第76話 高輪大木戸、象様通れますか?
江戸の南の玄関口――東海道の終着に近い品川宿は、朝からざわついていた。
町家の軒先には人が溢れ、二階の窓や屋根の上にも子どもや女中たちが鈴なりになっている。
「ほんとに来るのか、象ってやつが?」
「来るさ、京からわざわざ送られてくるんだ。何でも偉い位まで頂いてるらしいぞ」
「馬より大きいんだろ? そんなもん、この目で見なきゃ死んでも悔いが残る」
遠くから、太鼓や笛の音が微かに響き始める。
それに混じって、腹の底まで響く低い唸り声のような鳴き声――「ブオォォーン」。
聞き慣れぬ音に、見物人の中から「今の何だ!?」とざわめきが起きた。
やがて、黒光りする巨体が姿を現す。
長い鼻、扇のような耳。額には金糸で「広南従五位下」と縫い込まれた深紅の布が垂れ、首には金の飾りが揺れている。
沿道の人々は押し合い、子どもを肩に抱き上げてまで、その異国の巨獣を一目見ようとする。
行列はゆっくりと品川宿を抜け、やがて石垣に囲まれた門構え――高輪大木戸へと差しかかった。
ここが江戸城下の出入り口であり、夜は木戸が閉ざされる。昼間でも通過の際には役人の検分を受けるのが決まりだ。
門番たちは、迫り来る象を見て目を丸くした。
「……おい、これ……通れるのか?」
大木戸の高さは立派だが、象の背の飾り台と、その上に乗る象番まで合わせれば梁に届きそうだ。
「頭がつっかえるぞ、こりゃ」
門番が指差すと、周囲の見物人からも不安げな声が上がる。
長崎奉行所の役人が慌てて門番へ声をかけた。
「お通し願いたい! 広南従五位下、京よりの御下向である!」
「通すのはいいが……このままじゃ梁を壊すか、象が首をひねることになるぞ」
しばしの沈黙の後、象番が高い位置から声を張り上げた。
「飾りを外せ! 乗ってる者も降りろ!」
飾り布が外され、金の房がほどかれ、象番も軽やかに降りる。
その間、象はじっと立ち、鼻をゆらゆら揺らしている。
まるで「お前たち、早くしろ」とでも言いたげな様子だ。
準備が整い、象が一歩を踏み出す。
梁すれすれで耳の先がかすかに門の縁をかすめたが、どうにか通過。
「おおお……!」
沿道から歓声と拍手が湧き上がる。
こうして、広南従五位下白象様は無事に高輪大木戸をくぐり、江戸の町へと足を踏み入れた。
その姿は、たちまち町中の話題を独り占めすることとなった。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
今回の話は、「人が通ることを想定して作られた門を、はたして象が通れるのかな?」という素朴な疑問から書いてみました。
日本の門や家屋は頭上が低めなので、象様もそのままでは通れず、あれこれ工夫が必要だったのでは……と想像すると、ちょっと可笑しくもなります。
次はいよいよ江戸城でのご対面。
広南従五位下白象様は、将軍吉宗の前でどんな姿を見せてくれるのでしょうか――お楽しみに。




