第78話 将軍、お忍びで象グッズ屋台に挑戦
その日、江戸城下は祭りのような賑わいだった。
広場の一角に象を入れるための大きな囲いが設けられ、役人が入口で見物料をきっちり徴収している。
「一人あたり銀何文、お釣りはないぞ!」と声を張り上げる役人の前には、人、人、人。老若男女が長蛇の列を作り、城下は熱気に包まれていた。
囲いの外には、露店がずらりと並ぶ。焼き団子、飴細工、木笛、象の姿を描いた絵姿絵。
「象まんじゅう! 本日限りだよ!」
「広南従五位下のお姿、写し絵で残せますぞ!」
まるで正月か盆踊りの夜店のような賑わいだった。
その喧噪の中に、ひときわ目を引く露店があった。
棚には、見事な象のぬいぐるみや小袋がずらりと並んでいる。
生地は鮮やかな唐紅、浅葱、萌黄。上質な縮緬に金糸の縫い取り――とても庶民が日頃手にできる布ではない。
「おやまあ、なんて綺麗な……」
「けど、高いなあ!」
値札には強気の金額が墨書きされていた。町人がため息をついて通り過ぎ、子どもが欲しがっても親は首を振る。
その店の主は、浅黄の羽織を着た、どこか見覚えのある顔の男。
――そう、将軍吉宗本人であった。
(ふふふ……象が来ると聞いて、すぐに思いついたのよ。祭りの前に夜なべでちくちく縫った甲斐があったわ。大奥の女中たちから出た着物の端切れ、もったいなくて捨てられないから使ったけど……これなら元は取れる!)
吉宗はにこにこしながら客を呼び込む。
「さあさあ! 象様のぬいぐるみだよ! 今日しか手に入らないよ!」
だが、値段の高さに客足は鈍い。
「おかしいわね……絶対売れると思ったのに」吉宗が首をかしげたそのとき、人混みの向こうからじっとした視線を感じた。
「……上様……!」
背後から声をかけられ、吉宗はびくりとした。
振り向けば、久通が青ざめた顔で立っている。
「な、何をなさっておいでですか! これではまるで――」
「しっ。声が大きい」
吉宗は指を立てて制した。
「内緒だぞ。お小遣い稼ぎだ。象の餌代だって馬鹿にならんのだから」
「で、ですが……値札、これは……」
久通が目を落とすと、ぬいぐるみの値段は米俵一俵が買えるほど。
「……あまりにも強気すぎやしませぬか」
「布は大奥の上物だから当然だ。原価を考えたらむしろ安いくらいだ」
吉宗は胸を張る。
しかし――日が傾くころ、露店の棚にはまだ大量のぬいぐるみが残っていた。
「ほら見ろ、申し上げた通りでは……」と久通がため息をつく。
吉宗は悔しげに唇をかみ、やがて観念したように声を張り上げた。
「……わかった! 今日限りの大安売り! 二割引! 三割引!」
「おっ、安くなるのか!」
「それなら子どもに買ってやるか」
たちまち客が殺到し、露店は人だかりに。
だが終わってみれば、叩き売り同然の値段で在庫をさばいたため、手元にはほとんど残らなかった。
(……やっぱり商売って難しいわね。せっかく高級生地で作ったのに、結局、儲けないじゃないの!)
吉宗は心の中で頭を抱えつつも、ぬいぐるみを抱きしめて笑う子どもたちの姿を見て、少しだけ満足そうに目を細めた。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
大奥から出た正絹の端切れ――友禅に縮緬に、どれも一級品。
吉宗としては「これなら多少値が張っても売れる!」と自信満々で挑んだ商売でしたが、結果はご覧の通り……。
強気すぎる値付けが仇となり、最後は叩き売りで儲けなし。まさに商売の難しさを身をもって味わうことになりました。
けれども、象のぬいぐるみを抱えて笑う子どもたちの姿に、どこか満足げな吉宗。
主婦感覚と将軍という立場、そのギャップが生むドタバタはまだまだ続きそうです。




