第十一話 虚ろ
遠くで、怒鳴り声がする。
目を開けると、誰かが自分の前に立っていた。
小さな背中だった。酒の匂いがした。
「お父さん、もうやめて」
「私はどうなってもいいから、エミルには手を出さないで。まだ小さいんだから」
声が震えていた。それでも、動かなかった。
「うるせぇ」
「ガキは黙ってろ。金ばっかり使いやがって、飯食わせるのもただじゃねーんだぞ」
その男が、女の人を殴った。
一発。また一発。鈍い音がした。
俺は動けなかった。声も出なかった。
死んだはずじゃなかったのか。ここはどこだ。
ただ、その背中を見ていた。
それでも女の人は、俺を守ったまま動かなかった。何発殴っても、動かなかった。
扉の向こうで、別の女が見ていた。
壁に背をつけて、腕を組んでいた。口元だけが、わずかに上がっていた。
「お前らの使い道なんて殴られることだけだろうが。大人しくしてろ」
それだけ言って、男はその場を離れた。
足音が遠ざかる。扉が閉まる。
静かになった。外で鳥が鳴いていた。
しばらく、誰も動かなかった。
「もう大丈夫だからね。エミル」
女の人が振り向いた。頬が赤くなっていた。それでも笑っていた。
エミル。今、そう呼ばれた。
分からないことだらけだった。さっきまで殴られていたのに、この人は笑っていた。
「……ここはどこ?」
思わず声が出た。女の人がわずかに目を丸くした。
「……おい」
男の声が、奥からした。
「飯はどうした」
「……今から、作る」
「遅ぇんだよ。飯ぐらいちゃんと用意しとけや」
返事はなかった。
女の人は何も言わずに、台所へ向かった。俺も、その後ろについていく。
「……手伝う」
なぜそう言ったのか、自分でも分からなかった。
女の人が振り向いた。少しだけ、目が丸くなった。
「ありがとう」
狭い台所だった。棚を開け、鍋を取り出した。
「さっきここはどこって言わなかった?」
「……エミル、ちょっとそこ持ってて」
水の入った容器を指さす。
「ここはあなたのお家だよ。今日はどうしたの?」
「……うん」
俺はそれを持った。少し重かった。
「大丈夫。ゆっくりでいいよ」
さっきとは違う声だった。
「あの人たちは誰なの?」
「あの人たちはお父さんとお母さんだよ」
女の人の手は、少しだけ震えていた。でも、包丁を持つと、止まった。
「今日はなんか変だね、エミルは」
野菜を切る。トン、トン、と音が続く。
さっきまで聞いていた音とは、違う。
「……あなたは」
「お姉ちゃんだよ」
「……名前は」
「エルナ。知ってるでしょ」
エルナ。この人の名前はエルナ。
覚えておかないといけない気がした。理由は分からなかった。
「まだか!早くしろ!」
奥から声が飛ぶ。エルナは何も答えない。ただ、切り続ける。
鍋の中で水が揺れる。切ったものを入れる。木のスプーンを渡される。
「混ぜてくれる?」
「……わかった」
ゆっくり動かす。ぐつぐつ、と小さく鳴る。奥の声が、少し遠くなる。
「本当に今日変だよ、エミル。なんかあった?」
「……なんでもない」
エルナがこちらをじっと見た。それから、何も言わなかった。
視線を、どこに向ければいいか分からなかった。
ふと、棚の奥に折りたたまれた紙が見えた。
開いてみると、英語に近い文字と数字が並んでいた。金額らしきものが書いてある。借用書だろうか。
「Golt Lukes (M)」「Julia Lukes (F)」
ゴルト。ジュリア。名前だけが、頭に残った。それ以上何も考えられず、そっと棚へと戻した。
しばらくして、エルナが火を弱める。
「……これでいいかな」
奥から足音が近づいてくる。
エルナの手が、一瞬止まる。それでも、すぐに動いた。器によそう。震えは、もうなかった。
テーブルに並べた。
ゴルトが来て椅子を引いた。音が大きかった。ジュリアも来て、ゴルトの隣に座った。ゴルトに向けて、作ったように笑っていた。
ゴルトは座るなり箸を取った。一口食って、箸を置いた。
「味が薄い」
ゴルトがエルナを見た。エルナは黙って視線を落とした。
「ほんとね」
ジュリアが冷たい声で言った。誰も何も言わなかった。
俺はエルナの隣で、黙って食べた。
それでも、なぜか美味しく感じた。不思議だった。
ただ、なぜここにいるのか。自分には分からなかった。




