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 二日おき六時に更新

 翌日。午前中の授業を受け終えて、わたしは葦原アイと机を並べて給食を食べる羽目になっていました。

 昨日の一件でアイはわたしと友情を育んだ気になっているのか、休み時間のたびにニコニコ笑顔でわたしに向かって吸血鬼談義をやり始めました。しまいにゃ給食の時に決して近くない位置から机を寄せてくる始末です。この様子では、はたから見てもこいつと友達だと思われてもしょうがないのではないでしょうか。

 「いいじゃない。あたしたち、友達なんだから」

 アイはニコニコと笑顔で言いました。

 「あたしと友達になればいいことあると思うよ。なんたって吸血鬼なんだから」

 何かにつけて『吸血鬼』なアイですが、彼女のそれはもちろんファンタジー好きの想像力過多でもあるんですが、それ以上にただの強がりといったものが原因であることが分かりました。ようは見栄を張りたい、そうやって自分を大きく主張する行動なんですね。そうでもしないと、こんなアタマの悪い子、誰もかまってくれそうにありませんから。

 さて。給食の時間中、食事を終えた担任の先生が、何かの用事のためかいったん席を立ちました。若い女の先生はまずはアイの方に視線を向けて、次に大勢と机をくっ付けあって食事を取る園山祝の方に目を向けて、「これ以上何もしないでよ」と念を押すように言ってから去っていきました。

 「吸血鬼、うっぜ」

 園山祝はそう言ってアイの方をにらみ、舌打ちをしてから仲間たちと食事に戻ります。アイはそれに傷ついたような……しかし安堵したような表情を浮かべていました。

 端的に言って、葦原アイに対するいじめがあれ以上悪化することはありませんでした。

 相変わらずクラスの鼻摘みもので、陰口やからかいなどの行為は続いてはいるものの、理不尽な暴力やもの隠しなどは影を潜めました。それもこれも、いじめにあって流れてきた問題児葦原アイに対する学校側の気構えがあってのことでしょう。

 「……あの。硝子ちゃん」

 アイはわたしに向かって小さく耳打ちしました。

 「ありがとね」

 そう言って微笑みます。この子の笑顔とか、お礼の言葉とかは、純粋すぎて変にずるいです。

 担任の先生にアイのことを相談したのはわたしです。学校で起きる様々な問題のたいていは先生に相談することで片付きますからね。増して葦原アイが面倒な転校生であることは学校側にも知れていたでしょうし、自己紹介でやらかしてもいますから、対処は迅速なものでした。

 「わたしじゃなくて先生に感謝してください。……自分でやらかしたことの尻拭いを大人がしてくれるのは、せいぜい今年までですよ」

 「……別にあたしはやらかしてないし。あいつらが勝手にちょっかいを……」

 「その考えが甘いんです。大甘です。できる範囲で自分の身を守る努力はしてください。られっこというのは敗北者であって、被害者ではないというのを決してお忘れなきよう」

 あたしがそういうと、アイは少しだけ堪えたように顔を伏せました。

 「分かったなら吸血鬼云々はわたしだけにしてください。できたらわたしにもしないでくれると助かるんですけどね……。それと」

 「それと……なに?」

 「勘違いしないでくださいね」

 言うと、アイは「硝子ちゃん……それ多いね」と少し笑いました。

 わたしは咳払いして続けます。

 「今回わたしが先生に告げ口を行ったのは、それをしたところで自分に害がないことが分かっていたからです。先生は告げ口したのがわたしでないことは伏せると約束してくださいましたし、クラスメイトもまさかわたしがそんな積極的なことをするとは思わないでしょうから」

 「でも……それでも硝子ちゃんはあたしの為に……」

 「自分のためです。いいですか、昨日話したように、わたしとあなたはこれからの学校生活を協力して営む友人となりました。このように一緒に食事を取っているのも、さっきの体育の時間で一緒に柔軟体操を営んだのも、昨日の契約のため……。そうやって友達として二人で何かする時、嫌いあっていたり後ろ暗いところがあると、気まずいじゃないですか。つまりわたしは、あなたに恩を着せるためにちゃちな告げ口をしただけなんですね。いわば賄賂です」

 「……うん。分かった。あの、……硝子ちゃんって……ものすごく正直だよね」

 「正直? この捻くれの王道を極めたこのわたしが正直? アタマ腐ってんじゃないですかこの色情狂」

 「今まで言われた悪口の中でも特に酷いよそれっ! なんで硝子ちゃんはあたしのことを性にみだらな人間にしたがるの?」

 「吸血鬼なんですから魅了はお手の物でしょう? さっさとそんな妄想卒業して、その自慢のウシ乳で彼氏でも作ってまともな学校生活を送ってください。そうすればいじめも止まりますしわたしの負担も減るというものですよ」

 「今デレたよねっ、硝子ちゃん今デレたっ! でも分かりにくいっ!」

 「だからなんですかそのデレたとかいうのは……。うっとうしいですね」

 そして二人でちゅーちゅーとストローから牛乳を吸い、パンをかじり、シチューをすすって給食を食べ終えました。

 給食の配膳・片付け当番である園山が役目をアイに押し付けようと、にじり寄ってくるのが見えました。どうやら本当の意味で懲りているようではなさそうです。

 「ねぇ吸血鬼さん。アタシちょっとね……今朝先生に呼び出されて貴重な時間を無駄にしたの」

 だからなんだ。とばかりにアイは園山の前に立ち上がります。これはいけませんね。

 「あのね。そのことでアタシ今すっごくぶち切れそうな気分なんだけど……だけどまた呼び出されるのは正直面倒臭いから、あなたのことを許してあげようと思って。でね……その代わりといったらなんだけど。アタシが今朝時間を失った埋め合わせに、アタシの給食当番を代わってはもらえないかしら。これからずっと……永久にね」

 「え……でもどうしてあたしがそんなことを」

 アイはぼそぼそと抵抗しました。よくないですね、抵抗するならちゃんと大声で、はっきりと意思表示をしなければ、逆効果です。

 「嫌よずっとなんて……。なんであたし、あなたにそんな指図をされなくちゃいけないの?」

 「自分の立場が分かっていないようね。先生に守ってもらっていい気分? だけどね、アタシら本来、そんなんで引き下がるようなタマじゃないの。あなたが告げ口したんなら、二度と告げ口なんてさせないように叩きのめすだけだし……他の誰かがしたんなら、そいつを見つけ出して同じことをするだけよ」

 そう言った時、アイはあからさまに心配げにわたしを見詰めました。わたしは内心で舌打ちをします。

 「あ……あたしは無敵の吸血鬼なのよ? これ以上なめたことをするようなら……こ、こわいわよっ」

 「あら確かにそれは怖いわね吸血鬼さん。できるものならやってみろよこの精神患者。アタマおかしいんじゃねぇの? 発展途上国じゃ精神疾患者は町のみんなに奴隷として扱われるんだってね……あなたも同じようにみんなの小間使いになってりゃ良いの」

 「な……な……」

 アイは顔を真っ青にして後退ります。かなり酷いことを言われたということと、園山の強い剣幕によって。園山が背後の取りまきに視線をやると、彼女らは口々にアイに向かって「そうだよキチガイ」「チクるとかマジうっぜー」「吸血鬼は学校くんな」などと言い立てます。

 一人きりの自分に対し、自分の敵の方に多く味方がいるという恐怖感は、味わったものにしか分からないでしょう。アイのよわっちぃ心で耐え切れるものでは……当然ありません。今にも泣き出しそうな表情をするアイに、園山は鼻を鳴らして「早くしろよ、キチガイ奴隷」とバカにしたように言いました。

 「あ……あたしは……あんたの言うことなんか……」

 「あ……その……葦原、さん」

 わたしはそこで、おずおずびくびくとしながら……蒼白になるアイと脅しをかける園山さんの間に割って入りました。

 唐突に割り込んできた異物に対する排除の視線が、わたしの全身に突き刺さります。一挙一動監視される恐怖感は、わたしから冷静さを大きく奪います。今にも吐き出しそうな、心臓が破裂してしまいそうな……そんな気持ち。

 「わたしも手伝いますから……片付けを、やりましょう。そ、園山さんの分も……」

 唐突に間に入ってきたわたしに対し、園山さんは面食らったような視線を向けました。

 わたしは園山さんの方をなるだけ何を考えているのか気取らせないよな、透明な無表情で一瞥してから、黙って園山さんの担当する食器の方に向かいました。

 「……そんな……硝子ちゃん?」

 アイはわたしの方に駆け寄って、消え入るような小さな声で言いました。

 「することないよ……あんな一方的な……」

 「……敗北主義は、悪いことばかりじゃありません。大丈夫、エックスのいないワイじゃせいぜいあなたをパシりにするくらいしかしないはずです。それも嫌だというのならどうぞご自由に反抗してください。わたしは何も味方しませんけどね」

 アイにだけ聞こえるようにそう言って、わたしは黙って食器に手を付けて教室から運び出します。アイが何か言おうとしますが、その上から園山がかき消すようにこういいました。

 「榊原……あんた。いつからそこの吸血鬼と仲良くなったの?」

 わたしは足を止めて、何も答えずにただ園山に向き直りました。

 ただそれだけで……園山は表情を引きつらせてなにやら言いよどみます。わたしが何も言わずにじっと園山を見ていると、園山は吐き捨てるように

 「ぼっちはぼっち同士仲良くしてろっ」

 そう口汚なく言って、仲間を伴って教室の外に出て行きました。


 「余計なことをして申し訳ありません」

 二人で食器籠の取っ手を一つずつ持って給食室に運びながら、わたしはそう言ってアイに謝罪しました。

 「気に入らないのなら改めて謝罪しますし……今後はこのようなことは絶対にしません」

 アイの身の振り方はアイが決めるべきであって、わたしがしたのはそれをあまりにも舐めた行為……アイの必死の抵抗心に対する冒涜でしかなかったでしょう。わたしはアイに謝罪する義務があり、アイはわたしに対して怒る権利がある。

 「うん……。だけど硝子ちゃん、どうしてあんなことしたの?」

 「何度も言いますが勘違いしないで欲しい……はもうあまり通じないとして。とにかくあのままだと教室でリンチが始まっていたと思いますから。……あなたがあのまま彼女に対して抵抗を貫けるのなら、本当に余計な真似としか言いようがないんですが」

 「抵抗を貫く……。はじめからあたしは、あいつの配膳を変わってやる気なんて……」

 「ある一定の考え方を持つ人間にとって、言うことは聞いてもらうものじゃなくて聞かせるものなんです。あなたの意思や権利とはまったくもって無関係。『ワイ』はよく言えば奔放でマイペース、悪く言えばわがままで激情家ですからね。あくまで従わないつもりなら、あなたは彼女とその取巻きを相手に喧嘩するしかなかったんですよ。……そしたら吸血鬼の力なんて頼れません」

 わたしが言うと、アイがなんだか酷く情けない表情で俯きました。それからいっそ泣き出しそうな、打ちひしがれた様子で、食器籠を掴む手の力を強めました。

 彼女の悲しさとか、屈辱とか……そういったものが分からないわたしでは、もちろんありません。本当のことを言えば、わたしはこの子のことが他人だとは思えないのです。

 それから二人で片づけを行いながら、悲しみに浸る時間を過ごしました。足取りは気持ち重く、時折溜息だとか、嗚咽だとかが混ざります。

 どうにも陰気で嫌な感じですが……これがいじめられっこのスタンダートでしょう。中途半端に反抗して、でも結局は傷が深くならないように程ほどで負けておいて、それからうじうじと下を向いて怨嗟と自己憐憫に耽る。世にも情けないその姿を、誰もかもが、後ろから笑って指差し見ている……。

 「……やっぱり。あそこはちゃんと抵抗しておくべきだったと思う」

 片づけを終えて、アイはわたしに向かってそう切り出しました。

 「硝子ちゃんの所為にするつもりはないの。硝子ちゃんがあたしのことを心配してくれてたのは分かるから。でも最終的なことは、あたしが自分で決めるべきだった。硝子ちゃんが何を言っても、あたしはあくまで抵抗するべきだった……」

 ……わたしは何も言えません。

 一度譲ってしまうと、相手によっては何歩でも何歩でも踏み込んできます。一度給食の配膳を代わってしまうと、二度目三度目も当然相手は要求してきますし、そのうちに違ったパシリ要求も出てくるはずです。

 それらを受け入れたくないのなら、最初の一回目できちんと断ってしまうしかありません。アイの判断はとても正しいですが……もちろん簡単なことではないでしょう。

 というか……アイにきちんとそれができるのなら……私立でいじめられてこんな公立に流れてくることなんて、なかったはずなんですけどね。

 わたしはそうは言わずに、ただ決意を固めるアイのことを見て、少しだけまぶしいような、……怖いような。そんな気がしていたのです。

 「あれ?」

 と、そこで、わたしはその声にぞっとして振り向きました。

 そこにはわたしたちのクラス委員長である樋口英子さんが、食器籠を運ぶわたしとアイを不思議そうな目で見ていました。

 「ひでこちゃん?」

 樋口さんの姿を確認して、アイの表情が少しだけ緩むのを、わたしが確認しました。樋口さんは学級委員としては責任の強い方ですから、孤立しがちな転校生のことも気にかけていました。アイが樋口さんに懐いて、名前で呼ぶようになったのは自然な流れでしょう。

 「食器の係りは祝ちゃんだったと思うんだけど……もしかして、押し付けられた?」

 流石に察しの良い人です。

 「その……あたしは抵抗したんだけど……」

 押し付けられたこと、それを断れなかったことを情けなく思っているのか、アイがしどろもどろになりながらそう弁明します。樋口さんはやや困ったような顔でいますが、目ではこう言っています。『結局やらされているじゃない』

 「……わたしがしゃしゃり出たんです。従った方がいいよって」

 必ずしもアイが一人で屈した訳ではないことを示すためにわたしがそう口ぞえします。樋口さんはすると、わたしの方につまらなさそうな視線を向けてから「ふーん」と興味なさげな風に装ってそう口にして

 「あまり酷いようなら私の方から祝ちゃんに言っておくけど……」

 ここで、教師などを介するのではなく、自分の口で『ワイ』こと園山祝に意見できるのが、樋口英子が本当に優秀な学級委員たる所以でしょう。ただ先生受けがいいだけの優等生ではなく、本当の意味でクラスの中心に立てるだけのスペックを、彼女は有しているのです。

 それから樋口さんはアイではなく『しゃしゃり出た』わたしの方に視線を向けて、互いを直視しているわたしにしか分からないくらいに唇を歪ませました。

 「ただね……葦原さん。私から一つ言わせてもらうなら。理不尽に用事を押し付けられて困ったのなら、『抵抗する』のも『従う』」のも……結局は受け身な態度でしかないのよね。この場合は『無視してその場を立ち去る』っていうのが正解。もうあなたのことは相手しませんよ……って感じかな?」

 樋口さんはおそらく、アイだけでなくわたしにも同じことを伝えていたのでしょう。それぞれ、まったく違う意味合いを込めて。樋口さんは僅かに唇を歪めてから、去り際にわたしに対してそっとこう言い残しました。

 「良かったわね。榊原さん。……お友達ができて」


 られっこが昼休みに過ごす場所といったらどこでしょう?

 トイレの個室、使われない教室、人気のない校舎の影などがあげられますが。いずれにしても、決して暖かかったり清潔だったりする場所で過ごすことはできません。下手な物陰に隠れているとタバコを吸いに来たいじめっ子と遭遇することもありますし、かといって教室に戻ったら問答無用でおもちゃにされてしまいます。ゴミはゴミ箱に。わたしたちはいつだって汚物のスキマに身を隠してやり過ごすのでした。

 「……ここ。穴場なんだね」

 わたしがアイを招待したのは、校区の隅にある倉庫室でした。入り口はシャッターですが鍵は開いていますし、壊れたイスや机が突っ込まれているのでそれらを利用してリラックスできます。わたしのお気に入りの場所です。

 こういう場所はしばしば不良の溜まり場なんかに使われるものですが……今まで遭遇したことはありません。何年も続けて掃除されていない埃っぽさ、湿ったダンボールの朽ちた臭い、互いの顔が見えないほど暗いなどという理由で、敬遠されがちなのでしょう。単純に穴場として見付けにくいというのももちろん、あるのでしょうが。

 「ちょっと変な臭いしない? 暗いし、……ちょっとつめたい」

 「夏場は涼しいですよ? 風もないから冬場はあったかいですし。わたしは去年一年の昼休みを、春夏秋冬にわたってここでやり過ごしてきたと言っても過言ではありません」

 「硝子ちゃんて……寂しい人だよね」

 「そうかもしれません。でももう寂しくないですよ。昼行灯の妄想癖メンヘラ色情狂でも、話し相手さえいれば少しは気が紛れるものです。枯木も山のなんとやら?」

 「今のはデレたの? ツンなの? あたし色々悪口言われてきたけど、最近は硝子ちゃんのが一番酷いっ!」

 「……あの。あなた時々ツンとかデレとか変なこと言いますけど、どういう意味なんですか?」

 「知らないの? 硝子ちゃん、漫画とかあんま読まない?」

 「あまり読む機会はありませんね……好きではあるんですけど。そもそも去年一年間は、自分で買い物をしませんでしたから」

 「え? どうして?」

 「お金がないとものは買えません」

 「お小遣いもらってないの?」

 「いただいてますよ。両親はどちらかというとわたしのことを甘やかしてくれますからね。特にお父さんが。一般的な女子中学生のものより、少し多いくらいなのではないしょうか?」

 「だったらなんで……」

 「虫の死骸。便所の水。動物の糞」

 わたしがそれだけ言うと、アイが暗闇で息を飲むのが分かりました。

 「と言ってももうだいぶ前から自分で使えるようにはなっているんです。ただ、漫画なんて何を読んだらいいものか、ちょっと分からなくて。貯金が増える一方ですのでお母さんにお菓子を買ったりとか。普段はもっぱら、昔買ってもらった電子ゲームとかで時間を潰してますね」

 「漫画なら、あたしのお勧め教えたげるよ」

 アイはわたしを励ますようにいいました。

 「なんなら貸してあげる。あげたっていいよ」

 「ありがとうございます」

 わたしは微笑んでいいました。

 それから自然な沈黙が降りました。元より、過ごしてきた人生に多少近しいものがある程度で、性格も趣味も考え方も違う間柄です。盛り上がれるような話題と言えば教室で生き抜く為の傾向と対策くらいしかなく、そんな話四六時中していれば参ってしまうので、その沈黙はごく当たり前に生じたものでした。

 わたしはアイの吸血鬼談義が始まるのを待っていましたが、アイは一向に口を開こうとしません。何か様子がおかしいなと思っていると……アイは彼女にしては真剣な声で切り出しました。

 「ねぇ……硝子ちゃんって……その。どんな子なの?」

 藪から棒に、と言う奴です。

 「どんな子なのとは? 見てのとおりです。チビで童顔であなたとは似ても似つかぬ幼児体系で無口で孤独で利己主義者でひねくれものの榊原硝子。心配しなくてもあなたに隠していることなんてありませんよ。あなたに隠す意味ないですから」

 「隠しては……ないと思う。だけど硝子ちゃん……わたし気になるの。硝子ちゃんが、去年やらかしたっていうこととか……」

 それを聞いて、わたしは暗闇の中で目を剥いて

 「誰から聞いたんですか? ……まぁ。おおかた想像はつきますけどね、学級委員さんくらいでしょう、あなたがわたし以外で会話をするのは」

 「う……うん。あの……硝子ちゃんにはちょっと気を付けた方が……って言われて」

 まぁそういうしょうね。彼女としては。

 「園山も硝子ちゃんを見る目はなんだか怯えてるし……他の子も硝子ちゃんのこと、怖がってる。……なんか、すごいことやらかしたって……そう聞いてるんだけど」

 「そうですか」

 「ね……ねぇ硝子ちゃん、やっぱり隠してた? っていうか……怒ってる?」

 「少し不愉快ではありますが、怒ってはいません。隠してもないですよ、自分の口から話そうと思っていただけで……あなたには関係のない話じゃないと思いますし」

 「それって……」

 「わたしは去年ね、クラスでいじめにあっていたんですよ。今のようなただの孤立や排除じゃなくて、本物のいじめにね。その加害者はとある三人組で……仮にエックスとワイとエーとします」

 その内の一人が、今アイにちょっかいを出しているクラスメイトの園山祝で、わたしにとっては因縁の相手の一人でもあります。ちなみに祝だからアタマ取って『ワイ』です。

 「うん……それはなんとなく知ってた」

 「わたしは事なかれ主義ですが、それで済むと考えているような楽天家でのんき者でもあったんですよ。ぼうっとしてるのは良く言われますし……両親が過保護だからなんでしょうか。とにかく本当に酷い目にあい始めるまで……こんな痣と火傷だらけの身体になるまで……ただ何もせず耐えていれば終わるって、そんな風に思っていたんです」

 わたしが臆病なのは一度ことが始まってしまうと、自分の力で止められないから。わたしが何より自己保身が大好きなのは、自分の弱さを知っているから。過去に受けた経験ゆえにアイの気持ちは良く分かりますが……同時に過去に刻まれた恐怖ゆえに、アイを救おうと積極的には思えないのです。

 「一番酷いいじめをしてきたのはエックスという女子生徒で……これはまぁワイのような小山の大将タイプ……威張ったり統率するのが好きでいじめをやってるタイプじゃなくて、生まれつき人を攻撃するのが大好きという性質でした。わたしはこれにこっぴどくいじめられて、だけど怖くて」

 「……そうなんだ。それで、そのエックスとは、どうなったの?」

 「戦いました。いじめられている今の状況から逃れるために、そのエックスと」

 「……戦ったって?」

 「文字通り、です。……逆境を翻すには、奮起するしかないんですよ。わたしはエックスに飛びかかり、バカみたいに叫んで、泣きじゃくりながらぽかぽか殴りつけました」

 「ど……どうなったの?」

 「負けました」

 「へ?」

 「負けました……体格が違いましたから。むしろおもしろがられたみたいです。エックスの背後でワイもエーもけらけら笑っていました。いいぞいいぞって……チビの癖にナイスファイトだ、たまにキレてくれないとおもしろくない。そう言って倒れたわたしを蹴りまくって、首にタバコの火を押し付けてきました。痛がる元気もなかったです。まだ残ってますよ、その時の根性焼き」

 「……そ、そんな。じゃあだったら……」

 「でもね……人間。勝ったと思った時が一番油断するんですよ。……そして手段と後先を考えなければ、人は悪魔だって倒せるんです」

 ……逆境を翻すには、逸脱するしかない。

 相手がエックスでなければ、わたしはそこまでする必要はなかったでしょう。ですがわたしはそこまでやりました。そうしなければ、今のわたしの安寧と静けさはなかったでしょう。クラスが分かれたとて、あの執拗なエックスが自分のおもちゃを手放したとは、思えませんでしたから。

 「わたしは床に倒れ付した姿勢で、エックスの足元に手を伸ばしました。そして強引に足の指を握りこんで、力いっぱいへし折ったんです」

 「へし折った……小指?」

 「いえ。最初折ったのは親指です。小指なら片手の力だけでなんとかなったでしょうが……わたしの選んだのは親指です。最初捻った時は変な音こそしたんですが、爪が割れたくらいで骨を折るにはいたりませんでした。それでもやはり、痛かったのでしょう。エックスがその場にすっころんで、わたしは跳ね起きてその足にしがみ付きました。わたしは抵抗するエックスになんとかまとわり付いて……全身の体重をかけて親指をへし折ってやりました。べきぃ……って」

 効果音をつけて言って見ましたが、特にその時のことを覚えている訳ではないんですけどね。アイは流石に面食らって、沈黙しているようです。わたしは続けました。

 「エックスは痛みで昏倒して、でもわたしはそれだけじゃ不足だと考えたんです。……それほどまでに、わたしはエックスのことを恐れていたんでしょうね。親指をへし折ったくらいじゃエックスは堪えない、中途半端な逆襲ではもっと酷い目にあうだけ。いいえ、悪魔みたいなエックスが復讐を諦めるなんてことがあるとは、その時のわたしにはどうしても思えなかったんです。きっとエックスは必ずわたしがした以上の恐ろしい報復を実行してくる……そう考えると、怖くて……怖くてしょうがなくて、わたしはもう夢中で……だから……」

 倉庫の暗闇が、わたしの記憶を鮮明にします。湿ったトイレの冷たい床。火照って汗まみれになった体。目を剥き舌を突き出しわたしから逃げようと、タイルに向かって爪を引っ掛けてぼろぼろにするエックス……江楠まゆき。わたしはそれに追いすがり、捕まえて、それから無我夢中で

 「わたしは、エックスのことを殺そうとしたんです」

 アイが、暗闇の中で息を飲みました。

 「わたしは逃げ出すワイとエーを見ることもせずに、泡を吹きかけているエックスの上に馬乗りになりました。……首でも絞めようかと思ったんですが……わたしは前にエックスに口の中にシャープペンを十数本も突っ込まれ、死にそうになった時のことを思い出しました。そこで、わたしは傍にあった便所たわしの棒の部分を、エックスの口の中に力一杯突っ込んだんです。エックスは明らかに本能の動きで、びくんびくんと妙な痙攣をしていました。喉の奥のどこか柔らかいところに棒が突き刺さる感触がして、たくさん血が出ました。……わたしは本当に安心していたんです。……あ、死んだんだ……って」

 「…………本当に死んだの?」

 「結局、一命は取り留めたようです。お陰でわたしは殺人犯にならずに済みました。ですがエックスとはもうそれっきりです、クラスも離されましたしね」

 「それじゃあ。硝子ちゃんはもういじめられずに済んでるんだ」

 アイは少しだけ、安心したようなというか……慮るような声でそういいました。

 ……本当は少しだけ、気持ち悪がられるかと思っていたんですが。

 「そんなめでたしめでたしじゃありませんよ。エックスの母親が面倒な人で……といっても娘を殺されかけたんですから当然といえば当然ですが。裁判が起きる寸前までいきました。両親は全面的にわたしに味方してくれましたが……わたしはおまわりさんのところに何日か泊まる羽目になりました。かなりキツかったですよ……怖い刑事さんに毎日泣かされました。内向書にも大きくペケが入りましたし、エックスとは結局痛み別けにもできていません」

 わたしがそう言って、肩をすくめて見せると、アイは納得がいかないとばかりに、子供のような声で言いました。

 「……そんな。酷いよ、硝子ちゃんは全然悪くないのに。どうして……」

 「悪いとか悪くないとか、そういう問題じゃないんです。いじめられっ子は敗北者であっても被害者ではない。むしろあの悪魔を相手に首を吊らずに生き残っただけでも……わたしは運の良い方なくらいです」

 わたしの全身が傷だらけだったこともあり、『いじめ』の事実は明らかにされました。学校としてもわたしを追い出す訳には行かなかったのでしょう。両親はわたしにこんな狂った学校からは距離を取れと言いましたが……どこに行っても結局は同じだってことは、葦原アイの例を見るまでもありません。むしろ、この学校ならわたしは腫れ物扱いでしょうから、もうこれ以上誰にもちょっかいかけられずに済むと踏んでいたんです。

 そしてそれについてはまぁ、大当たりといったところでした。おかげさまでわたしは今、孤独に守られた自由と静寂と……幸せを満喫できているのです。

 「それでその……エックスさんはどうしてるの?」

 「まだ学校にいますよ……。わたしとエックス、どちらが転校するかわたしとエックスの親との間で少しもめたようですが……どちらも譲らず。クラスを別々にする措置で決着が付きました。その時に元いたクラスを引き離されたのは、わたしの方だったんですけどね」

 「じゃあ……結局そのエックスって奴には、負けちゃった……ってこと」

 「そんなこと気にはしていません。わたしは浅い傷なら受けて済ませる主義ですから」

 エックスの傷は足の指も喉も完治したようです。わたしがおまわりさんのところから解放されるのに少し遅れて、エックスも病院から出てきました。その時は正直、生きた心地がしなかったものです。

 わたしと顔を合わせ、怯えたように息を飲んで逃げ出すエックスを見て、わたしは始めて安心しました。その日わたしは、お母さんの胸の中で泣きました。『今まで怖かった』と、そう言って、小さな子供みたいに。

 「硝子ちゃん……がんばったんだね」

 アイは慮るようにそういいました。それからあろうことか、わたしの頭の上に手を置いてきます。わたしは即座にそれを叩き落としましたが、アイはそのまままとわり付くようにわたしの身体に飛び込んできました。

 「良くがんばったね。偉いよ。硝子ちゃん」

 ……がんばった? 偉い?

 妙なことを言うものだと思いましたが……きっと彼女は理解してくれたんでしょう。わたしがどれだけ吐きそうな思いであの状況を乗り切ったかを。哀れまれることはあっても、褒められたことなどありませんでしたから、少し新鮮で、どういう訳かそれは心に染み渡りました。

 ですから……わたしはとても後ろめたい、罪悪感に満ちた気持ちになりました。

 「もう終わったことです。あなたは自分の心配をしてください……それと」

 間近で見ると、暗くてもアイの顔が良く見えました。きょとんとした、険しい顔をしたわたしをいぶかしむような表情で

 「全てのいじめられっこがあなたのように清らかだとは思わないでください。だからわたしを褒めなくていいです。頭をなでないでください」

 「……でも。硝子ちゃんはすごく優しい子だよ」

 「違うんです、それは。だから……違うんですよ。わたしは敗北者であって被害者ではありません。わたしだって……。……違うんですよ」

 哀れみを請うような話し方をしてしまった自分に腹を立てながら……わたしはそう言って、アイを振りほどきました。


 

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