§5、暗号解読とローマ十字教
[Fab-20.Mon/19:55]
月明かりが雲の隙間から覗き、空気中の光の屈折率が変わった事により、『ナタク』の全貌が露わとなる。
全長は五メートル強、下手すれば六メートル半ばはあろう。左右に三本ずつ腕が生えた姿は傍目から見れば不気味で、更に顔は三つある。まるで阿修羅の様だ、とカナタは思う。
尤も、一番驚くべき事はきっと、それだけの巨大な機械である事だ。三つの頭と六つの腕が生えた上半身を支えている下腹部より下は、果たして、どれ程の強度なのだろうか。
正直な感想を言わせてもらえば、『バランスが悪い』だ。明らかに無茶苦茶でデッサンの狂ったビジュアルにも拘わらず、ナタクは地面に足をついて立っている。それに、こんな巨大な存在を、今までどこに隠していたのかという疑問もある。
巨大な三面六腕の機械兵『ナタク』。もしかすると団子頭少女・隷従法師の魔術というのは、この機械兵が自重で潰れない様にしているのかも知れない。
「……で?兄ちゃん、アンタはとりあえずお家に帰るじゃん。間違って殺しちまっても後味悪くなるだけじゃん?」
「うくく。今の『ナタク』の攻撃を見ましたよね?ここは貴方が知ってる日常ではなく、全く別物の異常デスからねぇ」
「……二人のぉ、言う通りですよぉ、カナタくん〜。……貴方はぁ、日常にぃ帰って下さいぃ」
三者三様、言葉の程度に違いはあれど、内容は要するに『今すぐ消えろ』という事だった。チドリを見ていてもそうだが、どうも魔術師というのは『一般人を巻き込むまい』としている傾向がある様だ。尤も、半月前に出会った追跡不可は、チドリのそういう思考を逆手に取って勝ち星を得た訳ではあるが。
早い話が、この世の異端である筈の魔術師達が集うこの空間では、世間一般である筈のカナタこそが異端であるらしい。
それが、非道く気に入らない。
それは、とても、苛々する。
「空間切断を施してる以上はアンタは出れない訳だけど、帰るんならちゃんと道は開けてやるじゃん。どの道、アンタがこの場に残っても邪魔なだけじゃん?さっさと失せた方が身の為じゃんよ」
フン、と鼻を鳴らしながら標的撃破は語る。やけに傲慢で見下している様な言葉に聞こえるかも知れないが、そうではない。それはただ単純に、区別の問題だ。日本の家電商品は優秀だが、海外ではコンセントが違うので使えませんと言う話と同じで、それで優劣が決まる訳ではない。
だが、それでも。
そう簡単に、ハイそうですかとカナタが日常を切り捨てられる様な性格ならば、
元から、特殊部隊なんかに入っちゃいない。
「……お前らは、ドミノをどうするつもりだ?」
食い下がるカナタ。二人の魔術師は眉根を寄せて怪訝そうな表情を浮かべ、ドミノは心配げな表情でカナタの横顔を見て、息を呑む。
そこには、何らかの覚悟を決めた少年がいた。
「コイツ……隷従法師の目的は、そこの嬢ちゃんが持ってる『とある石』を奪う事じゃん。んで、あたいの目的は――、」
大仰に肩を竦めて語る標的撃破は、ドミノを指さし、続ける。
「嬢ちゃん……傀儡仕様を、我がローマ十字教に改宗させる事じゃんよ」
寒気がする程に堂々と、標的撃破は語る。無信仰者であるカナタには宗教関連の事は分からないが、今まで信じていたものを裏切って改宗するという事が何を意味するかぐらいは、理解しているつもりだ。
「傀儡仕様と言えば、寓画解読および寓画精製の天才って話じゃん。事実、現代じゃ失われつつあるカバラの石像を操るすべを知ってるのは極僅か、その中でも傀儡仕様がトップクラスだと言われている理由は、寓画解読の能力があるからじゃん?」
寓画。聞き慣れない単語が出てきた事にカナタは眉を顰めた。その素人の心情を悟ったのか、標的撃破は丁寧に説明を始めた。
「あ〜、あれじゃん。寓画ってのは要するに、魔導書のお絵かきバージョン、みたいなもんじゃんな?」
標的撃破の話すところによると、こういう事らしい。
例えば、雪に包まれた森に佇む小屋を、朝日が照らしている絵があったとする。この絵から解釈すれば、雪という要素から『銀』、小屋という要素から『城』、更に森という要素から『木』という意味を弾き出す。これはつまり、『銀と木で城を包む事で神聖な結界を作り出す』事が出来る、という事を伝えたい魔導書になるのだとか。
「実際にはぁ、『朝』という時間帯やぁ、『森』による群と言う意味やぁ、絵の具の厚みにぃ重ねられた絵の具の順序によるぅ錬成の手順などもぉ、含まれる訳ですがぁ。そのせいでぇ後々にぃ新たな仮説や結論が浮上してきてぇ、間違いが発覚したりする事もぉ多いんですよねぇ」
標的撃破の説明を、ドミノが補足する。やはり同級生がこういう魔術的な話をするのはシュールに映って仕舞う。
「傀儡仕様は、寓画能力に長けた魔術師じゃん。だからこそゴーレムなんて最強クラスの古代魔術を操る訳じゃんか。現代でもゴーレムの技術は研究・改良されつつあるが、それは飽くまでクロウリーが定着させた近代魔術の人形理論に基づいた魔術じゃん。故に想像の範疇を越える事はないじゃんな」
でも、と。標的撃破は続ける。
「だからこそ、大昔の術式を蘇らせた程の傀儡仕様の能力、それが欲しくなる訳じゃん。なぁに、悪い様にはしないじゃんよ。むしろ上はアンタを優遇すんじゃん。どうせユダヤも十字も信じる神様は一緒、バチは当たんないじゃん」
「お断りですねぇ。残念ですがぁ、新約とぉタルムードの世界ではぁ、我らが主によるぅ守護の質がぁ根本からぁ違いますからぁ。ローマ十字教に入って仕舞えばぁ、宗教防御の異質によりぃ、私はぁユダヤの守護者をぉ生み出す事がぁ出来なくなって仕舞いますぅ」
脳の回路が焼き切れて仕舞いますぅ、と。ドミノは笑顔で語るが、細めた瞳の奥には尋常ではない程の殺気に満ちた光が潜んでいた。
笑顔で拒否されても尚、標的撃破は一ミリも表情を崩さない。その答えは予測済みと言わんばかりに首の骨を鳴らし、手に持った木彫りの人形を前方に掲げる。
「そっちの部外者の兄ちゃん、最後の警告じゃん。邪魔だ、失せろ。とばっちりで死んだってあたいらは謝らないじゃん」
カラカラ、関節部を金属の器具で繋いだ木の人形が揺れて音をかき鳴らす。それは奇しくも、まるで、人形自体が嗤っている様に映る。
カナタは答えない。ドミノを見て、次に二人の魔術師を見て、下唇を噛み締める。
どのくらい無音の時間が流れただろうか。一分か、一秒か、一瞬か。カナタは意を決した様に肩の力を抜き、下唇を噛み締める事を止め、二人の魔術師に向かって歩みだした。
「……」
「やっと決心したんじゃん。いやぁ長かった長かった。ホラ、結界は解いてやるじゃんよ?さっさとお家に帰んな兄ちゃん」
唇の右端を釣り上げた不気味な笑みを浮かべ、標的撃破は半歩横に移動して、人一人が通れる道を作る。その先には公園の出口が見えている。距離にして、二〇メートル程度。
カナタはただ歩く。前方から魔術師の視線を受け、背後からドミノの視線を受け。真っ直ぐに、それこそが自分の道だと自覚している様に歩く。
出口まで一五メートル程度。カナタはため息を吐き、少しだけドミノに振り返る。ドミノは目だけで『行って下さい』と語り、カナタは頷く様に目を瞑る。
残り、一〇メートル弱。標的撃破と隷従法師の間を縫う様に開かれた道を前に立ち止まり、カナタは首だけを動かして標的撃破を睨み付ける。
「……何の真似じゃん?」
「……ドミノは改宗する事を嫌がってる。それを力ずくでやらせるのはやめてくれないか?」
「それはアンタには関係ない……あぁ、まぁいいじゃん、答えてやるじゃんよ。そいつは無理な相談じゃん。ローマ十字教の意志は絶対じゃんか」
「……そうか」
カナタは両目を瞑り、再び前を見据える。相変わらずにやけた笑顔を浮かべたまま標的撃破は、顎で出口を指して促す。
「そら、とっとと消えるじゃん、兄ちゃん。これが最後のチャンスだって言ったじゃん」
「……そうだな、これが最後のチャンスだったな」
純粋に。カナタはただ優しく微笑み、
次の瞬間には歯を食いしばり、《ゴギンッ》と標的撃破を力の限り殴り飛ばした。
「なガっ、あ!?」
とっさに胸の前で腕をクロスさせてガードした標的撃破は、痺れる両腕越しにカナタを見た。予想だにしなかった事態に思考が追い付いていないのか、呆然と口を開いている。
「あぁ、ったく、さっきのが最後のチャンスだったよ。これでお前らをブン殴るきっかけになった」
「なに、フ、ッザ、けんじゃねぇじゃんよ、テメッ、ェェェええエ!あたいに何したか分かってんだろォな!?」
ガギンと歯を噛み鳴らし、眉間に皺を寄せてカナタを睨み付ける標的撃破。ブラブラと無造作に木彫りの人形が揺れる。
「あ、なっ、え、……ぇえ!?」
「うくくく!こりゃまた愉快な野郎じゃないデスか!見逃してやろうとしてるアンタを殴るなんて、うく、うくくくくくくくく!!」
ドミノと隷従法師は、それぞれの反応を示していた。片や信じられない物を見たかの様に眉根を寄せて目を見開き、片や腹を抱えてゲラゲラと空を仰ぐ様に馬鹿笑いしている。感情がリンクしているのかどうかは知らないが、心なしか、『ナタク』もブルブルと小刻みに震えている気がする。
殴り飛ばした右の拳を堅く握り締め、カナタは標的撃破に向かって仁王に立つ。それはまるで、元より引く気は更々ないと言う意思表示の様に映る。
どうして自分なんかの為に、カナタがそこまで激昂しているのか。ドミノにはその片鱗さえ理解は出来ない。
「……この、フザッけてんじゃねぇじゃんかテメェ!殺す、テメェは絶対にあたいが殺し尽くすじゃん!手ぇ出すんじゃねぇぞテメェらぁ!」
木が打ち合う音が空間を響かせ、人形がカラカラと嗤う。
「カナタく――!?」
「うくくく!アンタの相手は私だって言ってんデスよぉ!」
チョークを振るおうとしたドミノは、『ナタク』の攻撃を見極めて地面に書く命令文を変更する。大仰に振り下ろされる二振りの巨大な刃は、しかし地面から隆起した分厚い壁に遮られた。
「原初の土、神は土より人を生み出し、人がそれを真似ようとした成れの果て……デスか」
「そこをぉ、退いて下さいぃ!」
「ナタク!敵の首を我が前に!」
先程とは打って変わって、ナタクは鋭敏な瞬発力でドミノとの距離を詰める。ドミノは歯噛みしながらバックステップを取り、近場にあった街灯の柱にチョークで記号を描く。まるで居合い斬りの様に一瞬で描かれた記号に呼応する様に、地面から壁がそびえ上がり、ナタクの進路を封じる。
(くぅ……!ゴーレムを喚び出す程ぉ、集中出来ませんねぇ!このままじゃぁ、カナタ、くんがぁ……ッ!)
恐らく、今のナタクはドミノを攻撃する事を目的としていないだろう。証拠に、ドミノとカナタを引き剥がす様に、ただ威圧的に攻めているだけだ。
「くそっ、ドミノに何してやがんだ団子頭ぁ!」
壁を次々と生み出しながら後退していくドミノと、六振りの腕と剣で強引に追い縋るナタクと、ナタクの陰に隠れながら反撃を警戒している隷従法師。カナタは二人+αを追おうと振り返り、
「そこで後ろを振り向いた瞬間、アンタの死が確定すんじゃん」
その言葉に、カナタはギクリと肩を震わせる。
こうしている間にも、ドミノと隷従法師は遠く離れていく。一刻も早く追いかけなければならないのだが、標的撃破はそれを赦さない。
「隷従法師に関しては、好きにさせて欲しいじゃん。あれでも人形使いとしてのプライドを賭けた決闘を申し込んでんじゃん、それを止めてやれる程、あたいは無粋じゃないじゃんよ」
それに、と標的撃破は続ける。右手に持った十字のハンドルを巧みに操り、人形が生き物の様に蠢く。吊り下げられたピアノ線が人形の右手を浮かし、カナタを指さす様なポーズで止まった。
「アンタには殴られた訳じゃん。それをにっこり笑顔で赦してあげられる程、あたいは聖人君子じゃねぇんだよ!」
憤怒。般若の如き様相で叫ぶ標的撃破の殺気を受け、カナタは我知らず後ずさる。
「本当なら、一般人なんか捨ておくのが、魔術師の常識じゃん。悪いのはアンタじゃんよ!勝手に首突っ込みやがって、世界の表面だけ見てのんびり平和に頭に花咲かせて生きてりゃこんな目に遭う事もなかったじゃん!?
……死ぬ前に聞かせるじゃんよ。どうして、あの女……傀儡仕様の為なんかに、自分の身体を張った?友達だから?だから裏面の人間相手に拳を振るった?所詮は赤の他人じゃん?」
「……いいんだよ、そんな下らねぇ事はどうでも」
「あん?」
歯を噛み締め、拳を堅く握り、カナタは標的撃破を睨み返しながら呟く。一方で標的撃破は、訝しげな表情を浮かべて脱力した様に右肩を落とす。
「あぁ、他人なのにとか、友達だからとか。そんな、くっだらねぇ話はどうだっていいんだよ。僕は今、最っ高に頭にきてんだよ!テメェこそ、どうして平穏をかき乱す様な事が簡単に出来るんだ!ドミノだって僕と同じで、クラスメイトと遊んで、下らねぇ話をして、それで一喜一憂する!そんな日常を簡単にあっさりブチ壊す様な真似をしてんじゃねぇよテメェはよ!」
そうだ。
ドミノだって、カナタと同じく、裏と表に通じる人間なんだ。
カナタには、どうしてドミノが魔術師なんかになったのか、知らない。彼女なりの事情があったのかも知れないし、なかったのかも知れない。だが、今この場に於いて、そんなちっぽけな話はどうでもいい。
問題は、ドミノが平和な日常を楽しんでいる、それを金槌で硝子を叩き割る様にブチ怖そうとしている奴がいる、という事だ。
女子高生らしく普通に学校に通って、クラスメイトと一緒に笑い合って、美術の授業では繊細で写実的な絵を描いて、学食のカレーを美味そうに食べて、学校帰りに寄り道出来ない事を憂いて、初めて行ったゲーセンで楽しそうに遊んで。そんな些細な事なのに心底から楽しそうに微笑む少女なのに。
ただそれだけの、日常なのに。
それをいとも簡単にブチ壊そうとする奴がいる。首を突っ込んで、身体を張ってでも止める理由なんて、それだけで充分だ。
「僕こそお前に聞きたい。どうしてお前はそこまでドミノに拘る?暗号解読の能力が欲しいからか?そんっな下らねぇ理由で、ドミノの日常をブッ潰すつもりか!?」
「別に。あたいはそこまで拘っちゃいないじゃん。強いて言うなら、そうだね……命令だから、じゃん?」
聞いた瞬間、カナタの頭が灼熱した。
「フザっけんなよ、テメェ!そんな理由で他人に迷惑かけてんじゃねぇよ!」
「分かってないじゃん、アンタ。いいかい、ローマ十字教の命令って事ぁ、ただ単純に『上司から命令を受けた部下』って訳じゃないじゃん」
ひたすら不気味に歪んだいびつな双眸は、純潔に焼け爛れた残虐的な輝きさえ放っていた。まるで、虫を片っ端から踏み潰して回る子供の様に。
標的撃破は、告げる。
「ローマ十字教の命令って事はつまり、それはローマ教皇サマ直々の意志って事じゃん。で、教皇は神様の代弁者……教皇の命令は、神様の意志って事じゃん?」
ローマ教皇。ローマ十字教を司る象徴的存在であると同時に、絶対的な支配者でもある。
旧教、カトリックは世界に六億以上の信徒を持つ世界最大規模の宗派であり、日本の十字信徒もその殆どがカトリックに分類されるだろう。それら全てを束ねる存在こそがローマ教皇であり、その命令は絶対であるのだと言う。
だが。
だが、そんな事が、カナタが退く理由になる筈もない。
「……そうかよ」
ただ、呟く。
全てを握り潰す様に堅く堅く拳を握り締め、血が止まって白くなる程に固く固く拳を握り締め、ただ呟く。
「……上等だ。そんなつまんねぇ神様の命令があるんなら、そんなもん、この僕がブチ殺してやる!」
神をも殺す槍、その銘はロンギヌスの槍。
かつて聖人すら貫いた神殺槍の名を頂く少年は、目の前の『敵』を見据え、犬歯を剥き出しに標的撃破と対峙した。