第9話 民のために
紀州からの報告が届いてから十日余り。
江戸屋敷の書院には、積まれた報告書の束が増え続けていた。瓦礫の下に埋まったままの人々、感染症の蔓延、物資不足に加えて、水すら足りないという悲痛な叫びが墨で綴られている。
吉宗は静かに報告書を閉じると、腕を組み、ふぅとひと息ついた。
「……これでは、民が生き延びることさえままならぬ」
既に第一弾の支援物資は、江戸屋敷の備蓄を削って送り出している。だが、被害の規模があまりにも大きく、それだけでは到底足りなかった。
「人を……人手を送らねばならぬ」
即座に命が飛ぶ。
「江戸にいる浪人たちを集めよ。働き手がなく食うに困っておる者どもを、紀州へ向かわせる。手間賃は支払う。飯も出せ」
側近の一人が顔をしかめた。
「殿、出費がかさみます。これ以上の負担は……」
「構わぬ。今、金を惜しんで民を見殺しにしてどうする。財政の建て直しは、民あってこそじゃ!」
側近たちは頭を垂れ、「ははっ」と返した。
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御伝馬町の高札場の前にいつもと違う札がたった。墨痕鮮やかな筆で書かれたその札には、
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『紀州藩主・徳川吉宗より布告』
「紀州にて大地震あり、民の多くが困窮せり。
よって、江戸にて職なき者を募り、働き手として紀州へ向かわせる。
食と宿は用意あり。日当も支給。腕と心ある者は申し出よ。
民を救うは、人の力なり。力を貸してくれぬか。
——紀州藩主・徳川吉宗」
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「……またかと思ったら、吉宗様の名か」
「紀州の殿様が、俺たちなんぞに声をかけてくるとはな」
「“飯あり、日当あり”だと……ほんとかよ」
「うさんくせぇ……が、どのみち明日の飯もねぇしな」
「“民を救うは、人の力なり”……か。言ってくれるぜ、立派なもんだ」
「けどな……俺たちも、誰かのために何かできんのかもな」
「行ってみるか。ダメなら逃げりゃいい。……でも、やれること、あるならやってみてぇな」
名もなき浪人たちのつぶやきが、やがて小さな希望となって町に広がっていく。
その想いがつながった時、それはただの救援ではなく、**ひとつの“力”**になるのだ。
誰かのために、誰かが立ち上がる――その連なりこそが、民の強さだった。
*
その日の午後、吉宗はひとり築地の本願寺別院へと足を運んだ。
夕暮れの光が障子越しに差し込む中、静寂の空間に足音が響いた。
「ごめん……どうか、住職殿にお目通り願いたい」
質素な羽織を纏った男の姿に、僧が怪訝な顔をした。
「どちら様で……?」
吉宗は一歩進み、深く頭を下げた。
「紀州藩主、徳川吉宗。お願いがあり参りました」
その名に空気が張り詰める。
やがて通された対面所で、住職が静かに迎える。
「これはご丁寧に。吉宗殿ともあろうお方が、かようなお姿で……いかがなされましたか」
吉宗は深く頭を下げたまま、静かに口を開いた。
「紀州は、地震と津波により……多くの命が奪われました。
中には、いまだ瓦礫の下で……名も知られず、葬られることも叶わぬ者たちがいる。
せめて、魂だけでも救ってやりたい。どうか……僧を、派遣していただけぬか」
沈黙。
住職はやがて、微かに目を伏せて言った。
「……殿、どうか頭をお上げください」
「承知いただけるまで、上げるわけにはまいらぬ」
吉宗の声は震えていなかった。だが、全身から絞り出されるような祈りがこもっていた。
しばしののち、住職は手を合わせた。
「……人は、食と水だけでは生きていけませぬ。
死者を悼む場がなければ、生者は前を向けませぬ。
それをお分かりの殿のためなら、我らも喜んで力を尽くしましょう」
吉宗はようやく頭を上げ、深く、静かに頭を下げ直した。
「――ありがとう、ございます」
吉宗は築地本願寺を皮切りに、浅草、芝、そして上野と、江戸中の寺院を自ら訪ね歩いた。
殿が自ら頭を下げに来られた――それだけで、僧たちは迷いなく応じた
そしてこの日、本願寺他多数の寺から多数の僧侶が紀州へ向けて旅立った。
葬りきれぬ命の声に、祈りが重なっていく。
そして、亡き者に手を合わせる姿は、
やがて、生き残った者たちの心に、希望という灯をともした。
*
続けて、江戸の商人たちを訪ね歩く。
「紀州は、いま正念場です。どうか……どうかお力添えを……!」
深々と頭を下げる私を見て、商人たちは一様に戸惑った表情を浮かべた。
だが、やがて一人の男がそっと言った。
「……この度のことで、お屋敷の皆様もご苦労されたと聞いております。できる範囲で、協力させていただきましょう」
「旦那様、うちはもう先月も……」
「馬鹿者。あの殿が動いておられるのに、何もしないでどうする」
吉宗は主人の手を握り何度も感謝の言葉を言った、
「ありがたき幸せ……!」
「本当に感謝する」
商人たちは物資だけでなく、少しばかりの金子を寄付してくれた。
それは私財かもしれない。だが、その心がありがたい。
「この金で、食料を買う。必要なものを、なるべく江戸で揃えて送り出すぞ!」
「お言葉、しかと!」
そうして再び、支援物資と人足を乗せた一行が紀州へと出発した。
物資を運ぶ大八車の横で、浪人たちはひそひそと話している。
「働き口ができただけでありがたいってのに、弁当付きだってさ」
「なにせ紀州様のお力添えだ。俺たちが手伝えば、民が助かる……悪くない話だろ?」
日銭を求めてさまよっていた浪人たちの顔に、どこか誇りの色が差していた。
*
翌日も私はまた江戸の町へと向かった。
「皆の者、私も荷運びを手伝う。浪人たちの飯は私が届けよう。口だけの殿様と思われてはならぬ」
町の者はざわめいた。
「……まことに、殿様が?」
「吉宗様、自らが……ここで働かれておられるとは」
それでも私は荷を運び、米俵を担ぎ、汗をかいた。
そして数日後、再び紀州から報告書が届いた。
『人足が到着し、瓦礫の撤去が進行。本願寺の僧らにより、亡骸の供養も始まり、民の心に灯がともりつつあります』
吉宗は報告書を読み終えると、しばらく黙って天井を仰いだ。
「……人は、ひとりでは生きてゆけぬ。支え合い、助け合う――それが、この国を守るということだ」
彼は深く息を吸い、次の命を発した。
「引き続き、援助を続ける。必要とあらば、さらに金を使っても構わぬ。――この命、民のために在る」
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。
震災はどの時代も、備えきれるものではありません。今回は江戸にいる吉宗が「藩主」として、できる限りの誠意を尽くす姿を描きました。
次回、いよいよ紀州へ向かいます。再建へ動き出すその一歩を、どうぞお楽しみに!
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