第五話 三万円の夜
駅へ向かう途中、スマホを開いた。
結衣は、いつも通りだった。
自分も、たぶん、いつも通りに見えているのだろう。
家の中ではアプリは開けない。
今だけだ。
急いで画面を開く。
昨日の銘柄。
板を見る。
売り一色。
気配は一番下に張りついている。
数字の意味は分からない。
それでも、やばいことだけは分かる。
金が、消える。
胃の奥が、冷たくなる。
思考が止まる。
画面から目を離せないまま、改札を抜ける。
ICカードの音が、やけに遠い。
気配は一番下に張りついたままだ。
売りが積み上がっている。
このまま寄れば、削られる。
それだけは分かる。
会社の入口が近づく。
ここで閉じなければ。
親指が止まる。
閉じたくない。
でも、閉じる。
空白のまま、会社に入る。
「おはよう」
社長の声。
「おはようございます」
言ったはずだ。
ちゃんと聞こえていただろうか。
席に座る。
パソコンを開く。
いつも通りの画面。
でも頭は、まだ板にある。
8時50分。
耐えきれず、証券会社の画面を開く。
昨日の銘柄を表示する。
また気配を見る。
少し、上がっている。
売りが、減っている。
見間違いかと思う。
業務画面に戻す。
マウスを動かす。
数字を入力する。
背後で椅子が引かれる音。
肩が跳ねる。
また、板を見る。
上がっている。
胸の奥が、少しだけ軽くなる。
まだ大丈夫かもしれない。
画面を隠す。
周囲を見る。
誰も見ていない。
8時56分。
さらに切り上がる。
板が薄くなる。
呼吸が浅くなる。
喉が渇く。
唾が飲み込めない。
落ち着け。
仕事をしているふりをする。
9時。
寄る。
昨日と、ほとんど変わらない値段。
一瞬、肩の力が抜ける。
その直後。
なり買いが入る。
気配が跳ねる。
一本、長い陽線。
さらに買い。
さらに上。
止まらない。
キーボードを打つ指が、空振る。
業務画面を前に出す。
また板を見る。
五分もかからない。
ストップ高。
張りつく。
買い一色。
板が動かない。
体の奥から、何かが突き抜ける。
勝った。
視界が明るくなる。
椅子にもたれかかる。
背筋が自然に伸びる。
そのまま、板は動かなかった。
買い一色。
剥がれない。
何度見ても、剥がれない。
業務画面に戻す。
さっきまで重かった頭が、軽い。
指が速い。
数字が迷わず入る。
今日は、いける。
昨日は死にかけた。
でも今日は違う。
自分の席が、少し広く感じる。
読めている。
胸の奥で、確信が膨らむ。
その日は、最後まで剥がれなかった。
翌朝。
いつもと同じ朝。
でも、昨日とは違った。
「おはよう」
「おはよう。なんか今日は機嫌いいね」
「そうかな」
声が、少し高い。
昨日の重さがない。
いける気がする。
家を出る。
スマホを取り出す。
指が、少しだけ震えている。
アプリを開く。
昨日の銘柄。
気配を見る。
ストップ高気配。
一瞬、音が消えた気がする。
更新する。
変わらない。
買い一色。
胸の奥が一気に跳ね上がる。
これ、すごいぞ。
また増える。
昨日だけじゃない。
足取りが自然と速くなる。
仕事を辞めさせられても、問題ない。
社長の言葉が、遠くなる。
やっと、こっち側に来た。
会社に着く。
「今日は元気そうだね」
「そうですかね」
少しだけ、口元が緩む。
軽い。
本当に、軽い。
社長は知らない。
もうすぐクビにされる自分が、株でお金を増やしていることを。
昨日とは違い、証券の画面を気にせず仕事に打ち込む。
集中が止まらない。
チャットの返信も速い。
もう大丈夫だと思った。
しばらくしてトイレに立つ。
何気なくスマホを取り出す。
アプリを開く。
一瞬、意味が分からない。
張りついているはずだった。
でも違う。
剥がれている。
板が動いている。
速い。
上がる。
下がる。
また上がる。
また下がる。
胃が締め付けられる。
数字が後退していく。
さっきまで三万二千あった含み益が、二万五千になる。
また減る。
二万三千。
耳鳴りがする。
どういうことだ。
次の瞬間、数字が跳ね下がる。
一段。
また一段。
まだプラスだ。
それでも、減っている。
戻れ。
画面を更新する。
下がる。
どうしたらいい。
売るのか。
待つのか。
分からない。
さっきまで、勝っていた。
今も勝っている。
なのに、足元が崩れる感覚。
指先が冷たい。
一万二千円。もう限界だ。
仕事中だ。
席に戻らないといけない。
スマホを閉じる。
席に戻る。
業務画面を開く。
数字を打つ。
意味が入らない。
視線が勝手に、もう一つのタブへ行く。
板。
また下がる。
戻る。
また下がる。
請求書。
銘柄。
請求書。
銘柄。
次、跳ねたら。
次、戻ったら。
その瞬間に売る。
もういい。
一瞬、そう思う。
その瞬間。
数字が跳ねる。
一段、上。
また上。
戻った。
さらに上。
今だ。
――でも、ここでは触れない。
指が止まる。
立ち上がる。
「すみません……ちょっと……トイレ」
声が少し荒い。
急ぎ足で廊下を抜ける。
個室に入り、鍵をかける。
震える指で、スマホを開く。
売りたい。
だが――
売り方が分からない。
注文画面。
成行。
指値。
頭が真っ白になる。
「株 指値 出し方」
検索。
"指値=値段を指定する"
それだけ拾う。
取得単価を見る。
今の株価を見る。
三万円。
それだけは、残したい。
だいたいでいい。
戻りそうなところ。
売り。
指値。
価格欄。
一桁、間違える。
戻る。
打ち直す。
確認。
押す。
板を見る。
近づく。
触れる。
抜けた。
「約定」
売れた。
その場に崩れそうになる。
画面を見る。
プラス。
三万円。
確定。
何度更新しても消えない。
笑いが込み上げる。
手が汗で濡れている。
勝った。
鏡に映る自分の目が、少し鋭い。
──
会社を出る。
足取りが軽い。
「今日、外で食べない?」
自分でも驚くほど、声が軽い。
「どうしたの?」
「ちょっと、臨時収入」
本当のことは言わない。
たった数日で、三万円。
次もできる。
レストランの灯りが、やけに明るい。




