33. 暗がりの中で
暗雲が垂れこめてから躊躇いがちにぽつぽつと振りはじめた雨は次第に重く激しく地面を打ち付け、一刻もしないうちに外は大荒れになった。
キョウは部屋に転移するなり深いため息を吐いて、たっぷりと水を含んで重くなった上着を脱ぎ、椅子にかけた。
長い髪と服は身体に張り付くほど雨に濡れ、毛先からは一秒一秒大粒の雫が滴り落ちる。
本来であれば王城の一角から隠れ家までの転移で雨に降られることなどあり得ないのだが、今回は運が悪かった。
それはこの雨が自然現象ではなく、魔法によるものであることを示していた。
そう言いきれるのは、以前にもこれと同じ不運を経験していたためだ。
気まぐれな魔法使いが、悪戯をはたらいているのだ。
キョウはそのまま身体を暖めるよりも先に、机の上に城から持ち帰ったいくつかの記録の写しを広げた。
契約書のようなものから文字でびっしり埋め尽くされた法律関係のものまで様々な書面が並ぶ中、手元にある書類の一文を険しい顔でなぞった。それは平民の戸籍の写しだった。
紙の左端に人名が綴られている。
" エマ・アドリエ "
つまりはエマのものだった。平民の戸籍は残念ながら網羅されておらず、現状登録数は6~7割程度と言われているが、エマの場合父親が商会を立ち上げる際に必要となったのだろう、家族分も含めて同じタイミングで登録されていた。内容は要約するとこうだ。
エマ・アドリエ
アドリエ商会長コスタ・アドリエとその妻アンナ・アドリエの長女として15年前に誕生。
妹がその4年後に誕生。名前はレア・アドリエ。
アドリエ家としてはエマを含むこの4人のみ戸籍登録がされていた。
コスタは元は流れの商人であり、他の記録が存在しなかったことから恐らく登録されている意外にすでに肉親はおらず、アンナは祖母の記録がジーナと名前のみ残っていたが、彼女もエマが産まれて3年後には亡くなっている。
いずれも教会での魔力検査および保有届はなし。
コスタが立ち上げたアドリエ商会はこの10年で従業員50人と地方ではまずまずの規模まで成長したものの現在拠点はエマの生家エントレになく、1ヶ月前に転居届けを出した後、まだどこかに移動した形跡はなかった。
10年前…エマが普通の子供として過ごせなくなった頃だ。
恐らく、男からの謝礼か、あるいは取引口の斡旋があったのだろう。
1ヶ月前のことも、転居届けの日付から考えて、エマを男に引渡してから家族で姿を眩ませることを予定していたことは明らかだ。
彼女が、生きて帰ってこないことを知っていて。
そして何よりキョウの気を立てたのは、エマについての記述の最後の一文だった。
"齢10歳にてこの世を去る。"
平民の場合通常1年に1回はなんの変更がなくとも戸籍の内容に変更がないか否かの報告が求められるが、エマに関する記述だけはこの5年前の記述で終わっている。
これはきっと、エマも知らないことだ。
もちろん、生家がもぬけの殻になっていることも含めて。
これ以上彼女を傷つける必要はない。
キョウがエマを連れ帰ったあの日、キョウは気絶していたエマに応急手当として治癒魔法を使った。
彼女の手に触れ、その全身をめぐる血流にのせて、急速に治癒を施したのだ。それが必要だと判断したからだ。
本来治癒魔法とは、命に関わる怪我でもなければ、日を分け回復の様子を見ながら少しずつ施すものなのだ。
そうでなければ、見た目には傷がなくなったように見えても、例えば治癒魔法が得意な者や魔力の流れを感知するのが得意な者など、見るものが見れば、それが亀裂のような跡としてはっきりとわかってしまうのだ。ちょうどガラスにヒビが入るようなああいったものが身体に張り付いて見え、魔力の流れにもそれが現れるのだ。もちろん、軽傷であれば一度に治したとしてそんな心配はない。
そのため王宮内でも歴戦の兵士などはあえて身体にその跡を掲げていたりする。
多い者だと腕だけで3筋以上浮かんでいることもある。大抵は傷も勲章と言わんばかりの見目にも傷が残る屈強な大男だ。
エマのそれは、そうした男たちを日常的に目にしていたキョウが言葉を失うほどだった。
敢えて例えるならば、割れたガラスを それでは飽きたらず執拗に、粉々になるまで何度も何度も踏みつけたような、おびただしい数の亀裂。それが身体中に浮かんでいたのだ。
もちろん 直接その目で見たわけではない。治癒魔法を使う際にも 彼女へ配慮し服は着せたままで治療していたが、それでも、体に浮かんだ亀裂の跡だけでその輪郭がわかるほど、彼女は傷ついていたのだ。
「...なぜ、」
なぜ、こんな子供がこんな傷を抱えているのか。
なぜ、この子はこんな目に合わなければいけなかったのか。
なぜ、
問いかけても答えなどあるはずがない。
例え誰かが何か理由を答えたとして、それが彼女の受けた仕打ちに見合っているはずがない。
そうした理不尽への苛立ちが、自分の過去を想起させるのか、自分でも驚くほど彼女に感情移入していた。
キョウはまた一つ嘆息する。
こんこん、
不意に背後から遠慮がちなノック音が聞こえた。
しばらく様子をうかがっていると、今度は扉の向こうから小さな声がした。
「…キョウ、帰って来てますか?」
エマの声だった。
「はい。」
そう答え、彼女に気取られないよう手元の書類を静かに一つの束に戻した。
「開けてもいいですか?」
「ええ、どうぞ。」
扉がゆっくりと開き、顔を出したエマはこちらをうかがうような顔から一変驚きの表情を見せた。
「ずぶ濡れじゃないですか!」
「そうなんですよ。」
「そうなんですよじゃないですよ!早くお風呂に入らないと風邪引いちゃいますよ!」
「ふふ、」
その勢いに思わず笑ってしまったキョウの手を引いて、エマは階下へと向かった。




