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第65話 ベトナムからの贈り物は……象!?

「う、上様! 大変です!」


廊下の向こうから、久通が文字通り飛び込むように現れた。顔は真っ赤、髷はほつれ、息を切らしている。


「久通、どうしたのだ? そんなに慌てて」


吉宗は硯の前にいた筆を置き、眉をひそめて顔を上げた。


久通はその場で深く頭を下げると、いっそう焦った様子で言った。


「象でございます! 象が――長崎に!」



十日前 長崎・出島


朝霧の立ちこめる長崎湾に、ひときわ大きな帆船が現れた。

白い帆を広げたその船は、幾重にも重なる紅と金の飾りをまとう――清国よりの貿易船、いわゆる“唐船”である。


港に常駐する役人や通詞は、それが定期の貿易便のひとつであることを確認し、いつものように出迎えの支度を始めていた。


――が。


「どすん」「どすん」


……妙な音がする。


「どす、どす、どす――」


やがて、船倉の扉がぎい、と開かれ、陽が差し込む。

その奥から現れたのは――


「パオーーンッ!」


空を震わせるような鳴き声が長崎の町に響き渡った。

一瞬、港が静まり返る。


「……象、だと?」


誰かの呟きが、信じがたい光景を補足した。


船頭の男が額に汗をかきつつ、事情を説明する。


「南方、安南国ベトナムよりの贈り物とのこと。清国・広州にてこの船に乗せ換え、将軍様への献上と――」


港の者たちは顔を見合わせた。

通詞の一人がぽつりと呟く。


「江戸へ、これを……どうやって……?」


港に沈黙が落ちる。


「……と、とりあえず、長崎奉行に報告だ!」


誰かが叫ぶと、港の空気が一気に動き出した。

その中心では、象がのっそりと首を振り、鼻を高く掲げている。


「パオーン!」


その鳴き声に、物陰から覗いていた町人たちが一斉に後ずさった。


「ま、まさか、あれが……献上品!? あんなもん、どうやって運ぶんだよ……」


誰かが呆れたように呟いたそのとき、象の背に乗っていた人物が静かに下りてきた。浅黒い肌、華やかな刺繍の施された布を身にまとった男――象使いらしき異国の男である。手綱のようなものを握りながら、何事もないかのように象の足元に立った。


「……とにかく、長崎奉行所へ急げ!」


役人のひとりが気を取り直し、命じると、若い役人が飛ぶように駆け出した。


* * *


その日の昼前――長崎奉行所。


「……象、であるか?」


机の向こう側で、奉行・今村正長が顔をしかめた。報告に来た役人は汗だくで、何度もうなずきながら畳に手をついている。


「はい、間違いございません。唐船の船倉より現れました。体躯おおよそ馬の二倍。鼻が異様に長く、牙が……」


「わかっておる。象ぐらい、絵図では見たことがある」


奉行は渋い顔で帳面を閉じ、脇に控える通詞に向き直る。


「献上品とあるが……正式な書状は届いておるのか?」


「いえ、今のところ口頭での伝達のみでございます。安南国よりの贈り物である旨、清国の仲介人が説明しております」


「書状なしか……幕府への献上品を無断で持ち込むとは、軽々しい真似を……」


奉行は額を押さえ、深いため息をついた。


「して、今はどこに置いてある?」


「港近くの空き地にて、粗末な囲いを設けて繋いでおります。象使いと思しき者が一人つきっきりで、餌や水を与えております」


「よくまあ暴れずにおるものよ……」


しばし沈黙が流れた。


やがて、今村奉行は静かに口を開いた。


「上様におかれては、事前の報せもなく“象”などという珍奇なものが届けば、困惑されるであろう。すぐに江戸へ飛脚を立てよ。献上の意志と、現状の保管状態、象使いの有無もすべて詳しく記せ」


「ははっ!」


「ついでに、道中の移送についても調べておけ。あのような巨獣を江戸まで運ぶには、相応の準備が必要となる。山越えなどもってのほかじゃ」


「承知いたしました!」


役人たちが走り去るなか、今村奉行は机に肘をつき、静かに呟いた。


「……象か。面白いが、厄介なことになったものよ」


――江戸に届くまで、まだ先は長い。

実際に象がベトナムから献上され、長崎から江戸まで運ばれたという史実があります。当時の人々にとって、象はまさに異世界からの生き物だったでしょう。

今回はその第一報、長崎での騒動をお届けしました。果たして、この象は無事に江戸までたどり着けるのか? そして吉宗はどんな反応をするのか? 次回もどうぞお楽しみに!


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