EP0
「二十年物のコムニン荘園の葡萄酒が喉を滑り落ちるときの、あの微かに痺れる甘さすら忘れてしまえるかもしれない。だが——苦難だけは、決して忘れてはならない。」
セルリーナは茫然と、オフィーリア三世の乗った馬車が道の果てへと消えていくのを見つめていた。帝国第三代の女帝は、先代たちと同じく、喧噪の中で姿をさらすことを好まない。必要な場面を除けば、太陽の下で黒髪が瀑布のように流れ落ちるその“権力の代行者”を、臣民たちが目にする機会はほとんどない。
「どいて!どいてくれ!」
オラヴェルは目の前の肩という肩を力任せにかき分けていた。その隣を進むセヴィニータはただ黙って前へ進むだけで、背後から押し寄せる圧力に人々が自然と道を開ける。
「ヴィニー、力任せに押すだけじゃ、あいつらは四方八方に散るばかりだ。追いつめれば、今みたいに——肋骨に一発くらう羽目になるんだよ。」
ヨーン老人の髭は「ススッ」と震え、真っ黒に汚れた皺の一本一本が、膏薬をつまむ指に合わせて動く。セヴィニータの鼻は、草薬と硫黄の混じった匂いにびくりと震えた。膏薬が腰の脇に腫れ上がった皮膚へ触れると、冷たさが骨の奥へと滲みこんでゆく。激しい衝突で揺さぶられた眩暈から、ようやく少し意識が戻った。
「だが誇っていいぞ。オラヴェルの親父母さんの代まで遡っても、お前が一番長く踏ん張ったんだからな。」
セヴィニータは言葉を発しようとしたが、筋肉が連動して痛み、思わず「っ……」と息を吐いた。
「……誰も、じいさんのあの犬……いや、狼の面を役に立つと思わなかったわけ?」
ヨーンは揺らめく炉火の火花のそばで、粉筆を握り、壁に四本の縦線へ横線を一本引き、「終わり」を記した。
「いなかったさ。じゃなきゃ、こんなに小ぶりの膏薬を常備するわけないだろう?」
四つの横線に一つの縦が掛けられた刻み目は、すでに壁の半分を埋めていた。
「まあ、最後に役に立ったのは確かにあったけどな。」
「そりゃもう百年近く前のことだ。帝都で何か騒ぎがあったらしくて、温泉に来ていた連中が誰一人戻れなくなった。家族総出で外海へ向かうってんで、この辺りを通り抜ける避難民で、どの部屋もぎゅうぎゅう詰めだった。」
「水と魚は十分だったが、野菜と赤身肉は本当に厄介だった。帝都から来る船に積まれてるのは人ばかりで、リンゴ半籠詰める隙間すらない。毎朝は五船分が入港し、午後には三船分が逆方向へ出ていく。外海の航路図はお前も知ってるだろ?まして島嶼の向こうから来るのは香辛料が主だ。帰りに一船分積んでも、魚をもっと塩っ辛くするくらいのもんさ。」
――百年前、彼女はそんなペロ島の雨夜を、ふとした一歩で踏みしめたのだ。




