カモシカはシカ科じゃなくてウシ科の動物だって知ってた?
バレンタイン。
日本では女の子が男にチョコレートをあげ、恋愛成就を成立させようと同時に製菓業界が売り上げを伸ばそうとまことしやかに企む代表的イベントである。だが、欧州地方では特に女性だけという訳でもなければお菓子とも決まっておらず、男が女性に花束やヌイグルミを送ったりする習慣があったりする。他にも両親や友達間で日頃の感謝を称えたりして、恋愛成就以外にも活用していたりする。
が、そんなハッピーなイベントの発祥は269年(文献により若干の差違あり)の二月一四日で、それまで二月一四日は結婚と出産の神であるユーノ(ギリシアで言えばヘラ)の日とされ、翌日一五日に行われる今年の豊作を祈願するルペルカリア祭の前夜祭とされてきた。
当時のローマ帝国では男女は隔離された生活を送っていた。成人した女性はユーノの日の晩の内に紙に名前を書き、桶の中に入れる。翌日のルペルカリア祭で兵士達が桶の中から紙を引き、そこに書かれた女を妻として迎え入れる、という祭りである。
今では考えられない男尊女卑なバクチであるが、当時の男女にとってすればそれこそ天に在す主に大いに祈った事だろう。
だが、ローマ教皇クラディウス二世はこの祭りを快く思っていなかった。そもそもルペルカリア祭は十字教の祭りではなく、ローマ教皇が現ヴァチカン領を制圧した際には既に土地に定着した祭りであったからだ。そこでクラディウス二世は禁止礼を出したが、不憫に思ったウァーレンタイン司教が裏で手を回し、兵士の結婚を教皇に気付かれぬ様に結婚させていた。
事実を知ったクラディウス二世はウァーレンタイン司教を拘束、敢えて翌年の二月一四日に処刑し、ルペルカリア祭の生贄と捧げた。ローマ十字教は異教文化排除の傾向が強かった為、彼としては、何らかの形でユーノの日やルペルカリア祭を十字教と結びつけたかったのだろう。こうして二月一四日は聖ウァーレンタイン……英語にすると聖バレンタインとして十字教的祭日となった訳である。
で、ここまで延々と語ったバレンタインだが、何が言いたいかと言えば要するに、『セカイノハザマ協奏曲』では折角二月一一日にカナタが買い出しに出掛けたという伏線を張っておいたにも拘わらず、どこぞの阿呆はそれをすっかり忘れてバレンタイン当日について何も語っていない。で、今回の暦は二月二〇日。過ぎてんじゃん。どうしようかと考え倦ねいた結果、オマケで書いちゃおうと非常に頭の悪い結論に達した訳である。いやもう、ホンマすみません。
という訳で、カナタのバレンタイン、スタートです。
【主要人物・時津カナタ】
「……寒いし眠い」
マンションのオートロックを出た瞬間、開口一番に飛び出した言葉は負のオーラの塊だった。カナタはコートのポケットに手を突っ込んだまま、ため息混じりに歩きだした。
左肩には学校指定鞄を担ぎ、右手にはやたら大きな紙袋を下げていた。どうやら菓子の類の様で、仄かに甘い香りが漂ってきていた。
包み隠さず言えば、手早く量産できるチョコレート・カップケーキである。わざわざ朝早くから、朝と寒さに弱い彼が家を出たのには理由がある。
理由……分かりやすく言えば、クリスマスのサンタさんの真似事の様なものである。
【友人・金沢ユーサク&金沢マリアンヌ】
マンションのオートロックを出てくる影は二つ。片や少し天パの入った不自然なオレンジ頭の長髪長身の少年、片や自然な金髪とカールが目立つ純外国産な少女。国籍とかどうなってんの、とツッコミたくなるやもしれないが、実はこの少女、日本国籍らしい。少なくともカナタはそう聞いていた。
「あ、ユーサクさん、カナタ様がいらっしゃいますよ」
「あ〜?……あ〜、せやったな、そいや今日はバレンタインやな」
カナタの存在に気付いた金髪少女・マリアンヌがオレンジ頭・ユーサクの袖を引っ張りながら注意を向ける。国籍の真偽さえ気にしなければ、本当に仲の良い兄妹に見える。
「おはようございます、カナタ様。今朝はミサト様やスミレ様とご一緒ではないのですか?」
「おはよう、マリアちゃん。どうして僕をアイツらと繋げようとするのかその真意はさっぱりだけど、今は一人だよ」
お互いにほんわかした笑顔を交わし、妙に緩んだ雰囲気を醸し出す。
実はこの二人、初対面は一月下旬である。と言うのも急にユーサクが孤児を義妹として迎えたという報告を受けた際には、他の槍三人は大いに驚いたものだ。何せ、国籍だけで言えば日本人な金髪蒼眼の西洋人が目の前に現れたのだ。驚かない方がどうかしてる。
「今日はバレンタインだからね。はい、これはユーサクとマリアちゃんの分ね」
そう言いながら、カナタは可愛らしいラメ入りセロハンとピンクのリボンで包装されたカップケーキを二つ取り出し、それぞれ二人に渡す。
「……本日二つ目のバレンタインチョコが男からとは……なんつぅか、涙出てくんで」
「いいか、今年は去年みたいな小学生の一行作文みたいな感想は許さないからな。ちゃんと原稿用紙三枚以上になりそうな感想にすべし」
マリアから視線を外し、ユーサクを見るや否や双眸を険しくさせる。どうやら『子供に優しいお兄ちゃん』から『品評に厳しい料理人』へと転職した模様。
「あのなぁカナタ……俺にそないな事期待すんのはお門違いやで。今かて俺は自炊全っ然してへんのやから」
「なっ……お前、まさかずっと牛丼生活してんじゃねぇだろうな!?小学生にはもっと栄養あるもんを――!」
「いやいや、ちゃうちゃう。作っとんのはマリアやねん」
「何を小学生にやらせてんだよ!お前がやらんかッ、このシスコン軍曹!」
「キサマ!この俺をその名で呼ぶんじゃねぇ!ってか全然義妹属性じゃねぇって言ってんのが分からんのかキサマ!」
「黙れリアル義妹と二人暮らしの変態義兄!大体リアル義妹とラブなんて普通じゃねぇだろ!」
「ラッ、ラヴ(発音重要)!?チガウヨ〜ラヴナンカジャナイヨ〜!」
「何で急に外国人口調になってんだ!……なっ。いくら法律で許されるからって、何でもやっていいって訳じゃないだろ?第一、マリアちゃんはまだ小六だぜ?」
「や、ヤる?!ややヤや、ヤやるって何をやねん訳分からんわぁややヤ、やるって何もヤッてへんわ!」
「……あれ?ちょっと待ってよユーサクさん?何よその取り乱し方は。……ギャグのつもりだったんだが、お前まさか本気でモグゥ!?」
「えぇい黙れ黙れぇい!それ以上喋りやがったらブッ殺してさしあげるで!」
先述したが、バレンタインは戦士らの為の祝祭でもある訳で、そんな事情も知らない二人だが一介の戦士としての殴り合いが始まった。割と本格的な拳や蹴りが飛び交う。
そんな、アクション映画ラスト一五分みたいな喧嘩を始めた二人を余所に、マリアはカナタから受け取ったケーキの美味っぷりに意識を奪われていた。
【友人・的部スミレ&癸チドリ】
「……そんな理由でアンタはボロボロな訳ね」
「まぁ、日常茶飯事だけどな」
「いやいや、普通だったら割と大事件だって。アンタの感覚でものを喋るの止めろ」
呆れながら、スミレは眉間を押さえて呻く。そう、カナタの周りでは全く目立たない事だが、一般的に見れば事件に発展しかねない出来事なのである。
ちなみに、カナタが今いる場所は、スミレの住むマンションの入り口だ。オートロックを出てきた二人はカナタのボロボロな姿を見てギョッと目を剥いたが、語った通りカナタとしては日常茶飯事なので特に気にしない。普段からド突かれ慣れているカナタの耐久性は常人の比ではないのだ。
「まぁ、それはそうと、どうぞ」
改めて、カナタは紙袋からカップケーキを取り出した。その相変わらず――いや、むしろ進歩し続けている繊細な出来を見て、スミレとチドリは口端を歪めた。しかもチドリは、シュバッと自分の鞄を手で押さえた。
「(……こんな作品を見せつけられてまで、渡せる勇気がありません)」
「(……あぁ、まぁ、何となく分かるけどさ)」
出し惜しむサイドテール少女を余所に、スミレは鞄からチョコレートを取り出す。自前ではなく市販らしく、可愛らしくはあるがどこか業務的な臭いがするラッピングが施されている。
「サンキュ。それとハイ、デパートでなるべく高そうな奴買っといたから」
「むっ、市販かよ」
互いのチョコを物々交換する二人。一方でチドリは、カナタからケーキを受け取り、大切そうに鞄の中に仕舞っただけ。カナタの目が、チラリと鞄の中に包みに入った物を捉えたが、誰かにやるつもりなんだろうなと特に深く考えなかった。
「それにしてもスミレ……バレンタインチョコは手作りが基本だろ」
「アンタ、あたしにナニ期待してんのよ?」
「いやいや、不格好なチョコの中に頑張って作った感があるからこそ良いもんじゃねぇか。それを差し出しつつ『ま、まぁ、形は少しアレだけど味はイケる筈だから!』とキレながら言うともっと良し」
「だからアンタ、あたしにナニを期待してんのよ!?」
ギャーと叫びながらカナタに襲いかかるスミレと、ギャーと叫びながらスミレにコブラツイストをかけられるカナタ。チドリは戦々恐々とその光景を眺めつつ、ため息を吐いた。
渡す勇気なんて、出る筈もなかった。
【友人・クラスメイト】
「おっはよ〜」
カナタが教室に着く頃、既に紙袋の中身は半分にまで減っていた。登校中に会った男女問わぬ友人らに渡している内に、どんどん減少していったのである。
「いよぅ、お早うカナタ……って、うおっ!?何だその紙袋に入った大量のチョコは!?」
「グッハー!クソ、俺の認識が甘かったか……!よもや特定周波の効力がここまでとは!ってか何だよその前後左右上下全包囲三六〇度に張り巡らされたレーダーは!?アッハー宣戦布告と受け取った!」
「何の話だバカ!こりゃ僕が趣味で作ったモンだよホラ一つやるから大人しくしとけバカ!」
「えぇえええ!?やっぱりぃ、カナタくんにはぁその手の趣味がぁ!?」
「料理のな!ってちょっと待て止めろ僕がコータとケーイチにチョコを渡す光景を写メに収めながら目を輝かせてんじゃねぇよパフェルファム!」
真北コータがカナタの荷物に気付き、香田ケーイチが憤慨し、カナタがツッコミ、ドミノが写メりながらカナタがツッコむ。
苦笑いを浮かべながら遠巻きにその喧しい集団を見つめる、アンダーフレーム眼鏡と黒いボブが如何にもな印象の眞鍋ツヅミ。このクラスではこんな感じのノリがいつもの事なので、取り立てて気にするクラスメイトは誰もいない。若干一名、冬休み明けに転校してきた眼帯少女だけが引きつった笑顔を浮かべているだけだ。
その騒ぎにクラス中の生徒が興味を示したのか、カナタの元に集まり始めた。まるで幼稚園のクリスマス会でサンタさんが園児にお菓子を配る様に、カナタは群がるハイエナ共にカップケーキを投げ込んでいく。
「ンま!?何だこれ、マジうめー!!」
「ウッハー、チョコの深みを出す為にコーヒー豆入れてんのか?アッハー完食!」
「はぁあ……本当にぃ、お店のぉ商品みたいですねぇ」
「うんうん、時津くんって意外とこういう才能あったんだねぇ」
クラスメイトの面々が賞賛し、カナタは悪い気がしない。普段から慣れない展開に頭を掻きながら照れていると、ドミノとツヅミが近寄ってきた。
「はいぃ、ドミノからもぉ、カナタくんにプレゼントですぅ。義理ですけどぉ」
「ハイ、時津くん。お返し……って言うのもアレだけど、まぁ義理だから気兼ねしないでいいよ」
二人はチョコを差し出しながら微笑む。何やら言葉の端々に引っかかりを感じつつ、
カナタは丁寧に包装されたチョコを、受け取った。
刹那、先を越されたクラスのカナタ派女性陣が、津波の如く押し寄せてきた。ギョッと目を剥いたカナタが口を開くよりも早く、その局地的自然災害に巻き込まれ、呑み込まれていった。
【友人・桜井ミサト】
カナタの友人に、桜井ミサトという少女がいる。膝まである長い黒髪と、相反する白のヘアバンドを身に着けた中学生である。彼女は時津カナタの通う高校の校門に寄りかかって、惚けていた。
現在は放課後。彼女の目の前を通り過ぎる男子生徒は一喜一憂どちらかの表情をしたまま歩いていくが、ミサトには心底から関係ないので捨て置く。待っている間、HRのチャイムと同時にダッシュで帰宅しようとしていたのだろう男子生徒がミサトを見て、「アッハー俺と一緒にレアル・マドリードのリーグ戦について語り合わないカイ!?」と話しかけられたが、とりあえず『丁重』にお断りしておいた。
どうでもいい話だが、『今の』暦は二〇〇六年二月である。
何故か拳についていた血をハンカチで拭き取っていたミサトは、再び学舎に目を向ける。本当に何があったのかさっぱりだが、校門の陰から人の足が覗いていた。道行く学生らはギョッと逃げていく。
学舎から出てくる一人の影……は、全力疾走していた。
「あ、カナ――」
「僕の逃げ足は世界一ィィィいいイ!」
「――タさん」
ズバギュウン!とソニックブームでも作り出さんばかりに爆走するカナタは、ミサトに気付かずに過ぎ去っていった。ほんの僅かにはにかんだ笑顔を浮かべていたミサトは、表情を固まらせたまま凍り付く。
背後から追走してくる、カナタ狩猟部隊。何やら怨念のこもった拳を握り締めている不特定多数の集団は傍から見て不気味である。
「アーッハッハッハッ!バーカバーカ!誰がテメェら何かに捕まるかよってんだ、ウスノロのドン亀がぁ!」
明らかに挑発であるカナタの声に、狩猟部隊は更にヒートアップ。頭に血が上ったのか顔を真っ赤に……そう、まるで赤い彗星の如く、三倍の速度で走る。
だが、自由と名の付くジェネレーションギャップの集大成を具現化した様なカナタには、大した問題ではない。何故なら、自由は直撃の四倍の性能らしい。何基準だ。
猛り嗤うカナタと、カナタを追う狩猟部隊と、そんな珍妙な光景をほんのりはにかんだ笑顔で固まったまま見つめるミサト。
「……、……」
パサッ、と。ミサトの長い前髪が顔にかかる。
「フッ……上、等ッ!」
刹那、鬼神が光臨なされた。
【エピローグ】
結論から言うと、自由は鬼神に陥落した。ちょっとアレ過ぎて文面じゃ表現しかねる放送コードギリギリの残虐な光景に、真っ青な表情を浮かべた狩猟部隊は躊躇した。マウント取られ、行動を制限された自由が、鬼神に勝てる道理などどこにもないのだ。
その、軽くトラウマになりそうな惨状に臆したクラスメイトの姿はなく、『いつもの』私立公園にはカナタとミサト、そして多くの一般人が往来している。
「……なぁ。どうして僕を殴る必要があったのかな?」
「私を無視したからです」
カナタの問いに、簡潔に答えるミサト。理不尽だ、と思いつつ、相当なダメージを与えられたカナタはベンチに寝転がったまま思う様に動けないでいた。
ちなみに、カナタの後頭部には柔らかい感触が当たっている。ミサトの太股である。何故かよく分からないのだが、被害者は加害者に膝枕されていた。
つい四日前にも同じ事を知り合いの魔剣使いにされたカナタだが、相手は年上の女性ではなく一歳年下とは言えチューガクセーであり、特に動揺する理由にはならなかった。というよりどうしてこんな展開になってんだろう、と言う疑問の方が強い。
カナタはミサトの顔を下から眺めつつ、ふむ、と声を漏らす。
「……何ですか?」
「いや、胸がないなと思って」
《ズバキッ》!ミサトの肘が、コメディチックにカナタの鼻にめり込んだ。その辺を悠々と歩いていた野良猫が『ミギャー!』と喚きながら逃げ出した。不用意過ぎる事を宣ったカナタは顔面を押さえて悶絶する。
「ところで、貴方はどうして逃げていたんですか?」
「ひ、人の顔面潰しといて素面か……。いや、もういいや。あれはクラスの男共だよ」
「?」
「自分で言うのも何だけど、ホラ、僕って人当たり良い方だろ?義理だってのにアイツら血走った目ぇしやがってよ……」
《ズバキャ》!
再び、カナタの顔面にミサトの肘がめり込んだ。プギャーと叫びながら顔面を押さえて悶絶するカナタ。寝癖の様にボサボサした髪がミサトの太股を刺激し、小さく声を漏らす。
「バッ、ざっぎがら何なんデスがお前バ!?」
「……いえ。今のは貴方のクラスの女子の怨念です」
よく分からんがブチ殺すと立ち上がろうとしたカナタだが、ミサトの細い手が頭を掴んでエリック張りのアイアンクロー。気が遠のく。
アイアンクローから解放されたカナタは、再びミサトの膝に頭を乗せる。どうして僕の知り合いの女共はこうもプロレス技ばっか使うんだと思考する。金髪のツインテールとか茶髪の眼鏡お姉さんとかコイツとか。どういう事だ神様よ。趣味か。
「……それにしても、『人当たりがいい』、ですか。本当に信じられませんよね。三年前は私以上に無口でしたのに」
「……そうだな。自分でも信じられねぇ。お前とこうして普通に話している事も含めてな」
「あ、アハハ……あれは、まぁ、若気の至りでしたね」
カナタとミサトは、カナタが聖骸槍に入ったばかりの三年前を思い返す。色々あった。……が、ミサトは何かに気付いたのか、あっ、と素っ頓狂な声を挙げた。
「そう言えば……貴方はどうして今の様に明るくなったんでしたか?」
「……、どういう意味?」
「いえ、少し気になって。あの頃は相当無茶な性格だったのに、ある日いきなり人が変わった様に人見知りがなくなったじゃないですか。どうしてですか?」
「……お前まさか、覚えてないのか?」
「はい?」
「いや、何でもない」
カナタは眉根を寄せてあからさまに不機嫌そうな表情になりながら、ミサトから視線を逸らした。ミサトには訳が分からない。
冬の気温にめげずに爛々と明るかった太陽が、斜に構え始めて今や茜色に差し掛かっていた。ミサトの艶やかな黒い髪が朱の陽光を弾き、絹に光を当てた様に輝く。
詳しい時間は分からないが、そろそろ夕飯の支度をする頃だろう。カナタはミサトの膝から頭を浮かす様に身体を起こし、ベンチの上で大きく伸びをする。何故か分からないが、微かな心残りを感じつつ。
「さて、帰るかな」
呟きながら、カナタは紙袋に手を突っ込み、底の方をゴソゴソとまさぐる。そうして取り出したのは、ピンクのリボンで留められたセロハン袋に丁寧に包装されたカップケーキだ。
「ホラよ、お前の分。一人一個のつもりだったのにコータやケーイチの執拗なお代わり攻撃を迎撃しながら守り通して骨だったぞ」
ぐったりしたままカナタは呟く。もう一度言うが、カナタの周りではあまり目立たないが、実際には大事件に発展しかねない問題行動である訳だ。特に三馬鹿共の本人達は自覚していないが、自分の身近でアクション映画張りの喧嘩が起こっていれば誰でも驚く。例外はカナタのクラスメイト等ぐらいだ。
「それでは、私からも」
ミサトはカナタからカップケーキを受け取りながら、自らの鞄から几帳面に包装されたチョコレートを取り出した。全てを定規で測った様にキッチリとした様相だが、どうやらスミレみたくな市販品ではないらしい。料理の腕に関してミサトを認めているカナタとしては、今から楽しみで仕方がない。
「それにしても……カップケーキですか。今回は随分と手抜きですね」
「あぁ、今年はクラス中に配りまくったからな。中学ん時は一部例外を除いて僕に近付こうとする奴がいなかったし、その分、量産する必要がなかったんだよ」
ミサトから受け取った包装を紙袋に仕舞いながら、カナタは身振りと共に説明を加える。彼の言う『一部例外』が若干気になりつつ、ミサトは相槌を打つ。
カナタは鞄を肩に掛け、無言のまま歩きだした。ミサトは特に何か喋るでもなく、やや後ろ気味に隣を歩くだけだ。
僅かに緑がつき始めた公園の遊歩道を歩いて、公園の出口が見えてくると、不意にカナタが立ち止まった。ミサトもその原因に気付いたのか、足を止める。
出口には、一人の少女が何かを待っている様に立ち尽くしていた。左目に眼帯を着け、右側で髪を結った茶色のサイドテールの少女。言うまでもなく、その中学生と見間違えそうな少女の名は、癸チドリだ。
「癸。こんなトコで何してんだ?」
相変わらず鈍い奴だな、と言わんばかりの表情で、ミサトはカナタの後頭部を眺めていた。今日の日付と商業企画内容を少し吟味すれば、健全な男子ならばすぐ分かりそうなものなのに。
(……バーカ)
ミサトは心中でそう呟きながら、気だるそうに前髪をかき上げて視線を逸らした。会話は聞こえない、私はその辺に落ちてる石だと言い聞かせる。面倒くさい。
「え……と、時津、さんに、」
「ん?何か用でもあるの?教室で言ってくれりゃよかったのに」
《ゲシッ》、その辺に落ちてるミサトの蹴りが臀部に命中した。幾分か手加減されてはいるが、そこはそれ、308NATO弾を使用する扱いが難しくゴリラにしか扱えないと言われるFALを全自動で制御する事が可能なミサトである。その一撃につんのめるどころか、吹き飛ばされそうになる。
「どわったッ、何しやがんだミサト!」
不意打ちを受け、何とか体勢を整えながら、カナタはミサトを睨み付ける。
「お気になさらず。私はその辺に落ちている石ころですので」
「はぁ?」
訳の分からない事を呟くミサトは、カナタ――正確にはカナタとチドリ――と決して視線を合わせようとはせず、どこか不機嫌にそっぽを向いたままだ。ますます訳が分からない。
尤も、ミサトは普段からたまにこういう所があるので、カナタは気にしない事にする。そんな事より、目下すべき事はチドリの用件を聞く事だ。
「あ〜、放ったらかして悪かったな。で、何か用でもあったのか?」
「あ、えと……その、これ、を……」
俯き加減でチドリが鞄から取り出した物は、可愛らしく包装された物だった。キングオブ鈍感の異名を欲しいままにしているカナタも流石に気付いたのか、あっ、と声を漏らし、次の瞬間には子供の様な邪気のない笑顔を浮かべた。
「うん、ありがと」
受け取る。憑き物が落ちた様に、チドリの表情がみるみる弛緩していくのが分かる。
(……ちぇっ)
二人の様子を見ていたミサトは、心中で舌打ちしながらも、表情は笑っていた――。
【オマケのオマケ】
気分が良くなったのか、今日はカナタが自ら進んで二人に奢ると言い出した。ついでにホワイトデーからさっ引くつもりでもあるから乞うご期待、と付け加えていたが、奢りじゃねーじゃんとミサトの裏拳が鳩尾に炸裂した旨は省略する。
「それにしても……貴方もよくこんなに貰ったものですね」
オーダーを決めたミサトは、呆れた表情でカナタの持つ紙袋を見つめていた。中には大小のみならず形状も様々なチョコ製品がギッシリと詰まっている。ミサトの台詞には、どこのマンガの主人公だという意味合いが含まれていたが、例に漏れずカナタは気付かない。
「ん〜。まぁ、僕も配り歩いてたし、義理でも渡しやすい状況だったからなぁ」
あっけらかんと語るカナタだが、それだと製作日程の問題で矛盾が生じるのでは、という致命的な話に全く理解がないご様子。頭に蛆が湧いているか、気が狂れているかのどちらかではなかろうかとミサトは本気で思う。チドリも同感らしく、苦笑いの中に仄かに殺気の様な雰囲気を感じる。
どうしてこんな奴を……と考える二人だが、カナタの言葉には続きがあった。
「まぁ、もらったからには僕が全部食べるつもりなんだけど……ぶっちゃけ、僕って甘い物苦手なんだよなぁ(笑)」
刹那、
光速度を突破した拳が左右から同時に飛来した。