第四話 焦燥
翌朝、目覚ましの音で目が覚めた。
昨日、社長に言われた言葉が、まだ残っている。
一か月後、収入は止まる。
そのことを、まだ結衣に言っていない。
「おはよう」
キッチンから声がする。
「おはよう」
直人はいつもと同じ調子で返す。
声が震えていないか、自分で確かめる。
鏡の中の顔は、普段と変わらない。
変わっていないふりをしているだけだ。
味噌汁を飲む。
結衣は、いつも通り今日の予定を話す。
直人は相槌を打つ。
頭の中では別のことを考えている。
一か月後、どうする。
次の仕事は。
貯金はどれだけもつ。
式の費用は。
生活費は。
稼がなければいけない。
何とかしなければいけない。
十万円は、そのための一つの手段にすぎない。
「今日、帰り遅い?」
「いや、普通」
普通、と答える。
普通でいられる時間は、もう長くない。
財布をポケットに入れる。
紙が入っている。
それが救いになるのかどうかは、まだ分からない。
ただ今は、希望だと思うしかない。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
ドアを閉めた瞬間、深く息を吐いた。
階段を下りながら、同じ考えが頭を回る。
やるしかない。
投資で、何とかするしかない。
一か月ある。
まだ終わっていない。
不安は消えない。
それでも――できるかもしれない。
根拠はない。
経験もない。
だが、成功している人はいる。
自分だけが無理だとは、言い切れない。
十万円は小さい。
けれど、ゼロではない。
やり方次第で、変わるかもしれない。
不安と一緒に、妙な高揚も混ざる。
怖い。
でも、少しだけ、いける気もしている。
足取りが、わずかに軽かった。
会社へと向かった。
会社に着くと、いつもと変わらない空気が流れていた。
蛍光灯の音。
キーボードの音。
「おはようございます」
「おはよう」
それだけ。
昨日のことには、触れない。
触れられないほうが、正直ありがたい。
直人も席に座る。
パソコンの電源を入れる。
業務システムを立ち上げる。
数字を打ち込もうとする。
だが、意味が入ってこない。
一か月。
十万円。
まず入金。
それから、あの銘柄を買う。
同じ順番が、頭の中で何度も回る。
今日やる。
今やるしかない。
今しかないんだ。
仕事中だ。
関係ない。
一か月後には、ここにいない。
時計を見る。
8時56分。
まだだ。
8時57分。
鼓動がうるさい。
仕事中だ。
こんなことを考えている自分が、まともとは思えない。
それでも止まらない。
8時58分。
立ち上がる。
「トイレ行ってきます」
声が少し速い。
個室に入る。
鍵をかける。
ここからだ。
ここから変わるんだ。
8時59分。
財布から、あの紙を出す。
銘柄コード。
震える指で入力する。
一桁間違える。
戻る。
紙を見る。
打ち直す。
表示された銘柄。
画面に赤い数字が並んでいる。
昨日見た値段より、高い。
数字が、ときどき変わる。
仕組みは分からない。
でも、上に行きそうな気がしてならない。
置いていかれそうな気がする。
時計を見る。
9時。
始まった。
板が一斉に動く。
赤い数字が跳ねる。
一段、上。
また上。
買い板が薄くなる。
取られる。
急がないと。
画面を切り替える。
入金。
ボタンを押す。
違う画面が開く。
銀行を選択する。
指が滑る。
戻る。
もう一度。
数字が動く。
また上に行く。
間に合わない。
残高はゼロ。
まず入金しないと買えない。
分かっている。
分かっているのに、手順が頭に入らない。
パスワード。
入力。
一桁間違える。
エラー。
戻る。
板を見る。
さらに上。
置いていかれる。
早く。
早く。
指が震える。
深呼吸。
もう一度、数字を確認する。
紙を見る。
口座番号。
打ち込む。
確認。
振込金額。
100000。
一瞬、指が止まる。
これでいい。
確定。
画面が切り替わる。
処理中。
板を見る。
また上。
さらに上。
間に合わない。
まだ反映されない。
残高、ゼロのまま。
遅い。
遅すぎる。
更新。
まだ。
更新。
まだ。
一分。
二分。
十分、二十分にも思える。
早く。
早くしろ。
ようやく。
残高が変わる。
100000。
買える。
すぐに銘柄画面へ戻る。
値段が上がっている。
さっきより高い。
迷っている時間はない。
成行。
数量。
確認。
押す。
約定。
買えた。
一瞬だけ、息が抜ける。
その直後。
数字が下がる。
一段。
また一段。
自分の値段だけが、そこに取り残される。
赤が消える。
緑に変わる。
含み損。
頭が真っ白になる。
仕事中だ。
戻らないといけない。
画面を閉じる。
立ち上がる。
足が少し重い。
席に戻る。
請求書を開く。
数字を打ち込む。
意味が入らない。
横の画面で証券会社の銘柄を開く。
仕事中だ。
分かっている。
それでも目が離せない。
何をやっているんだ。
下がっている。
請求書。
銘柄。
周りに見られていないか気にしながらも、目が離せない。
請求書。
銘柄。
集中できない。
時間だけが進む。
15時30分。
大引け。
わずかな含み損。
金額は大きくない。
それでも、評価額が減っている。
これで本当に、儲かるのか。
売れば確定する。
売れない。
持てば不安が続く。
何もできない。
こんなに疲れるのか。
ただ、見ていただけなのに。




