第十話 梁
翌朝。
スーツを着る。
「いってきます」
返事がなかった。
結衣は、キッチンに立っている。
「いってきます」
「……うん」
ドアを閉める。
行くところが、なかった。
会社はない。
喫茶店に入る金もない。
家には、もう居場所がない。
駅を通り過ぎる。
公園のベンチ。
スマホを開く。
別の証券会社に、口座を開いていた。
口座を確認する。
闇金から借りた金が、入っている。
チャートを開く。
あの銘柄。
まだ上がっている。
取り戻せる。
借金が返せる。
結婚資金が戻る。
結衣に、全部話せる。
全部、取り戻せる。
指が動いていた。
自分でも気づかないうちに、動いていた。
信用取引。
全力。
買う。
約定。
画面を見つめる。
持っている。
その直後、ストップ高になった。
張りついている。
やはり、間違っていなかった。
このまま上がり続ける。
そういうことだ。
翌朝。
8時。
板を開く。
気配値が、一番下に張りついていた。
ストップ安。
一瞬、意味が分からなかった。
板を見る。
売り、2,200,000。
買い、1,200。
更新する。
変わらない。
何かの間違いだ。
もう一度更新する。
売りが、また増えている。
売り、2,201,400。
買い、800。
買いが、減っている。
違う。おかしい。
昨日はストップ高だった。
8時半。
上がってくれ。
更新する。
売り、2,202,600。
買い、600。
頼む。
8時45分。
更新する。
変わらない。
頼む。
上がってくれ。
何かの間違いであってくれ。
9時近くなっても、気配は動かなかった。
9時。
寄り付き。
ストップ安。
売れない。
ただ、張りついている。
15時。
引け。
出来高、1,200株。
わずか1,200株だけが約定した。
売り残、2,198,800株。
たった100株売り抜けることが、
東大理三に合格するより難しかった。
直人が持っているのは、一万株だった。
闇金で借りた金。
スマホを強く握りしめた。
地面に叩きつけそうになった。
手が、震えていた。
家に帰ると、結衣が夕飯を作っていた。
「おかえり」
「……ただいま」
テレビの音だけが流れていた。
結衣は何も聞かない。
直人も、何も言えない。
夕飯を食べた。
味がしなかった。
普通の夜のふりをしていた。
それが、一番きつかった。
部屋に入る。
頭の中で数字がぐるぐる回っている。
2,200,000。
1,200。
止まらない。
眠れなかった。
朝4時。
板を開く。
まだ夜中だ。
分かっている。
でも開いてしまう。
それを何度も繰り返した。
それから四日間、同じことが続いた。
毎朝スーツを着た。
なぜ着るのか、分からなくなってきた。
ドアを閉めた。
公園のベンチに座った。
板を開いた。
売れなかった。
消費者金融の督促が来ている。
闇金からも連絡が来ている。
着信を見るたびに、胃が縮む。
全部既読にして、閉じた。
また来る。
また閉じる。
結衣の顔が、浮かぶ。
式場のパンフレットが、浮かぶ。
どうすればいいのか、分からなかった。
少しずつ、削れていった。
五日目。
ボタンがうまくかけられなかった。
何度もやり直した。
結衣が見ていた。
何も言わなかった。
その沈黙が、怖かった。
公園のベンチ。
板を開く。
ストップ安。
含み損、五百八十万。
隣のベンチで、老人が鳩に餌をやっていた。
鳩が集まってくる。
老人が笑っている。
なぜか、泣きそうになった。
この人は今日も明日も、ここに来るんだろう。
俺には、もう明日がないかもしれない。
六日目。
朝、スマホを見た。
着信が十二件あった。
全部、知らない番号だった。
板を確認する。
ストップ安。
含み損、六百六十万。
スマホを閉じた。
気づいたら、繁華街を歩いていた。
みんな、普通に歩いている。
笑いながら話している人がいる。
胸の奥で、何かが切れた。
「なんで——」
声が出ていた。
「なんでこうなるんだ——」
人が避けていく。
「俺が何かやったのか——」
泣いていた。
叫んでいた。
周りが、遠ざかっていく。
白い目が、刺さる。
構わなかった。
声が枯れるまで、叫んでいた。
誰も、止めなかった。
誰も、声をかけなかった。
みんな、遠巻きに見ていた。
それが一番きつかった。
七日目。
朝、目が覚めた。
眠れたのか、眠れなかったのか、分からなかった。
スーツを着る。
結衣の背中が見えた。
何も言えなかった。
公園のベンチ。
板を開く。
値幅制限が、拡大されていた。
六日間連続ストップ安。
証券取引所のルールで、制限値幅が広がった。
売りが、捌け始めている。
売れる。
でも、喜べなかった。
どうせ、強制決済される。
分かっていた。
通知が来た。
【強制決済のお知らせ】
何も感じなかった。
しばらくして、また通知が来た。
強制決済、完了。
口座残高。
マイナス、304万。
闇金の元本も、ほとんど消えていた。
わずか一週間で、七百五十万以上が消えた。
借金だけが、残った。
合計、一千万以上。
スマホを伏せる。
公園の木が、風に揺れている。
老人は、今日もいた。
鳩に餌をやっている。
笑っている。
終わった。
その日の昼。
結衣から着信があった。
「ねえ、なんか怖い人が来てるんだけど」
声が震えていた。
「インターホン越しに、お金の話をしてて——」
胃の奥が、一瞬で冷たくなる。
「今すぐ帰る」
公園を飛び出した。
走った。
もう終わった、と思いながら走った。
マンションに着いた。
階段を急いで上がる。
廊下に、男が立っていた。
スーツだが、普通の会社員ではない雰囲気だった。
直人を見ると、近づいてきた。
「神谷さん、金返してもらわないと困るんですよ」
低い声だった。
「今すぐ用意してください」
「……今は——」
「今すぐ、って言ってるんです」
男の目が、笑っていなかった。
部屋のドアを開けた。
男が革靴を差し込んだ。
ドアが閉まらなかった。
そのまま、押し入ってきた。
結衣が立っていた。
直人と男を、交互に見ている。
男は結衣を見た。
上から下まで、ゆっくりと見た。
「奥さん、売り物になりますね」
結衣が、直人の腕を掴んだ。
男が、結衣に近づいた。
「うちの系列、向いてると思いますよ」
そのまま、髪を掴んだ。
「やめろ——」
直人が飛びかかった。
男が振り返った。
胸ぐらを掴まれた。
壁に押しつけられた。
息ができなかった。
腹に、一発入った。
崩れ落ちそうになった。
男が耳元で言った。
声が、低かった。
「金返さない方が悪いんですよ」
「……」
「奥さんも巻き込んで」
「……」
「みっともないですね」
男は直人を見た。
「五百万以上ありますよ、残高」
「100万、来週までに。利子分だけでいいんで」
「払えなかったら、わかってますよね」
それだけ言って、去っていった。
しばらく、誰も動かなかった。
結衣が、直人の腕を掴んでいた。
震えていた。
廊下に、二人で立っていた。
結衣が泣いていた。
声を出さずに、泣いていた。
直人は、腹を押さえていた。
何も言えなかった。
しばらくして、結衣が部屋に入った。
直人も、後に続いた。
何も言わず、向かい合わせに座った。
結衣が、口を開いた。
「借金、いくらあるの」
「……千万以上」
結衣の顔が、変わった。
「……え」
「……」
「千万って」
「……」
「どこから借りたの」
「……消費者金融、三社」
「三社」
結衣は繰り返した。
「それだけ?」
「……」
「それだけ?」
「……闇金にも、借りた」
結衣は、しばらく黙っていた。
立ち上がった。
「ちょっと待って」
声が震えていた。
「何年、一緒にいたと思ってるの」
「……」
「なんで言ってくれなかったの」
「仕事のことも黙ってて、借金まで作って、全部黙ってたじゃない」
涙が出ていた。
「信じてたのに」
「……」
「結婚しようとしてたのに」
声が、割れた。
「私のこと、信用してなかったの」
「そうじゃ——」
「じゃあなんで」
泣いていた。
叫んでいた。
直人は、見たことがなかった。
結衣がこんなふうに泣くのを。
こんなふうに怒鳴るのを。
「結婚資金で返せばいいじゃない」
「……」
「結婚資金、あるでしょ」
答えられなかった。
結衣の顔が、変わった。
「……ない、の」
「……」
「なんで」
「……使った」
「何に」
「……株に」
結衣は、しばらく動かなかった。
「全部、全部——」
声が途切れた。
床にへたり込んだ。
泣いていた。
しばらくして、顔を上げた。
「……なんで一人でやってたの」
誰にも言えなかった、と言いたかった。
言えなかった。
机の上の式場のパンフレットが、目に入った。
立ち上がった。
掴んだ。
「返してよ、全部——」
破った。
「こんなの、もう……」
もう一度、破った。
直人は、止められなかった。
結衣は、そのまま部屋に入った。
ドアが閉まった。
直人は、リビングに一人で座っていた。
破れたパンフレットが、床に落ちている。
直人は、拾った。
合わせても、元には戻らなかった。
翌朝。
結衣がスーツケースを引いていた。
「結衣——」
「別れよう」
静かだった。
怒鳴らない。
泣かない。
ただ、静かだった。
「待って」
結衣が立ち止まった。
「……」
何か言わないといけない。
何か言えば、変わるかもしれない。
でも、何も出てこなかった。
謝罪も、言い訳も、全部薄っぺらく感じた。
「……結衣」
「昨日、全部聞いた」
「……」
「私は信頼できない人と、一緒にいられない」
「……」
「ずっと一緒にいたかった」
「ごめんね」
直人は、何も言えなかった。
ごめんね、という言葉が、一番きつかった。
怒ってくれた方が、よかった。
ドアが閉まった。
部屋に、直人だけが残った。
静かだった。
会社がない。
金がない。
結衣がいない。
借金だけが、残った。
やり直せる気がしなかった。
やり直す理由も、なかった。
怒りも、悲しみも、もう出てこなかった。
もう、何もなくなった。
ただ、静かだった。
もう、いいか。
寝室に入った。
クローゼットを開けた。
ネクタイを取り出した。
梁を見上げた。
椅子を引いた。
ゆっくりと、目を閉じた。




