第75話 箱根峠、象様立ち往生
京を発ってから幾日も、広南従五位下白象様の旅はおおむね順調だった。
各宿場ごとに見物客が押し寄せ、観覧料は順調に集まる。餌代も運搬費も、十分にまかなえるほどだ。
町人も農民も、まるで祭のように行列を迎え、果物や野菜を差し入れしてくれる。
だが、その平穏も――箱根の山に差し掛かるまでの話であった。
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石畳の急勾配が続く箱根峠。
道幅は狭く、両脇は杉林。傾斜は人の足でも息が切れるほどだ。
象はしばらくは鼻を揺らしながら歩みを進めていたが、やがてその足取りが鈍くなる。
「……おや? 進まんぞ」
先頭を行く象使いが振り返ると、象は立ち止まり、首を垂れていた。
飼育係が声をかけても、象は一歩も動かない。
さらに数歩進ませようとすると、象はどっかと腰を落として座り込んでしまった。
「だ、駄目だ! 立たん!」
人足たちが押す、餌で釣る、太鼓を叩く――だが、ぴくりとも動かない。
鼻先に差し出された甘蔗にも反応せず、ぼんやりと耳を動かすだけだ。
道は瞬く間に人でふさがり、後ろから来た旅人や荷駄も立ち往生。
「象様が座り込んでおるぞ!」と噂が広がり、見物人がますます増えていく。
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長崎奉行から同行している役人は額の汗をぬぐい、象使いに詰め寄った。
「どうすれば立つのだ?」
「……休ませる。疲れた」
簡潔な答えに、役人はがくりと肩を落とす。
やむなくその場に臨時の休憩所を作り、象に温かい芋と干し草を与えた。
樽の水を鼻で吸い上げ、ごくごくと飲む象。
その様子に周囲から「おおー!」と歓声が上がる。
しばらくして、象使いが鼻をなでながら、低くゆったりと歌を口ずさみ始めた。
不思議な旋律が山の空気に溶け込む。
やがて象は耳を大きく動かし、のっそりと立ち上がった。
「立ったぞ!」
拍手と歓声が峠に響く。再び歩き出した象は、ゆっくりではあるが着実に坂を登っていく。
箱根峠を越えたとき、一行も見物人も、みな大きく息をついた。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
東海道を進む広南従五位下白象様、ついに最大の難所・箱根峠で立ち往生です。
人も馬も息を切らす急坂で、象様が腰を下ろして動かなくなったときは、一行も見物人も大騒ぎ。
ですが、休養と象使いの歌で見事復活――峠越えの瞬間には拍手喝采が起こったとか。
江戸への旅もいよいよ終盤。
果たして、江戸城での象様のお披露目はどんなものになるのでしょうか。
次回もお楽しみに。




