18. 秘密
「ここは、退屈でしょう。」
キョウは寝台脇の椅子を引いて腰かけた。
「そんな…」
否定しようとした私にキョウはくすりと笑って首をふった。
「いいんですよ。本当に何もありませんからね。
ただ、あなたを脅かすものもありません。
たった3ヶ月かもしれませんが、私はここであなたの傷が少しでも癒えれば、と願っているんですよ。」
キョウは私の目を見て、ゆっくりとまばたきをした。
灰がかった薄い不思議な青色が髪と同じ真っ白な睫毛に縁取られている。
思わず見とれてしまったこともあって、少しどぎまぎしながら、エマは答えた。
「傷なら、おかげさまでもう随分治っていますよ。」
そう言って笑って見せると、キョウはどこか寂しげな目をして小さな声で言った。
「…治癒魔法では、心の傷は治せないのですよ、エマ。」
一瞬、心臓がぎゅっと痛んだ。
ずっと知らないふりをしていた。
そうやって、見ないようにしていた弱い自分を、キョウに見透かされてしまったようなそんな気がした。
黙ってしまった私に、キョウは優しい声で続ける。
「エマ。私は、あなたとはじめて話した日とても驚いたのですよ。」
「え…?」
「これまでたくさん傷ついてきたはずなのに、それでも。あなたは泣いて、笑って、何より、自分の願いを口にすることが出来た。」
キョウが何を言おうとしているのか、わかってしまった。
彼が気づいた事実は、ひとつ確かに、自分のこれまでの苦痛ばかりの日々に寄り添うものだった。
「感情は、心の神経のようなものです。心が傷つき続ける境遇では、なくしてしまった方が楽だったでしょうに。」
キョウはまっすぐに私と目を合わせ、はっきりと言った。
「あなたは、それをしなかった。」
ぽろ、と、瞳から涙がこぼれた。
「私はそんなあなたを尊敬しているのですよ、エマ。」
「尊敬、だなんて。」
ぽろ、ぽろ、ああ、また。
どうしよう。悲しいわけじゃないのに、どうしたら、この涙は止められるのだろう。
ただ声を殺して泣き続けるエマに、キョウは迷いながら声をかけた。
「触れてもいいですか、エマ。」
エマは頷くだけで精一杯だった。いつの間にか、喉がしゃくりをあげている。
失礼します、という小さな声にエマが頷くのとほぼ同時に、キョウはエマを抱きしめていた。
エマは一瞬、驚きで目を大きく開けたが、すぐに、あたたかい布団で再び眠りにつく時のように、目蓋を閉じた。
本当に、あたたかくて、キョウの優しい気持ちが伝わってくるようで、涙が余計に溢れてきた。
ああ、きっとみんな、こんな優しさに包まれて大切に育てられていくんだろうな。
いいな。
…いいなぁ。
私も。
ただの子供でいたかったな。
なにも怖いことなんてない。
大人は優しくて、我慢が出来なくて、それでも愛してもらえる。
そんな子供になりたかったな。
だけど、そんな憧れはもう、終わり。
私はもう、そんなことを願ったりしない。
失ったものが取り返せないなら、もう叶わない夢にすがったりしない。
私はあの日々を、私だけの武器にして、抗う。
そうして、今度こそ幸せを勝ち取ってみせる。
…そうだ。
何度も何度も悩んで、考えて、何度もそう決めたじゃない。
だから私は、受けた傷も、向けられた悪意も、ぜんぶ、大事に飲み込んできたんだ。
涙が落ち着いてくる。
そっと見上げると、キョウは安心したように微笑んだ。
私もつられて、少しはにかむ。
言葉を交わしていなくても、キョウとは心が通じているように感じる時がある。会ったばかりのはずなのに、不思議だ。
"触媒体質"が関係しているかはわからないけれど、私達はどこか似ているのかもしれない。
弱っていた心が前を向いたことで、だんだんと思考回路が感情の混乱した支配から逃れはじめていた。
そうだ。言わなくちゃ。
いつまでも黙っているわけにはいかない。
私は、この人に嘘をつき続けていたくない。
「キョウ、実は…」
言いかけた私に見えるよう、キョウはそっと人差し指を立てた。
「触媒体質についてですか?それとも、暗殺事件について?」
ばっ、と再びキョウの顔を見上げると、彼は少しいたずらっぽく微笑んだ。
「知っていたんですか?私が、…盗み聞きしていたこと。」
「盗み聞きだなんて、ただ窓が少し開いていたことに私が気づかず、あなたが偶然目を覚ました時に大人達が内緒話をしていただけの話ですよ。」
気づいていたんだ。きっと はじめから。
キョウは長い睫毛を伏せた。
「遅かれ早かれ、あなたには話さなければならなかったでしょう。レイとヒスイには、まだ話すには早いと反対されてしまいましたが…」
そこまで話すと、再びぱっと先程の笑顔に戻り、彼はあっけらかんと言った。
「あの2人から話してしまったんなら、仕方がないですよね。」
キョウの意外な一面を見た気がして驚きつつも、その豪胆さに笑ってしまった。そんな私を見てキョウは嬉しそうに目を細めた。
「それに、誤解が生まれるなら早くに解いておきたかったんです。」
「誤解?」
「あなたのせいで私が死にかけた、なんて。そんな誤解です。」
どきりとした。頭から冷たい水を被ったような心地だ。
さっきまで、あんなにあたたかいと感じていたのに。
キョウは私を抱きしめる腕に少し力を込め、そっと頭に手を添えた。
「誤解だと言ったでしょう。」
頭を固定されたことで、耳がキョウの心臓のあたりに収まった。布と肌越しに、規則正しい心音が響いている。
「聞こえますか?」
エマが小さく頷いたのを確認して、キョウは続ける。
「私は今、生きています。そしてそれは、他でもないあなたのお陰なのですよ、エマ。」
思いもかけない言葉に、エマは困惑した。
「あなたが自力で逃げ出していなければ、私は今ここにいなかったかもしれません。あるいは、あなたが狼に食べられてしまっていたら、これもまた巡りめぐって私は犯人を逃し、なんの手掛かりも得られないまま再び命の危機に貧していたかもしれません。」
それはそうかもしれないけれど、全て偶然の産物で、それまで私が人を苦しめていたことに代わりはない。
罪は、償わなければならない。
そう考えると、エマはキョウの感謝を素直に受け入れることができなかった。
「納得がいきませんか?」
エマは小さく頷いた。
するとキョウは少しの沈黙の後、雨音の隙間に滑りこませるように声を潜めて言った。
「では、いつか。
…私の護衛魔法席になってくれませんか。」
キョウは抱きしめていた身体をはなし、私が考える様子を見守ってくれている。
「魔法席、私が……」
考えたこともなかった。
つまりそれは、キョウや、キョウの護衛席を苦しめた私が、その罪を自分の実力をもってして、命をかけて償うということだ。
とても利にかなっている、とは思う。
ただ、望めばなれるようなものではないことは、私でもわかった。
それなのに、理屈より先に心は決まってしまったらしい。
考えるより先に言葉が口からこぼれていた。
「きっと、なります。」
私の返事に、キョウは嬉しそうに目を細めた。
「楽しみですね。」
私が想像できていない未来が、彼にはすでに見えているのだろうか。
心の底から疑わず、確信しているようだった。
ちょうどその時、階段下からヒスイの夕食の知らせが聞こえてきたため、話しはそれまでになった。
2人して部屋を出る前に、キョウは振り返って人差し指を立てて微笑んだ。
今日の会話はすべて、私達だけの秘密だ。
私も同じように人差し指を立てて、笑ってみせた。




