第九話 別の封筒
翌朝。
昨日のことは何もなかったように、
いつもと同じ朝だった。
スーツを着る。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
ドアを閉める。
深く息を吐く。
消費者金融からのSMSが、また来ていた。
【ご返済のご確認】
既読にする。
また別の会社。
また別の会社。
三社。
全部既読にして、閉じる。
最初は怖かった。
今は、慣れてきた。
慣れてはいけないと思う。
でも慣れた。
喫茶店の前を通り過ぎる。
財布の中身を思い出す。
公園のベンチ。
パソコンを開く。
口座の残高を確認する。
変わらない。
チャートを開く。
金がない。
動けない。
結婚資金は、もうない。
気づけば、借金が三百万になっていた。
全部、自分がやったことだ。
分かっている。
でも、どうすればいいのか分からない。
ただ画面を見ていた。
その日の昼。
結衣から着信があった。
出る。
「ねえ、会社から封筒が届いてるんだけど」
声が、いつもと違う。
「退職に関する書類の件って書いてある」
胃の奥が、一瞬で冷たくなる。
「今すぐ帰ってきて」
電話が切れた。
スマホを握ったまま、動けなかった。
帰ったら、終わる。
でも、帰らなければもっと終わる。
立ち上がる。
足が重かった。
玄関を開ける。
結衣が立っていた。
封筒を手に持っている。
「直人、会社辞めたの?」
答えられない。
「……うん」
「いつ?」
「……先月」
「じゃあ今まで毎日どこ行ってたの」
答えが出なかった。
言えない。
喫茶店で株をやっていた、とは言えない。
結婚資金を全部溶かした、とは言えない。
借金が三百万ある、とは言えない。
結衣の目が、潤んでいく。
「なんで言ってくれなかったの」
声が、震えていた。
「……言えなかった」
「なんで」
「……」
「なんで言えなかったの」
泣いていた。
怒鳴らない。
責めない。
ただ、泣いていた。
その泣き方が、一番きつかった。
「信用してくれてないってこと?」
「そういうわけじゃ——」
「じゃあなんで」
「……ごめん」
それしか言えなかった。
結衣は封筒をテーブルに置いて、部屋に入った。
ドアが閉まる音がした。
その音が、やけに大きく響いた。
それから、家の中が静かになった。
会話がないわけじゃない。
「ご飯できたよ」
「ありがとう」
それだけある。
ただ、それだけだった。
結衣の笑顔が、なくなった。
テレビの音だけが流れている。
足がテーブルにぶつかっても、何も言わない。
式場のパンフレットが、机の上にある。
誰も触らない。
来週、見積もりを取りに行くはずだった。
今は、それどころじゃない。
証券会社から連絡が来たのは、数日後だった。
強制決済後の手続きについて、来社してほしいという内容だった。
あのビルの前に立つ。
エレベーターのボタンを押す。
扉が開く。
白い壁のロゴ。
受付で名前を告げる。
手続きを済ませる。
帰ろうとしたとき、声がした。
「神谷様、少しよろしいですか」
振り向くと、あの担当者が立っていた。
応接室。
小さなテーブル。
向かい合う椅子。
「その後、いかがでしたか」
直人はうなずく。
担当者は少し間を置いた。
「そういえば神谷様、最初にお伝えした銘柄、覚えていますか」
「……はい」
「あれ、その後すごいことになりましたよ」
直人は顔を上げる。
「六倍になりました」
一瞬、意味が分からなかった。
六倍。
「お買いになりましたっけ」
「……少しだけ。すぐ売ってしまって」
「そうでしたか」
担当者は静かに笑う。
「底から見れば、四十倍近くまで行きました」
四十倍。
頭の中が、白くなる。
十三万で売ったあの銘柄が。
今も持っていれば。
六十万以上になっていた。
結婚資金も、まだあった。
借金も、なかった。
何も、変わっていなかったかもしれない。
喉の奥が、熱くなる。
あのとき売らなければ。
全部、違っていた。
「あの銘柄、その後もずっと話題になってましたよ」
直人はスマホを取り出す。
検索する。
チャートが映る。
まだ上がっている。
「……今も、上がってますね」
「私の口からは何とも言えませんが」
担当者は静かに笑う。
「また何かあればいつでもご相談ください」
ビルを出ると、夜の空気がひんやりしていた。
スマホを開く。
チャートを見る。
まだ上がっている。
あの銘柄は六倍になった。
底から四十倍まで行った。
まだ、上がっている。
今からでも、間に合う。
これで取れれば。
借金が返せる。
結婚資金が戻る。
結衣に、全部話せる。
手が、震えていた。
あのとき売らなければよかった。
今度は、売らない。
金がない。
消費者金融は全部断られた。
スマホで検索する。
「融資 即日 審査なし」
広告が並ぶ。
普通とは違う雰囲気の、サイトが出てくる。
手が止まる。
頭の中に、式場のパンフレットが浮かぶ。
以前の結衣の声が、浮かぶ。
「来週、見積もり取りに行こうよ」
でも。
まだ上がっている。
指が、番号を押した。




