2. 森の住人
"キョウ"は2週間ほど前からエントレ地域の北東、フェナスコに住みついた男で、空き家となっていたかつての宿場を補修しながら暮らしていた。
宿場は森の奥深くに位置しており、晩年はたいした人も来なかったのだろう、夜逃げよろしく多くの生活品が残されたまま、建物は放置されていた。
そもそもなぜこのような場所で宿屋を開いていたのか若い世代の国民は甚だ不思議に思うかもしれないが、かつてはこの辺りの国境は隣国ティグレドを行き来する商人達が必ず通過しなければならない指定の関所の一つがあり、近年の関係悪化まではそれなりの需要があっただろう場所なのだ。
今となっては、ただ植物に覆われゆくだけの土地だ。
そんな場所に今さら移り住んだこの男、そして彼と生活を共にしている他2人も含め、いずれも流しの平民というには少々無理のある"いかにも訳あり"と言った風な一行だった。
「おい、まだ帰って来てないのか、あいつは。」
家の裏手から顔を出したつり目がちの男が低い声で呟く。
長い黒髪を一つにして高く結い上げている、名前をレイという。
肩で梯子を担ぎ、手には先ほどまで使用していたであろう工具箱を持っている。
レイは家の中に入るなり、夕食の支度を開始しているヒスイに声をかけた。
「どうして一人で行かせた。」
対するヒスイはレイの不機嫌など意にも介さず、左目で一瞥をくれるとじゃがいもの皮むきを再開して言った。
もっとも、彼の顔は半分髪に隠れているため、そもそも左目しか見えないのだが。
「そんなに言うなら自分がついていけばよかったじゃない。それに、僕だって出来るならそうしてるし、それが出来なかったのもわかってるくせに。」
「ふん、」
レイは気に入らないらしく嘆息した。いかにも不満げだ。
「八つ当たりしないでよね。なにぴりぴりしてるのさ。真面目ちゃんなんだから。」
「そんなの決まってるだろう、お前らの危機感の無さに苛ついているんだ。今はいつもと状況が違う。いくらあいつが…」
興奮してきたレイの言葉がふと途切れる。
不思議に思ったヒスイが振り返ると、戸口に議題の当人が立っていた。
透けるような長い白髪に色素の薄い肌、青ガラスのような瞳。
何度見ても同じ生き物に思えない瞬間が度々あった。
この男が、彼ら2人の主人である"キョウ"だった。
キョウは聞こえていたであろう話題には一切触れず、いつも通り静かに、精巧な陶器人形のように微笑して、「ただいま戻りました。」と言った。
しかしそこは問題ではない。この男が自分達に無関心なのは今に始まったことではない。
問題は、その腕に抱えているぼろ雑巾のような子供の存在だった。
「キョウ、その子供は…」
「心配をかけました。私はこの子を手当てをしたら、ついでに汗を流してきます。夕食は二人で先に済ませていて構いませんので、私達の分はよけておいていただけますか。」
「どこの世界に主人に残り物を食わせる従者がいるんだ。」
「そもそもその子は誰?その前に生きてる?」
二人の問いかけにキョウは困った風もなく目を伏せ、腕の中の子供をしばし見つめ、
「生きていますよ。」と呟いて、奥の間に入った
「今、笑った…?」
残された2人は幽霊でも見たように顔を見合わせた。