第七話 空の封筒
最終出社日。
朝、スーツを着た。
いつもと同じスーツだ。
くたびれた襟元。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
結衣は何も知らない。
会社のビルに入る。
蛍光灯の音。
キーボードの音。
社長は短く言った。
「すまんな。これから頑張ってくれ」
うなずいた。
十八年が、そのくらいで終わった。
私物をまとめる。
段ボール一箱にもならなかった。
デスクを見る。
自分がここに座っていた痕跡が、あまりない。
別に、いいか。
ロッカーに鍵を返す。
「お世話になりました」
廊下で頭を下げる。
トイレに立つ。
個室。
スマホを出す。
チャートを開く。
──これ、上に行くんじゃないか。
板が薄い。
仕掛けどころだ。
指が動く。
「神谷さん、もう帰らないんですか」
外から声がする。
「あ、はい。今行きます」
スマホをポケットに入れる。
段ボールを抱えて、ビルを出た。
空が広かった。
十八年が、そういう感じで終わった。
翌朝から、時間ができた。
スーツを着て、いつも通り家を出る。
結衣が見送る。
駅を通り過ぎて、喫茶店の奥の席。
パソコンを開く。
証券口座。
Xのタイムライン。
平日の昼間に、これをやっている。
少しだけ、誇らしかった。
サラリーマンたちが満員電車に乗っている時間に、自分はここで相場を読んでいる。
ランキングは見ない。
あんなのは素人がやることだ。
Xを読む。
有名なアカウントを追う。
そいつが言及した銘柄を調べる。
過去のポストを遡る。
小さく入る。
小さく勝つ。
また別の銘柄。
削れる。
気にしない。
それより次だ。
そんなある朝。
靴を履こうとした直人の背中に、結衣の声が当たった。
「ねえ、今日の夜さ」
手が止まる。
「ちょっと話したいことあるんだけど」
「……うん」
ドアを閉めた。
喫茶店に着く。
パソコンを開く。
何も入ってこない。
封筒のことを考える。
引き出しの奥に、空のまま入っている。
結衣が開けていたら。
チャートが動いている。
見えていない。
大丈夫だ。
あそこは結衣が触る場所じゃない。
大丈夫だ。
コーヒーが冷めていた。
夜。
テーブルを挟んで向かい合う。
結衣はスマホを出す。
「ここ、どう思う?」
式場のサイトだった。
「口コミがよくてさ。春ならまだ空いてるって書いてあって。見積もり取ってみない?」
直人は画面を見る。
白い会場。
花。
テーブルの料理の写真。
「……いいんじゃないか」
「ちゃんと見てよ」
「見てる」
「どうせ私に全部任せるんでしょ」
「してない」
「してるじゃん」
結衣が笑う。
直人も笑う。
「春、楽しみだね」
「うん」
フライパンの音が、また始まる。
直人はスマホをポケットに押し込んだ。
翌日。
また喫茶店の奥の席。
口座に入金する。
削れる。
入れる。
削れる。
残高を確認する。
ゼロ。
結婚資金が、ない。
式の見積もりを、昨日笑いながら話していた。
コーヒーの氷が音を立てる。
まずい。
……でも。
直人はXのタイムラインを流す。
そのとき、一つのアカウントが目に止まった。
フォロワー数、二十万。
固定ポストを開く。
「〇〇、天井抜け。まだ伸びる」
リプ欄には爆益報告が並んでいる。
過去ポストを遡る。
的中。
的中。
的中。
喉が鳴る。
過去を遡るほど、精度が上がる。
これは違う。
今まで見てきたアカウントとは、レベルが違う。
ゼロになった残高画面のまま、直人は過去ポストを読み続けた。
日が暮れていた。
この人だ。




