表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/12

第三話 一枚の紙

ホームのベンチに座ったまま、直人は電車が通り過ぎるのを何本も眺めていた。


帰る気が起きなかった。


スマートフォンを握っていることにも、しばらく気づいていなかった。


視界の端に、さっきのポスターの文字が焼き付いている。


――会社に頼らない収入。


親指が、無意識に画面をなぞっていた。


気づけば検索していた。


同じ言葉を打ち込み、似たような広告をいくつも開く。

どれも同じような文句だった。


「少額から」「初心者歓迎」「今からでも間に合う」


直人は何を読んでいるのか、よく分かっていなかった。

ただ、止まれなかった。


ひとつのページを開く。

さきほど見たロゴと同じものが表示される。


今日、開催。

19時開始。

会場――駅前徒歩3分。


時計を見る。

まだ間に合う。


心臓が、少しだけ速くなる。


立ち上がっていた。


ホームを出る。

改札を抜ける。


人の流れに逆らうように歩く。


自分がどこへ向かっているのか、はっきりとは理解していない。

ただ、行かなければいけないと思った。


今動かなければ、終わる。


結婚がある。

式がある。

年齢もある。

迷惑はかけられない。


エレベーターの案内板に、セミナー会場の階数が表示されていた。

直人は何も考えないまま、そのボタンを押した。


扉が開いた瞬間、白い壁にロゴが貼られていた。

受付カウンターの向こう、壁面の大型モニターがいくつも並び、株価指数と為替が無音で流れている。

通路の先には人の列ができていた。


「本日のセミナーですね。こちらにご記入お願いします」


受付の女性が丁寧に頭を下げる。落ち着いた声。慣れた手つきでペンと用紙を差し出す。


名前、住所、年齢。


年収の欄で、手が止まった。

いまさら正直に書いたところで、何が変わるのか。そう思いながら、だいたいの数字を埋める。


最後にチェック欄。


【個別相談を希望する】


迷う感覚はなかった。丸をつけた。


「ありがとうございます。会場はこちらです」


椅子が規則正しく並び、前方には大きなスクリーン。

机の上には資料が揃えられている。

スーツ姿の会社員、年配の夫婦、若い男女。

雑談の声が小さく広がっていた。


直人は空いている席に座り、資料を開いた。紙の匂いがする。こういう場所に来たのは初めてだった。


照明が落ち、講師が前に立つ。


「本日はお忙しい中、お越しいただきありがとうございます」


スクリーンにグラフが映る。赤と緑の線が上下する。


「相場は、知っているかどうかで差がつきます。初動を取れた人から、楽になります」


楽になる。


直人は資料から目を離せなかった。


内容は半分も分からない。

分からないのに、見てしまう。


ここで入れば。

ここで売れば。


説明は整っている。

数字も資料も無駄がない。


世界が"正しい手順"で動いているように見えた。


終わる頃には、直人の喉が乾いていた。


拍手が起きる。

周囲が立ち上がる。


「個別相談にチェックをつけていただいた方は、こちらへどうぞ」


直人は流れに乗って歩いた。


ブースがいくつも並ぶ。

小さな机と椅子。

仕切り。

外の音が、急に遠くなる。


三十代前半ほどの男性が名刺を差し出す。


「本日はありがとうございます。神谷様ですね」


直人はうなずく。


「ご結婚を控えていらっしゃる、と。資金のこと、少し焦りがある感じですか」


「……はい」


声が自分のものではないように聞こえた。


営業は質問を続ける。


いくら必要か。

いつまでか。

貯金はいくらか。

毎月いくら残るか。


数字に直すたび、逃げ道が減っていく。


「証券口座はお持ちですか?」


「昔……大学の頃に、たしか作ったような……でも使ってないです」


社名を告げると、営業の手が一瞬止まった。

すぐに笑顔に戻る。


「確認しますね」


数秒後。


「あります。口座、残っています」


画面がこちらに向けられる。


確かに自分の名前。

しかも、いまいるこの会社のロゴが表示されている。


胸の奥が、妙に熱くなる。


偶然にしては、出来すぎている。


十八年前、流行に乗って作っただけの口座。

何も始めなかった口座。


それが、いま目の前に残っている。


今なんだ。


直人はそう思った。


「入金さえすれば、すぐに取引可能です」


営業は声を落とす。


「実は、いま一銘柄だけ面白いものがあります。ここだけの話ですが」


紙が一枚、机に置かれる。


数字と、短い銘柄名。


意味は分からない。

だが、そこに"道"があるように見えた。


封筒の十万円が浮かぶ。


「……これで、できますか」


「十分です。最初はそのくらいがいいです」


営業は画面を示す。


「ログイン。入金。注文」


矢印と三つの単語。


直人はそれを見つめる。


理解できていないのに、理解できた気になる。


紙一枚が、やけに重い。


ビルを出ると、夜の空気がひんやりしていた。


ポケットの中の紙を何度も確かめる。


十万円。


この十万円を元手に、うまく増やせれば。


株で成功している人はいる。

自分だって、できないとは限らない。


なんとかする。


今はまだ、言わなくていい。

結果が出てからでいい。


そう思い、帰り道、ATMに寄った。

封筒の十万円を、口座に入れた。


玄関を開ける。


「おかえり」


「今日、遅かったね」


「うん、ちょっと寄り道」


フライパンの音がする。


直人はポケットの中の紙を握った。


この十万円で、何かが変わる。


そう、信じた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ