§6、格闘技戦と左利き
[Fab-20.Mon/20:10]
カナタと標的撃破の距離は、僅か四メートル。たった一足の踏み込みで、あっさりと懐に入れる距離だ。
片やカナタは素手に対し、標的撃破は何らかの魔術道具なのだろう、木彫りの人形をぶら下げている。不敵な笑みを顔面に貼り付け、殺気立った双眸は爛々と爛れて輝く。
両者の緊張状態が続くが、先に動いたのはカナタだ。
「……うォォォおおオ!」
かけ声と同時に、腰を低く落とした状態で大きく踏み込む。左の拳は弧を描く様に標的撃破の側頭部を狙い放たれ、右の拳は腰溜めに構えたまま力強く握られている。
「フン……ただの直球馬鹿じゃん、ナメんな」
標的撃破は半歩だけ後ろに下がり、上体を僅かに反らしてカナタの左フックを難なくかわす。だが、空手の技を使うカナタにとって、左の拳は死に手……つまり囮だ。本命は、腰に溜めた右拳。
僅かながら仰け反る標的撃破の腹部めがけて、カナタは右のアッパーをすくい上げる様に勢いよく振る。寸分違わず鳩尾を狙い撃つ拳は、しかし、標的撃破は左手で軽くパリング(攻撃を手足で弾く防御法)する事で防いだ。フックとアッパーのワンツーで瞬殺しようとしていたカナタの表情が歪む。
すかさず、標的撃破は半身を翻し、突き刺し貫かんばかりに鋭い右の蹴りを見舞う。稲妻の様な鋭い蹴りがカナタの腹部を穿つ寸前で、カナタは腹筋を締めて何とか耐え抜く事が出来た。が、同時に再び距離が開く。
「何、アンタ?まさかこの程度であたいに喧嘩売ったんじゃないじゃん?だとしたらつまんねぇじゃん。魔術を使う必要もなさそうじゃん?」
せせら笑う。あからさまな挑発行為だという事はカナタにも理解出来たが、それでも、退く気はない。
「チィッ!」
再び標的撃破の懐に潜り込――もうとして、寸前で右のサイドステップ。
右足で着地した勢いを殺さず、反動を利用して右のローキックを放つ。が、標的撃破はローキックに体重が乗る前に前進し、ダメージを殺しつつ左のストレートを繰り出す。カナタは右足を引き戻しつつ、右手を横方向にズラす動きで拳を払い、標的撃破の体勢が崩れている瞬間をカウンターする。
(チチッ、ここだ!)
標的撃破が左の拳を引きながら体勢を戻そうとするモーションと、カナタが右の拳を振りかざすタイミングは同時だった。簡単な話、人間がスウェー(上体を反らす回避法)をするよりも早く、拳は顔面を捉える筈だ。
――そうなる、筈なのに。
ほんの僅かな差で、カナタの拳は届かない。標的撃破が特に素早い動きをした訳じゃない、カナタの目にもおかしな動きは見えなかった『筈』なのに、カナタの攻撃圏外へいともあっさり抜けられた。
「なっ……」
驚愕に目を剥くカナタに、標的撃破は微笑みかける。その優しげな微笑みとは裏腹に、再び繰り出される左のフックは凶々しく、カナタの頬を思い切り力強く穿った。
「がぁ、ッア!?」
激しい衝撃が脳を揺さぶる。一瞬の浮遊感を味わった頃には地面に背中から叩きつけられ、肺の中の空気が一気に飛び出す。軽い脳震盪か、手足の末端神経がビリビリと痺れ、呼吸のリズムが乱れている。とてもじゃないが、耐えきれるかどうかは怪しい。
「……おいおい、アンタぁ、本気出すじゃん。ちっともさっぱり楽しくなんねぇじゃんか。分かってんのか?あたいはまだ、左手と右足しか使ってないじゃんよ」
吐き捨てる様に標的撃破は呟く。そう、何よりカナタに衝撃を与える事実は、手加減されている事だ。魔術を使った訳でもなければ、格闘戦に於いても彼女は全く全力を出してはいない。
にも拘わらず、たったの二撃でこれだ。いや、クリーンヒットは左のフックだけ。
つまりは、これが実力差。怒った子供が手を振り回したところで、大人が軽くあしらう様に。カナタと標的撃破には、決定的な差が存在している。
半月前に戦った魔剣使い(ヘジンスレイヤー)は格闘技どころか、喧嘩すら知らない様な素人だった、というだけの話で。
カナタの拳は、見下している魔術師の少女には届かない。
(……どうして、届かない。僕の拳は、どうやれば届く)
考えろ、とカナタは心中で叫ぶ。どんなに近くても届かない右の拳。どうして自分の拳は当たらないのか、どうして相手の拳は当たるのか。
(……待てよ。『届かない』?)
不意に、カナタは思う。
ゆらりと立ち上がり、カナタは標的撃破を見据える。不気味な笑みは未だ消えてはいない。
だが、カナタは端っから、標的撃破の顔なんて見ていない。見ている点はもっと下で、いとも簡単に気付く事が出来た。
「……そういう、事か」
つまらない答えだ、とカナタは吐き捨て、一歩を踏み出そうとしてガクリと足の力が抜け、膝を突く。たった一撃……それも女の拳とは言え、『利き手の拳』による一撃を喰らって仕舞ったのだ。そのダメージは推して計るべし、だ。
「……まぁ、筋力じゃ女は男に敵わないってのは生物学上間違っちゃいないけど、素手の拳なら男女なんざ関係ねぇしな」
「だろう?筋繊維が細かい分、筋肉が柔らかいからスナップが利かせ易いじゃん。ナメてかかってると、意識が飛ぶじゃんよ」
「もう既に吹っ飛びそうだよ」
「だったら死ぬといいじゃん」
ゴッ、と。今度は標的撃破の方から攻めてきた。飛び上がりながら中空で右の蹴りを放ち、膝を突いたままのカナタは両腕を使ってガードした。《ゴギンッ》と鈍ったい痛々しい音が響く。
「ぐっ!」
標的撃破のその跳び蹴りは、体重が乗って重い。しかし今のカナタは膝を突いてしゃがみ込んでいる為に重心が低く、体勢を崩しにくくなっている。むしろ蹴った標的撃破の方が、反発力により体勢悪く着地したぐらいだ。
(け、どッ、何て貫通力のある蹴りだ。ガード越しに、頭が揺れる!?)
両腕を使ってガードしたにも拘わらず、カナタは歯噛みしてダメージを耐え、噛み殺す。身体のバネを利用して勢いよく立ち上がり、右の拳を大きく振るう。視界を外す様にアウトサイドからの一撃を、しかし標的撃破はバックステップを踏んでかわす。
「ハッ!今のは少し驚いたじゃんか!」
「だったら、これならどうだ」
更に追い縋る様に大きく踏み込み、カナタは左のストレートを顔面に放つ。ガズッ、と不気味な擦過音を立てて、標的撃破の顔の位置が若干ブレた。
渋面を浮かべた標的撃破は突く様な蹴りでカナタの下腹部を打ち、距離を離す。赤い痣が、標的撃破の左頬に浮かび上がる。まるでミミズ腫れの様に。
「ヒュウ♪左手で掠っただけでこの威力かい、なかなか大したもんじゃん。アンタ、何か武術やってんじゃん?」
「空手、柔道、剣道ぐらいだ。練度はかじった程度だし、僕は格闘は苦手だからね。大体、格闘技は精神鍛錬の為に習った訳だしな」
「そうかい。まぁ、それなりに楽しめるみたいじゃん。見直してやるじゃんよ」
「そんな事はねぇよ。……もうお前のその不思議な空間差の謎は解けたんだからな」
あ?と標的撃破は眉根を寄せる。カナタは左口角を釣り上げた、左右非対称の笑みを浮かべる。
そして、同時に一気に踏み込む。標的撃破の股を縫う様に『右足』を踏み込ませ、旋回する様な右のフック。先程同様にスウェーでかわそうと標的撃破は背を反らせる様に重心を後方へ移行し、
ゴッ、と。
カナタの右フックが、標的撃破の左頬を思い切りブン殴った。
「なバッ、ァガア!?」
身体ごと真横へ吹き飛ばされた標的撃破に、カナタは追い縋る様に更に身を低くして一足に跳び、左の肝臓打ち(リバーブロウ)。ゴズッという不気味な音を発し、標的撃破は『内臓の位置』が変わる程の激しい衝撃を受け、乾いた吐息と血の混じった唾液を吐き出した。
「ホラ、当たった」
「カヒッ、ィ?……どう、して、じゃん?」
「自分で考えろ」
どうにか距離を取ろうとする標的撃破だが、カナタはそれを赦さない。右のアッパーは標的撃破の腹部を穿ち、更に引き際に肘の角度を変えて右のフックを頬に叩き込む。吸い込まれる様に突き刺さる拳は、標的撃破のバランスを崩させる。
「こンの!!」
標的撃破は左のストレートをカナタの顔面を狙って放つ。が、カナタは右手でパリングして防御し、カウンターとして右足で標的撃破の太股にローキック。
(どうして、さっきからコイツの右が当たるんじゃん!?こんなにッ、こんなの……おかしいじゃん!)
先程とは打って変わった攻守の移り変わりに、戸惑う。
(いや、右?待て。どうして右ばかりが飛んでくんじゃんよ?)
そうだ、不意に気付く。ファイティングポーズを取って前にきた拳が牽制・迎撃を行うものだ。にも拘わらず、さっきコイツは右手でパリングしていた。
どうして、右手が前に来ている?
「これが、お前のトリックだろ?」
カナタは『右足』を前に踏み出し、右手を振るう。利き手によるボディブロウを標的撃破は両腕を使ってガードするが、カナタの狙いはそこではない。
「ガラ空きだ、ヴォケ!」
標的撃破のガードは完全に下がっている。動揺しているのか、顎を守るという意識がない。
左の拳で大きく円を描く様に、まるで野球のピッチャーが投球する様に、左のロシアンフック。視覚の外から迫る拳は寸分違わず、顎を横合いから殴りつけた。
「ゴグ、ガァァァああア!?」
全身を巻き込んだ拳を受けた標的撃破は、苦渋の表情を浮かべ、台風に煽られる紙屑の様に吹き飛んだ。体重を前にかけすぎたのか、先程のダメージも相俟ってカナタは膝を突く。
「これがオーソドックスファイトって奴だ……テメェは馴染みがねぇだろう?」
「やっ、ぱり……そう、なんじゃん、な……。クソッ、気付かなかったじゃん!アンタ、右利き(オーソドックス)のクセに、左利き(サウスポー)で戦ってやがったじゃんか!」
「右が届かねぇぐらい遠い筈だ。右利き(オーソドックス)と左利き(サウスポー)の足運び……それを考えりゃ笑えるぐらい単純だよな」
空手、柔道、ボクシング、テコンドー、etc……。立ち技系の格闘技は数あれど、立ち位置や構えというのは得てして一貫している部分がある。それは、左半身が前になる様に半身になる事だ。ただしこれは右利き(オーソドックス)での話だ。
例えば、お互いに右利き(オーソドックス)の場合、身体は双方共に開いた状態で相対する事になる。逆に左利き(サウスポー)同士でも同様となる。
だが、これが右利き(オーソドックス)と左利き(サウスポー)同士の場合は、互いに利き手が軸足のライン上に来る事になる。前に出る足がぶつからない程度に踏み出した場合を想定してみれば分かりやすいだろう。利き手と相手の身体は、互いに半身である為に、遠くなるのだ。
「お前とやりにくい原因はそれだ。左利き(サウスポー)は右利き(オーソドックス)とやりなれてるだろうけど、右利き(オーソドックス)は左利き(サウスポー)が苦手だからな」
左利きというのはあまり知られていないが、基本的には遺伝による特異体質である。右利きの両親から左利きが生まれる可能性は二・一%、どちらかが左利きの場合は七・三%、左利きの両親の場合は四六%という統計から分かる通り、全体的に少ないのだ。この辺りはメンデルの法則を知っている者ならばすぐにピンと来るだろう。
つまり、右利き(オーソドックス)と格闘慣れした右利き(オーソドックス)と、右利き(オーソドックス)と格闘慣れした左利き(サウスポー)では、根本的な問題で『慣れ』という前提が違う。戦闘開始時、カナタの攻撃が悉く当たらなかった理由はここにある。
「……ハハッ」
「あぁ?」
「いいじゃんいいじゃん、認めてやるじゃんよ」
倒れたまま、標的撃破は笑う。右手に持った操り人形のハンドルを強く握りしめながら上体を起こし、睨んでいるとも嗤っているとも取れない表情をカナタに向ける。確実にフックが極まったと思っていたカナタはギョッとした。
「分かったよ、認めてやるよ、……テメェはあたいの敵じゃん。悪い悪い、ナメきった態度はもうやめてやるじゃんよ」
「……まさか。お前、自分から後ろに飛んだのか!」
「あん?あたいは見ての通り人形使いじゃん。懐に飛び込まれた時の対処法ぐらいは心得てんじゃんよ」
カラリと人形が鳴く。瞬間、全身に鳥肌が立つ様な殺気に、カナタは顔をひきつらせて身構えた。
煙の様にユラリといびつな動きで立ち上がり、標的撃破は右手を前に掲げる。木彫りの人形が揺れる。
標的撃破は、死刑宣告をする処刑執行人の様に、告げる。
「さて。日本にはブシドーって文化があるんじゃん?正々堂々と殺り合おうじゃんよ」
[Fab-20.Mon/20:10]
ガギガン、と鼓膜が破けそうな鋭くも激しい衝突音が虚空に轟く。ナタクの振るう剣は、ドミノが生み出した土の壁にめり込む。が、次の瞬間には二度三度とナタクの連撃が厚い壁を斬り裂いて破壊する。
「どうしたんデスかぁ、ゴーレム使い!出せ!貴女の最強を見せてみやがれっつってんデスよォォォおおオ!」
「チィ……集中したいのにぃ、」
意識を集中させ、イメージを固着、その魔力の流れを錬成する――いや、しようとしてナタクの踏みならした足が地面を振動させ、ドミノの身体がグラリと揺れる。手近なベンチにチョークを走らせる手がブレ、記号を描き損ねた。
「くっ」
ドミノは歪んだ記号の隣に新たな簡略的記号を描き込む。瞬間、地面から巨大な腕が生え、隷従法師を襲う。その腕を横合いから両断し、主を守護するナタク。
人形使い(マリオネッター)には、後手に回ってはならないという弱点がある。魔術を発動させる過程が多い為、先手を打たれて仕舞えばその過程を経由出来ない……つまり、魔術を発動出来なくなる。自らの身を守るすべが少ない人形使いは、使い魔を前衛に、自らを後衛としなければ戦えないのだ。
(完全に先手を打たれたのはぁ、少しぃ、ピンチですねぇ!隷従法師がぁ最初に黙り込んでいたのはぁ、恐らくはぁナタクを召喚する為、といったところでしょうかぁ!?)
定石として、人形使いは隠れた場所で人形を操って敵を殲滅するか、対峙した場合は言葉で敵を引きつけながら気付かれない様に過程を終わらせるかのどちらかだ。人形を出す前に戦闘に入るというのは、ただの一般人と何ら変わらない。
(……一般人、ですかぁ)
それは例えば、時津カナタという少年の様に。何の罪も意味もない戦いに巻き込んだのは自分だ。
「済みませんがぁ、ドミノには少し野暮用があるのですよぉ」
「あんん?」
「――ちゃっちゃと終わらせて頂きますよぉ」
彼女には時間も余裕もない。ただの最強の人形使い(マリオネッター)としての誇りではなく、一人の少年の友人として。
彼女の武器は大地、故に形状も制限もない。その場にあるあらゆる物が彼女の武器である。例えばガードレール、例えば街灯、例えば公園のベンチ、例えば公衆トイレの壁、それら全てが彼女に味方する。
この街には戦闘技術に特化した陰陽道の道師がいる。その道師の得意分野も大地ではあるが、ドミノとは根本的に『操る』という次元に違いがある。
何故なら、ドミノの使う術式は、堕天の使いがもたらした神の術式なのだから。
「貴女のナタクがぁ、どれだけのものかは知りませんがぁ。所詮はぁ……ドミノより下、という事でしょぉ〜?」
「!?」
「『最強』というのがぁ、どれ程のものかぁ、見せて差し上げますよぉ」
ドミノは微笑み、オイルパステルを身構える。隷従法師を見据えるその双眸に、躊躇いはない。
「さぁ、ドミノの為にぃ、笑って使い潰されてぇ下さいぃ。我が愛しくカビ臭い親友」