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 二日おき六時に更新

 わたしの朝はいつも七時半を過ぎたあたりから始まります。それから四時までつらい学校生活を乗り切って、もちろんすぐに放課。誰にもどやされないように、びくびくしながら帰宅します。

 夜は日付が変わるころまで起きていても翌朝まで八時間近く眠れてしまいますから、遅くまでポケットクリーチャー集めに夢中になっていても問題はありません。帰宅して少し寝てから復習と予習、夜はお母さんのおいしいご飯を食べてから、眠くなるまで電子ゲーム。まぁ平均的な中学生の余暇の過ごし方といえるでしょう。

 その日は何故か。家に葦原アイが入ってきていました。放課後帰宅してさて夕寝でもしようかと思っていると、アイからメールが届いたのです。

 『家の傍まで来てるんだけど寄ってっていい?』

 面倒だったので返信せずにそのまま寝たら、ほどなくして家のチャイムが鳴りました。早出して帰ってきたお母さんかと思って出て行くと、そこにはわたしの母とは似ても似つかぬ下品な体格をした女が笑顔で立っていました。

 「返信ないから来ちゃった」

 返信なかったらくんな。

 追い返すようなガッツのあるわたしではありません。わたしはしぶしぶ夕寝を諦めてアイを家に入れました。なんだか負けた気分です。

 「どうして来たんですか?」

 わたしが訪ねると、アイは少しだけおずおずとした様子で

 「えっと……来ちゃ迷惑だったかな?」

 「わたしの睡眠を妨げたものはたとえ敬愛する両親であっても半日は許しません。これじゃ今晩夜更かしができないではないですか」

 「いーじゃん早めに寝れば」

 迷惑かと聞いた割に、アイはからからと笑います。この女、最近ふてぶてしくなった、いや馴れ馴れしくなってきやがりました。

 例の給食当番の件……ワイこと園山祝がアイに自分の役割を継続して押し付けようとしたあの事件ですが。アイはこれを不恰好ながら自力で解決することができていました。『今日もお願いね』と、にやついた顔で宣言する園山に、アイは顔を真っ赤にしていったのです。

 『あたしは高貴な吸血鬼なのよっ! くだらない人間のいうことなんか聞くもんですかっ!』

 あれだけ大声を張り上げれば、流石に園山もぽかんとしたものです。それからアイは学級委員の樋口英子さんに入れ知恵、もといアドバイスされたとおり、わめく園山を無視して教室を去りました。

 園山が追って来ないのを見て、アイは『怖かったぁ……』とわたしにすがり付いてきたものです。その時ばかりはわたしも意趣返しとしてアイの頭を撫でてあげましたが……それはともかく。

 そうやって自力でいじめを克服できたことが、アイの中で一つの自信になっているのか……最近どうも彼女はわたしに対しても大きく踏み込んでくるのです。それはもううっとうしいくらいに。わたしにとってのアイがそうであるように、アイにとってのわたしは今のところ唯一の友達でしょうから、べったりしてくるのは無理もないといえばそうなんですが……。

 「レベルあげてりゃ良いってもんじゃないんですよ3値も知らない素人風情がっ。もちものもないようなこんなクソパーティ一匹で十分ですっ。ほらっ! リーフブレードっ!」

 「わ……わぎゃーっ!」

 わたしは鍛えに鍛えたポケットクリーチャーでアイを粉砕しました。わたしがここ数日をかけて最高の個体を粘ったヘビ型クリーチャー、ニックネーム『おろちまる』の性能は抜群。アイの選出に刺さってばっちり3タテしてやりました。

 いえい。

 「これに懲りたら挑戦してこないことですね……。素人はチャレンジアイリスをレベルでゴリ押して、それで満足してりゃ良いんですよ。はんっ」

 『硝子ちゃん、これ好きって言ってたよね?』とアイが取り出したゲームソフトは、わたしが小学生の時からやりこみを続けている人気シリーズのものでした。『あたしも最近ハマッてるんだーっ。ちょっと通信対戦しようよ、あたし強いんだよ? レベルがもう……』とか言い出すので軽くコテンパンにしてやりました。爽快です。

 「ひ……酷い。あたしの育てたラッコちゃんが……レベル100まで届いてるのに……」

 「50フラットなんだから無駄ですよそんなもん。もっともその弱点の偏った構成なら、パーティそのままでレベル無制限にしても負ける気がしませんが……。どうです? まだ続けますか?」

 アイはそこでしょぼんとした格好で「いや……いい」といじけました。ふむ、ちと大人げなくやりすぎたかもしれません。

 「しかし葦原さん。この子、どうしてレベル89にもなって、まだ最終形になってないんですか? ちゃっちゃと進化させちゃえば良いでしょうに」

 わたしがいぶかしく思って尋ねると、アイはいじけた調子のまま

 「……買ったの中学にあがってからだもん。交換してくれる友達なんていなかったのよ」

 とさめざめと言いました。

 彼女の愛用している岩石型のポケットクリーチャーは、同一ソフト二つの間で行えるクリーチャーの通信交換を行うことで、新しい姿へと進化するよう設定されています。ですが、どうやらアイはそれを行う術を持たないようですね。

 「なるほど……あなたは本体を一つしか持っていないのですね」

 わたしが言うと、アイは「へ?」と妙な表情を浮かべます。

 「わたしはお父さんにおねだりして二つ目を買ってもらって、通信交換ができるようになったんですが。そんな贅沢、誰にでもという訳にはいきませんよね。いやはや、あくどい商売ですよ。ゲーム機を二つ買わなければ楽しめない要素をゲーム内に入れておくなんて……」

 「DS二つ買ったの? 硝子ちゃん、それちょっとちがくない? ふつう、同じソフト持ってる友達同士で交換するもんだよねそれ?」

 「なに言ってるんですか? そんなの一緒に遊ぶ友達がいる人だけの話でしょ? わたしたちには関係のないことです」

 「当たり前みたいに言わないで硝子ちゃんっ。今はあたしがいるからっ。むしろ今のあたしには硝子ちゃんがいるからっ! できたらちょっとあたしの『ギガとん』の進化に協力して欲しいかなぁなんて。できたらそっちのロムでしか出ないクリーチャーを、あたしに分けてもらえないかなぁとか」

 「いいですけど。あげれて不一致3Vとかまでですよ。せいぜい親にしてください」

 「う、うん。良くわかんないけど野性で捕まえてきてくれたら良いよっ! あたしのもなんかあげるから」

 「ほう……ではそのかわいいクラゲちゃんを……」

 六時ごろまで遊んでたらお母さんが帰ってきて、娘にもやっと友達ができたと喜ばれました。娘の友達は美人だとお父さんも大喜び。実態を知ったらさぞ悲しんだことでしょう。


 アイに日課の夕寝を妨害されたわたしはいつもより一時間早く床に着きました。夕寝をできなかった分夜に余分に寝かせてもらおうという寸法だったのですが、いつもよりだいぶ早い時間にお母さんによって起こされてしまいました。

 「お友達が来てるわよ」

 あいつめ……ということでパジャマから着替えて出て行くと、案の定アイがこちらに向かってにっこりと手を振っていました。

 「おはよう硝子ちゃん。遅刻しちゃうよ」

 『遅刻しちゃうよ』の部分は言ってみただけでしょうに。

 「ちょっと早いんじゃないですか? わたしはいつももう三十分は寝ているというのに。あなたと来たら」

 「ごめん。硝子ちゃんがいつごろ家出てるのかあたし知らないし。早目に来て見たんだ」

 「迷惑です」

 「硝子……友達にそんなこと言わないの」

 お母さんに叱られてしまいました。あう。

 「……朝ごはん食べてくるから待っててください」

 「うん。分かった」

 アイは満面の笑みで言いました。さて。登校時まで付きまとわれるとは、流石にいかがなものか。


 登下校を共にすると言う感覚は……それはもちろんわたしにとって、馴染みないものではありません。小学校くらいまではそういうことをする友達もいましたから。

 ですがそれっきり、わたしにとって朝学校まで向かう時間は、とぼとぼと一人きりで孤独と恐怖感、憂鬱感を引き摺ったものでしかありませんでした。煩わしく憂鬱な学校と言う場所に向かうまでに、じっくりと苦悩と相対し諦めに似た悟りを得る時間……だったのですが、こんな煩わしい友人を隣に連れ出つ羽目になるとは。

 「あれ? 硝子ちゃんが自転車乗ってかないの」

 「持ってませんからね」

 「……もってないって? まさか、エックスとかいう奴に壊されたとか」

 「違いますよ。本当に、最初から持ってないんです」

 と、自転車を押しながらわたしの隣を歩いてもらっているアイに、わたしは言いました。

 「持ってないって? こっから学校まで結構遠いよね? 毎日歩いてるの?」

 「ええそうですよ」

 「なんで?」

 「乗れないんです、わたし、自転車」

 「……え?」

 アイは信じられないというような様子で呆けてしまいました。

 「人一倍こらえ性がなくてですね。自転車の練習と言うのをお母さんとしたことがあるのですが、小学一年生の時に挫折を味わって以来、二度とあんな危険で不安定な乗り物を使ってたまるかと誓っているのですよ」

 「で……でもみんな乗ってるし、速いし……」

 「みんなが乗ってることがわたしも乗る理由にはなりません。そして、自分の足で歩いても目的地にはたどり着けます」

 わたしがそういうと、アイはおずおずと自分の自転車の荷台を指差して、「乗ってく?」と提案しました。

 わたしはそこで、お父さんの運転するバイクの後ろに乗った時のことを思い出しました。風を切る感覚が爽快で、なかなかスリルがあっておもしろかったことを覚えています。……悪くないかもしれません。

 「地獄じゃ炎馬も乗りこなしたからね。自転車の二人乗りなんてお手の物よ」

 ……それを聞いて思いました。このアンポンタンに任せたら、スリルじゃすまないかもしれません。こういう吸血鬼云々の妄想が出るときは、たいてい彼女が不安や緊張を感じている時です。つまりこの子は、二人乗りなんて経験がないということなのではないでしょうか。

 「遠慮します」

 「どうして? 校則違反だから?」

 「それもありますし……わたしは他人のことはそんなに信頼しない主義なんですよ。だからわたしを乗せた状態であなたが転ぶというリスクに対し、恐怖して『あぴゃー』とか『うっきゃぁー』とか叫んでしまう可能性があります。それは嫌です」

 「いいから乗りなって。遅刻するよ」

 だから遅刻までには時間がありすぎると言うか、早く行き過ぎても人の目を気にする時間が増えるだけというか……。しかしアイは聞きませんでした。意地になっていたのかも、しれません。

 「あ……あぴゃぴゃっ! うう。うっ。きゃーっあぁああ!」

 わたしはアイの後ろで叫び続けました。登校しきるまで。ずっと。


 学生の本分は勉強とは言います。

 中学で習うちゃっちぃ授業内容におもしろいことは一つもありません。ただ覚えることが多くて煩わしいだけの話です。ですがそれも高校ないし大学から始まる本当の勉学の基礎の部分であって、それなりに重要ではあるのでしょう。お母さんがそう言っていました。

 ですからわたしは昔の人が退屈しのぎに書いた古文を読み解いたり、わざとかと思うほど回りくどい教え方しかしてくれない英文法を覚えたり、複雑なばかりで使うアテのない数式を途中で投げ出したりして、日々の勉学に勤めているのです。うちの学校はそこそこ進学に力を入れていますから、学力テストは割としょっちゅう行われ、成績上位三十名ほどが廊下の掲示板にさらし者にされます。

 その日は学力テストの結果発表日で、朝から上位成績者の名前が廊下に張り出されていました。ここに載らないそれ以外の二百余名は、また後で個別の成績表でという訳です。

 「葦原さん、結果はどうでしたか?」

 と、わたしは友達としてアイにそう尋ねてみました。わたしはクラスのみんながテストの結果を教えあって比べあう様子を見て、そんなことをして良く友情に亀裂が入らないなと思っていたものですが。……まぁアイとならそんなことにもならないでしょう。

 「どうかな……。調子変わらないから多分いつもどおりだよ、多分、上の中くらい」

 「そうですか」

 あんたが上の中くらいな訳ないじゃないですか。とは言いませんでした。

 「えっと……載ってるかな。あ……あったあった。あったよ硝子ちゃんっ!」

 「良かったですね」

 わたしは首を振って言いました。

 「見てよこれ、硝子ちゃんの名前っ。二十九位だって。すごいじゃない」

 んな右下の方のをわざわざ探してきて大声で言わないでください。

 「どうして人の名前を先に探し出しますか。っていうかあなたに他意はないでしょうけどそれ、嫌味に聞こえるかもしれませんよ」

 「なんで? ここに張られてるってことは、いいってことでしょ?」

 「確かにわたしの名前がここに載ったのはもうしばらくぶりですから……。まぁちょっとはうれしいですし、あなたに祝福されて気分を良くしてもいます。ですがね、覚えておいてください。人に嫌われないための方法として、自分より下の人を褒めちゃいけないんです」

 アイの名前は成績表のもっとも左上にありました。それはつまり、アイはバカそうに見えてこの学校だと学年一位なんですね。それもダントツで。

 名前を聞けばだいたいの人がピンと来るような私立進学校に通い、そこで上の中程度という成績をとっていたアイです。こんな田舎の公立に流れれば、トップになるのは嫌味ったらしいほど当然の結果でしょう。

 つか。あの意味わかんない問題しか出なかった数学で満点取るとか、訳が分かりません。国94数100英88理95社79で、五教科中四教科が学年トップ……これまでの成績上位者にとっては、ちょっとした災害であると言えるでしょう

 「ふふふ……我ら吸血鬼が人間風情に遅れをとるとでも思ったか。……だけど、暗記系……っていうか社会がだいぶ落ちたなぁ。英単語も分からないのが出てたし……ええと、もうちょっと近くで……」

 あまり人の輪の中に飛び込むのが好きではないわたしたちです。当然、成績表も遠巻きに眺める程度だったのですが、アイはトップになれたことが嬉しいのか成績表に近付いていきます。

 そこで……わたしはあることに気付きました。

 「もういいでしょう。あなたがあんまり長くここにいすぎても嫌味なだけです、さっさと教室に……」

 順位表に近付くアイをとめようと手を伸ばしたところで……間に合わずアイは息をのみました。

 最も左上に書かれたアイの名前の傍に、シャープペンシルで軽い落書きがされているのです。それは近くで良く見なければ分からないものですが……まぁアイは見てしまったんですね。

 『↓(やじるし)先生にカラダ売って、答え教えてもらってるんだって(笑)』

 アイはその場で硬直し、顔を青くしました。

 成績表の周囲でたむろしていた生徒たちが、一様にくすくすとこらえたような笑いを浮かべます。それからひそひそ話を交わしながら、嘲るようにアイの傍から離れていきます。

 ……なるほどそうだったのですか。いやはや、あなたが本当に陰売だったとは。あなたの品のない胸部を持ってすれば簡単でしょうけど、お体は大切にした方がいいですよ?

 ……なんて。いつもみたいにわたしがからかえる訳がないんですよね。アイは本気で嫉妬を帯びたそのメッセージに衝撃を受け、繊細な心を痛め、傷ついていたのです。想像力に過多なところのあるアイには、この誰が書いたのか分からないところが良く堪えます。それをこれまで何人もの人が見つけ、指差してくすくすと笑う様子を想像し……アイは真っ青になっているのでしょう。

 「葦原さん」

 わたしはアイの肩に手を置いて言いました。

 「こんなのにいちいちショック受けててもしょうがないですよ。ただの嫉妬でしかないんですから。こんな時こそ吸血鬼です。鼻で笑っていてください。ほら」

 「そ……そうだよね」

 アイはそういうと、ぎこちなく笑いながら言いました。

 「高貴な魔族に無粋な噂はつき物……。這い蹲ってひそひそ噂していなさい人間ども……どうせあたしたち高位の吸血鬼には追いつけないんだから」

 その息です。

 わたしはそのままアイの手を引いて、例の倉庫室に連れて行こうとしました。どうせ今教室に入っても、クラスメイトはアイにささやきと嘲笑で追い討ちをかけるだけでしょう。バカにされているはずの転校生が、学力テストでは極めて優秀な成績を取った……わたしもあまり性格の良い方ではありませんから分かります。これを、気に入らないと言う人は、おそらくたくさんいるはずでしょう。

 ですが。時間が立てばアイの実力を認める人も出てくるはずですし、それはアイという人間そのものを認めることにもつながります。だから今は耐えていてくれれば良いのですが……。

 そう思っていると、アイを遠巻きに眺める人たちによって、寂しくなった順位表に男の子が一人、近付いてきました。

 「……ユウ?」

 それはぽっちゃりとした体格の、わたしほどじゃないですが背の低い男子生徒でした。薄汚れところどころ破れて修繕の痕のある制服で、髪の毛を寝癖でぼさぼさにした少年で……わたしは彼のことを良く知っています。

 アイが来るまで、たいていは学年一番の成績を収めていたその男子生徒。花畑家雄介というけったいな名前をした『ユウ』は、順位表の前まで来るとポケットに手を入れて、ここに来るまでにそうすることを決めていたかのような自然な動きで、アイの名前の上の落書きを消しゴムで消しました。

 「……あっ」

 アイがそれを見て口から息を吐きました。

 それから雄介はやや魯鈍な印象を与える緩慢な動きで無言のままきびすを返すと、その行為をはやし立てる声の中を立ち去って行きます。

 「……あれは」

 よくないですね。とてもよくないですね。わたしは絶対やりませんねあんなこと。自分の中の哀れみの感情を満たしたいなら、誰もいない時にそっとやるべきなのです。増して……あのやり方では誰も幸せになりません。

 「ユースケよ、おまえ。吸血鬼のこと好きだったりするの?」

 雄介くんは何故そんなことを言われているのか分からないとばかりに目を見開いて、「エ……エェ?」と、彼独自のどうしても他人の嗜虐心を煽ってしまう声を出しました。

 「葦原さん」

 わたしはさっきまでより強くアイの手を引きました。

 「さっさと引き上げますよ……なるべく迅速に。早く」


 いじめにあう人の特徴について考えてみましょう。もっとも身近なサンプルは、もちろんわたし自身です。

 この手の自己批判は二年生になって落ち着いた時間が取れるようになってから、何度もしました。どうして自分があそこまで酷い状況になったのか……知っておくことは重要そうでしたから。

 まず一つ。わたしは孤独な性質です。口下手で、気持ちを隠したり、相手に好かれる為に思ってもないことを口にしようとすると、笑われるほどぎこちなくなってしまいます。ぬけぬけと言いたいことをぶちまけている方が楽で、誠意に欠けることでも平気で言います。ですからなるだけ黙っている方が安全。つまり無口で協調性もなく話せば根暗ということになりますから、どうしたって人に好かれようがないのです。

 もう一つはよわっちぃこと。チビでいじめやすそうな外見をしている上、消極的で事なかれ主義ですから、攻めるに安しと思われてしまいがち。ですからわたしは、常に細心の注意を払った立ち回りを要求されるのです。……自己批判終わり。

 次に葦原アイ……これはわたしよりは悲惨ではないでしょうが、それでもられっこ的キャラクターには違いありません。キモいイタいサムいの三拍子揃った吸血鬼設定が目を引きますが、本当の弱点はそこではありません。

 奴は阿呆です。自分に悪意が向けられるなんて、想像することもできないような、昼行灯なところが彼女にはあります。吸血鬼として振舞えば本気で一目置かれると思っているほど純粋。腰が引けている癖、軽率で人をすぐに信じてしまい、感情的で傷つきやすくうろたえやすく、からかい安い。……ようするにおめでたい人なんですよね。

 その人懐っこさと邪気のなさがうっとうしいと思われてしまうと、もうアウト。その上で才色兼備でやたら目立ちまくるという……。運が良ければ受け入れられ、純粋な明るさで愛されるという道もあるのでしょうが、そう簡単には行かない場合ばかりです。

 そして三人目のサンプルケース……彼はわたしかアイかでいうと、おそらくアイに似ているでしょう。能力が高くよく目立ち……ですが本質は気弱で従順というタイプ。

 わたしがそんな風に一人思索に耽っていたのは、午前中の学年集会でのことでした。学力テストの結果に基づく、今後の勉学への取り組みについて……とまぁ、テストの結果を突きつけられた上から、釘まで刺されるという非常に気の滅入るスケジュールとなっていました。

 勉強のこと三割クラスでの立ち回りのこと七割でぼんやりと船を漕いでいると……唐突に隣のクラスの列から嬌声のような声が響き渡りました。

 「オマンコーっ!」

 それはあまりにも悲痛な、胸が引き千切れそうなくらい凄惨な叫びでした。

 『ユウ』こと花畑家雄介がそう叫んだのを見て、周囲のクラスメイトたちがけらけらと嘲るように笑っています。男子生徒特有の、下品なことを言わせる遊びの……相当酷い奴のようでした。

 雄介は今にも死にそうな顔をして俯き、周囲からの嘲笑の声に耐えています。体育館中は唖然として雄介の方にさすような視線を向け、何かいいたそうにじっと目を丸めていました。「サイテー」とどこかで声が響いて……後はもう傍で聞いているのも地獄のような、そんなささやきに包まれます。

 わたしは顔を伏せて、耳を覆いました。

 「今のなに?」「またユースケだって……キモーい」「言わされてるんでしょ? ……それにしたって……ねぇ」「悲惨だよなアイツ。マジ終わってるってカンジ」「っていうかよ。バカにされてるのは分かるけど、どうしてあそこまで従うかね? バカだろ?」「でもちょっとおもしろくない?」「分かるわ。もっとやって欲しい。退屈だもんな集会」「あいつもう死ぬんじゃねぇの? っていうか死んでくれないかな? あいついなくなったら俺の順位一つあがるし」「でもアイツ今回二位だってよ。吸血鬼に負けたとか」

 こんな感じの陰口が……明らかに聞こえよがしな大きさで、あちこちから聞こえてくるのです。その恐怖感は味わったものにしか分からない……世界中が敵に回っていて、その中で自分は既に完全に屈従させられていて、後はただなぶりものにされるだけ。自分がなぶられるのを、体育館中の人間が期待してにやにやと見詰めている……。

 生徒指導の先生が一括し……それで喧騒は止みました。すると今度は校長先生が……何事もなかったかのように勉学について話を再開します。……学問に王道はなし、ただひたすら、コツコツと努力せよ。耐え、忍び切ればその先に希望はあるはずだ……。

 今が本当に苦しいと希望なんて持てないんです。絶望した人間が一人で救われるのに、狂う以外に方法なんて、ありません。


 「ね……ねぇ。さっきのなんなの?」

 給食の時間中、おずおずとわたしにそう尋ねるのはアイでした。

 アイは先ほどの集計の一件の後、明らかに雄介のことを気にしてきょろきょろしてました。自分に対して向けられた中傷的な落書きを消しに来た親切な男子生徒……アイには彼がそんな風に写っているんでしょうね。

 「なんであの人、あんなこと言わされてたの? わたしへの落書きを消してたから?」

 「それはさほど関係ないでしょう。っていうかあなたやっぱりおめでたいですね。ひねくれものの視点から言わせてもらいますよ。あの落書きは教師にばれないよう後で消すため、シャープペンで書かれていたものです。つまり、あの落書きを消しに来たユウこそが犯人である……という風に考えられなくもなさそうなものですが」

 「そんなのってっ!」

 アイが憤慨したように言いました。

 「あなたは人を簡単に信じすぎるんですよ……。ユースケだって、いじめっ子に命令されればあなたに攻撃を加えてくるはずです。男子生徒の中では彼はもっとも悲惨なられっこですが、だからって無闇にシンパシーを感じていると裏切りに会いますよ」

 ……そう。裏切りに会う。

 「それは。わたしと葦原さんの関係にも同じことが言えます。それをくれぐれもお忘れなく」

 「違うっ! あたしは硝子ちゃんのことを裏切ったりしないっ。絶対にだよっ!」

 ……ずるいですこの子は。ここまで空虚な台詞を口にして、うそ臭くならないなんて。

 「ありがとうございます。……あなたは本心からそう言ってくれているのでしょうね。ですが、本当に追い詰められて裏切りを求められる状況になった時に、その気持ちは簡単に覆ります。それは決して気持ちの良いことではありませんが……仕方がないと割り切ることならできます」

 「じゃあ。硝子ちゃんはいつあたしが裏切っても仕方ないと、割り切ってるんだねっ」

 アイは目尻に涙を浮かべ、訴えるように言いました。

 「そんなのってないっ!」

 わたしは溜息を吐きます。

 「……あなたがわたしに感じてくれている友情に対し、失礼なことを言ってしまったのは謝ります。分かりました。そして……ありがとう。ですが、わたしのことを信用するのはやめてください」

 「どうして……」

 「裏切るからです。わたしは平気であなたのことを」

 「あたしは、硝子ちゃんがそういう人だと思えない」

 「思われてたら困るんですよ。答えることができませんから……。いいですか、実際にわたしは……過去に親友を裏切ってしまったことがあります。それもこっ酷くむごい形でね」

 わたしがそういうと、アイはさも信じられないというように……本当にバカですねこの子は……息をのみました。

 「小学生の頃です。ずっと昔のことのようにも思えますが……まぁほんの一年ちょっと前のことなんですね。わたしのクラスにはいじめがありました。首謀者はおなじみワイこと園山祝です。と言ってもその教室にはまだエックスのようなサディストはいませんでしたから、良くある無視とか陰口程度です。ですが当時のわたしはそれが、怖くて仕方がなかったんです」

 「……そうだろうね。分かるよ。どんな内容だって、いじめられてるって立場は、それだけで死ぬほどつらいもんね」

 アイが素直にそういいました。彼女はこういう弱音めいたことを、自分からは決して言いません。

 「しかしわたしはチビでノロマですからね。九月からはじまったそのいじめは、何人か違った被害者を取った上で……三学期になってわたしに向かいました」

 「……それでどうしたの?」

 「結局、わたしがいじめに会うことはありませんでした。……そのいじめは一人の生徒をクラスから除外することで成立しますから、誰か一人でも標的に味方がついていれば、非常にやりにくいんですよ。……わたしには親友がいました、彼女を仮に『エー』。エーと呼びます」

 エーはとても素敵な人でした。アタマが良くて親切で芯のある、わたしとは正反対みたいな女の子です。彼女がどうしてわたしと仲良くしてくれていたのか……今でも少しだけ不思議なんですよね。

 「エーはわたしを見捨てないでくれました。わたしはそれが無償に嬉しくて……エーが邪魔でやりにくかったのか、ワイはわたしをいじめることをやめました。エーの友情の勝利です。エーは本当に、優しくて、正義で、そして強い人でした」

 ……だけど。だからこそわたしのしたことは。

 「いじめなんかするような人間は、常にいじめなんかやっていないと死んでしまうようにできています。ですからワイもわたしの次に違う標的を見繕いました。ワイが自分に従わないものが嫌いなのはあなたも知ってのとおり……次の標的はエーでした」

 そこまで言うと、アイはわたしのしたことが、おおよそ察しがついたようでした。わたしは軽く微笑んでから、少しだけ露悪的な言い方でこう続けます。

 「ワイがわたしに、エーに対する背反を求めた時に……わたしはいっそ安心していたんですよ。とにかくこれで自分に対する攻撃は止むと。『エーのことをどう思う? 真面目ぶっていて空気読まないし嫌いだよね?』。わたしはこれに……喜んでうなずきました」

 エーが席を立っている時に、園山がわたしにそう声を掛けてきた時……わたしは最初驚いて何を言っているのか分かりませんでした。最初こそは俯いて耐えていましたが……脅迫的に繰り返される文言に、胸倉を掴んで要求される裏切りに……わたしは屈しました。エーから受けた恩も友情も忘れ、ただ怖かったからというだけで。あまりにも卑怯に醜悪に。

 「わたしにエーと同じだけのことをできるだけの強さはありませんでした。その時のエーこそは被害者です。わたしの裏切りでエーは精神的に陥落し……結局三学期の間中、再起することはありませんでした」

 ワイが『サコ、あんたのこと嫌いだって』とエーに付きつけ、わたしはワイににらまれてそれにうなずきました。その後わたしはワイに少しどやされただけで身動きが取られなくなり、関係の修復に望む勇気もないまま一年が終わりました。

 心は冷え切っていた方が、考え方はひねくれた方が楽でした。わたしは何か大切なものが心から抜け落ちていくような気持ちでエーのいない日々を送り、卑怯者のまま中学にあがって、その報いを受けました。

 「わたしが中学に上がるとき、最初のクラス編成でもっとも望んだのは、ワイのような生徒と同じクラスにならないことよりも……エーと離れ離れになることでした。もう彼女とは顔を合わせられませんでしたし、わたしはエーから一生逃げ続けたかったんです。ですが中一のクラス編成でエックスとワイとエーが揃ってしまったものですから、そこから因果応報的にわたしに対するいじめが始まりました。エーはもともと……強い子ですから。わたしのことなんて気にしなければ、どんなグループにでも属すことができます。もちろん、エーの攻撃は、報復を兼ねた執拗なものでしたよ」

 ここまで話して、アイはとてつもなく嫌な話を聞いたとばかりに、苦虫を噛み潰していました。

 いじめにあう人間のすべてが、アイのように清らかである訳がありません。攻撃を受ける恐怖を知るからこそ、隙あらば安全のために攻撃側に回る。だからわたしは、どんなにか酷い目にあおうと哀れみを請うことはできません。被害者面なんてとんでもない。

 そんなわたしをどうぞ軽蔑してください……と、開き直ることができればよかったのですが。わたしは拳を握り締めて震えていました。こんなことを話して、アイに嫌われてしまわないだろうかと……。

 なんでそんなこと、今更気にするんでしょうね。

 この子があまりに純粋にわたしに好意を持つのがいけないのです……わたしはそう思いました。彼女の純粋な笑顔はわたしを狂わせる。冷徹で合理的なプレイヤーであろうとするわたしに、感情というものを思い出させようとしてくるのです。貫き通せないなら、そんなもの持っていても醜悪なだけなのに。

 「硝子ちゃんは悪くない……とは言えないと思う」

 アイはそう、つぶやくように言いました。

 正直な奴ですね……わたしはアイに微笑みかけます。

 「悪いとか、悪くないではありません。そんなことは気になりません。教室は修羅の国です。どんな手を使ってでも、わたしは生き残ります。だからあなたのことも裏切ります、平気で」

 「……自分に開き直るのはダメだよ。硝子ちゃん、本当はそんなことしたくなかったんでしょう? だったら、したくなかったって、ずっと言い続けなくちゃ。したくなかったのにって……次こそはって。言い続けなくちゃ」

 「正論ですね。あなたが正しいです。しかし誰もが正しいことを実行できるほど強いんじゃないんです。だから次こそはなんて言えません。約束できません」

 ですが。

 「もちろんあなたのことを積極的に裏切りたい訳でもないんです。裏切るのはエネルギーが要りますから。だからせいぜい、上手く立ち回ってください」

 お願いします。

 「わたしのために」

 アイは何も言いませんでした。彼女のような真っ直ぐな人間には、納得できないこともあるでしょう。罪を看過しないのはもちろん人の自由ですし、わたしの在り方は欺瞞に満ちています。言いたいことも、気に入らないことも、アイにはたくさんあることでしょう。

 もしかしたら……これで終わりかな。わたしはそう思い……寂しくなりました。それは最早、意外でもなんでもないことでした。

 「話してくれて……ありがとうね」

 しかし、アイはそんな風に言いました。

 「話してくれてありがとう。硝子ちゃん、本当はつらかったでしょう?」

 「なんですか。それ」

 わたしは首を振りました。

 「意味が分かりません……」

 その時、チャイムの音が鳴り響きました。


 給食はほとんど食べられませんでしたが、アイが間食を用意してきたというので、いつもの場所でいただくことにしました。さつまいもチップスと水筒のお茶。

 アイはわたしの告白に対し、明確な答えは出しませんでした。

 もしかしたら、わたしは彼女に過去の過ちを許して欲しかったのかもしれません。ですが、そんなことはエーにしかできないはずで……さらに今度は誰も裏切らないと約束する必要もあるでしょう。アイはわたしの行為を批判しましたし、今のわたしのあり方にも苦言を呈しています。

 それらを含めて、アイはわたしとの友情を続行してくれるようでした。それはありがたいこととしか言いようがなく……わたしは感謝してアイのサツマイモチップスをパク付きました。甘くて安心する味です。

 「あたしはね。硝子ちゃんがあたしのことを友達だと思ってくれている限りは、あたしも硝子ちゃんの友達でいたいの。何があってもね」

 「昼行灯のあなたらしい考え方です。でもね、そういう人はたいがいは『友達』の言葉を後ろ盾に、都合よく利用されて捨てられるものなんですよ」

 友情には友情で答える、対価を望まない。それは友達を選ばないということにつながり、だからその関係は希薄でご都合的なものとなりがちです。わたしは彼女のことは好きですが、アイとははじめそういう関係を望んでいました。そういう関係にしかできないだろうとも。

 「あはは。そんなことする人は、あたしのことを本当に友達だなんて思ってくれてないって。そういう人は、あたしだって嫌い」

 覚えがあるような言い方で、アイは少しだけ空虚にそういうと

 「でも硝子ちゃんのことは好きだよ。硝子ちゃんはちゃんとわたしのこと、大切な友達として見てくれてるから」

 「友達だと思ってますよ。捨てる準備も捨てられる準備も万全ですがね」

 そんな空虚なやり取りをして……チャイムがなり終わるのを聞いて立ち上がります。つかの間、休息でした。

 その時。わたしは目がなれた暗闇に油断して……足元のダンボールに滑ってぺたんとその場で転んでしまいました。またひさしぶりにノロマを発揮したなと思いながら、起き上がろうともがいていると

 「はい。硝子ちゃん」

 と、アイが自然にこちらに手を差し伸べてきました。

 ……そう言えば、最初に彼女に友情を持ちかけたのは、わたしだったような。そんなことを思い出しながら、わたしはその手をつかみ返しました。


 下校時間というものは安堵と幸福に満ちていなければなりませんが、その日は違いました。

 他のクラスに遅れること数分、アイと連れ立ちながら教室を出てそそくさと逃げ帰っていると、校舎の一階を歩いている途中にわたしたちはそれと遭遇しました。

 二人の背の高い男子が、神輿を担ぐかのように一人の男子生徒を肩に抱えています。彼らの周りには男女問わず大勢の観客が押しかけていて、とうてい間を縫っていけるような状態ではありません。靴箱にいたる廊下の前に陣取ったその神輿を注視すると……案の定持ち上げられているのは『ユウ』こといじめられっこの雄介でした。

 わたしたちの学年の男子の間では『ユースケにするぞ』という文言があります。気弱な男子生徒を一発で従わせる効果を持つこの言葉の意味は、学年一のいじめられっこの雄介のように酷い目にあわせるぞということなのでした。

 では『ユースケ』にされた男子生徒がどんな目にあうと言われているのか……それは目の前で展開される光景を見れば誰だって理解できます。

 ユースケはズボンを脱がされ、パンツを頭からかぶせられた悲惨極まる状態で、二人の男子生徒に抱え上げられていました。むき出し状態でさらし者にされた尻には、何か黒いもの……おそらくマーカーが突き立っています。

 わたしは息を呑んで、呆けた状態でその場に突っ立っていました。

 それを見た生徒は、一度は誰もがそうなるでしょう。たいていの生徒は俯いたまま背を向けて立ち去っていくか、はやし立てるようにして集団の中に混じっていきます。わたしはいっそ吐き出したいような気持ちになりながらも……すぐにその場できびすを返しました。

 ……ダメだ。何かできると思ったら絶対にダメだ。わたしは合理的で冷徹なプレイヤー、今すぐアイをつれてここから離脱するべきなのです。

 「なんか字ぃ書かさねぇ?」

 男子の一人がそう提案する声が響きます。彼が雄介にさせようとしていることが、わたしには鮮明に想像できました。どんな卑猥な単語を書かされるのか……それはいったいどれだけ無様な姿なのか。

 「あんなのって……」

 アイが口を被ってそうつぶやきました。

 「ちょっととめてくるっ!」

 ……っ! そう言って、アイはわたしの傍から離れて集団の方に飛び込んでいきました。

 「この……阿呆っ!」

 わたしは振り向いて集団に紛れていくアイを追います。いじめ会場の盛り上がりは最高潮……そこにアイなんかが加われば先は地獄でしかありません。

 どうしてもアイをとめなければなりませんでしたが……わたしはその姿を見て足を止めてしまいました。

 いじめに加わっている集団の中に、隣のクラスに在籍したあのエックス……江楠まゆき野姿がありました。わたしの深層心理にはっきりと刻まれたその恐怖に、わたしの足は止められてしまったのです。

 フラッシュバックという言葉があります。過去のトラウマが、ふとしたことでよみがえる現象の事を指します。

 両親にも話していないことなのですが……わたしはしばしばこうした幻影に苦しめられていました。ただエックスのみを学校で見かけても、あまりそういうことは起こりません。ですが、この酷いいじめが起こっている場で、自分がいじめを受けていたあの時の空気そのままの場でエックスを直視したことで、わたしはふらついてその場で膝を付いてしまいました。

 「やめなさいっ」

 アイはそう言って、集団の中に飛び込んで、静止を呼びかけます。

 「何してるのか分かってるの? どれだけ人を傷付けてるか……最低よっ!」

 「吸血鬼じゃん」

 エックスがせせら笑うように言いました。

 「おい捕まえろ」

 傍ではやし立てていた男子生徒の数人が、そこですかさずアイの方に飛び掛ります。アイはそこでようやく恐怖を覚えていたようでした。

 「ちょ……ちょっと。あたしが誰だか分かってってやってるの? あたしは不死身の……」

 「はい吸血鬼いただきましたっ、ホントバカだしこいつ。ねぇユースケになんか書かせるんだったら、こいつの顔がいいんじゃない? きゃははは」

 エックスがそう言って高笑いします。相変わらず人を傷付けることを考えさせたら天才的です。わたしは当時の恐怖を思い出して身震いします。

 捕らえられたアイ。それに、四肢を拘束され持ち上げられ、抵抗する意思もなく太った顔を泣きはらす雄介。顔は恥辱と恐怖で歪んでいて、世にも醜悪で哀れに見えました。

 「……帰ろう」

 わたしは蒼白で立ち上がり、首を振るいました。

 「備えていたことが起こっただけです。こんなことが起きたら迷わず見捨てると決めていたではないですか」

 ……自分でとめに入る? どうやって? エックスに話でもつけるか? 消火器でも振り回して……。

 「自分が傷つくのは嫌ですよ。ここで感情ずくに動いても後悔するだけです。人助けは自分に一切害のないところでしかしないのがベスト。ここはまぁクレバーにですね……」

 ……先生を呼びにいく? 間に合うのか? こんな異常事態が起こっても放置されているような学校だぞ? 止めることが可能な人物をつれてくるのに、一体どれだけの時間が……。

 「何をしているの? 榊原さん」

 と、そこで階段から降りてきた人物が、その場で蹲るわたしを見て言いました。

 「あらあら……予想はしてたけどたいへんなことになってるわねぇ。ま……私は学級委員だけど、『自分のクラスで起きた問題』じゃないから直接関わる必要はなし。でもまぁ先生に連絡くらいはしておきましょうかね……言っても連れて来られるかは分からないけど」

 その人物……樋口英子さんはその無残な状況を見ながら冷静にそうコメントし、わたしに背を向けました。

 「吸血鬼ちゃんを見捨てるなら、素直にそうすれば良いの。どうせあなたには何もできないわ……」

 それから樋口さんは、わたしの方を軽く振り返って、にっこりと笑いました。

 「そっちの方があなたらしいわよ、硝子ちゃん」

 それから樋口さんはその場からゆっくりと立ち去っていきました。職員室に向かうのでしょう。

 わたしはその場を立ち上がりました。

 「……そう。そっちの方がわたしらしい……」

 雄介の後門に突き立ったマーカーが、羽交い絞めにされた蒼白のアイの前で微調整されます。雄介の体ごとマーカーを操作して、アイの顔を汚そうという試みでしょう。

 「アイとの友情ごっこももう終わりでしょうね。あんなことになって助けず見捨てたんですから……まぁ気まずくって顔は合わせられません。いつかはそうなると分かっていたこと。わたしにとってそんなのは……」

 そんなのは……。

 「……嫌だ」

 嫌だ。……アイとの友情を失うなんて、そんなのは嫌だっ!

 わたしは抱え込んでいた頭から両手を振りほどき、そのまま転びそうになりながら現場に飛び込んでいきます。

 最初に反応したのはエックスでした。エックスはわたしの顔を見ると、恐怖したような戸惑ったような顔で後退ります。リーダーを失った集団は僅かにたじろぎ、しかし異物を排除する目つきは維持してわたしの方を見詰めていました。

 この状態から、アイと雄介を救い出すわたしにでもできる方法……。

 わたしは集団のすぐ近くに、消火器を見つけていたことを思い出しました。刺すような視線を浴びながら、わたしは心臓を高鳴らせ消火器の傍の火災警報装置に向かって走りこみます。

 皆の見守る前で、わたしは表面のガラスごと警報装置のスイッチを、ぐーで叩き押しました。

 警報音が鳴り響いて、一団は驚愕に顔をゆがめながらも、雄介とアイをそれぞれ開放してしまいます。リーダーのエックスがわたしの方を見ながらその場から逃げ出したのを皮切りに……集団は蜘蛛の巣を散らしたようにその場から去っていきました。

 「……硝子ちゃん?」

 真っ赤になって汗を流すわたしに、おびえた顔をしたアイが心配そうに声をかけました。

 「葦原さん……。もう、大丈夫……」

 わたしは薄く微笑んで、その場にへたり込みました。

 そしてそのままブラック・アウト。わたしはその時、恐ろしく緊張していたのです。

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