紫陽花
風呂上がり、スカっという気持ちのいい音を立てて缶ビールを開けると、一口目をいっきに喉の奥に流し込む。心地の良いのどごしと共にキンキンに冷えたビールが火照った体を急速に冷ます。一口目を盛大に楽しむと、500ミリ缶のビールは早くも半分近くまで減っており、あとは新聞やテレビを見ながらちびちびと楽しむ。
三十半ばを過ぎた頃から毎日欠かせないようになっていた敏晴の習慣だった。そのせいもあるのだろうか若い頃逞しかった体は今では腹周りが大きく肥大し、肩や腕の筋肉質な部分が若かりし頃の面影を感じさせる程度になっていた。
今日もビールを片手にリビングの椅子に腰掛けると敏晴は徐ろに新聞を手にとった。なんとなく開いていたページに目を落とすと、夫婦のセックスレスの統計という記事に目をとめた。
「なになに、『セックスレスの夫婦は現代には多く、二十代では十一%、三十代で二六%四〇代で三十六%がセックスレスだと言われています』ねぇ、なるほど、なるほど」
うんうん、と首肯きながらふと考える。
「あれ、そういえば最後にしたのっていつだったかな。半年前、いやいや、もっと前だぞ」
考え込むように視線を新聞から外す。するとふと花瓶に入った紫陽花の花が目に入る。
「お、紫陽花かあ、にしても季節ハズレだよな。なぁ、おい、この紫陽花―――」と言いかけたところで敏晴は愕然とした。
そういえば、いつから妻の名前を呼ばなくなっていたのだろう。
星野敏晴には連れ添ってから今年で十二年になる恵美という妻がいる。互いに若い頃は俳優、女優として活躍していた。恵美は結婚を機に引退したが、美容にはこだわっているのか、その辺の同年代と比べてみても綺麗で若々しく見える敏晴の自慢の妻だった。
それがいつのまに名前を呼ばなくなっていたのだろう。自然と、特に理由もなく、それとなく呼ばなくなっていた。同じようにそれとなく夫婦の間に性交渉もなくなっていた。
「そうだ、紫陽花。確か去年だったか温泉旅行に行ったときに紫陽花が綺麗だなあ、とか話してその晩にしたのが最後だったか。ともすればあれはもう一年半前にもなるじゃないか、一年半もの間何をやっていたんだ俺は」
夫婦の由々しき問題の解決の糸口を探ろうと敏晴は再び新聞に目を落とした。次の項目には夫婦のセックスレスと熟年離婚というテーマで簡単な診断テストがあった。一〇問形式でマルがついたパーセンテージで夫婦の愛情を量るというもののようだ。
「ふむ、『セックスレスはお互いのコミュニケーションが取れなくなってきている兆候で、夫婦の間にすれ違いが生じやすい状態ともいえます』か、そういえば最近まともな話をしたことがあっただろうか。いや、話はしている、そりゃあ夫婦だ、毎日顔を合わせれば会話だってする。……でもどんな内容だっただろう、まともな話という話をしていないような気がするぞ。あぁ、俺はいつもあいつの話を話半分に聞き流しては適当な相槌をうっているような」
診断テストをしてみても、思い出したらキリがないほどに思い当たる節がいくつもある。
『最後に夫婦でしたのは半年以上前だ』
『――最近はお互い名前で呼ぶことが少なくなった』
『――最近おたがいのしていることに興味がなくなった』
などにことごとくマルがつき、結果は散々なものだった。
「これはもしかして本当に、熟年離婚。いやいや、だいたいこの歳で離婚なんかしてどうしようっていうんだ」
一瞬脳裏のよぎった嫌な考えを振り切ろうと一度新聞から目を話すといつの間にか対面に座っていた妻が不思議そうな顔をしてみつめていた。
「さっきからあなた何を真剣にぶつぶつと言ってるの」
驚いてとっさに新聞の記事が見えないように、折りたたむと、
「あ、エッチな記事でもみてたんでしょ」
スポーツ新聞じゃないんだから、と返すと恵美は「そう」と興味をテレビの方へと移らせたようだった。敏晴はこれも良い機会だと、今日は恵美と語り合いたいと思った。まずは名前、決して先程の下らない記事にあてられたわけではないんだと自分に言い聞かせる。熟年離婚、ありえない。名前を呼ぶくらいどうってことない、妻の名前じゃないか、名前…名前。
「……なあ、え、恵、恵美」
数秒の空白のあとにやっとでた言葉だった。まさか妻の名前を呼ぶのがこれほど覚悟を必要とすることになるなんて思ってもみなかった。ぎこちなかったのも痛々しく、案の定、恵美は怪訝そうな顔で振り向いて敏晴を見ていた。
「なあに、敏晴さん、急に名前なんかで呼んでみたりして、何かおねだりかしら」
「いや、そういうわけじゃあないんだが、今日は二人で呑みたいとおもってな。冷蔵庫にビールが冷えてるから、お前もどうだ」
「嫌ぁよ」
断られたのが地味にショックだったのか敏晴は少し声を強くして
「なんでだよ、もう今日はどこにもいかないんだろ。だったら酒くらい付き合えよ」
「だって眠くなるじゃない」
「ん、眠くなったら何かまずいのか」
浮気、という文字が頭に浮かんでくる。まさか、このあと男とどこかに出かけるのか、だから眠くなってはまずいのか、どうしてもそう言った考えが頭から切り離せない。
「そういうわけじゃ……ないけど」という恵美もどこか落ち着きのないように見える。
そうなるとこの間も友達と旅行にいってくると行って、誰と行っていたのかわかったものではない。友達とお食事などと言われても気にも止めなかったが…
ふと再び新聞に目を落とすとセカンドバージンのDVDが発売だという広告が目に飛び込んでくる。セカンドバージン、今の敏晴にとってなんと嫌な言葉か。
自分の顔が次第に曇っていくのが敏晴にはわかった。もう今夜は楽しくお酒をのんで語りあおうとは思えず、嫌な考えが切り離せないのは酒のせいにして酔いつぶれて眠ってしまいたい気分だった。
「ねえあなた、紫陽花」
敏晴の考えを知ってか知らずか、恵美はふと紫陽花の話を持ち出した。
「あぁ、紫陽花か。この時期には季節外れだな」
「たまたま駅前の花屋さんの店頭でみつけたから買ってきたの」
紫陽花の花言葉「心変わり」だ。まさかこれは本当に、浮気をしているんじゃないだろうか、そういった一見気づきにくいアピールで「あたなにはもううんざりだわ」などと訴えているのだろうか。敏晴は愕然とした。
「去年の温泉旅行で紫陽花が綺麗だったの覚えてる?」
さっき同じ風景を思していたという妙なシンクロに敏晴も少し気分がよくなる。
「あぁ、綺麗だったなあ、特に朝露に濡れた紫陽花に光がさして輝いてる姿が一番綺麗だった」
「そうね、それもそうだけど、そうじゃなくて」
恵美の言いたいことは別のところにあるらしい。やはり花ことばを皮切りに離婚と愛人の話を切り出されるのだろうか、敏晴は泣きそうになりながら身構えた。
「冗談、あなたが酔っ払っていった冗談、……覚えてるかしら」
「え…」と敏晴はきょとんとする顔で恵美を見つめる。
「だから紫陽花を音読みで読むと…ってやつ、もう、ほんとに忘れちゃったの」
「紫陽花を音読み…し、よう、か…しようか、しようか!」
「もう、馬鹿」
敏晴が後で聞いた話には妻も新聞のあの記事を見て最近セックスレスだということに気づき、紫陽花や新聞を巧妙にセッティングし、遠まわしに気づいてもらえるよう、あのような形でアピールしていたらしい。
どこまでも妻の手のひらの上で踊らされていたなと、悔しさ半分、清々しさ半分の気持になる。
敏晴は朝食をつくる妻の後ろ姿をみつつリビングの紫陽花に目をやる。丁寧に霧吹きで水をやったのだろうか、葉や花には露ができている。敏晴は立ち上がりカーテンを開けた。
光を得た紫陽花は神秘的に輝いていた。妻の姿と紫陽花を一様して敏晴は呟いた。
「綺麗だな」