第十二話 知らない世界
昨日は、ほとんど寝られなかった。
起きていることが何なのかも分からなかった。
これが現実なのかどうか。ここは何なのか。まずは理解する必要があると思った。
頭の中はまだぐちゃぐちゃだ。
自分はエミルというらしい。赤ん坊でもない。
小さな手を眺めながら思った。
最強の能力。神様との取引。貴族への転生。
そういう話を、前の世界で読んだことがあった。
薄汚れた服。今にも壊れそうな家の天井。
そんな話はなかった。
早くしないと。あいつらに会えば殴ってくるかもしれない。
恐る恐る体を起こし、部屋を出た。
「エミルどこに行くの?」
台所で料理を作っていたエルナが言った。
「ちょっと、散歩に行く」
「そうなの?ご飯食べてないでしょ?大丈夫?」
お腹は空いていた。ただ、なによりもこの状況を早く整理したかった。
「……うん」
「お姉ちゃん、あの人たちは?」
「ダメでしょ。あの人たちなんて言ったら。お父さんとお母さんよ」
「私たちを産んでくれたんだからね…」
エルナは自分に言い聞かせるように言った。
「まだ寝てるから、今のうちに出かけておいで。」
「お姉ちゃんは外に行かないの?」
エルナが殴られている姿がまだ脳裏に焼き付いて、思わず言葉が出た。
「私は夕方に買い物に行くから、まずご飯作っておかなきゃ」
「そうなんだ。お姉ちゃん、昨日みたいなことがあったらすぐに家出てね」
エルナは少し黙った。
「やっぱり、エミルは昨日から変ね。いつもはこんなにしゃべらないのに」
「じゃあ、ちょっといってきます」
「気をつけていってらっしゃい」
そう言うと家を出た。
外は知らない世界が広がっていた。色褪せた今にも崩れそうな家が立ち並び、湿った風が吹いていた。ドブみたいな匂いがして吐き気すらもよおした。
道は舗装されていない。土が剥き出しのまま、雨の跡がそのまま固まっている。行き交う人もほとんどいない。活気という言葉が、この場所には存在しないようだった。
ここは一体何なんだ。
「おい、エミル〜」
小さな二つの影がこっちに向かって歩いてくる。
「遊びに来たぞ〜」
多分友達のようだ。
「あっどうも。で誰だっけ?」
思わず声が出た。40歳のおっさんの挨拶だ。
「何だよそれ。誰だっけって。毎日遊んでんだろうが」
その子は笑いながら答えた。
「ちょっと昨日から記憶喪失みたいになってるんだ」
「何だそれ。ふざけるのもいい加減にしろよ」
その子はちょっと怒った様子で答えた。
ここは大人なりの誠意を見せようと真面目な顔を作った。
「いや本当なんだ。お前らだけにしか言えないんだけど」
「お前らと仲がいいのはわかってるんだ。だけど名前とかもわかんないんだよ」
「そうなのー?」
初めてもう一人の女の子が言葉を発した。
「可哀想だから教えてあげようよ」
この女の子は気が利くなぁ。将来はきっとモテる女性になるだろう。
「しょうがないなぁ〜。お前の悪ふざけに付き合ってやるか」
いや、若干は違うが本当のことなんだが……
「俺はアルト・レインだ。おじいちゃんとおばあちゃんとここに住んでる」
「私はレナ・イリスだよ」
二人はアルトとレナというのか。
「俺はエミル。苗字は何だっけ?」
ここはすっとぼけた感じで聞き出すべきだ。
「お前、自分の苗字も忘れてるのか?本当かわからんけど」
「お前の苗字はルークスだよ。エミル・ルークス」
あの家族はルークス一家だったのか。
「なんか少しだけ思い出してきた気がする」
そう言葉に出した。
「あのさ〜ここの村はなんでこんなに寂れてるんだ」
アルトは少し考えた様子で答えた。
「おじいちゃんから聞いた話だけど、ここはNull村っていうらしいよ。能力がない人が住んでる村らしい」
「へぇ〜私も知らなかった。アルトはいつも物知りだね」
レナが言った。
「そうだろー。もっと褒めて〜」
アルトは自慢気に言った。
「遠くに行けば大きな街で人がたくさんいるところもあるらしいよ。おじいちゃんとかは都会はろくな場所じゃないっていつも言ってるけどね」
Null村。能力がない人間が集められた場所。
能力というものがこの世界の序列を決めているらしい。
「能力って何なの?」
「詳しいことはよくわからないけど、能力によって住む場所が違ったりするらしいよ」
「能力は人によっていつ目覚めるかわからないみたいなことも聞いたことあるよ。目覚めない人がこういう村に来るらしい」
「レナはよくわかんない」
この歳で知っている方がおかしい。ただ、能力に応じた差別がこの世界の根底にあることは分かった。
「俺は将来大きな街に行って冒険者になるんだ。能力は目覚めるかわからないけど」
「そのためにいつも木刀で剣の練習とかしてるんだぜ。お前にもつきあわせてるんだが」
「そうなんだ。能力がなくても剣技とかだけで冒険者になれたりするのかな?」
「うーん。そこまで詳しくないけど。冒険者になれるとは聞いたけどね」
さすがにこの歳の子がそんなに分かるわけないか。
「ちなみに俺たちって何歳だっけ?」
「おい、おまえ〜。みんな5歳だろ」
アルトは呆れた様子で言った。
5歳か。前の世界では考えられない会話をしている。
「そういえばレナって将来なんかなりたいとかあるの?」
アルトが聞いた。
「まだ全然考えてない。ただ、二人とずっと一緒にいれたらいいかな」
「そうだな。ずっと一緒にいよう。この三人で」
アルトはちょっと大人びた表情で言った。
この村は見回しても人の気配が薄い。生まれた時からずっと、三人で過ごしてきたのだろう。
「エミル〜ご飯を作るから今日も手伝ってよね」
エルナの声がした。買い物から帰ってきたようだ。気がつけばもう夕方になっていた。
「二人ともいつもエミルと仲良くしてくれてありがとうね」
エルナは昨日とは別人のように明るかった。
「うん、明日はエミルにいつもの稽古付き合ってもらうからな。今日は話し込んじゃったし」
アルトは言った。
「私は見てる〜」
レナが反応した。
「じゃあ、帰るわよ。二人も気をつけて帰るのよ」
「はーい。また明日」
「じゃあーねーエミル」
二人を見送った後、エルナに思わず話しかけた。
「お姉ちゃん、今日は大丈夫だったの?」
さすがに今日もあんなことがあったら家に帰るわけにはいかないと思った。
「うん、今日は大丈夫。毎日じゃないんだ。昨日みたいなこと」
「お父さんがお酒飲みだすとね。それ以外は普段は優しいところもあるんだよ」
子供を殴る親に優しい奴なんかいないと思うんだが。
「今度、ああいうことがあった時は一緒に外へ逃げよう」
もうあんなことは勘弁だ。
「エミルは優しいのね。今までとは別人みたいだけど」
俺は言葉に詰まった。
「うん。でも今度は俺が守るから」
今の小さな体でできることは少ないかもしれない。
でも、そう言いたかった。
エルナに聞きたいことや知らないことはまだたくさんあった。
それでも、今感じたこの気持ちだけは、本物だと思った。




