですかね」
多くの作家達の自筆原稿や遺品や手紙などの展示品を見ていた真実はそんな感想を言った。
「自然が多くて、過去とのしがらみが少なくいから自由な発想ができやすいのかしらね」
由紀江は一般的に言われているそんな言葉を使った。言った後で、最近絵を描くという作業から遠ざかっている自分自身に向けられた言葉であるようにも思った。
「北海道ってしがらみが少ないの?」
真実にはその意味が解り難いようだった。
「北海道の人って、明治になってから本州から開拓民として入植してきた人の子孫が多いから、その時に元の出身地とのつながりを断ち切って来たらしいのよね。北海道に来た理由は人によって様々なのだろうけれど、開拓の苦労を共にしてきたという点では皆同じ立場という考え方が浸透したのだと思うわ。家柄とか先祖だ誰だとかいう意識があまりないのよ。大名だった人もいれば、武士だった人、商人や職人、農林漁業者もいたのでしょうね。中には本州に居られなくなるようなことをした人もいたのかもしれない。追われるように北海道へ来た人もいたかもしれない」
「そうなのね」
真実は真剣な表情で由紀江の話しに耳を傾けた。
「きっと皆、過去のことは話題にしなかったのかもしれないわね。前だけを見て生きようとしたのかもしれない。札幌の街作りには外国人の技術者の力も必要だったから、西洋の平等思想も入ってきたということかもしれない。その例としてはクリスチャンの人が今でも多いかもしれないから」
「自由な発想ができる土地柄なのね。そこから新しい文学者が育ったということね」
「そうかもしれない」
「田村さんも作家を目指しているのでしょ」
真実は何気なくそう言ったが、由紀江の心には重く響いた。何故なら、その言葉は、自分よりも真実のほうが柾年の心の内を端的に的確に見抜いていることを現わしていることになるのだから。
「以前はそう言っていた頃もあったけれど、今はどうなのかしら」
由紀江のそんな言葉の中には、由紀江自身の希望も含まれていることに、由紀江自身でも気付いてはいた。
翌日の朗読会は、盆休みの期間ということもあって昼間の開催とした。真実が朗読したのは自作の短編と岡山の思心で公開された柾年の新作だった。会場のカフェには、木村と美奈子、志津、そして由紀江から連絡を受けた亀村と一般のお客さん合わせて二十名程が集まった。真実の朗読の声を聴いていると何だか岡山にいるかのような軽い錯覚に由紀江と牧子は陥っていた。初めて来たという一般のお客さん達も楽しんだ様子で帰って行く様子を見て真実は緊張が解けていくような気がした。
「朗読が素晴らしかった。田村の新作もあいつらしい内容で面白かった」
早速真実のことに興味を持った亀村が真実に話しかけてきた。
「ありがとうございます。田村さんから亀村さんのことは聞いていました」
「それなら話は早いかもしれないな」
亀村の表情はにこやかだった。
「私は出版社に勤めているんですけれど、その関係からいつでも個性的なライターさんと作家さんを探しているんです」
「はい」
真実はそう短く受け答えした。
「どうですか、うちの仕事をやってみる気はありませんか?」
「それは朗読ですか、それとも文章を書くほうですか?」
「田中さんがよければ、その両方でも」
真実にとっては願ってもないことではあったが、できすぎた話でもあり、にわかには信じられなかった。
「でも、私にできることなんて限られていますよ」
それは謙遜というよりも真実の本音でもあった。自分では自身のことをそれ程には評価される存在であろうとは思ってはいなかったのだから。 突然降って湧いたような話で真実も少し冷静さを欠いていた。ふと、我に返って自分がモンゴルへ帰ることにしていたことを思い出した。
「お話は本当にありがたいんですけれど、実は私もうすぐ故郷のモンゴルへ帰ることにしています。だからせっかくのお話ですがお受けできません」
さすがに亀村は驚いたような表情を見せた。
「そのことを田村は知っているんですか」
「ええ、話してあります」
「で、彼の反応はどうでしたか?」
「さっき朗読した田村さんの新作は私が帰ることを知って、日本で暮らした思い出にということで作ってくれましたから」
亀村は残念そうな表情を見せた。
「せっかくいいライターさんであり、社員であり、今後長いお付き合いができそうな作家さんに巡り合えたと思ったんだけれどもな。どうしても帰らなければならない理由があるのですか?」
真実は少し考える様子を見せた。
「帰ろうと思った理由は、私も子供達も都会を離れて少し自然の近くで暮らしたくなったこと、あとは私自身が死んだ旦那の思い出が残る場所から距離を置きたくなったから、そのような理由から、環境を変えるなら子供達がまだ小さいうちに決断した方がいいと思ったからです」
「そういうことなら無理に引き留めることはできないな。引き留めたところで我々がどれほどのことをしてあげられるか解らないしな」
亀村は諦めかけた様子だった。誰もがそれぞれの思いを心に描きつつの沈黙が過ぎた。
「私ね、さっき柾年さんの新作っていうのを聴いていて思ったんだけど」
そういい始めたのは由紀江だった。
「何だか少し作風が変わったなって思ったわ。ここ数年は柾年さんあまり小説を書いていなかったのよね。と言うより書けなかったのかもしれない。最近の暮らしの様子を見ていると仕事の中に埋没しているような感じがしていたわ。でもそれは誰もが向き合う現実なのであって、特別なことではないのだけれどもね。でも小説は書いてはいなかった」
「確かにずっと何だか覇気がなかったよな」
亀村も同じ思いらしかった。
「私が五月に岡山で会った時には、少し表情が変わったように見えたのよね。それが何だったのかが今わかったような気がする。意識的に忘れようとしていたことをまた自然な流れとして思い出してきたような感じがする。そして作風の異なる新作ができた」
「私が何か悪いことしちゃいましたね。せっかく田村さんが現実を生きようとしていたところを邪魔したみたいで」
「そんなことないわ。自然な流れの中で昔からの自分の夢に近づくことができはじめているのだとしたら、田村さんにとって真実さんは恩人よ」
いつものように美奈子ははっきりとした口調でそう言った。
「そうなのかもしれない。創作者であり朗読者である真実さんと出会ったことによって、田村さんの気持ちにもいい変化が起き始めているのかもしれませんね」
素直な性格の志津の言葉はそこにいる皆の心に説得力を持って浸透するようだった。
「特に今までと違った朗読という体験が転機となったということは考えられるな。文字と朗読から受ける印象は全く違うものかもしれないから、新しい感性が目覚めることだってあるかもしれないな。めぐり合わせの不思議さかな」
それまで黙って成り行きを見ていた木村もそう言った。
その夜、由紀江は真実と牧子を札幌市内の藻岩山へ案内した。ロープウェイで標高五百三十一メートルの山頂に登ると石狩平野に広がる広大な札幌市の夜景が一望できた。
「綺麗な街なのね札幌って。ここで暮らせる人達がうらやましいわ」
真実はしみじみとした様子でそう言った。
「きっと春から秋までの期間は羨ましいくらいに住み心地がいいのかもしれないけれど、それ以外の半年間は雪と付き合っていかなければならないのよ。これは結構辛抱を要するかもしれないわ」
「外から見ていると、いいところしか見ようとしないし、見なくてもいいのよね、私達のような旅人にとっては」
「みんな同じよ、私だって岡山へ行った時には観光地のいいところばかり見て帰って来たもの」
「牧子さんはもうすぐこの北海道で暮らすことになるのでしょう」
「雪の話を聞くと何だか怖くなってきました。岡山なら一年に一度か二度くらいしか雪が降らなかったから、毎日雪の中で暮らしていけるのかしら」
由紀江の問いかけに対して牧子は不安そうに答えた。
「大丈夫、ここで暮らしていこうという決心があればすぐ慣れるわよ。本当なら真実さんも一緒にこちらで暮らせれば良かったのにね」、
由紀江にとっては、同人誌の仲間達にとっても、柾年に対しても、そして由紀江自身にとっても良い影響を今後も与えてくれそうな真実の存在感は大きくなりつつあった。真実は笑顔を向けただけで言葉では答えなかった。
翌日の新千歳空港発岡山行きの便で真実と牧子は岡山へ帰った。
「どうだった北海道は?」
柾年は思心へ出向いた折に牧子に尋ねた。
「広々としていて農業をするにはとっても良い場所だと改めて思いましたよ。ただ新千歳空港に着陸する時にはこのまま原野に不時着するんじゃないかと思って怖かったけど」
「面接のほうはうまくいったのかい」
「ええ、もうほとんど決定といった感じですね」
牧子は嬉しそうだった。順二からも牧子が北海道で新規就農者となる希望を持っているのだとは聞いていたから、これから先はできることは応援してあげたい心境だった。
「それから、由紀江さんの紹介で同人誌の皆さんと亀村さんにも会ってきましたよ。もうみんなと友達になったから、北海道へ移住したら時々札幌へ行って同人誌の集会に参加することにします」
「恵庭で就農するのなら札幌はすぐ近くだからいつでも行けるよ」
牧子が自身の夢に向かっての一歩を確実に歩き出したことは喜ばしいことではあったが、一緒に北海道へ行ったという真実のことが気にかかった。岡山のきびでの朗読会まではもう少し日があったし、倉敷のすずらんを訪ねたところで、ちょうど真実が来ているとも限らないのだ。柾年には、突然思い立って北海道へ行ったことも含めて、今の真実の心境が知りたいような思いがあった。
「田中真実さんってモンゴルに帰るんだって」
真実の個人的な事情については何ら知り得る手段を持たない柾年であったが、もしかして佳子なら何らかの情報を得ているのかもしれないと思って言いだした言葉だった。
「そうなの、で、いつ」
「来年の春頃らしいよ」
「そうなんだ、向こうが故郷だからね。でも寂しくなるわね」
佳子はそれ以上に最近の真実の心境を把握している様子がなかったので、柾年はそれ以上には真実のことを話題にはしなかった。佳子が知らないということは、真実はモンゴルへ帰ると決めたことを誰にでも話しているということではなさそうであった。そこにはまだ迷いがあるのだろうと柾年は感じた。では何故自分にはそんな心の内を話してくれたのだろうと思うと不可解だった。思い当たることといえば、同じ創作者同士として理解し合えるものがあると感じてくれているのかもしれないという気がした。同時に、
「他人の言動を観察して、心の奥の感情を想像するという作業をしている創作者なら、言葉にはできない私の気持ちを推察して」
と真実から投げかけられているような思いに至って、はっとした。その思いが当たっているのだとしたら、自分は真実に対して今のところ何ら意味のある答えをしていないことにもなるのだ。
柾年は改めて真実との会話を思い返してみた。確かに真実は迷っているのだと自分の口から言っていた。決めたことだけど、これでいいのかという思いがあるのだと。自分は何気なく聞き流していたけれど、真実は誰かに答えを求めていたのだとしたら、あの時は確かにこの自分に向けて答えを求めていたのだろうと思うと、真実に対して申しわけないような気持ちになった。
あの時心の迷いに対しての答えを求められた自分が何も答えられなかったから、真実は自分で答えを求めて北海道へ行ったのではないのかという思いに至った。真実は北海道という場所に答えがあるような気がしていたのではなかったのか。だから北海道から来ている自分にその思いを向けて来たのかもしれないと思った。それは北海道の風土がどこか真実の故郷である大陸と似ているからなのかもしれないし、開拓期には心にうけた失望とともに、新たな希望をも併せ持って本州から海峡を越えて移住してきた人達が大勢いたという歴史を受け継ぐ土地柄のことを、もっと知りたかったのかもしれないと思われた。今は再び岡山に帰って来ている筈の真実が、北海道で何らかの答えを見つけていて欲しいと願うばかりであった。
「今度、きびの朗読会で真実さんの新作が披露されるんですって。きびのママから連絡があったわ。田村さんもぜひ来てくださいって」
昼休みに佳子が自分の携帯を見ながら教えてくれた。盆休みが終わってからというもの、仕事がにわかに忙しくなっていて残業も多かったために、暫くきびの朗読会に顔を出していなかったのだ。しばらくご無沙汰していたところへまた顔を出すには良い情報だと思えた。
季節は初秋にかかり始めていた。あちこちで読書週間の呼びかけがなされていて、落ち着いて朗読を聞くには良い時期だと柾年は思った。既に日暮れの時間が早まって来ていて、きびに着いた時には窓の外は真っ暗になり、街明かりがともり始めている。真実は既に来ていたが、朗読の練習に余念がないようなので、柾年は朗読者の席からは少し遠い場所に座った。少し距離を置くことによって、真実の自然な様子を見たかったのだ。そうすることによって、真実の最近の心境を推し量ろうという思いもあった。真智子は柾年が来ていることに気付いていたが、真実は気付かないまま朗読会は始まった。
真実の新作の設定は現代であり、主人公は北海道で新規就農するという夢の実現を目指している歳若い女性だった。話が進んでいく中で、もう一人の主人公とも主要な脇役とも思える職業作家を目指す女性が登場した。柾年はその内容に興味を惹かれた。作家志望の女性は、新規就農という夢を追おうとしている若い女性の生き方に関心を持つことで、物語を通してその女性の生き様を世に紹介するための作品を作りたいと思い立つ。
物語の製作は進み、半ばを過ぎた頃、思いがけず突然に、対象の女性がいよいよ新規就農の土地と定めた北海道へと移住することが決まる。作家志望の女性はそこで物語が終わってしまうことを残念に感じるが、自分自身の人生との兼ね合いを考えた時には、この先度々北海道へ出向いての取材活動は難しく思えて、一度は取材自体を諦めようと思う。
やがて対象の女性は北海道へと旅立って行ったが、作家志望の女性は何だか無性にやり残したことがあるような思いにとらわれ始める。きっと夢を追う将来がある歳若い女性の物語を完成させることによって、未だ完成できていない自分自身の作家になるという夢も実現できそうな思いが湧き上がってきたのだ。
自分は本当は何をやりたいのかということを突きつめていく結果として、途中で諦めた物語の作成をもう一度再会しようと思い立って、対象の女性を追って北海道へ移住することを決断するというところで終わっていた。
朗読を聞き終えた後、柾年は不思議な感覚にとらわれていた。本当のところは真実に聞かなければ解らないことではあったが、そこに登場していたのは思心の牧子であり、真実自身であろうことが思われた。
朗読を終えた真実とは一度目線が合い、帰りがけには出口のところで見送りを受けたが、柾年はその日の内容についての感想を述べることはしなかった。慌ただしい雰囲気の中で、短い言葉で何かを伝えようとしてもかえって本心が伝わらずに、真実が誤解するかもしれないという危惧があったからだ。あえて何も言わないことによって、何らかの感想を、いずれ時期が来た時に改めて述べる意思であることを、暗に真実に伝えたつもりであった。きっと、同じ創作者として、真実はそんな自分の気持ちをきっと理解できているだろうと思いはあった。
数日後、思いがけず真実から連絡があった。一度会って話したいということだった。場所は岡山のきびを希望していた。岡山市内なら仕事帰りでも休日でもいつでも対応できたから柾年は了解の返事を返した。
「わざわざ呼び出して申し訳ありません」
真実は最初にそう言った。改まった口調から何らかの大事な話であろうことがまず想像された。
「以前に話したように、来年の春を区切りにモンゴルへ帰ろうと思っていました。それが今は一番良いように思ったからです」
「それは聞いていました」
「今は少し状況が変わって来たので、一度お知らせしておこうかと思いまして」
「それは、帰るのをやめようかということですか?」
「ええ、そうなんです。田村さんは私の心の動きに気付いているかもしれないとは思っていましたけれど」
真実の答えを聞いて柾年は嬉しくなった。理由はどうであれ、ともかく真実がモンゴルへ帰ることを思いとどまったのだとしたら、何だか安堵したような気分になった。
「何となく心が動いているのかという気はしていましたが、正確なところは田中さんにしか解らないところですからね」
「まあ、そうですよね」
柾年は、真実が自然と自分からその理由を話してくれるのを待つことにした。真実は何から話そうかと思案しているようにも見えた。
「きっと田村さんは、この間の小説の中から何かを感じてくださっていることと思いますが、あの内容が今の私の心境であり、将来へ向かっての私の想いでもあります」
「多分、あの小説の主人公の新規就農の女性は牧子さんのことで、その女性を取材して物語にするのは真実さん自身のことなのでしょう」
そんな柾年の言葉に対しては、真実は笑顔を見せた。
「あの小説の通りに、私も北海道に移住しようかと思っています、今は」
「それはまた大きな気持ちの変化ですね」
「私の気持ちの中では迷いがありました。それでお盆の頃に北海道へ行くと言っていた牧子さんについて北海道へ行ってみました。由紀江さんと再会し、由紀江さんの紹介で同人誌の皆さんや亀村さんともお会いしました」
「そのあたりの成り行きは牧子さんから少し聞いていましたが、田中さん自身の心境の変化については今初めて聞きました。僕はこの結果は良かったように思います。水が流れるような自然な成り行きのように思います」
「そう感じてもらえるなら、これで良かったのかもしれません」
「亀村は、僕にとっては長い付き合いの友人ですが、どのような話になったのですか」
「こちらに帰ってからも時々連絡をいただいています。出版の話とか、ライターとしての仕事の話とか、社員になるお話とか、結構具体的な提示をいただくことができたので、それをもとに考える時には、北海道へ移住してからの仕事の目途が具体的な形になって見えても来ています。これなら何とかやっていけるかもしれないという気持ちになって来たので、今は私も北海道に移住することを前向きに考えています」
「それは良かった、亀村は定住性のない僕とは違って、落ち着いた暮らしをしていますから、きっと田中さんのお役に立てることも多いと思いますよ。同人誌のみんなとも会ったうえで、北海道へ移住することを考え出したのなら僕にとっても嬉しいことです」
「田村さんはいつまで岡山にいるんですか?」
「今のところ大きな動きはなさそうだから、多分来年の三月まで」
「牧子さんは、来年早々にはあちらへ行くと言っていたわ」
「そうですか、夏が短い北海道では雪解けを待ってはいられないから、冬の間にハウスでの作業があるのでしょう」
「冬の間から既に春の準備が始まるという事なんですね」
「そうですね、自然の移り変わりは待ってくれないし、その時を逃すとその後の作業にも影響が出るということなのでしょうね」
「そんな牧子さんのことを取材しようと思うなら、私も早く動き出さなければならないですね」
岡山にも雪のない遅い冬が訪れた。そして新しい年を迎えた。
「牧子さんとうとう行っちゃったね」
「自分の夢のための頑張ろうと言うんだから頑張ってもらいたいよ」
柾年と順二の新年の会話はそんな話題から始まった。
「いずれ独立した時には、北海道の花を安く送ってくれるって言っていたから、そうなったらこの店の中で花屋も始めようかと思っているさ」
順二は本気なのか冗談なのか解らない口調でそう言ったが、その表情はどこか嬉しそうだった。
「田中さんもそろそろ行くんだろう、向こうへ」
「早くしないと牧子さんへの取材が遅れると言っているからね、そろそろだろうね。結局僕だけが最後に残されるわけだ」
「いざとなったら女性達は行動力があるな」
「君はこれから先はどうなるんだい」
組織に属している以上は、自分の行く末さえも自分の意思では決定することができないという現在の柾年の置かれている立場に、理解と同情を込めた言い方をした。
「どうなるのかな、ここへ来た時には一年という話だったけれど、会社の事情が変わったということもあり得るからな。もう一年いてくれとか、場合によってはまた別の場所へ転勤してくれとか」
「そうか、まだ解らないんだ」
「札幌へ帰ろうという強い意志があるならば、退職するという覚悟も必要なのかもしれない」
「で、覚悟はあるのかい」
「そうだな、今は考え中」
現実の問題として、社内でも根拠のない噂や、ある程度信憑性があると思われる情報を耳にすることがあった。社内の情報通の佳子からだった。そんな中で柾年が気になっているのは、中国東北部あたりに新しい支店開設の話しが上がっているらしいという情報だった。そして、そこへ赴任する候補者の名簿の中には、自分の名前があがっているらしいということも佳子は言っていたのだ。香港と上海に支店があることは知っていたが、新しい支店の開設の噂は初めて聞いた。まさかまた自分の身に移動がふりかかって来るとは思っていなかったが、可能性はゼロではないと思えた。何故なら年齢が三十代であり独身なのだから、会社から見た時には選任しやすい身軽な社員であることには間違いないのだから。
柾年としても新支店開設の情報を耳にした以上は、それに対する自分なりの心積りをしておく必要もあると思っていた。
中国東北部と言えば祖父の徳太郎がかつて暮らした場所であり、真実の故郷であるモンゴルにも近かったから柾年にとっても一度は訪れてみたい土地であることには違いなかった。とは言え外国で長い期間暮らすということについては現実の問題としては、今後の自分自身の生活との折り合いは難しいように思えた。
きびでは真実が参加する最後の朗読会が開かれていた。その日に真実が選んだ題材は北海道を舞台にした小説の一節だった。薄明りに照らされて一心に読み続ける真実の表情からは、いよいよ北海道で新しい暮らしを始めようという覚悟のようなものが現れていると柾年は思った。今では航空機でも鉄道でも容易に越えられるようになった津軽海峡であるが、そこを越えようとする人の心の中には目には見えない深くて暗い海溝が口を開いていて、まず自分の心の中にできた深い海溝を越えることができた者だけが、様々な手段を使って現実に津軽海峡を越えて北海道に移住することができるのかもしれないと柾年は思った。
真実は自分の気持ちを整理して、心の中の津軽海峡を越えたのだろう。では自分はどうするのか、柾年は今改めてそう問いかけられているような気がしてきた。岡山に来た時には、自分の意思ではなく、成り行きとして流れのままにたどり着いただけのことという言い訳もできた。しかし、やがて来る年度末の三月には、あるいは会社側から柾年自身の意向についても問われる可能性もあると思われた。その時に自分の意思としてどのような決断をしていくのかを早急に整理しておく必要がありそうだった。
「いよいよ行くんだね」
帰りがけに柾年は真実にそう話しかけた。
「先に言っているわね。牧子さんも待っているから」
真実の表情にはもう迷いはないようだった。
柾年は自分の立場に置き換えてみた。自分が北海道に帰るということは、故郷に戻るだけのことであり、そこには大きな心の溝があるとは思えないのだが、この度は事情が違うようにも思えた。自分もこの先北海道の地で腰を落ち着けて暮らしていこうと思うなら、それなりの覚悟を持って津軽海峡を越えることを要求されているように思えてきていた。
思心の二階はいつも静かだった。順二が二階に来ることはほとんどなかったし、牧子の代わりに入った従業員の女性は牧子のように度々二階に上がって来ることもなかった。そこには柾年が自分を見詰めることができる自由な時間があった。窓からは岡山の街が眺められる。ビルの間からは岡山城の天守閣の黒くて端正な姿が見えている。この街に来てからの一年弱の出来事を柾年は思い返してみた。由紀江を岡山城や倉敷、吉備路へ案内したこと、朗読会を通して真実と出会ったこと、たまたま立ち寄った思心の順二と牧子と話すことが、異郷の土地で暮らす間の気持ちの支えであったことなども。
佳子の言っていた社内情報がどこまで正確なのかも考えた。営業職の佳子が仕入れてくる情報なのでそれなりに信憑性は高いと思われたから、ここで再び移動転勤の話しが自分の身に持ち上がって来る可能性はあると思えた。社内の常識としては、海外赴任は出世コースの中心と思われていたから、指名されなかった多勢の社員達からは羨望の目で見られる立場になることを意味していた。会社からもそれなりの評価をされたという確証でもあった。そんなうまい話を断ってまで、本州に比べて経済状況が低迷していると言われ続けている北海道へ帰る意味があるというのだろうか。それも今の仕事を退職してまでというところまで考えは至った。
当たり前のことなのだが、組織の中の人事は個人の思惑や事情を越えたところで動く。それも結構短時間で決定がなされる場合も多い。それが対象となった人のその後の人生に大きな影響を与える場合であったとしても。
辞令は三月に発せられた。旭川の堤防沿いに植えられた桜の並木はまだ冬枯れのままであり、ようやく新しい芽が出始めた頃だった。何故佳子がそれを知っていたのかは謎だったが、内容は柾年が思っていた通りのものだった。佳子から情報を得ていたおかげで、少しばかり長い時間を自分の心の声を聴くことに使えたことは幸いだった。とは言えまだ結論は出せてはいなかった。岡山城の横の堤防の散策路に人の姿はなく、いつもの静けさがあった。目の前を流れてゆく旭川の流れは水のしぶきがあがることはなく、鏡のように陽の光を反射して輝いている。
若かった頃には東京にあこがれて、ただ津軽海峡を越えることだけを目標のようにして生きていたように思えた。そして今、祖父の徳太郎の足跡をたどるように、新たに海を越えて大陸へ行くという機会が自分に与えられようとしている。失意のうちに帰国した祖父の無念の思いを晴らすための移住であるかのようにも思えないこともなかった。もし、自分がかの地で出世をしたならば、亡き祖父もあるいは喜んでくれるのかもしれないとも思った。ただし、その機会が自分の意思によらずに外部から与えられたものであっても、そこに同じような価値を見出すことができるのだろうかという思いもあるのだ。祖父は自分の意思で海を越えた、牧子も真実も同じだった。では自分はどうするのか。柾年の思いはそこに集中した。
「北海道に帰ることにしたよ」
「随分と思い切ったな」
順二は笑っていたが、あきれてはいなかった。
「自分の意思そうすることにしたよ」
「迷いは」
「ないよ」
「いつ帰る」
「三月末を持って退職だよ。だから四月には」
「ちょうど桜吹雪の頃だな」
「北海道の桜は五月だから、向こうへ行ってからまた歓迎の桜吹雪が見られる」
「なんとも贅沢だな」
柾年はエゾ山桜が満開の円山公園の様子を想像した。
「向こうで仕事のあてはあるのかい」
「出版社に勤めている友人がいる。そこに入れるかもしれない」
退職を決断するにあたっては、柾年は誰にも相談することはなかった。自分の心の声を聞いた。どうしたいいのかと。いかにも嬉しそうに輝いた表情で北海道へと旅立って行った女性二人のことを思う時、「長い間の呪縛から解放されなくては」という自分の心の声が聞えたような気が柾年にはした。
何かに追われるかのようにして北海道へ来た先人達、本州のことを内地と呼び、どこか羨望の思いを漂わせていた子供の頃に見た親戚達の姿、夢を持って大陸へ渡りながら夢破れて日本へ戻って来た祖父の徳太郎のこと、そして、津軽海峡を越えることそのものを目標のように思っていた若い時の柾年自身のこと、それらに共通していたかもしれない、敗残者のような思いに囚われ続けるという呪縛からの解放は、自分の手でしなければならないような思いに至ったのだった。
彼女達は、自分の人生を切り開く開拓者の思いを持って津軽海峡を越えて行った。その姿を思う時、自分もまた自分の人生の開拓者の気持ちで、もう一度あの津軽海峡を渡ろうという強い意志が湧いて来ていた。