アザレアの咲く方に
「おや、これは酷いねえ」
老眼鏡をかけたおじいさんが呟いた。茎の折れたアザレアを大事そうに抱えている。
その老人が座っている花壇は酷い有り様だった。咲いている花は全てアザレアなのだが、咲き誇るものは一つも無い。たいてい蕾や花が開くところまで育っているのに、茎が折られたり、花弁を踏みつけられたりして、美しいものが台無しにされている。
皮肉な事に茎の折れたものは全て花が咲く寸前のものだった。花弁が開いて顔を出しているところを、壊されている。花壇にはその他にも、枯れたものや蕾のまま日陰に向いているものなどが、散らばっていた。
例えばこれを人に見立てるなら、踏みつけられて土を被った死体の山といってもいい。魂の抜けた、身だけの造形だ。それが散らばっている。
「それ、治らないかな」
僕は老人を見下ろす。困った顔の老人は答える前に問いを重ねてきた。
「なんたってこんな風に?」
僕は一度口を閉じて考えた。分かっているのに、考える。そしてやはりいつもと同じ結論に辿り着く。
「僕がそうしたからです」
老人は顔を顰めた。言葉の意味は分かってても、その意図が分からないのだろう。種を植えて育てていた者が、咲き始めた途端に茎をへし折った、だなんて言われているのだ。それは当然このような困った顔をしてしまう。
「どうしてだい」
老人が聞く。そしてまた僕は考える。分かっている事なのに、別の答えを求めてみる。そしてやはり、知っている答えが出た。
「怖かったから」
老人はすっきりしない表情を浮かべ続ける。ので、もう少し言葉を付け足してやった。
「僕が臆病だから、花が咲くと分かった頃に急に不安になるんだ。本当に咲かせたくて種をまいて、育ててきたのに。この花が悪いってわけじゃない。僕が急に怯えだして、自己防衛で花を壊したんだよ」
やはり老人は表情を歪める。でも話は分かったようで、そうかい、と優しく呟いた。
「残念ながらね、この花はもとに戻らないよ」
花を抱えながら、老人が言う。老人が抱えている花は僕が育ててきたものの中で最も綺麗に咲いたものだった。僕が最も手をかけて、大事に育てたものだった。それも茎が折られて、台無しにされている。できることなら元通りにしたいと思っていたが、叶いそうにない。老人はそれに目を落としてから、憐れんだ目で僕を見上げた。
「これなんかは特にね。どういうわけかこれだけは三回ほど茎が折られている。きっとこれも、君がやったんだろう」
僕は黙って頷く。この花は茎を折られても、もう一度咲こうとしていたのだ。歪められたものを立て直して、太陽の方を向いて咲き誇ろうとした。その度に僕が茎を折り、足踏みでそれを踏みにじった。
大好きな花をぐちゃぐちゃにした。
「そっか。仕方ないね」
僕は呟く。実を言うと、これらが元に戻らないことくらい知っていた。戻ったところで不毛なだけだ。だから本当はどうでもいい事だった。
それでも老人に頼ったという事は、少しばかりの縋るような思いがあって、過去を惜しむ気持ちがあったからだろう。
「後悔しているかい」
老人の問いに、うんと頷く。
「でも、必要な事だったと思う。その過去のおかげで花の美しさ、尊さを少しでも知れた。反省も少しくらいできているだろうし。馬鹿な事をしていたけど、なにも悪い事ばかりじゃない」
必要な経験、として開き直る。そうしなければ笑えないだろうから。
僕は一度、空を見上げた。そうして自分の居場所を確認するのだ。日陰から見上げた空に光は無い。暗い所から、暗い雲と明るい色のわざとらしい青が見える。たったそれだけで、僕の立っている所に太陽は届かない。
でも目の前にいる老人は陽射しに当てられていた。そう、とても簡単な話で、僕が一歩進めば暗い所から抜けられる。もう一度太陽が見られるのだ。
太陽が恋しい。数年前のありきたりなものが惜しい。陽射しに当たっていない僕はまるで人間じゃないような気持ちになるのだ。それがどうしようもなく苦痛だけれど、今更太陽に曝される勇気も湧いてこない。
散らばった花壇を見下ろして、懐かしいなどと感じる。たった数年前の残骸を見下ろし、数十年経ったかのような錯覚を覚えた。確かに懐かしいのだ。ノスタルジーというのは、こういう切ないような気持ちのことに違いない。
僕は老人のように過去を懐かしみ、それらが惜しいと目を瞑る。
「もう一度咲かせてみるといい。次は大事にね」
俯いて考え込んで、落ち込んでいる風の僕に、老人は優しく言った。ふと老人の顔を見てみると、優しく微笑みかけてくれている。
そんな表情が僕にもできたらなあ。昔なら出来ていただろうか。僕はなにか言う前に、取り敢えず下手な愛想笑いを浮かべてみせた。
「でもなあ」
ため息交じりに老人が言う。続く言葉は、僕にとって難しい問題だった。
「そんな日陰じゃあ、花は咲かんよ」
僕は何も言わず、しゃがみ込んだ。陽の当たる花壇から外れたところの、暗い色の土を見つめる。もう種は持っていないから、なにも植えることができないし、当然こんなところに花は咲かない。
「そんな所にいても寂しいだけじゃないのかい。その土の下から花が咲くまで、ずっと待っているつもりかい?」
日陰に花が、アザレアが咲くだなんて素敵じゃないか。とても神秘的だ。
だからこそ、全くあり得ない事だ。
「分かってます。でも、神に祈るくらいしか今の僕にはできそうもない。今まで花を壊してきた分だけ、僕の中の何かが壊れてしまって、元に戻れそうにない」
僕は地面に手をついて、暗い色の土を撫でる。
「だから運に任せて、時期に縋る。そうやって待ち続けるんです」
冷えている自分の手よりも冷たい土が、掌に心地良かった。氷ほど冷たくない、ひんやりとした温度が丁度良く、寂しいような気もした。傷口に土を擦りつけるような無意味な事をしているようで、悲しくなっているのだろうか。必要もないのに手が動くから、無駄に汚れていく。僕は日陰に隠れてからずっと、こんな惰性にも及ばない無意味を繰り返していた。
ただ僕は手元が寂しくて、土を撫でる。わずかな段差があれば平らに均してみたりする。こうして無意味な事を続ける。
「こんな事でもしている内に花が咲けば、運が良いですよね。神が気まぐれにくれるおやつだ。でも確率の計算をする事すら馬鹿げている。そんなことはどうしたって起こり得ない。不可能なんですよね」
日陰に花は咲かない。種をまかずに、水を与えずに咲かせられる花も無い。
壊された花はもとに戻らない。どんな幸運が湧いてこようと、不可能だ。
「そこにしゃがみ込んでその奇跡を待ってるうちに、私みたいになるんじゃないかい」
老人は僕に笑いかけてから、花壇に目を落とした。不完全な花それぞれに憐憫を込めて手を合わせる。
そしてもう一度、僕の方を向いた。
「ただ太陽を見上げればいい」
老人は指先を天に向ける。その先に太陽があるのだろう。僕の後ろの、うんと奥の方だ。僕は丁度、太陽に背を向けているようだった。
「あれやこれやと思考錯誤するのは後で、枷が付いているつもりの重たくない足を前に動かす。どうすれば良いのかはそれから考える事だね」
簡単に笑いかける老人につられて、僕もつい笑ってしまった。
「それが難しいんですよ」
何も考えない、なんて狂っている。そうして得るかもしれない挫折や羞恥が怖くて、不安で仕方がないのだ。そうして怯えながら歪んだ思考で考え抜いた結果が、この花壇に表れている。
僕の性格はおおまかに、慎重なのだろう。だからこそ考えてから行動する傾向にある。そして悲観的で自意識過剰だ。だからこそ考え付く可能性というもののたいていは悲惨なのだ。
良くも悪くも、可能性というものがあるから怖かった。極端な話、太陽を見上げて目が焦げてしまう事があったら、などと考えてしまうのだ。日差しを浴びるのは、ただ温かくて心地が良いだけじゃない。
花が咲いてから枯れていくかもしれない。期待を裏切るような雨が降り出して花壇を滅茶苦茶にしたり、急に花びらが散ってしまう事が無いとは言い切れない。断言できる自信など全くない。それが駄目だったのかもしれない。少しくらい強情で良かったのだ。きっと。
この結論に辿り着くのは何回目だろうか。少なくとも一回だけじゃない。
ふと気が付けば老人の姿が無かった。
…そもそも、老人など居なかったのかもしれない。僕はきっと、自問自答でもしていたのだろう。今の自分にとってそれが必要なのだと思う。何度も繰り返してきた問いに、何度も同じ答えを出し、何も起こらない。それを繰り返すのが自問自答だ。では、どうして老人の姿だったのだろうか。
大事そうに壊れたアザレアを抱えていた老人。やけに寂しくなる絵面だった。
「この花はもとに戻らない」、と言いながら大事そうにそれを抱えて、過去を懐かしんで、悔しそうにも見えた老人はきっと僕だった。
自分が不甲斐ない、と思ったのだろう。
でも、仕方がなかったと思うのだ。
あの花はとても美しくて、当時の小さい掌に収まるのに持て余しそうで、大事に抱えても零れていきそうだった。
そんな綺麗なアザレアが僕の方を向いて、咲いていたのだ。
ただ手を差し伸べて摘み取ってしまえば良かったのに。
大切に想いすぎて、慎重に考えすぎたのかも知れない。自分の方を向く花を大事にし過ぎて、空回りして、結果壊してしまった。
悲惨な可能性が頭の中を回り続けた結果だ。
でも、どう考えても、その美しい花と僕とでは不釣り合いだったから。
僕の許で咲かれても、困るのだ。