坂東蛍子、桃園の誓いに立ち会う
轟は昼夜カーブミラーの前に座り、己とは何かを問い続けている野良の三毛猫である。彼の人生の目的は今や自己探求のみであったが、日々同じ所で微動だにしない彼を面白がる人間たちに妨害され、おちおち瞑想も出来ない毎日を送っていた。最近参拝者(轟は自分を有り難がり手を合わせたり供え物をする人間をこう呼ぶ)が供えた雑誌を読み込み周囲の雑音を消し去る自己催眠法を体得したおかげで、ようやく哲学の道を一歩前進することが出来たが、それでも未だ雑音を完全に消去するには至っていなかった。雑音にも色々ある、と轟は頭を抱えた。弱い雑音もあれば、強い雑音もあるのだ。中でも手強い雑音は本当に手がつけられず、逃れられない魔弾の射手の責め苦に轟は為されるがままとなっていた。例えば坂東蛍子という女子高生。あるいはマツという幽霊。豆腐屋の小僧。轟は宿敵達の顔とその蛮行の数々を思い出し顔を顰めた。
ふと我に帰ると、轟は自分の前に誰かが立っていることに気付いた。伸びている影を追い頭を上げ、こちらをジッと見ている男と目が合った時、轟は顰めた顔をさらにくしゃくしゃに歪めた。こいつは確か坂東蛍子の友人だ。以前近場の公園で騒ぎを起こしたおっさんじゃないか。
「よお」
剣臓はブサイクな顔をしてこちらを見上げている猫にひとまず挨拶をすることにした。猫が自然な動きで目を逸らす。やっぱりコイツ、と剣臓は思った。コイツ自我があるな。
剣臓は以前からこの道を通る度に、ミラーの前に居座っているこの不思議な猫を観察していた。幸い彼には動物学の心得があったので(彼は脳科学と生物学の研究内容や先見性を買われてスカウトされたCIAの職員である)、比較的早い段階から轟の挙動の違和感には気がついていた。今日はそれを確かめるべく、また対話を試みるべくこのカーブミラー前にやってきたのだ。
剣臓は一先ずこの猫をデジおと呼ぶことにした。デジおは先程から頑なに視線を逸らしている。以前剣臓は喋るぬいぐるみと関わったことがあり、そこで初めて人間以外の知性の可能性について深慮するようになった。「我々は国際ぬいぐるみ条例によって人間との接触を禁じられている」とそのぬいぐるみは言っていた。もしかしたら猫の世界にもそういった物があるのかもしれない。一筋縄では行かないだろうな、と剣臓は腕捲りをしてデジおの前にしゃがみ込んだ。
「お前今目逸らしたろ」
猫はビクっと肩を浮かせたが、またすぐに石像のように停止した。
「お前今俺の言葉の意味理解して反応したろ」
デジおは動かなかったが、銅色の瞳だけは忙しくキョロキョロと動きまわっていた。動揺の色を濃くするデジおの傍らで、剣臓の興奮は次第に強まっていた。今自分は初対面の猫と言葉によるコミュニケーションを成立させている。もうひと押し、何かこの猫の意識を証明する何かが欲しいと剣臓は頭を捻って考えた。
「そういえば、どうしてお前にはそこまで高度な自我が芽生えたんだろうな。全ての猫がお前みたいなわけじゃないんだろ」
自分の言葉を理解している前提で続けられる剣臓の話に、轟は半ば観念して耳を傾けていた。轟はこの能天気なのか天才肌なのか分からない男のことがそこまで嫌いでは無かった。自分と同じ哲学を探究する者特有の匂いを感じたからである。マタタビとカツオブシを混ぜたような匂いだ。
「三毛猫のオスという所に理由があるんかね。染色体異常の賜物だろうか」
三毛猫は染色体の関係で、原則としてオスが生まれることはない。そのため極稀に生まれるXXY染色体のオスは重宝され高値で取引されたりもするのだ。剣臓は遺伝子の特殊な構成が猫の精神に何か特別な異常を生みだしたり、脳の発達を助けたりしたのではないか、と仮定した。
「なぁ、どう思うよ?」
剣臓の問いに轟は答えることにした。先程この男が自分のことを考察した際の言に「異常」という言葉が混じっていたのが少し癇に障ったのである。轟はそれまで逸らし続けていた目を一旦剣臓に向け、しっかりと視線を合わせた後、剣臓の後方にあるカーブミラーを仰ぎ見た。剣臓は猫の意図するところを察し、自身の背後を振り返って、もう一度轟と目を合わせた。轟に向き直った剣臓は驚きで目を月のように丸くしていた。自分に同意を求めている感情を彼の表情から感じとったデジおは、返事をする替わりに無言で見つめ返した。
「マジでか・・・ミラーを見て自己を発見したのか・・・!」
剣臓は声を裏返しながらたまらず笑った。それは予想外の回答への驚きによる笑いでは無く、猫と完全に意思疎通が図れている実感による感極まった笑いだった。剣臓は自分の人生を走馬灯のように駆け足で思い返していた。生物と哲学を研究し始めて長いが、今までの人生でこれほどまでの感動はあっただろうか。いや、ない!今日は記念日だ!人類は孤独では無かったのだ!
「よし!一杯やろう!そこのコンビニで酒買ってくるから!待ってろ!」
15%以下のものは飲まないぞ、と轟は遠ざかる剣臓に尻尾を振った。
「あなた、自我がありますね」
轟はビクっと全身の毛を逆立てて、新たな珍客を仰ぎ見た。今度やってきたのは先程の男とよく共に行動している長身の若い男で、生気の無い無表情でこちらを見下ろしている。今日は何て日だ、と轟は思った。今まで一度も人間に自分の特別な高尚さを悟られたことが無かったのに、三分で二度も看破されるとは。しかもあの坂東蛍子の一派の連中に。轟は自信が無くなってしょんぼりと耳を垂らして嘆息した。
「やはり。脈拍が極端に早くなりましたし、今度はセロトニンが分泌された」
痩身の巨人は膝を折り、轟の前に座り込むと、手に提げていたビニール袋をゴソゴソと弄り始めた。
「私はタクミと言います。ロボです。自分以外の非人間と意思疎通が図れて嬉しい」
これはお近づきの印です、と轟の前に開封したさきいかを置いた。轟は今一状況が呑み込めずにいたが、先程と比べると心なしか嬉しそうな顔をしているタクミを見て「この人間も色々苦労しているんだな」と目を閉じて同情し、さきいかを咥えた。
「勿論、貴方のことは秘匿します。その代わり、私の賄賂も機密にして下さいね」と、タクミは真顔のまま先日覚えた“人間風ジョーク”を披露し片目をバチンと閉じた。
「あんたたち、何やってんの」
昼下がりに公道の真ん中に座り込み、野良猫に酒とつまみを勧めて歓談している剣臓とタクミを見て、坂東蛍子は鞄を落とした。