第六話 勉強代
昨夜のレストランの余韻が、まだ体の奥に残っている。
「春、いいよね。桜の時期、絶対きれいだよ」
結衣はそう言って笑った。
机の上には式場のパンフレット。
その下に封筒。
結婚資金。
触れなくていい。
増やせるのだから。
仕事帰り、本屋に寄ったのは偶然だった。
平積みの一冊。
見慣れた証券会社のロゴ。
『初心者でも勝てる株講座』
信用取引。
逆指値。
そして太字でこう書いてある。
——最初の損失は勉強代です。
勉強代。
直人はそこで止まった。
知らなかっただけだ。
やり方を。
本気でやっていなかっただけだ。
分かれば、もっと取れる。
今の三万円は、序章だ。
翌日から、直人の視界は変わった。
会社のパソコン。
EXCELを開く。
請求書の数字を打ち込む。
その裏で、証券口座が動いている。
ランキング。
上昇率。
出来高。
数字が動くたび、呼吸がわずかに乱れる。
Alt+Tab。
足音。
閉じる。
また開く。
ランキング上位が目に焼きつく。
そこで、気づく。
——待てよ。
上位ってことは、みんな資金を入れてるってことだよな?
みんなが選んでる。
つまり、答え出てるじゃん。
分析なんていらない。
上にある銘柄を買えばいい。
喉が鳴る。
俺、天才か?
トイレに立つ。
個室。
鍵をかける。
スマホを取り出す。
ランキング一位。
信用。
購入。
逆指値。
指が震えている。
席に戻る。
請求書を打ち込みながら、
意識は常に証券口座の画面を追っている。
通知。
ロスカット。
同時に、チャートが反転して跳ね上がる。
「……は?」
意味が分からない。
またトイレ。
入り直す。
また刈られる。
刈られた直後に上がる。
喉の奥がひりつく。
「勉強代だ」
声に出して言ってみる。
言葉にすると、少しだけ楽になる。
それが数日続いた。
パソコンで監視。
数字が動くたびに心拍が上がる。
トイレで注文。
席に戻る。
刈られる。
入り直す。
刈られる。
指値を覚えて、たまに少額勝つ。
次はまた刈り取られる。
勝った記憶だけが残る。
負けは、薄まる。
勝っている気がする。
通知音が鳴るたび、胸が跳ねる。
「最近、トイレ多くない?」
同僚が軽く笑う。
「コーヒー飲みすぎてさ」
直人も笑う。
こいつは何も知らない。
その直後、通知。
ロスカット。
笑顔のまま、画面を閉じる。
Alt+Tab。
関係ない。
どうせ辞める。
銀行口座から送金。
ロットを上げる。
ランキング上位。
信用。
刈られる。
送金。
削れる。
送金。
削れる。
たまに勝つ。
また削れる。
ある夜、銀行アプリを開いた。
残高が、ほとんどない。
更新。
変わらない。
もう一度。
変わらない。
画面を閉じる指が、止まる。
ほんの一瞬だけ。
それでも。
「ここまでが勉強代だ」
本にも書いてあった。
勝つやつは、ここを越える。
机の上。
式場のパンフレット。
結衣の声。
「春、楽しみだね」
封筒。
結婚資金。
増やすためだ。
未来のためだ。
すぐ戻る。
一瞬だけ、指が止まる。
レストランの灯り。
笑顔。
桜。
封に指をかける。
紙が裂ける音が、やけに大きく響いた。
「これも、勉強代だ」




