表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

9/28

第9話 民のために

紀州からの報告が届いてから十日余り。


江戸屋敷の書院には、積まれた報告書の束が増え続けていた。瓦礫の下に埋まったままの人々、感染症の蔓延、物資不足に加えて、水すら足りないという悲痛な叫びが墨で綴られている。


吉宗は静かに報告書を閉じると、腕を組み、ふぅとひと息ついた。


「……これでは、民が生き延びることさえままならぬ」


既に第一弾の支援物資は、江戸屋敷の備蓄を削って送り出している。だが、被害の規模があまりにも大きく、それだけでは到底足りなかった。


「人を……人手を送らねばならぬ」


即座に命が飛ぶ。


「江戸にいる浪人たちを集めよ。働き手がなく食うに困っておる者どもを、紀州へ向かわせる。手間賃は支払う。飯も出せ」


側近の一人が顔をしかめた。


「殿、出費がかさみます。これ以上の負担は……」


「構わぬ。今、金を惜しんで民を見殺しにしてどうする。財政の建て直しは、民あってこそじゃ!」


側近たちは頭を垂れ、「ははっ」と返した。



御伝馬町の高札場の前にいつもと違う札がたった。墨痕鮮やかな筆で書かれたその札には、


----ー

『紀州藩主・徳川吉宗より布告』


「紀州にて大地震あり、民の多くが困窮せり。

よって、江戸にて職なき者を募り、働き手として紀州へ向かわせる。

食と宿は用意あり。日当も支給。腕と心ある者は申し出よ。


民を救うは、人の力なり。力を貸してくれぬか。


——紀州藩主・徳川吉宗」

----ー


「……またかと思ったら、吉宗様の名か」

「紀州の殿様が、俺たちなんぞに声をかけてくるとはな」


「“飯あり、日当あり”だと……ほんとかよ」

「うさんくせぇ……が、どのみち明日の飯もねぇしな」


「“民を救うは、人の力なり”……か。言ってくれるぜ、立派なもんだ」

「けどな……俺たちも、誰かのために何かできんのかもな」


「行ってみるか。ダメなら逃げりゃいい。……でも、やれること、あるならやってみてぇな」


名もなき浪人たちのつぶやきが、やがて小さな希望となって町に広がっていく。

その想いがつながった時、それはただの救援ではなく、**ひとつの“力”**になるのだ。

誰かのために、誰かが立ち上がる――その連なりこそが、民の強さだった。



その日の午後、吉宗はひとり築地の本願寺別院へと足を運んだ。


夕暮れの光が障子越しに差し込む中、静寂の空間に足音が響いた。


「ごめん……どうか、住職殿にお目通り願いたい」


質素な羽織を纏った男の姿に、僧が怪訝な顔をした。


「どちら様で……?」


吉宗は一歩進み、深く頭を下げた。


「紀州藩主、徳川吉宗。お願いがあり参りました」


その名に空気が張り詰める。


やがて通された対面所で、住職が静かに迎える。


「これはご丁寧に。吉宗殿ともあろうお方が、かようなお姿で……いかがなされましたか」


吉宗は深く頭を下げたまま、静かに口を開いた。


「紀州は、地震と津波により……多くの命が奪われました。

 中には、いまだ瓦礫の下で……名も知られず、葬られることも叶わぬ者たちがいる。

 せめて、魂だけでも救ってやりたい。どうか……僧を、派遣していただけぬか」


沈黙。


住職はやがて、微かに目を伏せて言った。


「……殿、どうか頭をお上げください」


「承知いただけるまで、上げるわけにはまいらぬ」


吉宗の声は震えていなかった。だが、全身から絞り出されるような祈りがこもっていた。


しばしののち、住職は手を合わせた。


「……人は、食と水だけでは生きていけませぬ。

 死者を悼む場がなければ、生者は前を向けませぬ。

 それをお分かりの殿のためなら、我らも喜んで力を尽くしましょう」


吉宗はようやく頭を上げ、深く、静かに頭を下げ直した。


「――ありがとう、ございます」


吉宗は築地本願寺を皮切りに、浅草、芝、そして上野と、江戸中の寺院を自ら訪ね歩いた。


殿が自ら頭を下げに来られた――それだけで、僧たちは迷いなく応じた


そしてこの日、本願寺他多数の寺から多数の僧侶が紀州へ向けて旅立った。

葬りきれぬ命の声に、祈りが重なっていく。

そして、亡き者に手を合わせる姿は、

やがて、生き残った者たちの心に、希望という灯をともした。



続けて、江戸の商人たちを訪ね歩く。


「紀州は、いま正念場です。どうか……どうかお力添えを……!」


深々と頭を下げる私を見て、商人たちは一様に戸惑った表情を浮かべた。


だが、やがて一人の男がそっと言った。


「……この度のことで、お屋敷の皆様もご苦労されたと聞いております。できる範囲で、協力させていただきましょう」


「旦那様、うちはもう先月も……」

「馬鹿者。あの殿が動いておられるのに、何もしないでどうする」


吉宗は主人の手を握り何度も感謝の言葉を言った、


「ありがたき幸せ……!」

「本当に感謝する」


商人たちは物資だけでなく、少しばかりの金子を寄付してくれた。

それは私財かもしれない。だが、その心がありがたい。


「この金で、食料を買う。必要なものを、なるべく江戸で揃えて送り出すぞ!」


「お言葉、しかと!」


そうして再び、支援物資と人足を乗せた一行が紀州へと出発した。


物資を運ぶ大八車の横で、浪人たちはひそひそと話している。


「働き口ができただけでありがたいってのに、弁当付きだってさ」


「なにせ紀州様のお力添えだ。俺たちが手伝えば、民が助かる……悪くない話だろ?」


日銭を求めてさまよっていた浪人たちの顔に、どこか誇りの色が差していた。



翌日も私はまた江戸の町へと向かった。


「皆の者、私も荷運びを手伝う。浪人たちの飯は私が届けよう。口だけの殿様と思われてはならぬ」


町の者はざわめいた。


「……まことに、殿様が?」


「吉宗様、自らが……ここで働かれておられるとは」


それでも私は荷を運び、米俵を担ぎ、汗をかいた。



そして数日後、再び紀州から報告書が届いた。


『人足が到着し、瓦礫の撤去が進行。本願寺の僧らにより、亡骸の供養も始まり、民の心に灯がともりつつあります』


吉宗は報告書を読み終えると、しばらく黙って天井を仰いだ。


「……人は、ひとりでは生きてゆけぬ。支え合い、助け合う――それが、この国を守るということだ」


彼は深く息を吸い、次の命を発した。


「引き続き、援助を続ける。必要とあらば、さらに金を使っても構わぬ。――この命、民のために在る」

ここまでお読みくださり、ありがとうございます。


震災はどの時代も、備えきれるものではありません。今回は江戸にいる吉宗が「藩主」として、できる限りの誠意を尽くす姿を描きました。

次回、いよいよ紀州へ向かいます。再建へ動き出すその一歩を、どうぞお楽しみに!


応援・コメント・ブクマ等いただけると励みになります✨

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ