第8話 江戸からできること
紀州からの報が届いた夜、私は机に向かい続けていた。
——食料と水が足りぬ。
井戸の崩落、混じる塩水。想像以上の被害に、胃の底が冷える。復興どころか、生き延びるための手段すら危うい状況だった。
「まずは飲み水と食料、それに寝具……あと、仮設の住居も必要か」
私は目の前の紙に、思いつく物資をひとつずつ書き出していった。
「家臣を二人、信頼できる者を現地に派遣して、指揮を任せよう。——いや、それだけでは足りぬ」
江戸にいる自分にできるのは何か。募る焦燥を押し殺しながら、私はふと筆を止めた。
民の命を、どうすれば守れる?被害は紀州だけではない。となると幕府からの支援は期待できない。自分たちでなんとかするしかない。しかし、今の紀州藩に復興支援金など出せる余裕がない。常に借金して常を賄っている。今回も多少の借金は仕方がない。しかし……
「あぁー、もう!」
「お金がないなら、工夫で乗り切るしかないのよ!」
私はぴしゃりと机を叩いて立ち上がった。
「——よし。支援物資、調達開始!」
「誰かーー誰かおらぬか!」
「江戸屋敷の米、布、道具、最低限を残して全部、紀州へ送れ」
「あと、米蔵の備蓄を全て放出しろ」
家臣たちは息を呑んだ。
「しかし、殿!それではこの江戸屋敷の者たちが……」
「それに、米蔵の備蓄を放出すれば、倹約策が無になりまする」
「倹約とは、ためるためにあるのではない。使う時のためにあるのじゃ」
「民あっての藩。藩あっての藩主であろう? 私は藩主として、するべきことをする」
「……わかりました。すぐに手配を」
「しかし、殿……これでもまだ足りませぬ」
「足りぬ分はいかがなされますか」
「決まっておる」
私は立ち上がった。着替え、羽織を質素なものに替える。
「紀州家御用達の商家をまわって、寄付を願う!」
「し、しかし……殿のお立場では――」
「立場なんて関係ないわ!人が飢えて死ぬかもしれんのに、立場など何の意味がある?」
そのまま玄関へ。
「――私は藩主として、紀州の民ために頭を下げに行く」
最初に訪ねたのは老舗の呉服商「大和屋」だった。
質素な身なりの私に、番頭は警戒心を隠さず言う。
「……お名前を」
「紀州藩主、徳川吉宗だ。主を呼んでいただきたい」
顔面蒼白になった番頭が飛び去り、やがて店主が飛び出してきた。
「殿……! いかがなさいました!?」
「頼む!」
私は深く頭を下げた。
「紀州が壊滅状態だ。支援をお願いしたい」
「お頭を、どうかお上げください!」
「承知したというまでは頭は上げん!」
店主は拳を握りしめた。
「……分かりました。最大限ご協力いたします」
「ありがとう」
その日、私は十軒以上の商家を回った。
「京橋の薬種商・藤屋」、「材木問屋・橘屋」、「駿河町の米問屋・庄兵衛……」
どこでも、まずは頭を下げた。
最初は驚かれたが、皆次第に表情を引き締め、最後には必ず言ってくれた。
「殿のお気持ち、確かに受け取りました」
*
夕刻、屋敷に戻ると家臣たちが頭を下げて出迎えた。
「殿、お体は……」
「大丈夫だ」
帳簿に目を通すと、寄贈の品が一つずつ書き加えられていく。
その文字列を眺めながら、私は目に涙をため、静かにつぶやいた。
「……ありがとう。ほんとうに、ありがとう」
今回の話は、突然の地震という非常事態に直面した吉宗が、藩主としての覚悟を決める大きな転機となりました。
現代で「地震=東日本大震災や阪神淡路大震災」を連想する私たちにとって、「宝永地震」の名は意外と知られていないかもしれません。でも、実際にこの時代に起こった地震は、津波による被害も含めて甚大で、特に紀州では沿岸部の壊滅や多数の死傷者が出ています。
吉宗として生きる主人公は、突如、命を背負う側に立たされます。節約も、支出の見直しも大事だけれど、それより大事なのは「民の命」――。
次回は、江戸に残る彼女(彼)が、何を考え、どう動くのか。その誠意と覚悟が問われる回になりそうです。
どうぞ、今後の展開にもご期待ください。
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